医王寺大師堂
医王寺鐘楼
医王寺本堂
医王寺全景
民宿・真砂
民宿・真砂 TEL<0569>67-2740
篠島漁港
篠島漁港

 これで、今日の予定は終了である。先ほどの土産店で今日の宿「民宿・真砂」の場所を聞く。なんとそことは目と鼻の先であった。時間は、16時30分。WEB http://www.japan-net.ne.jp/%7Echita/ から検索して、メールで状況を確認の上、電話で予約をしておいたところである(http://www3.vc-net.ne.jp/~makis/)。ホームページを開いているのは息子さんとかで、あうことはできませんでしたが、素朴な暖かさが伝わる宿である。陽が短くなったとはいえ、まだ明るいので女将さんの勧めもあって散歩にでた。東側の海岸にでて、北回りに廻る。漁港にくると、すばらしい夕焼けに出会えた。
 4階にある展望風呂に入り、夜景を見ながら足をマッサージ。暖まった身体で万歩計のデーターと納経帳を確かめて驚いた。日間賀島の37番大光院のページに朱印がない。さらにページを繰ると末尾の空白欄に呑海院ができている。「おまえの粗忽さには、あきれて声も出ないわ」という弘法様の声が聞こえたような気がした。数珠を忘れたのには「もう一度お参りをせよ」との思し召しであったようだ。
 篠島の自慢は釣りたての鯛とか、新鮮な海のものを中心の料理をいただく。酒は一滴も飲めない私には、食べきれないボリュームだ。
 明日の日程も厳しい、しかも内海近辺は山越えになる。8時過ぎ、早々と床に入る。疲れからか間髪を入れずに眠りに入ったようだ。
医徳院大師堂
西方寺境内のがけにある大師像
西方寺本堂
 39番札所 金剛山・医徳院
         知多郡南知多町大字篠島字照浜27  真言宗豊山派 本尊・薬師如来

 境内に入ると、黄色い声がこだましている。保育園が併設され、境内が遊び場になっているからだ。本堂は延享元年(1744)伊勢神宮西方殿の用材を下賜競られて改築した、とある。本尊の薬師如来は一説に、付近の海中に光るものがあり、漁師が網を入れて像を引き上げた。俗に「八十八(やそはち)薬師」と呼ばれる、ともある。
 番外6番札所 寂静山・西方寺
           知多郡南知多町大字篠島照浜3  浄土宗 本尊・阿弥陀如来

 永正13年(1516)11月19日、安誉上人の草創。この日に伊勢大廟が火災となり京都御所の談義により、皇太神宮の鬼門に当たる篠島に建立して善光寺如来の分身を安置するよう知恩院に命じた、その資材はすべて神宮の古材を用いた、とある。毎年10月14日から翌4月14日まで、本尊が被る真綿帽子を「安産のお守り」に島人たちに分け与えている、この故に本尊を「安産弥陀」と称す、ともある。
 正法禅寺から少し登って回り込んだところに番外6番札所・西方寺がある。篠島の人は、素朴で誰彼となく話しかけてくる。おかげで、道に迷うこともなく(迷いようのない一本道であるが、軒と軒が重なり合い、やっと人がすれ違えるかと言った道路は、民家の庭なのか道路なのかと迷ってしまう。)39番医徳院まで到着できた。
境内にならぶミニ霊場
正法禅寺大師堂
正法禅寺本堂
 38番札所 龍門山・正法禅寺
         知多郡南知多町大字篠島神戸219  曹洞宗 本尊・釈迦牟尼仏

 南北朝時代の正平2年(1374)創建、江戸時代初期の正保2年(1645)地元の旧家・辻彦太夫が寄進した梵鐘は町指定文化財である。「伊勢国度会郡篠島村」の銘文が刻まれており太平洋戦争の時にも供出を免れた、とある。太平洋戦争末期、石油とか鉱物原料が輸入できなくなり、兵器を作るために家庭の鍋釜を始め、神社仏閣の梵鐘から一部仏像までが軍の命令で集められたという。これを「供出」とか言う。
 境内はそんなに広くはないがきれいな庭園がしつられてある。
 日間賀島東港に着くと高速船が離岸するところであった。切符売り場で篠島行きを買うと、「今でていった船が篠島行きだよ、一足遅かったね」「じゃー、次は?」「1時間も後になるから師崎行きに乗って、師崎から渡った方が早いよ」と、教えてくれる。
 篠島は、三河湾の入り口に位置する島で、夏は、海水浴、釣りで賑わう。釣りは季節により獲物が違うために人気のスポットでもある。渡船の中でも何組かの釣り人がいる。師崎港からは10分で到着。
 篠島も漁業の島で、立派な漁港と水産加工の工場がある。そんな港をとおり、土産店のならぶところで不意に声をかけられる。「弘法さんかね」。「弘法さんはねー、この道を・・・」と教えてくれて、「帰りによっていってね。」ときた。土産店の女将さんである。
 道は、やがて人がならんで歩くことも難しい狭い道になった。お墓の中の道だ。38番はすぐにわかった。ここで、数珠がないことに気がついた。日間賀島の切符売り場までは持っていたからそこに忘れたようだ。納経所で朱印を押してくれた老住職が「私は名古屋の大須で住職をしていたが、隠居になってここにいる」と親しげに話を続ける。数珠がなくては形にならないので、数珠を買う。気に入ったものはないが仕方がない。この時は、「わたしの数珠は日間賀島に縁があったんだよ」とあきらめていたが・・・・。
            万歩計 1919歩、1.2Km、所要時間 20分
境内の大師像
呑海寺本堂
渡船から見た日間賀島
 ここからフェリー乗り場までは約1Km。国道は緩いカーブをえがいて商店と護岸の間を走る。自動車を運転していて、もっとも気を遣う場所である。海産物を扱うお店に飛び込むかのように軒先を歩く。
 フェリー乗り場の駐車場にかかると、「日間賀島行きの高速船が出発します」のアナウンスが飛び込んできた。急いで、切符売り場へかけ込む。「日間賀島行きの切符は自販機で」とある。ところが自販機の前では中年の女性が立ちはだかっておしゃべりをしていて退く気配がない。焦った。声をかけて、切符を買う。走る。走ってロープをゆるめかけた高速船にやっと間に合った。逃していたら、しばらく後になる。おかげで今日の昼食も流れたようだ。
           万歩計 1499歩、0.9Km、所要時間 15分

 日間賀島までは10分少々。たこ漁で有名な島である。島には東港と西港がある。師崎からの渡船はまず東港に入る。
 案内には、37番は東港から3分とあるがわからない。高台にお寺さんの屋根が見える。そちらへ向けて歩くがどうも違うらしい。民家の中に弘法様の幟が見えた。やっと着いた。ところが、これが番外の呑海寺であるとは篠島の宿に着くまで気がつかなかった。手持ちの資料にも載っていない。
            万歩計 982歩、0.6Km、所要時間 20分
遍照寺本堂
遍照寺弁天像
遍照寺山門
 36番札所  天永山・遍照寺
         知多郡南知多町大字師崎字栄村15  真言宗豊山派 本尊・弁財天

 薬師門づくりの山門は朱色が鮮やか。宝形造りの本堂は明治41年改築とある。本尊に弁財天を安置するのは知多新四国の中ではここのみ。境内に等身大の弁天像がたつ。
 成願寺の本堂縁側に”接待”と書かれて熟れた柿がおいてあった。空腹に、皮ごといただく。おいしい。見てくれから、商品ではなく、おそらく庭先で実ったものを檀家衆がおいていったものと思われる。
 国道247号線に出て高潮防波堤をくぐって漁港に入る。ここの突堤ではよく釣れた。東の空が白み始めるころに着くように家を出て、10時くらいまで竿を出す。ここでの最大釣果は、38cmのアイナメで周りの釣り人に自慢して見せた記憶がある。
 新師崎の町を通る。食事のできる所を探しながらであるが、高級そうな店はあっても喫茶は目に入らない。
 36番遍照寺は、師崎の町の奥にある。軒と軒が重なり合った路地を入る。朱塗りの山門が目に飛び込んできた。
            万歩計 27081歩、1.7Km、所要時間 25分
成願寺本堂
成願寺境内
成願寺山門
 35番札所  新光山・成願寺
         知多郡南知多町片名稗田9 曹洞宗 本尊・阿弥陀如来

 「知多四国八十八カ所遍路」(富永航平・著)によれば本堂は折衷様式、大師堂は寄棟造り。大師像は”修行大師”と称して弘仁5年(814)弘法大師が統治を巡錫の時悪病の流行に苦しむ里人を加持力で救った。以来、里人は、「この門をよけて通れよ風の神 通りに姿あらん限りは」と詠歌して、悪病よけにしたという、とある。
 これで今日の難所は抜けたことになる。国道247号線に出る。釣りや仕事でよくきた懐かしい大井港が見える。時刻は12時30分。こちらへ出かけたときはいつも大井港を見渡す高台にある喫茶店で食事をしていた。ところが、今日は休業の札がでている。この長谷崎(聖崎)には、大師様が上陸された蹤跡とされ、大師像”上陸大師”と聖観音像があるが今日は通過する。
 緩やかな峠をこえると片名漁港にでる。片名農協を左へ入る。軽自動車が軒をするように通る。この奥に35番成願寺がある。
            万歩計 2481歩、1.5Km、所要時間 30分
性慶院大師堂
性慶院山門
北室院観音堂
北室院大師像
北室院大師堂
北室院山門
宝乗院大師堂
宝乗院本堂
宝乗院山門
利生院大師堂
利生院山門
 34番札所  宝珠山・性慶院
         知多郡南知多町大字大井字丘ノ下1  真言宗豊山派 本尊・青面金剛

 医王寺の一山。江戸時代、”大井の殿様”と親しまれた尾張藩の重臣・高木家の庇護をうけて栄えた。青面金剛は庚申信仰本尊、中国の道教思想に基づく、とある。
 33番札所  宝珠山・北室院
         知多郡南知多町大字大井字真向11 真言宗豊山派 本尊・聖観世音菩薩

 県道に面した境内は堅牢な山門を持つ。造りは八脚門、両脇に仁王像が立つ。正面に大師堂、左の別堂に阿弥陀如来と十王像を合祀、さらに軒を分けて観音堂がある。
 32番札所  宝珠山・宝常院
     
知多郡南知多町大字大井真向34 真言宗豊山派 本尊・十一面観世音菩薩

 
医王寺の一山。境内は正面の段丘に本堂。本尊は厨子入り秘仏、脇に不動明王と二童子、弘法大師を祀る。左の軒下に恵比寿明神と大黒天の祠、さらに軒を分けて金比羅堂がある、とある。
 31番札所  宝珠山・利生院
          知多郡南知多町大字大井字真向27 真言宗豊山派 本尊・不動明王

 医王寺の一山。本堂は昭和57年再建、大師堂の前には摩尼車がある。寺宝に、神覚宝印が刻した随求曼陀羅と弘法大師一代記の版木、明治39年(1906)仏山から出土した医王寺一山の宝物、古瓦を所蔵する、とある。
 30番札所  宝珠山・医王寺
          知多郡南知多町大字大井字真向38 真言宗豊山派 本尊・薬師如来

 大井光の西にある標高30メートルほどの山中に、神亀2年(725)巡錫中の僧行基が薬師如来を安置して医王寺を創建したのが始まりである、とある。
 正法寺前からつづく坂道を登る。さすがきつい。しばらくして畑の広がる高原に出た。舗装された農道で仕切られているところからここも近年整備開拓された所であろう。手持ちの地図には記載がない。時々軽自動車が走る。ここいらでは集落、町並みが広くないことから軽自動車が生活の足であろう。遙か彼方の、軽自動車が消えたあたりをめざす。目的地の大井地区への降り口を見つけるためだ。高原に出たところとは対角線にあたるところで降り口を見つける。つづら折りの農道を降りていく。学校がある。南知多町立大井小学校とある。間違いはない。しかし、ここがどの位置にあたるか見当がつかない。迷ったときは左である。やがて、弘法様の幟を見た。やっと着いた。
 30番札所から、35番までは県道をはさんで西側に34,33,東側に32,31,30と隣接している。いわゆる一山五寺といううことか。34番の山門に出たことからこの順に参拝する。家へ帰ってから見ると、どういう訳か30番の写真がない。納経帳の朱印はあることから参拝はしているはずだが。
            万歩計 4846歩、2.9Km、所要時間 45分
                 (2001年3月26日2度目の巡礼での写真を追加しました)
正法寺本堂
正法寺毘沙門天像
正法寺山門
峠の頂上から河和港方面
 29番札所  大悲山・正法寺
         知多郡南知多町大字豊丘字本郷(通称山田) 天台宗 本尊・毘沙門天

 赤煉瓦の塀にあいた山門をくぐる。毘沙門天の立像の奥に、足場を組んだ庫裡建設現場がある。近年の不審火で本堂、庫裡、大師堂が消失したという。大師様は仮屋に安置されている。
 昔から「千枚通し(これがなにであるか、知りません。どなたか教えてください)」霊場として信仰を集める。
正法寺のホームページを見つけました(2000,12,16)  http://member.nifty.ne.jp/syoboji/index.html
 29番札所へは再び山越えになる。乳母車くらいしか通れないような狭い道を数十m歩くと、29番への石柱がある。ここを曲がる。「オートバイ以上の車両は通れません」の標識がある。少し上がると道路が広くなった。区画整理であろうか、なだらかな斜面の両側には畑が広がる。直線で自動車はこないから、真ん中を前屈みになって上る。まっすぐの登りは結構きつい。終わりが見えないからだ。ひょっとしたら無限につづくだろうか、と思ったころに整備された農道がとぎれ頂上に着いた。後ろを振り返ると、なんと海までこの斜面がつづいている。遠くに河和から半田までの海岸が見える。ここで小休止。
 下りは再び幅数十センチの山道である。傾斜もきつい。途中、「卍」だけを残して埋もれた道標を見る。ここが旧来の巡礼道であったろう。やがて、集落にでた。集落の入り口に、弘法様が安置された小屋がある。灯明と線香を捧げ、心経を唱えて通過。出た所が、豊岡と矢梨を結ぶ県道である。知多半島有料道路が拡幅されるまでは終点がこの県道であったことからよく走った道路だ。これを数十メートル下りJH(今はなんとかと言ったカタカナの看板です)を右に入るとやがて、29番正法寺に到着。
            万歩計 3868歩、2.3Km、所要時間 45分
ことぶき観音像
永寿寺大師堂
永寿寺本堂
 28番札所  淨光山・永寿寺
         知多郡美浜町大字豊丘字西側35  西山浄土宗 本尊・阿弥陀如来

 知多半島中央部の山陰にある集落のお寺、といった感じ。寛永元年(1624)大応空悦上人を開基とする。享和3年(1803)本堂を改築、近年に再建した、とある。境内には身の丈2mあまりの聖観音立像があり、「ことぶき観音」と称して篤い信仰がある、という。
 これまでの道中で「つくだに街道」と書かれた手作りの標識を見てきた。次の28番札所までは自動車の通れる道路を行くと4.6Kmとある。徒歩の場合の近道を聞く。すると「つくだに街道」から行けばよい、とのこと。地図を開いて聞き直すと、「つくだに街道」とは、観光スポットとしてできたお店であるという。有料道路を縫って勾配を上る。片側1車線の立派な道路である。自動車でもトップギアーでは上れない勾配だ。「つくだに街道」で脇道に入る。ここからは下り。有料道路のガードをくぐったあたりから道が狭くなってきた。なんとか普通車は通れそうだ。やがて集落にはいる。この集落の奥まったところに永寿寺がある。
            万歩計 2838歩、1.7Km、所要時間 40分
誓海寺大師堂
誓海寺観音像
誓海寺山門
火の見櫓
 27番札所  天龍山・誓海寺
         知多郡美浜町古布善切20−63  曹洞宗 本尊・釈迦牟尼仏

 太平戦争中にはこの河和に海軍飛行隊があり、飛行場があったことはわりと知られていない。今でも海岸には滑走路の後が残る。誓海寺は、弘治元年(1555)開基、開山。明治初年、寺格を昇進して法地となる。昭和19年(1944)飛行場の開設に伴い現在地に移転、とある。山門の脇には大きな2体の観音像がまばゆく立つ。
 これからが、今日のウオーキング(巡礼)の始まりです。国道247号線を南下する。金曜日ではあるが電車の中で何人かの釣り道具とクーラーボックスを抱えた人を見た。みんなバスに乗り込んで行ったが、師崎、日間賀島、篠島は名古屋地区のフィッシングランドで、10数年前までは私も日曜日のたびに車で来ていたものです。
 国道は大型車こそ少ないが結構交通量が多い。中河和をすぎ有料道路南知多インターへの分岐点で旧道へはいる。車はほとんど通らない。しかも、国道にはない歩道がある。河和中学西交差点で右折。前回は平地での巡礼でしたが、今日は丘陵地の行軍になる。やがて緩い登りにかかる。それがつづく。結構長い。下りにかかると数軒の農家のある集落にでた。今となっては懐かしい、火の見櫓がある。そこを右折すると27番札所はもうすぐだ。有料道路のガードをくぐって誓海寺が見えた。
            万歩計 7030歩、4.2Km、所要時間 56分
弥勒寺大師堂
弥勒寺本堂
弥勒寺山門
起点・名鉄河和駅
 26番札所  龍華山・弥勒寺
         知多郡美浜町大字北方字西側16  曹洞宗 本尊・弥勒菩薩

 「知多四国八十八カ所遍路」(富永航平・著)によれば山門は薬師門造り、境内には本堂と大師堂を設け、祭壇に三世諸仏を祀り、春秋には寺宝の「地獄絵図」を公開する、とある。前回のお参りの時には説法会が持たれていたようです。
 まずは、前回撮り損ねた26番札所弥勒寺からだ。白衣を取り出して巡礼姿になり、200mたらずの距離を歩いて弥勒寺に到着。朝のすがすがしい空気の中を般若心経で参拝。気持ちがいい。
 11月24日、朝6時出発。今日は離島 篠島で宿泊を予約しての1泊2日の日程になる。今までに日間賀島、篠島へは行ったことがなく、それぞれにある3つの札所を廻る時間を残して師崎港に着けるかいくぶん気がかりではあるが、なんとかなるだろう、と気楽に出かける。順調に名鉄河和線 河和行きの急行に乗ることができた。通勤の人たちであろうか順々に降りてゆく。代わりに学生の黄色い声が増えてくる。その声も少なくなったころ河和に到着。8時00分。

新四国八十八カ所巡礼録 5

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