第三十日  2003年7月5日
そのV     第26日目〜 
第二十六日  2003年7月1日
 持参のノートパソコンが立ち上がらない!宿に着いてのこと、今朝は正常に起動終了してたのに!!
     と、いうことでこれは7月2日なんとかやっとのことで立ち上げたパソコンで書いているのだ。
         だが、立ち上がっているのが奇跡かも・・・・・・
 宿にもいろいろとあるのは仕方がない。でも、遍路相手のいわゆる遍路宿となると、何とも表現しがたいものがある癖の宿も多くなった。トイレが臭いのもなじめないし、ましてや寝ている部屋まで匂いが来るのはやりきれない。ここは浴衣までもがにおう。自分家で洗ってるのであろう、このところのお天気では仕方がないとは言え、気になる。おかみさんの人の良さと4,000円、おにぎり、バナナ、お菓子のお接待で納得するしかない。
 6時半に出発する。雨は降っていない。県道21号線への分岐地点まで海岸を行く。7時過ぎから雨が落ちてきた。雨天スタイルに変身するとともに、今日の宿の予定である三原の旅館・庄助へ電話する。すると、「廃業しまして・・・」ときた。困った、庄助までが27km、ここが営業していないと39番延光寺まで宿がない。円光寺までは35kmもある。しかもずっと登り。でもしかたがない。休憩を減らし、頑張るしかあるまい。
 県道は一部センターラインのある立派な道路であるが、やがて軽自動車でもすれ違うことができないほどの道幅になる。しかもずーっと登りがつづく。3時間の道のりの間、出逢った人はゼロ、車もわずか5台という閑村である。三原にでて、旅館・庄助の跡地がお遍路休憩所になっているところで、昼食をとり、ガイドブックの旅館に電話する。ここも、「ただいま休業してます。またの機会に・・・」ですって。しかたなく民宿ひょうたんを宿とする。39番門前には名物の「へんくつや」という民宿もある。自分が偏屈であることは百も承知であるから、何となく敬遠したくなる。
 道中はノカンゾウが花盛りの季節。でも、日照のせいか時間のせいか写真にするような花にお目にかかれない。やっと畦でまとまって咲いている光景にお目にかかれた。
 三原を過ぎると下りがつづく。雨がだんだんと本降りになる。やっとの思いで民宿ひょうたんに着いた。4時になっている。ここから数百メートルのお寺にはリュックを預けてお参りに行く。境内に入るやいなやバケツを開けたような猛烈な雨。見る見る境内が池になる。
 宿に戻ると、喜寿に近い老夫婦の宿の主人とおかみさんが迎えてくれる。善意はあふれるがどうも、合わない。ここでも前夜と同じ同宿者となる。
第二十七日  2003年7月2日
 昨日とはうって変わっていいお天気。お遍路を迎えて35年とか、宿の老夫婦。好好爺婆とは書かないだろうがこんな表現がぴったり。でも、黒く垢の浸みたひびが2/3入って、いつ分割してもおかしくないお茶碗で朝食をよそってくれたのには閉口する。遍路相手だけでは食べていけないご時世なのかもしれない。

 今朝は同宿者より一足早く出発する。ほぼ同年代と言うのに40日で八十八カ所を廻るという健脚、案の定30分もしない内に追いつかれた。「洗面道具をわすれませんでしたか?」って言われるまで、入れ歯磨きを忘れたのに気が付かなかった。その同宿者、リュックに詰め込む間に見えなくなってしまった。
 宿毛市内には8時に到着。スーパー、ドラッグストアー、ホームセンターと揃っているのに開店が9時から。待ってるゆとりは今日もない。難所の一つ、松尾峠を越えて30kmの予定だからである。ガイドブックの案内どおりに歩いていると、突然「お遍路差〜ん、道間違えてるよ〜」と声がする。振り返ると孫の手を引いたおじいさん、確かに振り返って判る位置に案内表示板。そこから、小さな峠を三つ越して三つの部落を経由してから松尾峠になった。ガイドブックは一つ目の峠をパスしているコース、間違いではない。

 さすが松尾峠、険しい登りが続く。頂上近くに休憩所がありそこでお握りを食べる。登り2時間下り1時間であった。
 松尾峠を越えると一本松、ここで今夜の宿として40番観自在寺へ電話する。遠回しないい方で蹴られてしまった。近くの宿を紹介するとのこと。トイレの匂いは、たくさんと、お寺を1km通過したホテルを予約した。
 連日の30kmオーバーは、こたえる。特に後半の4km、ガイドブックと違う道に案内標識、これに従う。ところが後1kmで標識がない。地元の人に確かめて橋を渡る。若いお遍路が二人前を行く。門前の信号交差点で、赤信号なのに横断してしまった。小学生が横断歩道で信号の変わるのを待っている目の前である。思わず大きな声で怒鳴ってしまった。「お遍路を続けるならば、世間の手本になりなさい!信号無視とはどういう了見だ!」
 今夜は、三日ぶりにトイレの匂いから解放されて眠れる。
第二十八日  2003年7月3日
 四国に来て始めてのシティーホテル、プールやレストラン、ボーリング場を併せ持つレジャー施設の一つ。夜になって一組の客が来たが食事付きは私独り。夕食、朝食とも良い。ただ、部屋にダブルベットが置いてあり、どうも合わない。おかげで良くは眠れなかった。
 テレビで“日替わりお天気”と、言っていたがまさに言い得て妙。今にも降りそうなお天気。何時降り出しても対応できる用意をして出発。今日は41番までの中間点、津島町で泊まる予定。歩き出して、体が重いのに気が付いた。登りになると足が前に出ない。二日続きの30kmオーバーが効いてきたのか、ダブルベットのせいか。こまめに休憩をとることで対応する。2時間ほどして、ようやく足が出るようになった。結局、柏坂越えを断念し、国道を歩く羽目になった。
 国道とはいえ、アップダウンにはキツイ所がある。複雑に入り組んだ海岸線を眺め、岬はトンネルで抜ける。内海村の内海トンネルには歩行者専用がある。軽自動車が通れるほどの広さがあり明るい。900mを越える長さに誰も会わないことの不気味さを感じてしまった。
 9時すぎから降り出した雨は、パラパラと来て止む。歩くには支障はない。ここ国道56号線もそうであるが国道55号線や県道27号線、どれにも路傍のお地蔵さんが多い。古いものでも昭和48年くらい、新しいのは平成になってかららしく光っているようだ。それだけ事故死が多く家族の悲しみが深いということか。
カラスウリの花にみえますが・・・
 もうちょっとで津島町の市街地と言うところを歩いていると、「ちょっと待ってください」と声がかかった。見ると反対側で自販機の前にいた20代後半と見える女性が車のとぎれるのを待って缶ジュースをくれた。ありがたいお接待である。 津島町の中心部、食堂を合わせて経営する旅館・よしのやには3時に着いた。若いおかみさんが世話をしてくれる。乾燥機はないが、洗濯機は使ってください、とのこと。1泊2食で6000円は合格として良いだろう。ただし、食事を見てからのことだが。
第二十九日  2003年7月4日
 畳と布団で寝るのは落ち着く。深夜、すごい雨の音で目が覚めた他は五時までぐっすりと眠ることができた。7時からの朝食、泊まり客はもう一人いた。仕事での宿泊のようで作業服のまま食事をしている。夕食には鯵と思うが小魚の刺身が出た。これが意外とおいしい。さっぱりとした部屋とともに合格の宿である。 
 7時半に宿を出発、松尾トンネルを抜けるまで登りが続く。ぐっすりと寝たのが良いのか、今日は快調に足が前に出る。
 今日から5週目に入った。リュックは肩に食い込むし、夕方には足の筋肉と関節が言うことを聞かなくなるのは変わらない。でも、朝に残るダメージは確かに少なくなってきた。松尾トンネルは長い、1800mとあったような気がする。ここは出口の寸前にならないと明かりが見えない。真ん中で一休みをしたが、轟音と排気ガスには参る。それと、コンビニ弁当の殻やペットボトルにアルミ缶などが転がっている。こんな所で休憩して昼にするような物好きは私くらいのもの、これらのゴミは走る車の窓から投げられたものであろう。そう思ったとたん、ゾーッとした。突然跳んでくるアルミ缶やペットボトルは、幽霊より怖い。
 宇和島市の市街地に入ったのは11時すぎ。JR宇和島駅近くにアーケード付きの商店街がある。一部歯抜けになってはいるが商店街としての活気はある。今日の宿にする予定の40番門前の民宿・稲荷へ電話をするが出ない。ここが取れないと5kmほど歩を進めなくてはならない。ちょっとつらいが民宿・とうべやへ電話をする。気のよさそうな男の声で引き受けてくれた。
 宇和島からは三間町まで約6kmが登りである。上り詰めて三間町であるが工事のガードマンから、遍路道に追いやられてしまった。小さな山ではあるが越えて一般道に出たところに案内がない。困った。入り口はあっても出口になければ何ともならない。持ち合わせの地図を総動員して方向を決める。このころから雨が降ってきた。41番にお参りする頃が一番の大降りになってしまった。
 41番龍興寺の門前には茶店が数軒並ぶ。昼飯を食べ損ねていたのでその内の1軒でお饅頭を買う。ついでに42番への遍路道への入り口を訪ねてみたら、小雨にはなっていたが傘もささずに30mほどを歩いて案内してくれた。電話をしても出なかった旅館稲荷は経営者夫婦が体調を壊し医者通いとか。この遍路宿も“庄助”と同じ運命となるかも・・・・。
 今晩のお宿、「とうべや」は通りからは遠慮がちに看板が掛かっている。お寺で話を聞いていなかったら判らなかったとおもう。ここも、信心からの遍路接待宿のようだ。気のいいオヤジさんが世話をしてくれる。
 今日の宿、女性の影を一度も見ることができなかった。すべてを人の良いオヤジさんがしてくれた。種を抜いた梅干しを芯にした焼きお握りも作ってくれた。6500円は仕方がないと言ったところか。
 出発に際して、遍路道を事細かく教えてくれた。ただし、昨日の雨があるから、歯長トンネルは通っていけとも。この写真は遍路道との分木点から峠を見たところ。これでも結構キツイ登りで、自動車はギアーをシフトダウンしてあえいで登っていく。
 山を下り、平地から43番の登りになるにつれ、バテが来た。キツイ。そういえば昨日は宿のおかずが食べきれなかったっけ。オヤジさんが3時間ほどで着くと言ったコースを結局4時間近くかかってしまった。
 参道を息せき切って登り詰めると43番・明石寺は門前に立派な茶屋がある。ともかくも休憩である。コーヒーをオーダーする。土曜日の10時すぎと言うのに参拝客は疎らだ。団体客が着く時間帯ではないだろう。大師堂の前の小さな池には蓮が花を付けていた。
 入り鐘に出鐘って聞いた事があると思います。何かの本に入り鐘を勧めていたのを思い出し、ここ四国ではまず梵鐘を着くことにしている。最近この余韻を聞くことがやみつきになってしまった。突いたときの音も良いが尾を引く余韻が何とも良い。
 明石寺から山を越えた所にある公園で、宿でもらったお握りを食べる。確かに不格好だが優しさが味を作っている。宇和町から大洲までは20km余ある。オオズ プラザ ホテルに電話を入れた。土曜日というのに泊めてくれる。場所は詳しく調べないままの電話が,後で泣きを見ることになる。
 鳥坂トンネルまでは登りが続く。やはり足が進まない。30分ごとに10分の休憩が入る。1枚の看板がオオズプラザホテルの場所を「松下寿の前」と教えてくれた。地図で見ると、大洲市街地を抜けた郊外だ。
 鳥坂トンネルを抜けると3時になっていた。幸いここからはかなりの傾斜の下りである。スピードを上げる。しかし、休憩は30分に一度は必要になる。5分にとどめて頑張る。不思議なもので、約束の6時にそんなにはそんなに遅れずにチェックインするという目標が体を動かすものである。結局、チェックインは6時10分にできた。万歩計は54,000を掲示している。
第三十一日  2003年7月6日
 オオズ プラザ ホテルはビジネスホテルでした。家電大型店、ドラッグストアー、ホームセンター&スーパー、コンビニ、ふぁみれすと集中して立っている。松下・寿電子の前というロケーションからビジネス客も多いようだ。朝食はパンとコーヒー、ジュースのバイキングサービス。夕食は館内一階のレストランで300円の割引券がついた。
 7時からのバイキング、といっても半分に切った食パンにレーズンパン、コッペパン。後はバターにジャム、自動給湯方式のジュース4種、ホットコーヒー2種のみ。バイキングというほどでもない。たぶん、ここは平日松下関係の人で賑わう所だろうな、なんて考えながらの食事。8時に出発。
 開店までにまだ1時間余もあるのに人が並んでいる。なんだろうとみるとパチンコ屋だ。名古屋で開店前に人が並ぶのは新台入れ替えキャーンペーンの時で、花飾りが並ぶ。でもそれがないのに30人ほどの行列ができているのは奇異に感じる。ここいらは新興の商業地区なのか、自動車ディーラーとその関連が多い。
 道は山間に入ると次第に傾斜がきつくなる。2時間ほど登って五十崎町標識を見てまもなく登りが終わる。ファミリーレストランとした普通の感じのレストランがあり、そこでモーニングセットをとる。ここから遍路道で、ぬかるんだ農道を歩く。山を登って内子運動公園から古い町並みにはいると、ご町内のご婦人方でバザールのイベントが行われている。お弁当にと、柿野葉寿司を買う。すると、コロッケとジャコテンというハンペイと冷やしたペットボトルが出てきた。お接待という。ありがたくいただく。観光バスやマイカーで人が行き交う。歩いていて、上の写真のお店が突然現れて驚く。博物館らしい。
 時刻は11時、今日の宿をと小田町の旅館さかえやに電話をするが出ない。嫌な予感がするがとりあえず前進だ。しばらく、携帯にメールが入る。松山在住の支援者から「小田町の遍路宿は廃業したらしい」と。明日、44番・大宝寺までを考慮すると、今日は小田町まで行っておきたい。内子と、小田町の中間地点で引き返して内子で宿を取り、明日朝タクシーで小田町まで行く計画を立てた。すると、突然声が・・・・。小田町にある料理旅館ふじやを紹介してくれ、しかも車で送ってくれた。ありがたいお接待である。歩いていて、車で送ってくれるというお接待もあり、これは辞退しない方が良いとある本にあるのを思い出した。昭和初期か、あるいは明治、大正の建造かもしれない古めかしい部屋に案内されたのが2時30分、久しぶりにお昼寝を楽しんでしまった。
  宿のことで気を揉んでくださった“なえもん”様、ありがとうございました。伊予の国の暖かい人の心に触れる事ができた一日でした。
第三十二日  2003年7月7日
 今日の宿の宿泊者は私一人、宿帳を見ると一日おき程度には名前がある。大阪、京都、北海道等々。やはりお遍路であろう。料理屋は今は経営しておらず、スナックを開いている。夜遅くまでの商売なのに朝食を約束の15分前の6時15分に用意してくれた。宿泊代6000なら良しとする宿。
 出発は6時50分になった。ここからも長い登りが続く。九十九折りをショートする遍路道が、これまた急斜面。四つん這いで、と表現したくなる険しさだ。そんな中、不意に現れる民家は急な斜面にへばりつくように建っている。その中で見かけた建物が右の写真。なんでしょう?
 真弓トンネルを抜けるとしばし、下りになる。宿を出てすぐに「圏外」になっていた携帯電話の通話ができるようになったのが国道33号線に合流する久万町落合に入ってからだった。さっそく44番大宝寺に電話を入れ今晩の宿をお願いする。あまり早い到着は準備が間に合わない、というのでのんびりと歩く。久万町役場近くの集会場の縁先で、休んでいるおばぁちゃんの手が私を招き寄せた。95歳くらいになる、と自分でいわれるおばぁちゃん、明治45年生まれというのに、耳もよく聞こえ、若いときからの俳句を今も楽しんでおれるという。たまにはのんびりと歩き、地元の人とお話をするのも良いものである。
 久万町に近づくにつれ道路端の植生が違って来たような気がする。学者ではないのでうまく表現できないが、例えば左下の写真、白いホタルブクロですよね。ホタルブクロといえば園芸品種以外の野生は長野県以北と思っていた。ただしあちらは紫色。白はひょっとして花壇からの脱走兵かもしれない。それにたんぼの稲もまだ背が低い。もう穂が垂れ下がっていた足摺岬とはずいぶんと違うと感じた。
 大宝寺に着いたのが3時、お参りと納経を済ませて、宿坊に入ったのが3時30分。樹齢数百年という杉の林に囲まれた静かな所。設備は一昔前の感じ。テレビもなければ携帯も「圏外」でネットに接続できない。今夜は早く寝るしかないか。
第三十三日  2003年7月8日
 大宝寺の宿坊は、唯一精進料理でもてなしてくれるところである。昨夜は河内の霊場会とかの常連団体10名ほどの予約があって、泊めていただくことができたようだ。団体の予約が無い日は宿坊がお休みということらしい。運が良かったよ、とまかないのおばちゃんに耳打ちされた。
 真言宗豊山派といわれるこのお寺さん、朝5時に梵鐘が鳴らされ、5時45分からお勤めが始まる。お経、説教と続いて終わった6時35分には足の10本の指の感覚がまるでなくなっていた。朝食ももちろん精進で、肉魚は一切無し、卵もである。朝食の折には、寺の奥様から嫁いできたころのお寺の状況、宿坊を始めたいきさつなどの話が続いたのも始めての経験。
 今日は45番・岩屋寺をお参りして古岩屋温泉で泊まりの予定であるから時間のゆとりが十分にある。大宝寺を出てからすぐに遍路道がはじまる。山越えである。無事に越えて次の遍路道に入る。そこは旧道であろう、左上の写真のような休憩所が民家の庭先にあった。この家のガラスには「旅館」の文字が残っていた。

 いよいよ難所“八丁坂”への挑戦が始まる。はじめは大したこともないが次第次第にきつくなる坂道。でも、焼山寺への山越えと比べれば短いだけ楽といえる。こちらは湿気の多い風土なのか、遍路道の傍らにもいろんなキノコが出ている。家にいれば図鑑で名前を調べてから写真を出すのであるが、出先の事とてご容赦を。下の白いキノコは“ギンリョウソウ”ではないかと思う。珍しいキノコの部類と思われます。
 山も下りにかかると急に険しくなる。と、突然岩の中から大きな不動様が現れて驚かされる。様々な童子像が安置されていて、お札が前に置いてあるところを見るとこうして急な山道を駆けめぐる修行が今も行われていることだろう。ずーっと、「圏外」だった携帯が岩屋寺の境内だけ通じた。貯まっていたメールをチェックする。
 参拝の後、急な参道を下りる。バスが来たのであろう団体さんが元気よく上がってくる。まだ半分も来ていないのにと要らない心配をしてしまうほどの元気なシルバーもいた。
 国民宿舎は、またもや「圏外」。部屋はおろか、廊下も外もずーっとであるから何とも致し方が無い。1時30分に到着、温泉に入ってコーヒーを飲んで時間をつぶす。部屋に入れてくれたのは3時半だった。ここは、冷泉、いわゆる鉱泉に入る。さして特徴は無いが、まろやかな肌触りはいい。夜は10時まで、朝は6時から入れる。今日はのんびりと温泉三昧とする。
第三十四日  2003年7月9日
 国民宿舎というお上経営のお宿、これで3軒目になるが、ここが一番融通が効かない。でも結構宿泊は多い。久百々で同宿だった女性と出会う。久百々では私は折り返し、彼女は足摺岬へと2日のズレがあったのに。効くとバスを利用するときもあったとか、でも昨日は八丁坂を一人で登ったという。途中の「まむしに注意」の標識に怯えながら、という。
 宿は7時40分に出発。46番浄瑠璃寺までは8時間かかると土産物屋のおかみさんたちはいう。出発をしてからしばらくは登りが続く。下りになってすぐに八丁坂の分岐地点に着いた。時計を見ると1時間しか経っていない。休憩所のある加納集落までは下りが続く。登りにかかると、やがて遍路道の案内。メインのガイドには記載の無い道。この作者、自分で歩かずに書いたと思われる遍路道が他にもある。インチキとは言わないが、頼りにしきってると困る問題でもある。
 険しくなる山道、ぬかるんでいるところもある。曲がりくねって登ったところが、車が通れる林道。高野とある。地図にはない地元の字のであろう。ここから国道33号線までは厳しい降りが続く。膝に衝撃が来ないように歩幅を小さく下りる。いつもとは違う筋肉が張ってくる。33号線に出たのが10時30分。ガイドブックには5時間とあるから短縮してるはず。ところが、33号線がこれから三坂峠まで延々と続く登り。曲がりくねった急な峠を今トンネルで短縮するべく工事が進んでいる。標高700から900mの山が連なる峠の頂から、遍路道で降る。これもきつ〜い急峻な坂。はっきりと足への負担の重さを認識し始める。やはり、今夜は46番門前の長珍屋という話題の民宿を宿とする事に決めた。
 宿には4時に着く。典型的な遍路宿であるが団体が二組もあって繁盛している。設備も整っている。個人客は旧館に案内される。格部屋にはロックができる。しかし、案内された部屋には襖で隣の部屋へ自由に行き来出る。その部屋にもロックができる。これはなんだ?
 食堂には仰々しいほどの弘法様とその関連ものが祀ってある。信心深い人は食事の前に心経をあげている。ここで東京から26日で歩いてきたという30代の青年に会う。学生時代ラグビーをしていたと言うだけあって早い。一日40km歩くという。
第三十五日  2003年7月10日
 お遍路の朝は早い。6時の朝食にはほとんどの人が着替えて下りてくる。歯磨きもしないで飛び出していく。今日は47番から。この宿から15分とある。納経の受付は7時からであるからそんなにあわてなくて良い。6800円の民宿としては普通の料理。遍路宿として成功している数少ない民宿と感じた。
 昨日下りてきた三坂峠を振り返る。あんなに高いところから一気に降ってきたのかと改めて感心する。しびの上がった立派なお屋敷を見る。これ、お寺でも無く普通の民家なのだ。驚く。
 すれ違いざま、両手を合わせてお辞儀をされたらどんな気がするか考えてみてください。いわゆる合唱礼拝である。今までに3度ほど経験した。とっさの事で頭を下げるのが精いっぱい。本当はありがたいお経の一節でもとなえるのが礼儀だろうが私には判らない。
 今日は松山の“なえもん”様が合いに来てくれるという。毎日の励ましと、宿の心遣いでお世話になりっぱなしの方。はたして、49番を過ぎたところで妹さんと待って居られた。遍路道の途中の家に居られたお母様と50番まで一緒に歩いてくださった。何よりのもてなしである。ありがとうございます。
 49番への道路端にノカンゾウが見事に咲いていた。日差しが一斉に花を開かせたのであろう。3人にご挨拶の後、51番に12時に着いた。ここは道後温泉にも近いことから賑わっている。出店の常設にも驚くが、曼陀羅など見物もおおい。また近くの山頂には特大のお大師様が立っている。
 今日はここで終わり。無理を言ってホテルにチェックインしたのが1時15分。
 松山には路面電車が走る。150円の均一料金で乗れる。さっそく出かけて三越百貨店にはいる。でもここには所望のものがない。アーケード通りを歩いて買い揃える。ホテルに戻ったのが3時半。ひと風呂浴びてから、PCの分解を始める。部品そのものの故障では無く、部品同士を繋げるコネクターが外れかかっているのに気が付いたのがそれから3時間ほどのあと。ノートパソコンのコネクターが背中に背負って一ヶ月で外れるなんて困ったものだ。松山の夜景はすばらしい。それを見ながらこの画面を書いている・・・・・・。
第三十六日  2003年7月11日
 24時間いつでも入れる天然温泉。ただし、露天風呂は安全のために22時まで。朝の松山市内を見て露天風呂に入るのは気持ちがいい。この大きなホテル、宿泊客は外湯に行ったのかお風呂は何時も貸し切り状態。出発の時には仲居さんが玄関先まで見送ってくれた。
 7時40分に出発する。道後温泉本館の前を通る。何人かの浴衣姿がタオルを下げて歩いている。さすが、観光バスもたくさん止まっている。朝のラッシュに意外と歩行者が多い。でも、暑い、蒸し暑い。52番太山寺まで11km、これがなかなか進まない。休憩が多すぎる。ガイドブックの案内に従って遍路道を行くべき進んでいると、「道がちがう」と声がかかる。地元の人という。地図を見せて確かめるが、道は無いと言い張る。確かに車の通れる道は無いだろうが、人の通れる道(たぶんミカン畑への農道)は道路地図にも描いてあるのに。「地元の人間がいうのだから」の言葉には言い返す言葉はない。やむなく大回りをする。太山寺の手前で休憩をしていると、今度は「円明寺はどちらですか」と、訪ねられる。地元松山の人で、今度お遍路をしたいから練習だという。地元の人が、始めてお四国してる他国人に聞いても判るはずがないよね。でも、地図を開いて教えてあげた。
 太山寺は参道から山門、本坊から本堂までが離れていてしかも険しい坂が続く。息咳きって登ると、昨日石手寺で見た子連れの遍路に会う。孫を連れてといった感じ。何か事情があるのだろうが身の上話は詮索しないのが礼儀、挨拶だけにする。こんな風土が殺人犯の遍路をテレビに登場させたのであろうか。
 休憩と参詣を済ませて本坊に下りる。ワゴン車の一団が納経所から出てきた。見ていると、車に乗り込み本殿へと上がっていった。車で本殿の前まで上がれる。観光化した巡礼の姿をまざまざと見た思い。
 53番円明寺までは3km、このお寺は平地にある。参拝を済ませると1時、どうもからだが重い。昼食をとるために喫茶店に入り、ここから一番近い宿に予約を入れる。明日が32kmほど残って大変だが歩くのをあきらめる。ゆっくりと食事と休憩で3時に宿に入るとすぐに昼寝となる。水滴の音で目が覚めるとエアコンからもれた水が受けてあるゴミ箱に貯まっている。恐れ入りました・・・・・・・。紅葉マークのご夫婦が世話をしてくれる。遍路専用宿ではないようだ。
第三十七日  2003年7月12日
 この宿の宿泊者は私一人のようであった。エアーコンの水漏れに気が付いた宿のご夫妻が部屋を換えてくれた。コインタイマー付きのテレビも見ることもなく早々と寝付いた私を真夜中の激しい雨と雷が起こしてくれた。幸いにして夜が明けるころには収まっていた。
 時折は雨がパラパラするがたいしては降らない。リュックにビニール袋をかけただけで済ませてしまう。起伏の少ない楽なコース。長丁場といえ6時20分出発の朝は足が進む。やがて海岸にでる。雲はまだ厚い。北条市を抜けたころ国道の車寄せにこんな看板を多く見るようになった。小学生の作った標語のようだ。意図的なのかそれとも無関心なのか理解に苦しむ。ここだけではない。国道55号、56号線でも同じ光景をよく見てきた。中にはテレビや冷蔵庫などもあったりして。「名古屋走り」と悪評高い名古屋のドライバー、知多弘法で何度も歩いているがこんな光景は見た記憶がない。
 雨が上がれば蒸し暑い。夏となれば、この花だ。道路脇の花壇に咲いていた。園芸用のひまわり。54番の近くには宿がない。前か、55番を越してからになる。この様子では、54番には4時すぎになる。それから1時間ちょっとの55番へはきつい。ということで、大西町と今治市との境にあるビジネスホテル来島を宿とする。ホテルといっても、ドライブイン形式の2階建て。一応、バストイレ同室のユニットがあるホテルの部屋だ。でもエアーコンがない。扇風機が置いてあるのみ。同設のレストランでの2食付きで6000円なら、良いとするか。
第三十八日  2003年7月13日
 ビジネスホテルで二食付き、6000円でした。バストイレ付きの洋室なら民宿よりはましかもしれない。朝食が遍路宿より遅いが、これが普通かもしれない。昨日から中学生の一団が泊まっている。食事の時も部屋でも無駄口を利かず行儀が良い。どっかへ試合にでも出かけてきたのだろう、統制が取れている。ワイワイ、ギャ〜ギャ〜したい年頃なのに、可哀相な気もする。
 雷が鳴っても、梅雨明けとはならないこの地方、今日はどうも良くないお天気のようだ。案の定、出かけてすぐに降ってきた。それでも午前中はガマンをすれば傘も要らないといった程度。54番延命寺を出ての遍路道、墓地を抜けての目印がない。気が付くととずいぶん大回りしている。55番南光坊近くでは「違う、そっちじゃない」と声がかかる。ここも案内がない。共通しているのは遍路道を、知らずに外れたときの修正のための目印がないことかも。その点、南光坊の和尚さんは、56番泰山寺への道を分かり易く説明してくれた。案内図も張ってある。きっと、多くのお遍路から同じ質問を受けているからだろう。
 55番、56番で同じ女性の歩き遍路を見かける。54番から見受ける人。56番で話しかけることができた。松山在住の方で休みを利用して歩いているという。ただし、近いところだけで精一杯とも。今日は58番の宿坊を予約してあるという。私は、温泉である。今治湯ノ浦ハイツというホテルを予約する。このときには、ガイドブックで調べた今日の行程18kmを信じていたから・・・・。
 58番仙遊寺は一気に280mあまりを登ることになる。しかも、このときから雨が激しくなる。この両方が計算違いとなる。松山の女性と着かず離れずの歩きが続く。道が険しくなるに連れ私が先行したはずなのに、境内には彼女の姿があった。あえぐ息の下から驚きの声が出る。どうも、誰かに乗っけてもらったらしい。時計は3時を廻っている。ここで泊まりの彼女に別れを告げ、遍路道で山を下りる。案内板では5.9km。相変わらずの強い雨。道路は川のようになるし、遍路道の案内標識はガイドブックと違う道にあるし、交差点にある標識は矢印がどちらの道路とも執れる方向を向いているし(いたずら?)。で、59番国分寺にたどり着いたのが4時20分になっていた。ホテルには3時から4時くらいといってある。2時間の計算違いが起きている。宿に着いて万歩計を見て原因を知る。なんと38,000歩26.6km藻歩いたことになる。8km、2時間であることに納得。
 今治湯ノ浦ハイツは市南部の小高い丘の上にある。部屋からもお風呂からも海と離れ小島が見える。ただ、本四連絡橋とは方向が違うようで影も見えない。ここで今日と明日2博することに決めた。1日の完全教養日とするためである。明日は、今治市街地でものんびりぶらついてみるとするか。
第三十九日  2003年7月14日
 東の空が白みかけたころ雨のあがった海に2列の点滅する光りが見える。目の前の島は大島という。橋はここを通り大三島へと通じるらしい。
 この宿は(財)日本勤労福祉センターとかいうところの施設らしい。中部地区を見ると、岐阜の長良川ハイツや蒲郡の三河ハイツがリストにある。朝食はバイキング、日本食と洋食が用意をしてある。私は、おみそ汁にご飯という日本食をいただく。
 フロントで町へ出る方法を聞く送迎バスが9時30分に出るというからそれに乗って今治市の銀座商店街で下ろしてもらう。アーケードの下をゆっくりと歩く。四国に来て、始めてのモーニングサービスコーヒーを飲む(トースト、卵焼き、サラダを食べる)。この後、ダイマル百貨店で靴を新調した。やはり、靴底がヘタってきているらしい。毎日足の裏の感覚が変化するようになっている。
 旅の途中での靴の交換は危険ではあるが仕方がない。この靴で1,000kmは歩いている。もうつぶれても良いころだろう。このことが吉と出るか、凶と出るか判らない。百貨店で履き替えて、ナラシのために今治城やFGとかいうスーパーマーケットなどを見て回る。万歩計は14000歩、10kmほど歩いてみた。明日にならないと靴の状況は分からないがなんとかなりそうな気もする。帰りは、路線バスがホテルのすぐ下を通ることが分かり、それに乗る。2時20分ホテル着、お昼寝からのお目覚めです。
(38番・金剛福寺〜39番・延光寺 -2- )
(39番・延光寺〜40番・観自在寺)
(40番・観自在寺〜42番・仏木寺 -1- )
(40番・観自在寺〜42番・仏木寺 -2- )
(42番・仏木寺〜43番・明石寺)
(43番・明石寺〜44番・大宝寺 -1- )
(43番・明石寺〜44番・大宝寺 -2- )
(44番・大宝寺〜45番・岩屋寺)
(45番・岩屋寺〜46番・浄瑠璃寺)
(46番・浄瑠璃寺〜51番・石手寺)
(51番・石手寺〜53番・円明寺)
(53番・円明寺〜59番・国分寺 -1- )
(53番・円明寺〜59番・国分寺 -2- )
(59番・国分寺〜62番・宝寿寺 -1- )