失格の歴史

1999年マレーシアGPの失格事件は、チャンピオンの決定を左右する影響がありました。そもそもF1の歴史で、失格(disqualfy)は、どれくらいあったのか、見ていきましょう。

年別失格件数

失格がレースで発生する率は、50年間の平均では13.5%となり、年に2レースは失格が発生する頻度になります。ちなみに、1999年はスペインGPのバリチェロ(スキッドブロックのサイズ違反)と、フランスGPの高木(他人のタイヤ使用)です。

50年代や60年代は失格が1件もない年が結構あり、ルールもゆるやかでした。しかし、70年代以降からは毎年数件は起こるようになりました。スポンサーがつき、勝つことに誰もが執着する時代です。ルールをきちんと定めないと、混乱がおこるからです。

80年代は政治的な論議がからんだ事件がいくつもありました。80年代前半はFOCA系(英国)チームとFISA系(大陸)チームの対立、80年代終盤はブラジル人セナの速さと事故多発に論争がおこりました。90年代はドイツ人シューマッハと新興ベネトンへの風当たりがありました。

失格理由の変遷

当初、失格と言えば、押し掛けや再スタート時の車交換など、競技規定に関するものでしたが、80年代以降、最低重量不足や燃料違反などの車両規定に関する割合が増えてきました。

1950〜60年代

50〜60年代は失格の件数も少なく、レースやチャンピオン争いに重大な影響を及ぼすことも少ないものでした。失格理由も押し掛けがほとんどです。

F1マシンは重いスターターを積んでおらず、スピンしてエンジンが止まると押し掛けしてもらうしかなくなります。しかしマーシャルがいるところは良いのですが、いないところはあきらめざるをえないなど、運不運があります。このため押し掛けは一律に失格となりました。

1960年のポルトガルGPは市街地ポルトで行われたのですが、コース上に路面電車の線路があるなど今では考えられない場所でした。モスが行き先を間違えて変な道へ入っていったという、のどかな事件がありました。

 

 

1970年代

相変わらず、押し掛けも多いのですが、この辺からルールにうるさくなってきました。赤旗再スタートでスペアカーに乗り換えのことや、ピットでの各種違反が問われるようになりました。しかし、まだ競技規定に関するものばかりで、車両規定の違反はありません。

 

 

 

 

 

 

 

1980年代

失格が最も多かった80年代、その理由もさまざまです。マシンの安全面から最低重量が定められ、それに不足していると失格になりました。パレードラップ後の車交換や、パレードラップ中の追い越しなどが失格になりました(94年イギリスでシューマッハが食らいましたね)。

80年代は、車両規定違反が問われるようになったこと、FOCA系イギリスチームと、FISA系大陸チームの政争など、複雑な様相を呈していきます。

 

 

 

 

 

1990年代

89年日本GPのセナの失格の後、押し掛けが再び増加しました。ちなみに、最近のマシンは、アンチストール機構があり、再スタート可能になってきています。

青色系の車両規定に関する失格の比率が半分を占めてきました。マシンはよりハイテク化し、規定も細かくなっていきます。

99年マレーシアGPの車両規定違反は、規定そのもののあいまいさと、検査官の誤りという2つの問題を提起した形になりました。

 

 

 

 

 

失格で失われた優勝(マクラーレン3度泣く)

1976年イギリスGP−ハント(再スタート後の出走無効)

イギリスGPでハントら3名は1周目に多重事故を起こし、このせいで赤旗となりました。再スタートでこの3名は走り出します。マクラーレンのハントは優勝してしまいました。これは論争を呼び、レースから2ヶ月後、ハントには出走権がなかったとして、失格となります。2位のラウダが繰り上げ優勝となりました。

この年は失格騒動が多発しました。ハントはスペインGPで優勝後、車幅違反で失格となり、後に復位しました。また、フランスGPでは3位ワトソンがリアウィング高さ違反で失格となりましたが、後に復位しました。失格2回、復位1回という波乱に遭ったハントでしたが、執念でこの年のチャンピオンに輝きました。

1982年ブラジルGP−ピケ(最低重量不足)

FOCA系イギリスチームが1位、2位(ブラバムのピケとウィリアムズのロズベルグ)となりましたが、レース後にFISA系大陸チームのルノーがクレームを出しました。ブレーキ冷却用の水タンクと称して重量規定をクリアしている彼らは、レース中に水を流して軽すぎる状態で走っているというのです。FISAは失格とし、3位だったFISA系ルノーのプロストが優勝になりました。これに怒ったFOCA系チームは次のサンマリノGPを欠場したため、14台だけで争われました。

車検はレース後に行うということは、このころに決められました。

 

1985年サンマリノGP−プロスト(最低重量不足)

1位でチェッカーを受けたマクラーレンのプロストでしたが、レース後の車検で最低重量に満たないことが発覚し、失格になります。2位アンジェリスが繰り上げ優勝となりました。プロストはこれにめげずに次戦モナコで優勝するなど好成績を上げ、初のチャンピオンに輝きました。

 

 

1989年日本GP−セナ(押し掛け、シケイン不通過)

セナは、マクラーレンの同一チーム内でチャンピオン争いをするプロストとシケインで接触しました。マーシャルの押し掛けで再スタートし、1位でチェッカーを受けます。しかしレース後の裁定は失格。これによりチャンピオンはプロストに決定しました。マクラーレンとセナは不服として提訴しましたが、却下されたばかりでなく、危険な走行とみなされ、執行猶予つきの出場停止処分を受けました。

事件の背景にはセナの速さと表裏一体の事故について、FISAが苦々しく思っていたということがあります。

1994年ベルギーGP−M・シューマッハ(スキッドブロック磨耗)

優勝したベネトンのシューマッハ車が、車検でスキッドブロックが規定よりわずか1.6mm薄かったことが判明し、レース5時間後に失格となりました。2位ヒルが繰り上げ優勝しました。

この年、シューマッハは圧倒的な強さを見せ、選手権を独走しますが、新興チームのベネトンとともに、その生意気な言動がFIAの癪にさわり、理不尽といえるほどのバッシングに遭います。イギリスGPでフォーメーションラップ中の追い越しによる失格もそのひとつです。それでもシューマッハはチャンピオンになりました。

 

その他重大な失格事件

1984年ティレル全戦結果取消(水タンク事件)

全車ターボとなったこの年、ノンターボのティレルは市街地戦で2度表彰台に上がるなど健闘していました。しかし中盤、ティレル車の水タンクに燃料と見なされる炭化水素が検出されました。エンジン出力に違法な向上をはかったとして、出場停止処分を受けます。ティレルは提訴して出場を続けますが、8月に出場禁止が確定。10月には全戦の結果が剥奪されてしまいます。

ティレルに非はありましたが、ベロフとブランドルという有望な新人のキャリアに傷がついてしまいました。ベロフは翌年にスポーツカーレースで事故死する悲運に見舞われます。

1989年ポルトガルGP−マンセル(ピット内逆走)

マンセルはピットインで行き過ぎ、リバースギアに入れてバックします。この時点で失格でした。1983年ドイツGPのラウダと同様です。しかし黒旗を無視して走り続けたマンセルは、チャンピオン争いをしているセナに衝突してしまいます。

レース後、FISAはマンセルに対し、5万ドルの罰金と翌戦スペインGPの出場停止処分を発表。マンセルは聖書に誓って黒旗は見えていないと言い、引退までほのめかします。夕日が沈みかける中、セナの背後にいたマンセルにはその通りだったのかもしれません。フェラーリにとってこのコースは得意で、勝てるという思いもあったのでしょう。

1995年ブラジルGP−M・シューマッハ、クルサード(燃料違反)

開幕戦のスタート前、抜き打ち検査でシューマッハとクルサードの車のガソリンに違法成分が含まれていたことがわかりました。この二人はレースで1位、2位となりますが、4時間後に失格となります。ベネトンとウィリアムズは提訴し、1ヵ月後にドライバーズポイントは回復され、コンストラクターズポイントは無効のままという裁定が下ります。

これはパワーアップを目的とした確信犯ではなく、エルフが単にシ−ズン前に承認を受けたものと異なるガソリンを使用していたということでした。

1997年日本GP−J・ビルヌーブ(予選で黄旗無視)

イタリアGPの予選中に、ビルヌーブは黄旗を無視したとして、執行猶予つきの出場停止処分をうけます。迎えた日本GPの予選で、ビルヌーブはポールポジションをとりますが、またも黄旗を無視したとされ、失格となってしまいます。提訴してレースに出場しますが、裁定が覆る可能性は低く、逆にもっと重い処分を受ける可能性がありました。ビルヌーブは5位に終わったレース後に提訴を取り下げます。

優勝したシューマッハに逆転されたビルヌーブでしたが、最終戦でチャンピオンを勝ち取りました。

なお、問題の黄旗は、予選走行に問題がない程度でした。このルールと処分は重過ぎ、日本GPに水を差した形となりました。

1999年マレーシアGP−アーバイン、M・シューマッハ(デフレクターサイズ違反、後に失格取消)

劣勢マシンだったフェラーリが、予選で1−2となり、決勝でもそのまま1−2を達成します。敗れたマクラーレンは、チャンピオンを取られてしまうと危惧し、フェラーリのデフレクター(整流板)がレギュレーション違反していることをFIAに耳打ちします。そして車検で10mm違反とされフェラーリは失格、この時点でマクラーレンとハッキネンが暫定チャンピオンになりました。提訴したフェラーリは聴聞会で測定の誤りを指摘し、国際訴追院はそれを認めて復位が確定します。フェラーリは再び選手権をリードします。

レギュレーションが測定基準に明確でないこと、FIAの安易な決定が問題として残った形になりました。

 

 

ルールを守るというのは基本的なことなのですが、これまで見てきたとおり、完璧なルールと完璧な運用はありません。失格という事件には、どうしてもさまざまな人間の思惑が見え隠れしてしまいます。強すぎる相手をひきずりおろすためとか、興行を盛り上げるためとか、権威の犠牲とかいろいろあります。そして、誰もが納得することは難しいようです。

レースに感動した後、実は失格だったということほど興ざめはありません。失格などないほうが良いに決まっています。しかし、これからも失格は起こるでしょう。そのたびごとに論議し、何が問題かを突き止め、ルールや運用面を改善していくしかないようです。