(2001.5.6)
2001年第5戦スペインGPでは、最終ラップの逆転劇が見られました。これは4年ぶりのことです。過去、どれだけの土壇場逆転があったでしょうか。トップの突然のリタイヤ、トップのポカミス、トップが2位に譲る、1−2位の抜きつ抜かれつの争い、大差の2位から炎の追い上げ、チームオーダー無視、いろいろなケースがあります。1970、82、91、97は年に2度以上ある特異年でした。
1953年イタリアGP(モンツァ)は、ファンジオ(マセラーティ)、アスカーリ(フェラーリ)、ファリーナ(フェラーリ)の3王者が抜きつ抜かれつのバトルを展開します。後半、リードしたアスカーリは、最終ラップに周回遅れのマリモン(マセラーティ)に追突されリタイヤ。ファリーナはこの混乱に巻き込まれますが、ファンジオはうまくよけて優勝します。
1954年フランスGP(ランス)は、メルセデスベンツが戦後初登場してレースを席巻。エースのファンジオとセカンドドライバーのクリンクが前後左右に並んで走ります。フェラーリなど他者はついていけません。最終ラップにファンジオがトップでチェッカーをうけます。
1959年アメリカGP(セブリング)は、トップのブラバム(クーパー)が最終ラップにガス欠。脇をマクラーレンが抜いていきます。マクラーレンは22歳で史上最年少優勝をはたしました。ブラバムはみずから車を押してゴールし、4位となって初のチャンピオンに輝きます。
1961年フランスGP(ランス)は、F1デビュー戦のバゲッティ(フェラーリ)が、0.1秒差で優勝しました。終盤にガーニー(ポルシェ)と激しい抜き合いを演じた上でした。バゲッティの優勝はこの1戦限り。この年最強のフェラーリのレギュラー陣(P・ヒル、フォン・トリップス)が、次々トラブルで後退したことがありました。
1964年ベルギーGP(スパ)は、クラーク(ロータス)が好運な勝利をおさめました。レースを支配したガーニー(ブラバム)が残り3周でガス欠。続いてトップに立ったG・ヒルも同様の事態に陥り、クラークに勝利が転がり込みます。
1967年イタリアGP(モンツァ)は、最終ラップにトップに立ったサーティース(ホンダ)が、0.2秒差で優勝しました。レースは、クラーク(ロータス)がパンクで周回遅れになりながら、生涯最高の追い上げでトップを奪い返しました。しかし最終ラップ、無情にもクラークはガス欠でスローダウン、サーティースとブラバムの一騎打ちになります。最終コーナーのパラボリカで、ブラバムがインを突くが滑ってふくらみ、サーティースが抜き返します。最後の直線勝負で、サーティースはシフトアップせずアクセル全開。ブラバムがスリップストリームから抜きますが、すでにチェッカーが振られた後でした。
1968年ベルギーGP(スパ)は、ブルース・マクラーレン(マクラーレン)が優勝しました。レースをリードしたスチュワート(マトラ)が最終ラップにスローダウンしたためでした。
1970年モナコGPは、最後の80周目に逆転がありました。28周目からトップに立ったジャック・ブラバム(ブラバム)が、終盤、周回遅れに詰まりました。急ブレーキをかけ、ガードレールに接触し、スピードが鈍ります。炎のごとく追い上げを開始した2位ヨッヘン・リント(ロータス)が、最終ラップの最終コーナーでブラバムを抜き去り、優勝しました。リントの最終ラップは、自分の予選8位のタイムより2秒速く、スチュワートのポールタイムより0.8秒速いという、とてつもないものでした。
1970年イギリスGPは、またしてもブラバムがリントにうっちゃりをくらいました。このレースではリントが7周目からリードしますが、70周目にブラバムが逆転。ところがブラバムが最終ラップにガス欠でスローダウン。リントが再逆転して優勝しました。リントはこの年5勝し、イタリアの予選で事故死し、死後チャンピオンになります。
1971年イタリアGPは、トップが25回も交代するという激しいレース。当時のモンツァはシケインがなく、トップ集団が崩れにくく、抜きつ抜かれつでした。残り3周で初めてトップに立ったゲシン(BRM)は、いったんペテルソン(マーチ)に抜かれますが、最終ラップで5台がひとかたまりとなったチェッカーを鼻の差で優勝します。
1975年スペインGP(モンジュイッヒ)は大荒れ。サーキットの安全性問題でフィッティパルディが撤退。フェラーリの同士討ち。首位シュトメレンの事故で4名死亡。レースは途中で短縮となり、打ち切りの周にマス(マクラーレン)がイクス(ロータス)を抜いて優勝しました。
1977年フランスGP(ディジョン)。アンドレッティ(ロータス)が最終ラップでガス欠気味のワトソン(ブラバム)を抜きます。ワトソンはこの年、優勝争いを何度も繰り広げながら、未勝利に終わるという不運さでした。
1978年南アフリカGP(キャラミ)は、ドゥパイエ(ティレル)が終盤にトップに立ち、初優勝が近づきますが、最終ラップに強力なロータスのペテルソンに抜かれてしまいます。この2人は、こころざしなかばで事故死するという悲しい運命でした。ペテルソンはこの年のモンツァ、ドウパイエは2年後のホッケンハイムで命を落とします。
1982年サンマリノGPは、あまりにも有名な一戦です。フェラーリの1−2体制が築かれ、1位G・ビルヌーブ、2位ピローニでチームオーダーが出されました。ところがピローニは最終ラップでG・ビルヌーブを抜き、優勝してしまいました。これに怒ったG・ビルヌーブとピローニの間で確執が生まれます。表彰台でG・ビルヌーブは憮然とした表情を見せます。
1982年ベルギーGPは、前戦サンマリノの後を受けて行われました。予選でピローニのタイムを破ろうと出て行ったG・ビルヌーブが事故死するという取り返しのつかない悲劇がおきました。フェラーリが撤退した後、決勝が行われました。この年に王者になるロズベルグ(ウィリアムズ)がリードするのですが、最終ラップにワトソン(マクラーレン)が逆転して優勝します。
1982年モナコGPは、プロスト(ルノー)がレースの大半をリード。ところがあと3周でスピンオフ。代わってトップに立ったピローニ(フェラーリ)がガス欠でストップ。2位チェザリス(アルファロメオ)も同様。こうしてパトレーゼ(ブラバム)が優勝したのでした。
ピローニはその後、カナダのスタートでストールし、追突したパレッティが死亡。そしてピローニ自身はドイツ予選で両足複雑骨折の事故をおこし、選手生命を終えます。さらに5年後、ピローニはパワーボートの大会で事故死します。こうしてフェラーリの悲劇は幕を閉じたのでした。
1991年カナダGPは、ピケ(ベネトン)が優勝しました。レースはマンセル(ウィリアムズ)が独走しますが、最終ラップのヘアピンでファンに手を上げようとして、エンジンを止めるスイッチに手がかかってしまいます。
1991年日本GPは、ベルガー(マクラーレン)が最終ラップの最終コーナーで僚友セナに譲られて優勝しました。セナはマンセル(ウィリアムズ)のリタイヤでチャンピオンを決めており、移籍後勝てなかったベルガーにプレゼントしたのでした。最終コーナーでわざとスローダウンするという、セナらしいぎこちない譲り方でした。
1997年ハンガリーGPは、前年チャンピオンのD・ヒルが弱小アロウズでトップを独走するという展開になりました。しかし、最終ラップにサスペンショントラブルでスローダウン。J・ビルヌーブ(ウィリアムズ)に追い越されて2位になりました。とはいえ、D・ヒルの実力が証明された一戦ともいえました。それまでは無敵ウィリアムズでマシンのおかげと言われていたのですから。
1997年ヨーロッパGP(ヘレス)は、ハッキネン(マクラーレン)が初優勝しました。レースはチャンピオンを賭けてトップを争うJ・ビルヌーブ(ウィリアムズ)とM・シューマッハ(フェラーリ)が接触。M・シューマッハがリタイヤ。J・ビルヌーブは走りますが、5位以内でチャンピオンになれるため、最終ラップに迫ってきたマクラーレン勢に譲ります。ハッキネンはその前に僚友クルサードにも2位を譲られていました。
2001年スペインGPは、M・シューマッハ(フェラーリ)が優勝しました。レースはハッキネン(マクラーレン)との争いで、2回目のタイヤ交換でハッキネンに逆転されます。M・シューマッハはタイヤの振動に悩まされ、大きく後退します。しかし最終ラップにハッキネンが白煙を上げて止まってしまい、M・シューマッハが再逆転しました。