5度王者同士

シューマッハ・ファンジオ比較

2002.8.12

時代の違う者を比較できないと言うはたやすい

2002年、ミヒャエル・シューマッハが5度目のチャンピオンになり、ファン・マニュエル・ファンジオに並びました。1990-2000年代のシューマッハと、1950年代のファンジオ、車両技術・規則・レース数・ビジネスなど時代環境が大きく異なります。これを比較できないと言うのはたやすいことです。

2000年代が1950年代から進歩したことと同様、1950年代も1900年代から格段に進歩していました。自動車レースは時代の違いがあって当たり前です。極端に言うと、2001年の車で2002年は戦えないから、年が違うと何も比較できないことになってしまいます。

時代が違っても共通なことはあるはずです。ただ、比較においてもっとも困難だったのが、年間レース数の違いで、倍の差があります。また、1950年代にはチームメイトの車に乗り換えることが許されました。これらを考慮して比較を試みました。

 

 

チャンピオン率「ファンジオが上」

F1デビューから5度目の王座まで何年かかったかを見ると、ファンジオは8年、シューマッハは12年でした。

チャンピオン率は、ファンジオは8年間で5度、63%です。これに対しシューマッハは12年で5度、42%でした。この先シューマッハがチャンピオン率でファンジオを抜くことは不可能です。

シューマッハの初年度は途中参戦であり、1999年は負傷欠場したことから、この2年を差し引くと10年(50%)です。一方、ファンジオも1952年に負傷欠場しており、1年差し引くと7年(71%)です。

年齢では、ファンジオ5度目は45歳、シューマッハ5度目は33歳です。

 

戦前からアルゼンチンで活躍していたファンジオは、1948年に国の支援を受けてヨーロッパへ参戦しました。1949年、ファンジオはマセラーティで5勝を上げました。そして迎えた1950年、F1世界選手権が始まったとき、ファンジオは最強チームのアルファロメオのエースドライバーとして戦い始めました。

これに対し、シューマッハが1991年ベルギーでデビューした時、トップチームでないジョーダンそしてベネトンで最強ウィリアムズと戦いました。

グランプリデビューから何年かかったかを見ると、ファンジオは1948年から1957年の5度目王座まで10年かかったことになります。そうして見るとシューマッハの12年に近くなります。

(注:グランプリは1906年にフランスで初めて行われました。F1とは規格のことで、グランプリと同義語ではありません。)

 

 

勝率・PP率・FL率 「実質的にはシューマッハが上」

ファンジオは51戦24勝で勝率47%。シューマッハは174戦62勝(2002ドイツまで)、勝率36%です。ファンジオが10%以上差をつけたように見えます。

ファンジオの時代には、乗り換えがありました。リタイヤしても同じチームのドライバーを降ろして再び走り始められることです。ファンジオはこれで2勝しました。これを差し引くと22勝になり、ファンジオの勝率は43%に落ちます。

ファンジオの参戦した1950-58年は、年平均8.3戦しかありませんでした。シューマッハは年平均16.4戦と約2倍あります。これだけ違うと1戦毎の重み、レースへの集中度もが違ってきます。年平均勝数では、ファンジオが2.8勝、シューマッハは5.2勝です。こう見ると、シューマッハが倍のレース数で倍近く勝っているように見えてきます。


ファンジオの選手権(GP)と非選手権(NC)の勝利数

YR GP Win PP FL NC Win PP FL

ファンジオの時代に非選手権(Non-Championship)レースはたくさん行われていました。選手権と合わせると17戦を超える年ばかりでした。全部に出るほどではないにせよ、勝利を積み重ねることはできたはずです。だのにファンジオは非選手権戦で通算7勝しかしていません。ファンジオがフルに戦った7年で、選手権・非選手権合わせると31勝です。年17戦換算では、勝率が26%に落ちます。

勝率は実質的にはシューマッハが上と言っていいでしょう。

ただし、ファンジオはF1以外のカテゴリも盛んに出走しました。1956/57セブリング12時間レースに優勝しています。

(1952年はファンジオが6/8のモンツァ非選手権戦で重傷を負い、シーズンすべて休養を余儀なくされました。)

1950 6 3 3 3 11 4 3 4
1951 7 3 4 4 12 1 1 2
1952 7 0 0 0 21 0 1 0
1953 8 1 2 2 20 1 2 1
1954 8 6 5 3 15 0 1 1
1955 6 4 3 3 12 0 0 0
1956 7 3 6 2 10 0 1 2
1957 7 4 4 2 9 1 2 2
1958 10 0 1 1 4 0 0 0

 

表彰台・入賞・完走の率になると、両者は接近します。レース数が倍違うのにシューマッハの集中力はすごいと言えます。 

連続記録では、シューマッハが上回ります。

連続勝利:ファンジオ4、シューマッハ6
連続PP:ファンジオ5、シューマッハ7
連続FL:ファンジオ4、シューマッハ3
連続表彰:ファンジオ5、シューマッハ14(継続中)
連続入賞:ファンジオ14、シューマッハ17(継続中)
連続完走:ファンジオ14、シューマッハ17(継続中)

 

 

リーダーラップ率 ファンジオが上回る

走行周回数に対するリーダーラップ(1位周回)の率を年目ごとに重ねました。リーダーラップ率はレース数の影響が優勝よりやや少ないと思われます。

通算ではファンジオが39%、シューマッハ31%となっています。ファンジオは9年目にマシンが不利と知るや、あっさり引退しました。そのためファンジオが上回っています。

このリーダーラップ率が40%以上の年は、かなり優位にレースと選手権を進められたと言ってよいでしょう。

ファンジオは3年目(1952年)にアルファロメオが撤退して不利な状況に置かれました。しかし5年目(1954年)にメルセデスに乗ることができました。

シューマッハは6年目(1996年)にフェラーリに移籍して苦戦しますが、10年目(2000年)から50%台をキープしています。


 

 

予選チームメイト対決 シューマッハに軍配

予選におけるチームメイトに対する勝率です。

ファンジオの時代は、1チームで3台以上走ることが当たり前でした。1957年イタリアGPでは、マセラーティが11台も走っています。弱いドライバーもゾロゾロいる中での通算ではファンジオが184勝8敗、勝率96%になります。

そこで、ファンジオが1人でも敗れたら、そのGPは負けということで換算すると、44勝7敗で勝率86%になります。

シューマッハは158勝12敗、勝率93%です。チームメイト対決はシューマッハに軍配です。

ファンジオが年2敗した年は、F1開始の1950年、マシンが劣った1953年と、引退前年の1957年でした。

 

シューマッハとファンジオの共通項

1. 優れたチームを選ぶ

ファンジオは8年間に4つのチームを渡り歩きました。アルファロメオ(1950-51)、マセラーティ(1952-54,57-58)、メルセデス(1954-55)、フェラーリ(1956)です。このうち、アルファロメオとメルセデスにいた4年間は性能で優位でした。ファンジオは、自身の実力だけでなく、強いチームに移るすべに長けていたと言えます。ファンジオはエンツォ・フェラーリとはソリが合わなかったようです。エンツォはドライバーにチームへの忠誠と全力走行を求めましたが、ファンジオにそんな気持ちはありませんでした。


1950 Alfa Romeo 158

シューマッハは、ジョーダンでデビューした次のレースで、実力が上のベネトンへ移ります。ベネトンで成功すると、今度はフェラーリへ長期的な視野をもとに移籍します。シューマッハはフェラーリがマネジメント面で成功することを予感し、そのチームに入ったのだと言えます。統率力のあるモンテゼモロ社長の下、チーム運営に長けたジャン・トッドがいて、優れた技術者のロス・ブラウンとロリー・バーンが呼び寄せられました。

 

 

2. No.1としてチームに君臨する

ファンジオはアルファロメオを除いては、チームのNo.1にいました。彼がマセラーティにいたころ、優勝賞金の10%をメカニックに与えることを約束していました。メカニックはファンジオのマシンに振動が見られるや、それをチームメイトと取り換えました。

ファンジオは1956年の最終戦、チャンピオンのかかったレースでリタイヤします。ところが、チームメイトのコリンズに車を譲られました。コリンズは王者ファンジオに敬意を表したのです。ファンジオは2位に入って王座をしとめることが出ました。

 

シューマッハは、ベネトン時代、実力でピケを打ち負かし、No.1の座を勝ち取ります。ベネトンではNo.2が弱く、シューマッハのサポート役にはなれませんでした。

フェラーリに移籍してからは、No.2のサポートを得られるようになりました。アーバインは1997年日本GP、1998年フランスGPでシューマッハ勝利の立役者になりました。

シューマッハは与えられるマシンもNo.1待遇です。2002年ブラジルGPでシューマッハのみ新車が与えられ、バリチェロは旧車でした。

 


1954 Mercedes W196 StreamLiner

 

3. 事故で重傷を負ったことでレース哲学が出来上がる

ファンジオは1952年に重傷事故を起こし、シーズンを棒に振ります。6月7日に北アイルランドのレースに出場したファンジオは、翌8日のモンツァGPにもエントリーしていました。ところが悪天候で飛行機が飛ばず、ファンジオは徹夜で車を運転してイタリアへ向かいます。到着してすぐにレースに出走したファンジオでしたが、疲労には勝てず、2周目に大事故を起こしました。コースに叩きつけられ、脊椎を損傷する重傷を負います。

ファンジオは、がむしゃらに速く走って勝つというスタイルが消えました。彼のレース哲学は、この後に「いかに楽して勝つか」ということになります。

 

シューマッハは、1999年イギリスGPで重傷を負い、選手権を断念せざるを得ませんでした。シルバーストーンのストウコーナーでフェラーリのブレーキが故障し、グラベルからタイヤバリアに突っ込んだシューマッハは、右足複雑骨折で6戦欠場となりました。

以後、シューマッハはがむしゃらにレースすることはなくなったように思えます。1998年ハンガリーGPを最後に、そのようなレースは見れなくなりました。「速いマシンなら無理せず勝てる」という走りです。

 

 

 

4. 強力なライバルが事故死していなくなる

ファンジオの時代、最大のライバルはアスカーリでした。アスカーリは1952-53年に2年連続チャンピオンとなり、ファンジオの行く手にふさがります。F1記録の9連勝を達成した選手です。1955年5月26日、アスカーリはモンツァでスポーツカーのテスト走行を行い、クラッシュして即死します。今ではアスカーリ・シケインと呼ばれている場所です。

アスカーリが乗り続けるはずだったフェラーリ・ランチアD50は、翌1956年にファンジオが乗り、そして4度目のチャンピオンになりました。もしアスカーリが生きていれば、1956年はアスカーリのものになった可能性があります。


1952 Ferrari 500 (Ascari)

シューマッハの時代、最大のライバルはセナでした。セナは1988,90,91年に3度チャンピオンになり、92,93年にシューマッハと好バトルを繰り広げます。迎えた1994年、セナはウィリアムズ・ルノーで開幕から3戦連続PPを獲りますが、サンマリノGPで事故死してしまいます。

ジョー・ホンダ氏は「セナは開幕2戦でシューマッハに20点差をつけられたが、第4戦、得意のモナコから反撃するはずだった。」と言います。ウィリアムズがハンドリング不調を克服した後半戦は、シューマッハより実力の劣るヒルの方が速くなりました。翌1995年は、シューマッハ自身がウィリアムズが最速と言いました。セナが生きていれば、シューマッハの2度の王座に立ちふさがった可能性があります。

シューマッハにとって、ハッキネンは強力なライバルたりえず、敵はMP4/13とMP4/14という車でした。ハッキネンは車が下降線となるや、やる気を持続できませんでした。

 

 

 

シューマッハが6度目を獲れば、あの批判を払拭できる

以上を見ると、5度の王者同士は記録上でもいい勝負で、ややシューマッハが上かと思われます。

シューマッハが2003年に6度目の王座を獲れば、単独で史上最多になります。そうすれば文句なしに歴代最高として君臨できます。

シューマッハ自身は記録に興味ないと言いますが、それは表向きのこと。彼のモチベーションになっていると思います。

また、1994年と1997年の衝突に対する批判が、幾多の栄光についた傷かもしれません。それを払拭するためにも6度目を獲りたいところです。