私の持っているガイドブックにはおもしろい表現がしてある。その一節。「今までは朝日を見て歩いてきたのが、これからは西日を見て歩くことになる」。時間ではない。東南に面した海岸から室戸岬を廻れば南西に面した海岸をあるくことになる。当たり前だ、と言っては身も蓋もない。長い単調な歩きを続けるにはこんなことを考えるのも楽しい。
 格別、表現する景色もこの雨では目に入らない。靴からは歩くたびに水が絞り出される。重い!それに革が膨らんだのか妙なところが足に当たる。夜調べると食えない豆ができていた。
 25番津正寺につく。近所の檀家のおかみさんたちが出て掃除をしている。窓や仏具をだ。その中の一人が話しかけてきた。「今夜の泊まりはどこですか」「xxxx」と言うと変な顔をする。参拝の後行ってみると、素泊まりOKの木賃宿のような感じらしい。食事の準備ができないのは電話を入れた時間ではなく、“最近してない”ということのようだった。これはガイドブックのリサーチ不足では?
 24番最御崎寺に着いたのは12時になってからでした。自分の感覚からは1時間ほど遅い。傘をさしての歩きはどうも勝手が違う。休憩、参拝、納経と済ませて室戸市内の25番近くの旅館に電話を入れる。この時間では食事の用意ができないと言う。まだ12時30分のこと。「まかない料理でもいいから」となんとか頼み込む。
 山を下りかけるとしばらく前に追い越した老人がやってきた。不思議だった。今にも倒れそうな足取りだったのが今は元気に見える。和歌山から来たというこの老人、始めてではなさそうだ。
 このあたりの海岸は、直接太平洋の荒波に洗われているせいか、奇妙なかたちの岩がゴロゴロしている。海側に歩道があることも手伝って、その岩を見ながら歩く。実に楽しい。あっ、あれは「カメ」、あれは「ラッコ」など想像力はまだ衰退していない。“コーナーを回っても同じような海岸が続いていて退屈きわまりない”とこのあたりの遍路を表現した人がいたが、自然の楽しみ方を知らない。小学生ならもっと奇抜な発想をしてくれるだろうなと、思いつつ、室戸岬の、大きな大師像が見えてきた。これも、宗教的になのか、観光的になのか、意味があるだろうが私はあまり好きではない。
 ロッジ尾崎の若いおかみさんは実によく尽くしてくれる。「尾崎」というのは、てっきりこの家の名前かと思っていたら、そうではないらしい。このあたりの地名が「尾崎」。昨日は日曜日と言うことなのか雨の中、サーフィンに興じる人たちが多く見られた。この民宿も、そうした若い客を対象としているものと思われるのに、旅館業組合に遍路宿として登録したばっかりに、うさんくさい(とは思ってないだろうが)年寄りを泊める羽目になったのではないかと同情する。宿帳の間に「納め札が無造作に何枚も挟み込んであるのを見ても、遍路だの巡礼だのはどうでも良い、と考えているようだ。これが応対していても実に良い感じだ。
第十一日  2003年6月16日
 窓の外は太平洋に面した国道55線、波の音と時たま激走する車の音が大きい。でも、強い疲れがすぐに深い眠りを連れてきた・・・・・・・・・・
 3時間ほど歩いてようやく人家が見えてきた。軒の深い玄関先に縁台をおき、くつろいでいるお年寄りを見る。近づいて雨宿りを乞うと気持ちよく受け入れてくれた。一時の荷物からの解放はホットする瞬間である。
 「今日はどこまで」との問いに「ロッジ尾崎」と答えると、3km先という。後45分と言うところか。
海水浴にはまだ早い海岸が結構賑わしい。サーフィンのようだ。奇岩のあふれる海岸とサーファーのいる海岸が続く中、やっと宿に到着。1階が食堂で2階が宿泊施設のようだ。しかしお店はどうもお休み。私の電話で急遽準備をしてくれたようだ。頭が下がる。若いご夫婦でもてなしてくれる。フレンチふうの夕食に鯛の兜煮と吸い物が出た。年寄り向けに考えてくれたメニューのようで、ますます頭が下がる。
 遍路路に手作りの小さな標識があり貴重な目印になるが、そうでないものもある。その一つが「東洋大師」である。番外霊場の明徳寺がその東洋大師のようだ。ここに着いたのが10時30分。一坪ほどの小屋に「通夜堂」とあり、中には畳が1枚。どうも無償で一夜を提供しているようだ。ここは東洋町。
 この先は海岸が山を砕く道が延々と続く。電話をかけ「ロッジ尾崎」を予約。人の良さそうな男性の声で受けてくれる。ここから、およそ4時間の孤独との戦いと言われる難所である。でも、カーブを曲がるたびに展開する磯の風景は同じようでもそれぞれ特徴があり飽きない。でも、雨を避けて休憩するところがない。1時間に10分程度の休憩をしないと疲労が激しくなる。
 国民宿舎の朝食は七時から。融通は利かない。朝から雨が続いている。
8時に出発、40分歩いたところで高知県に入った。出発前の友人との会話で徳島から抜けられればいいが、と話したことを思い出す。
 甲浦の白浜海岸に「コーヒー」の看板がある。「営業中」で回転灯もついているのに喫茶店がない。ここはホテルのレストラン、朝食バイキングをしている。時間は8時過ぎ、コーヒーだけでも良いと言うので入る。遍路路ではコーヒーが思うように飲めない。100m歩けば何軒かの喫茶店を見る名古屋とはちがう。やっと見つけた喫茶店も営業しているところが少ない。
第十日  2003年6月15日
 土曜日のせいでもあろう、団体や家族連れ、老夫婦(?)などほぼ満員。食堂での夕飯、私の膳が他とはちょっと寂しい。四国の遍路路、お遍路宿泊での料金協定があるようだ。宿坊、旅館、民宿、ホテルすべて¥6,500である。もち4,500円の例外もあったが・・・・。
 ともあれ、やっと温泉での骨休みがとれた。惜しむらくは部屋が湿気っぽく、畳からスリッパまでじめじめする。お天気のせいにしてもあまり良い気分ではない。でも、今日はこれで4度の入浴、露天はないが4階の浴室からの眺めは抜群に良い。
 国民宿舎には2時に到着。国道から坂道を30分余、約2kmの坂道である。小高い山の上にある。島の多いみとこ湾がよく見える。「みとこ」とは水床と書くらしい。天然記念物・漣痕と案内板がある。太古の昔、波打ち際でできた波紋がそのまま岩になってできたものらしいがそれと関連ある地名なのか。
 しばらくロビーで待つ。やがて電話が入り数人の団体がやってきた。彼らはそのままチェックイン。で、訊いてみるとチェックインしてくれた。時計を見ると2時45分、お役所関連施設では珍しいことである。
 お風呂は4時からとか、ここのお湯はうす茶色に濁っている。道の駅の温泉とは違う泉源なのだろう。成分表は同じナトリューム炭酸カルシュームでつるつる感も同じ。噴出温度は29度とある。
 1時過ぎ、国民宿舎へ向けて移動開始。国道55号線と町道との交差点にあるしゃれた感じの喫茶店に入る。ここで見たのが右のドクダミである。私の感覚には“日影草”のこの花が一輪挿しの主人公になるなんてことは存在しない。デジカメを向けたことからおかみさんが話しかけてきた。やおらノートパソコンを開いてきたのにもビックリ。しばらく野生の花で話が弾む。この地域の道路端にはモジズリが多く咲いている。この可憐な花、ねじり具合がそれぞれ違う。このピンクもいい。
 10時半頃、宍喰町の道の駅に着いた。雨はかなり激しい。ここの今は使われていない日帰り温泉の入り口に雨宿りをしている遍路がいる。どこかで見た人・・・。
 道の駅の観光案内で国民宿舎・宍喰温泉みとこ荘を予約。しかしチェックインが4時からだという。入浴料500円でお風呂にはいる。ナトリューム炭酸カルシューム泉とある。PHが高いのかかなりつるつる感が強い。下呂温泉より強い。お湯は透明。自販機が数台あるだけで露天もない。じっくりと時間をかけ入浴。後はひとけが少ないのを良いことに休憩室でお昼寝とする。
 朝食は7時からと張り紙があるのをお願いして6時半にとり、7時に出発。天気予報ではお昼過ぎからと言っていた雨が9時頃から降り始めた。海南町を越え、海部町に入った頃だ。自らの派閥を持たないで首相になった愛知県選出の国会議員と同じ読み方だ。愛知では海部郡と書いて“アマグン”と呼ぶ。
第九日  2003年6月14日
始めて街道の脇に海を見る
 海山荘というこの民宿、小高い丘の海に面したがけの上にある。うち寄せる白波が太平洋であることの証であろうか。1階は「海賊料理」のお店である。夕食は厚切りのマグロなど幾分ランクが下がる。翌朝の請求書を見て納得、4,500円だ。夜遅く来て朝4時に出ていった3人グループがいたが磯に渡る釣り客の素泊まりが多いようだ。
 ここから24番札所までは81km、室戸岬まではない。しかも後半は宿も少ないという。
朝、ぱらついていた雨も上がった。この機会にゆっくりと静養をと、ホテルをねらったのに入れてもらえなかった。私の持っているガイドブックではここから室戸岬までの間、宿までの距離がよくつかめない。でも宍喰温泉まではまだ2時間以上はかかりそう、と言うことで鯖弘法の近くの民宿を予約。1時半についてしまった。
 鯖弘法とは、鯖瀬にある弘法様の意味であろう、番外寺ではあるがお参りをする。300円を出せば、納経帳の終わりにある空白部分に朱印を押してくれるが、本四国ではしないことにした。
 薬王寺のお勤めは通常の朝勧行である。六時を五分も前から始まったお経は観音経、信者からの祈祷を含み、みっちりと30分。この後の説教が終わったときには足がしびれてしばらく立つことができなかった。昨夜の宿泊は20数人のバスが2台と個人としての私独り、宿坊は10畳敷きの中広間で団体受け入れように作られているようだ。
第八日  2003年6月13日
 雨が降り出した。巡礼の道は食堂、喫茶店などが極端に少ない。やっと見つけた仕出しとうどんの看板に入ると定職ができるという。オーダーしてくつろいでいると、遅れていた同行の二人が追いついた。
 このころから雨のふりがひどくなってきた。四時頃、23番薬王寺に着く頃には下着までが濡れて滴があるのが分かる。気持ち悪い。だからか、ここでもお経が一節出てこない。弘法様かんべんしてちょうよ。疲労と雨で集中力がのぅなっとるみてゃぁでなも。でも、かんべんしてくれたか、・・・・・・・・・。
 宿坊に入るや否や、浴衣に着替えてコインランドリー室へ直行。その後すぐにお風呂に飛び込んで、「ほ〜っ」

 知多弘法の初回でもそうであったが、やはり自分との戦いの様相を見せてきた。でも、違うのは「やってやる」から「できる!」になってることです。
 この日のコースは太龍寺の山を下り、小さな山を越えれば後は国道55号線の旅になる。でも、やはり小さいとはいえ山は急峻な登りが続く。ペースを覚えたのか休みを適宜入れることでなんとか登れる。地図から消えてなくなる山道を降り、農道に出て一休みする。歩き出して手にしていた念珠とハンカチタオルのないのに気が付く。先まで持ってたはず。と引き返す。しばらく歩いたとき車のクラクションがなる振り返ると地元の人が念珠を振っている。落としたところも気が付かずにオーバーリターンしていたとは。精神的にもかなり披露が貯まっていると見える。お寺について、それを思い知らされる。お経が出てこない。途中で次の句が継げない。
 今日は日和佐の薬王寺で終わる。日和佐温泉と出ていることから、ホテル千羽へ電話でアポを・・・・。「独りで弘法様をお参りしているものですが、今晩泊めていただけないでしょうか」すかさず「今日は満室です」う〜ん、当てがはずれた。明日はこの温泉でもう一泊の完全休養日使用と考えていたのに。やむなく、薬王寺宿坊を予約する。今夜は、同行三人、それぞれ別の宿のようだ。
 梅雨入り宣言が出ているから仕方がないが、今朝もどんより。なんとか持ってくれると良いが・・・・。この写真は宿・龍山荘の前庭と裏山です。右は「寿」と読めませんか?大変な労力と才能が必要と思われますが・・・・・。AM5:30のショットです。
 みんな朝は早い。四時頃にはごそごそ音がしている。たぶんにもれず、かくいう私も同じ頃には起きている。朝ごはんを食べ、歯磨きやお通じを済ませる頃にはもう誰もいない。
第七日  2003年6月12日
 今夜の宿、民宿・龍山荘へは下りの4kmあまり。舗装されてはいるものの車が1台やっと通れるほどの幅、もちろん許可車意外は登れない。しかも急峻。膝と頭に衝撃が来る。自然ブレーキをかけてくだる、これがまた結構つらい。いくつかのカーブを曲がって宿へ着いたときにはホットしたものだ。
 ここで、鍋岩荘で同宿だった長崎の人と再び出会う。谷間の一軒宿、料理は海山のものが蹣跚、おいしい。評判の宿である。
 太龍寺は今、麓に車をおいてロープウエーで上がれる。そのせいか、伽藍の配置がロープウエーの駅から参拝するようにできている。山門は車を降りてから1km余をあえいでからくぐれ、この山門から伽藍までも数百メートルのかけ上がりが待っている。精魂尽き果てた感じでへたり込む。
 鶴林寺の宿坊脇から林道交差地点までの道が険しい下り。しかも昨日の雨のせいか所々がぬかるんでいる。“気をつけて”と言われていたのを、すべって尻餅をついてから思い出す。
 しばらくは楽ではないが取り立てて急峻ではない。急峻な遍路道の手前から一匹のワンちゃんが後に先にとついてくる。つま先だった坂道をあえぐ私を後目に姿が見えなくなったかと思うとまた降りてくる。まるで、道案内をしているかのようである。土砂の流れだしを防ぐために埋めてある横木に腰を下ろして呼吸を整えていると降りてきた犬が私の手を舐めて何かを催促する。砂糖でできた飴を与えてやるとおいしそうに食べる。この犬は、この後上がっていって坂の中間にあるある休憩所で待っていた。ここでの休憩はせずに通過すると犬はそれ以上ついてこない。どうも、お遍路にまとわりつくことでこの休憩所でおやつを分けてもらえることを覚えてしまったのであろう。首輪があったことからどこかの飼い犬に違いないが歩いて1時間以内に人家がある様子はない。
 20番鶴林寺はツルの朱印を納経帳に押してくれる。それをゲットするのも今回の目的の一つ。納経所で知多四国の20番もお鶴さんで・・・・・・、知多四国の納経帳を見せたところ興味深げに見ておられました。
 山に入る前コンビニで買ったおにぎりを境内で食べていると、タクシーの運転手が老年のご夫婦を案内してきた。「あちらが本堂、こちらが太子堂」「えっ、あんなにたかいところまでも・・・・・」と奥さん。どうもタクシーをチャーターして廻っておられる様子。しばらく参詣を済ませたお二人、「多宝塔も後1〜2年で倒れそうなくらい朽ちて・・・・・」とどうも愚痴っぽいのが奥さんのようだ。ちなみに、多宝塔はそんなに朽ちているはずがないことはみなさんもご存じのはず。
 やっと「圏外」が解消した携帯から今夜の宿太龍荘に予約をいれる。さあ、山を下りて再び険しい山へのチャレンジだ。
 いよいよ12番への山についでの難所20番鶴林寺と続く21番太龍寺への登坂の日です。6時30分に宿坊を出発、幸いにも雨は上がっている。登りは後半の4kmでそれまでの10kmは平地。曲がりくねった道路を通勤の車がタイヤをきしませ、自転車の中学生は身をかわす。
  山は急峻で、焼山寺への山と変わりはない。ただそれが一つであることが救いとなる。特に最後の数百メートルは厳しく、本道の階段でゼーゼーする呼吸を整えているとふと声がかかった。「どこか具合がお悪いですか」って。きっとたたごとならぬ様子に見えたことでしょうね、わたしが・・・・。
第六日  2003年6月11日
 雨はますます激しくなる。今夜の宿は19番立江寺の宿坊とする。本当はもう少し先の民宿まで足を延ばしておくと20番へのアタックが楽になるのだが、立江寺から2時間と聞いては二の足を踏む。
 立江寺の宿泊者は私一人、2時半という時間なのに部屋に案内され、お風呂も入れるとのこと。下着まで雨が浸みている身には最高のもてなしと思える。
 デジカメの出番はまるでない一日でした。
 JR徳島駅で思案する。ここを区切りとして家へ帰るか、続けるかを。いきなり、和装の僧侶から声をかけられる。「歩いてお参りですか?」これで決まったようなものだった。
 銀行、ドラッグストアー、リビングなどに立ち寄り軍資金と資財を補給。今度は国道55線を南下する。

 ずいぶんと歩いた気がする、ふと空腹に気が付いて喫茶店に入る。時間は11時を廻っている。出発してから4時間が経過。雨のせいもあってかはかどらない。可愛いウエイターにガイドブックの地図を示して現在地をきく。後少しのはず、もう小松島市に入っている。しかし、実のところまだ徳島市、中間が省略された地図ではこの喫茶店の所はないのである。お嬢さんの心遣いを感謝せねばなるまい。
 科学技術の発達なのか、あたって欲しくない予報が実によくあたる。昨夜来から風と雨である。用意をしてきたカッパを取り出す。フードがない。仕方がないので、井戸寺のおかみさんに無理を言って開店前の売店で菅笠を買う。巡礼でござい!という格好にはなりたくなかったが菅笠に杖のお遍路姿の意味を知らされてしまった。
 今日も長丁場、まずはJR徳島駅を目指して出勤で混雑する県道、国道を東へ向かう。幸い、雨は大した量ではない。中心部に入るに連れ渋滞が見られる。どこも同じ光景、おもっていたらいきなり両脇を2台の自転車が駆け抜けていった。危ない、危険を感じた。もし、一瞬早く気が付いた右の自転車に驚いて左へよけていたら間違いなく事故・・・・・・・。と、その自転車を今度は渋滞中の車道から入り込んだ原付バイクが追い立てていく。名古屋では見られないすざましい光景を見てしまった。信号無視もおなじく・・・・・・・・・
第五日  2003年6月10日
3日目の宿
 歩き方がどこか不自然であるこの青年、野宿での巡礼をしているという。やはり足にダメージがあるようだ。昨夜は民宿に泊まり、おかみさんの好意で洗濯などをしてもらったとか、今日の泊まりの宿の近く、井戸寺近くまで抜きつ抜かれつが続いた。
 “おんやど松本屋”と看板の上がった宿の2階窓からは井戸寺の境内が真下に見える。「洗濯物を出してください」とのおかみさんの声に甘え下着やTしゃつ、靴下をお願いした。これも接待のひとつであることにこのときは気が付いてない。客は小生一人。
 やはり山越えで始まる四日目。「昨日と比べれば大した山ではないですよ」という宿のご主人の言葉により“遍路道”をゆく。一緒に出発した長崎からの人よりはかなり差を付けられたのは舗装してある林道だけ、すぐに昨日の傾斜を上回るのではないかと思われる遍路道に入ってすぐに姿が見えなくなってしまった。“たいした”事のないのは標高だけでやがて二つの山を越してからは、県道での歩きになる。ひたすら歩く。でも、なんか変、いつもの歩きの感覚ではない。20k余を4時間(途中30分ほどのコーヒータイムが入る)かかって13番大日寺につく。ここで昼食をとお寺宿坊経営のうどん屋さんに入ると姿が消えた同宿者がいる。20分ほどの差ができたようだ。ここは徳島市内、だんだんと人家が増える中を若い(20代)の歩き人とであう。
第四日  2003年6月9日
 今日の宿は、焼山寺から1時間ほど下った所にある鍋岩荘というどっかの会社の研修施設である。谷沿いにある木造2階建ての建物に、夜はホタルとかじかガエル、車の音なぞめったにしない深山名勝の趣である。人の良さそうな主人とおかみさん、おばぁさんに好感が持てる。しかし徳島弁での早口は一部聞き取る事ができない。藤井荘を出たとき4人であったのがここでは二人。しかも相方は長崎から来られた方で藤井荘の同宿者ではない。
 三つ登って二つ下がるというこの難所、つまりは二つの山を越えて三つ目の上場に12番焼山寺があることになる。左の風景は二つ目の下りで出てきたもの。急斜面にへばりつくような家や畑は信州伊那谷を連想させる。
 “遍路ころがし”昨日手に入れたイラストマップに書いてある。旅慣れたお遍路さんをもずっこけさせる急斜面、ということであろうか。
 出発は11番藤井寺の境内からである。ありきたりの山道に鼻歌交じりで歩をすすめる。一つ目の尾根を過ぎたあたりからだんだんと傾斜がきつくなる。やがてそれがつま先立った急傾斜に変わっていく。長い、とにかく終わりがないのである、そう思えてくる。右手には昨日買った杖、般若心経が描いてある。左手には念珠、首からデジカメと奇妙な出で立ち。でも、風景とか花どころではないのである。足がもつれ息が切れる。上を見ると(前ではないよ)曲がりくねって傾斜の道が続く。
 休憩所ごとには、同宿の3人と出会い励まし合う。しかし、東海市から来たという男性とは知らない間に距離があく。急な登りと、下りの歩き方を覚えておけば良かったと、真剣に悔やむ。これはトレッキングを越えて山登りではないか。歩幅10cm、ピッチ2秒に近い。これでも前進、いや上昇である。フーッ・・・・・・・・・
 この日のお参りは12番焼山寺ひとつのみ。達成感の中、やはり険しい遍路道を下り始めてしばらく3人の中学生とすれ違う。学校の帰りといった姿からお寺関係者の家族だろう。自動車道との交差するところで行儀良く並べられた3台の自転車を見て、そう思った。
第三日  2003年6月8日
 今日の宿は11番藤井寺門前の旅館藤井。歴史を感じさせる、巡礼宿でございますといった感じのたたずまい。部屋にはテレビもなく明日の難所へのアタックに備えこの日もそうそうに床につく。

 “テッペンカケタカ”“東京都下特許許可局”ってきいたことがありますか?早口言葉ではありません。鳥の鳴き声がそう聞こえたような・・・・・・・・
 10番から11番へのコースは吉野川を渡る。有名な沈下橋、テレビなんかでの影響か、木造を期待していたのだが・・・・・・・
タバコの花
 7番を出たところで同宿だったおばぁちゃんに出会う。40代前半であろうかご夫婦と思われるペアーと一緒。「私は昨日お参りを済ませているので」と通過するおばぁちゃんと道連れ。かくしゃくとした足の運びはとても78才とは思えないほどである。
 333段の石段で“巡礼ころがし”への足慣らしという9番で、先ほどのペアー、同宿のお嬢さんたちと出会う。11番の門前宿で予約を取ったと話すと、長丁場の11番まで車で移動するとのおばぁちゃんたち。結局これ以降まみえることはできなかった。
 弘法様の思し召しなのか、良いお天気だ。おかげで唇が日焼けをして割れてきた。夏になると必ず経験するやっかいな体質、しばらくはガマンである。
 宿坊安楽寺を7時に出る。まだ意気揚々としている。同宿の人たちも前後して出発をしているはず。案の定、5分もいかないうちに引き返して来る一人と出会う。杖を忘れたとか。7番、8番と順調である。まだ、花などを撮る余裕もある。
第二日   2003年6月7日
 あなたは、背後にふと人の気配を感じて振り返っても誰もいない、なんて経験ありませんか。マジで・・・
 愛知県の三河鳳来寺の和尚さんとも同宿。真言宗の和尚さん、子供の頃から霊感が強く前回の巡礼時に経験した霊との出会いなどを聞いてしまった。深夜に聞こえる鈴の音と足音などなど・・・・。行き倒れた巡礼の霊が霊場を巡り巡礼宿を訪れているという。信じますか?あなたは。
 知多弘法を廻っているときに、般若心経を唱えているときに感じた不思議な気配・・・・・・、ひょっとして私にも霊感が?
食事のあと、お勤めがはじまる。修行のために宿泊をするのであるから当然のこと。
 大きなお寺である安楽寺、本堂には脇僧侶2名を従えた住職の読経に唱和する。幸いなことに“巡礼グッズ”として覚えてきたお経ばかり。本も見ないで合唱して唱える、エヘン。半年の苦労が報われたぞ!
 その後、住職の説教。ユーモアを交えた話はテレビでどたばたしているタレントたちより引き込まれる。

 明日に備え早々と床につく。たしか、8時前であったような・・・・・・・
今夜の宿は6番札所・安楽寺である。
 案内をされて、まず驚いたのはテレビ付きの個室。コインタイマーなんて付いてない!お風呂へ行ってまたびっくり!!温泉としてある。重曹泉との表示であるがPHが7.4中性なのか、お肌つるつるの感触はないがまろやかな肌触りのお湯は疲れた全身の筋肉をほぐしてくれる。温泉好きの私は3度も入浴。
 食事もいい。もちろんアルコールも可。ただし、アルコール
アレルギーの私にはどうでもよいこと。この席で、歩いて廻る何人かの人と出会う。同じ目的に話ははずむ。中には、若いお嬢さんから78才のおばぁちゃんもいる。後でも元気づけられる事になる。
 気ままに歩く旅で重要になるのは、その日のお宿。決めるのは当然遅いほうがいい。しかし、受けてくれる方はそうはいかない。で、2番目の札所でガイドブックにある宿坊(お寺さんの信者のための宿泊施設)に、電話をする。「今日はおやすみです」って。なんで?といっても始まらない。ひとつ手前の霊場にも宿坊があるとの事で、電話をする。気持ちよく受けてくれた。
何番目かのお寺で咲いていたタイサンボク
 いかにも手作りといった感じの標識にしたがって入った「遍路道」
 時には人家の裏庭であったり田圃のあぜ道であったり・・・・・。元気はつらつです。
 四国を気ままに歩いてみたら・・・って考え始めたのは、たしか3年前。まだ、現役として朝早く家を出て、若い管理職の下で孫のような派遣社員に「あんなオジンにパソコンが分かってたまるか」と陰口をたたかれてノートPCのメーカーメンテをしていた時だったな。

 やっと思いがかなって、徳島へ。と言うとカッコ良いが実のところ前の晩に決め、翌朝3時起き。荷物まとめて一路名古屋空港。ところが、カウンターのお嬢さん「座席がいっぱいで・・・・」ときた。ん、弘法様とは所詮縁がないはと引き返そうとすると、お客さん、キャンセルが入って乗っていただけますって。嘘だろ?ほんと!てな具合で10時には1番霊山寺の山門前に立つ。
 綿密に計画して、これなかった昨年とはこんなに違うものかと驚いてしまう。今回は本当に無計画で思いつき。うまくいくときはこんなものかも
・・・・・
第一日    2003年6月6日
 このホームページ(竹とんぼ)のきっかけとなった“四国を気ままに歩いてみたら、楽しいだろうな”との思いを実現する機会に恵まれました。
 四国八十八カ所霊場巡り、多くの先輩諸氏がガイドやレポートを発表しておられることから“俺流”八十八カ所ずっこけ旅をつづります。hiro-ji輩
第十二日  2003年6月17日
 朝食は7時からと言うおかみさん、できるだけ早くとお願いをしておいたら10分早くなった。今日も雨、でも“篠着く”程度のもの。靴を履きひもを締めたら水がほとばしった。こちらは湿度が高いのかタオルなどもまるで乾かない。
 今日の行程は長丁場、ガイドブックでは34kmになる。でも、足が重く感じられなかなか軽快なリズムとは行かない。高知県に入ってから、「遍路道」の案内標識がめっきりと少なくなった。あっても小さいもので見落としてしまう。24番でもそうであったがここ26番も、自動車道で山門に着いてしまった。傾斜は緩やかになるが距離が3倍にもなる。しかも下り口が分からず、登ってきたところへ戻ってしまいここでも距離でロスをした。
 遍路道を下りていると、昨日の和歌山の老人が登ってくる。ゆっくりではあるがしっかりした足取りである。
 ここからもひたすら歩くのみ、となる。11時、喫茶店を見つけて休憩かたがた早めのお昼とする。ここで、ママさんや、お客さんとの話で、27番までは無理だから奈半利で泊まった方が良い、と言うことになった。お客さんのお勧めはビジネスホテル。でもBHときくとゆったりとくつろぐイメージが沸いてこない。26番の弘法堂で持ってきた「二十三士温泉」へ電話をする。快く宿泊を引き受けてくれた。
 ここいらの国道は、狭い旧道の海側にせり出して作ってある。したがって、多くのところで併行して旧道があり、そこはまた古い町並みが続く街道でもある。赤煉瓦の塀が続く街、蔵がある家、昔、相当に繁盛していた土地であったろうことが伺える。
 ほぼ平坦な道が続く中、1カ所だけ「中山峠越え」という岬にせり出した峠越えがある。もっともその峠を迂回するかたちで今は国道があり、少し長めに歩けば雨の中を無理にチャレンジする事もないのだが、石畳が残るとあっては見過ごすことはできない。そんなに長くはないがやはり険しい。一部は農道やあぜ道を通ることになるが確かに昔からと思える石畳を登る。しかし下りはいけない。雨で濡れた石はよく滑る。そのつもりで歩いていても足を取られることが何度もあった。
 足が重い。歩は思うようには進まない。水をたっぷりと含んだ靴だけのせいではなさそうだ。

 

 予約をしておいた二十三士温泉へ着いたのが4時30分を廻っていた。チェックインして部屋に案内される。まだ畳の香りがするかのような新しい部屋。なかなか良い。ランドリー施設を訊くと、業務に使用している最新式の乾燥機にもなる洗濯機を使わせてくれた。使用料のことは言わなかったのでだぶんサービス。乾燥機がなかった昨日の旅館とは大違い。お風呂はちょっと年期が入っている感じ。お肌つるつるのアルカリ炭酸ナトリューム泉。屋根がない露天は見晴らしがまるでないが、底に敷き詰められた白い玉石が心地よい。
 湯上がり場には畳の休憩室。名古屋周辺の日帰り温泉と比べると全体に地味。でも、合格点は与えられる。
夕食は宿泊料に入っていないので、併設のレストランで別途会計。明日は一日休息日とし、フロントに連泊とお願いする。明日は温泉三昧とするつもり。
 万歩計は43,400歩をカウントしている。歩幅がずいぶん小さくなっているのか、それとも大回りをしたのか、ガイドブックの34kmまでまだ12kmもあるというのに。
第十三日  2003年6月18日
 折からの台風の影響なのか、連日の雨。昨夜の二十三士温泉の居心地の良さに、連泊をすることした。と言っても、用意してきた常備薬のたぐいから手持ちの心細いものを、安芸市まで買い出しに出た。ここから最寄り駅・くろしお鉄道奈半利駅までは温泉のマイクロバス。安芸市まではバスに揺られる。
 買い物は駅近くのスーパーマーケットで済んでしまった。喫茶店でコーヒーを飲んで駅に戻ると、宍喰温泉で雨宿りをしていた遍路が荷をおろしている。まだ20代、坊主頭であることから修行僧かもしれない。宍喰で話しかけたときに返事がなく、今日もなんだか近づきにくい雰囲気。こちらは私服なんで知らぬ顔を決め込む。この人、安芸駅からおもしろい電車(1両編成のワンマンレールバス)乗り込んで、27番神峯寺に一番近い駅で降りていった。
 やがて、電車は終点の奈半利駅に着いた。折り返しの電車に乗り込む客の中にお遍路がいる。初めて見る顔。やはり今日の雨は強くしつこいから、歩くのを止めて、電車を利用しているようだ。これもその人の遍路、私がとやかく言うべきものではないが、私は、これを「ショート」と呼ぶ。歩くことを主眼とする遍路では馴染まないからだ。温泉で骨休みしてるヤツがよく言うよって声が聞こえてきそう。
(1番・霊山寺〜6番・安楽寺)
(6番・安楽寺〜11番・藤井寺)
(11番・藤井寺〜12番・焼山寺)
(12番・焼山寺〜17番・井戸寺)
(17番・井戸寺〜19番・立江寺)
(19番・立江寺〜21番・太龍寺)
(21番・太龍寺〜23番・薬王寺)
(23番・薬王寺〜25番・津照寺 -1- )
(23番・薬王寺〜25番・津照寺 -2- )
(23番・薬王寺〜25番・津照寺 -3- )
(23番・薬王寺〜25番・津照寺 -4- )
(25番・津照寺〜26番・金剛頂寺)
(26番・金剛頂寺〜27番・神峰寺 -1- )