京阪守口市駅付近


守口市駅は、大阪、京橋駅から京阪電車に乗ってわずか、5分。 この辺も
最近は、駅前の再開発が進み,昔の京街道の面影を残すところは殆どなく
なってしまった。

1.文録堤(守口宿)

旧、京街道の”守口宿”と言われるあたりを
使い捨てカメラを片手にぶらぶらと歩いてみた。


文録堤にある案内板

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文録堤は、豊臣秀吉が、京都、大阪間の道路整備のため、・毛利輝元・小早川
隆景・吉川広家・に命じて,淀川左岸の堤防を整備したものといわれ、文録5年
(1596)に堤防の修築がおこなわれたので、この名がある。
いわば、太閤さんが作った、高速道路の名残といったところか。
その後、このあたりは、東海道の宿場町として、栄えたようである。
守口宿の名が残っている。


この付近にある道標

25年ほど前に文録堤を通ったときは、写真のような、家が、まだ沢山残って
おり、京街道を歩いた気分になったものだが、今は殆ど残っていない。
白壁のある家 ”うだつ”のある家(1) ”うだつ”のある家(2) 番傘と丁ちんを
張る店

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私は建築様式や年代は全然判らないので旧そうな家をねらってパチリとやった。
誰かご存知の方が居たら教えてください。


盛泉寺. 難宗寺太鼓楼 難宗寺大銀杏 難宗寺南側より
角の建物は鐘楼

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お寺はさすがに、守口宿の時代を今に伝えるもので盛泉寺(じょうせんじ)は、
東本願寺の末寺で慶長11年(1606)に開基したとつたえられる。
写真の本堂は天保6年(1835)に再建されたもの。
ここをクリックすると守口市教育委員会の立て札が読めます
難宗寺は、蓮如上人が文明9年(1477)に守口坊として建立されたのが
始まりといわれている。 慶長16年(1611)に本願寺掛所となった。
守口市内では真宗寺院としてもっとも整ったかたちで残っている。
ここをクリックすると守口市教育委員会の立て札が読めます
真中の背の高いものは
”御仮泊所”と読める。
最近改修された
ものか、?

難宗寺付近にある道標



一里塚跡

一里塚は、街道の両側一里ごとに目印として、設けられ、遠方からも見やすく
するため、榎、松 などを植えた。  起源は、慶長九年(1604年)に徳川秀忠
が、五街道を整備したときに、造らせたと、言われている。

この一里塚は、守口宿の入口でもあり出口でもあった そしてこれは旅人の
守口への目印で、同様な塚がこの向かい側にも存在した。
この一里塚は、大阪夏の陣の翌年(1615年)に守口が宿場になってからの
ことと考えられる。

ここをクリックすると守口市教育委員会の立て札が読めます




この他守口宿付近には、大塩平八郎ゆかりの書院があるが白井氏個人の
邸宅内にあり、一般に公開されていない??ようなので、今回は割愛した。
白井氏邱 白井氏邱横の路地を入った
所に有る立て札。クリック
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文禄堤の写真館
なお、大塩平八郎ゆかりの書院に付いては、あるっくのホームページの京街道を歩くFに
記述がある。
大塩の乱、については、曾根崎新地のひろさんの『大塩の乱資料館』が詳しい。