Formula One History

チャンピオンの引退時期

王座の年に去った者から、王座後に無冠で8年も走った者まで

2001年はハッキネンが引退するのではないかという憶測が飛びました。チャンピオンはどういう時に引退を考えるのでしょうか。歴代のチャンピオンのデビューから引退までを追ってみました。

(2001.8.10)

デビュー年令

歴代チャンピオン27名のF1デビュー年令ごとの人数です。デビュー平均年令は26.9歳(50年代を除くと25.2歳)です。

最年少22歳が最も多く5人です。最年長43歳は1950年のファリーナ、2番目38歳は50年代5度の王者ファンジオです。

1950年代は、第二次世界大戦でレースができなかったドライバーたちが失われた時を取り戻すべく走りつづけた年代でした。

近年ではD・ヒルが31歳と遅いデビューでした。




医師の資格を持つドクター、.ジュゼッペ・ファリーナ(イタリア)は戦前からレース活動し、戦後の1948年モナコで優勝。1950年にファンジオを破りF1初代チャンピオンになります。1955年、事故の痛みで引退。1966年、フランスGP観戦に向かう途中、氷結した路面に滑り、電柱に激突して死す。

ファン・マニュエル・ファンジオは地元アルゼンチンでレース活動をしていましたが、1949年にヨーロッパで勝ちだして認められます。1950年にアルファロメオでF1選手権2位になります。1951年を初めとして史上最多の5度チャンピオンになります。この間1952年に瀕死の大事故。1957年ドイツGPで45秒差の大逆転劇を演じて王座に就いた後、1958年は2つのGPに出た後、引退。1995年永眠。

グラハム・ヒルの息子、デーモン・ヒル(イギリス)は1992年に予選落ちを繰り返すブラバムからデビュー。同年ウィリアムズのテストドライバーでの評価から、1993年に正ドライバーになり、初優勝も成し遂げます。1994年にセナが事故死したあと、エースに昇格。シューマッハと2年連続で選手権を争います。1996年にチャンピオン。1998年にジョーダンで優勝しますが、1999年チームメイトのフレンツェンに押され、やる気を失いました。

引退年令

引退したチャンピオン24名の引退年令ごとの人数です。ここには事故死も含めます。年代別の色はデビュー年が基準です。

引退平均年令は37.4歳(50年代を除くと35.9歳)です。

もっとも若い28歳はリントですが、これは事故死です。引退で最も若いのは29歳のホーソンです。

最年長48歳ファリーナ、47歳ファンジオに続いて、46歳のG・ヒルは自チーム結成まで走りつづけました。

近年ではプロスト38歳、マンセル40歳、D・ヒル39歳でした。

マイク・ホーソン(イギリス)は1952年に23歳でデビューし、翌年初優勝。1958年、6年目の29歳でチャンピオンになりました。しかしその年にあっさりとやめてしまいます。1955年ルマンで観客80名が死亡するモータースポーツ最大の事故がありましたが、ホーソンはその原因を作ったと言われました。また、同年代のコリンズの事故死もありました。引退の翌年、ホーソンは交通事故で死亡します。F1をやめてもスポーツカーで公道を飛ばすことは続けていました。

マリオ・アンドレッティ(アメリカ)は1968年にF1デビューしいきなりPPを奪います。その後、アメリカとヨーロッパを行き来しますが、1975〜81年はF1を中心に走り、1978年ロータスのウィングカーでチャンピオンになります。インディ500は1969年と1981年の2回優勝。1982年途中でF1から退きますが、悲劇が相次いだフェラーリに請われてイタリアGPに参戦、PPを奪って往年の力を見せました。

ニキ・ラウダ(オーストリア)はエンツォ・フェラーリに認められてフェラーリ入りして2度の王座に就きます。1976年に大火傷の事故をおこし、豪雨の富士で棄権するとエンツォとの仲が悪くなり、1978年にフェラーリを飛び出します。1979年に「同じ所をグルグル回るのがイヤになった」と言って引退。1982年にロン・デニスに請われて復帰。1984年に3度目のチャンピオンになりました。0.5点差で制した最終戦の表彰台でラウダはプロストに、「来年は君の番だよ」と言いました。

現役シーズン数

引退したチャンピオン24名の現役シーズン数ごとの人数です。平均すると10.4年がF1で走っていた年数です。

6年しか走らなかった3人のうち、ファリーナは戦前からのグランプリドライバー、アスカーリは事故死で、ホーソンのみF1ステップアップでした。

最長18年はG・ヒル、2位16年はブラバム。ともに自チーム創設ドライバーです。近年ではマンセルが15年と頑張りました。

フィル・ヒル(アメリカ)はスポーツカー中心に活動していましたが、1958年にF1デビュー。3年目に初優勝。翌1961年はフェラーリの独壇場ですが、イタリアGPでチームメイトのトリップス伯爵が事故死したため、チャンピオンになります。フェラーリが停滞してからはさしたる活躍もなく、1964年にF1から引退。スポーツカーだけに戻ります。

ジェームス・ハント(イギリス)は豪放磊落な性格で、ケンカっぱやく、熱しやすく冷め易い。3年目に初優勝すると、翌1976年一気に選手権争いを演じます。大火傷で手負いのラウダに情け容赦なく迫り、最終戦豪雨の富士で逆転チャンピオンになります。その後、マシンが悪いとやる気が薄れ、7年目に31歳で引退。1993年病没。

ネルソン・ピケ(ブラジル)は駆け出しのころブラバムで速さを見せつけ、チームメイトのラウダに1度目の引退を決意させます。鬼才ゴードン・マーレイ設計の車で2度のチャンピオン(81,83)になった後、ウィリアムズ・ホンダターボで3度目の王座に就きます。その後はロータス、ベネトンと移りますが、1991年途中加入のシューマッハに圧倒されてシートを失います。1992年はシートを探しましたが誰も乗せてくれませんでした。仕方なくインディ500に挑戦しますが大事故をおこし、レースをやめます。

 

初王座までのシーズン数


デビューから初チャンピオンまでの年数ごとに人数を示しました。平均では5.1年かかっており、5年目が最も多くなっています。

1950年のファリーナ1年目と1951年のファンジオ2年目は、F1以前に走っていたドライバーなので例外的と言えます。1997年に2年目で達成したビルヌーブは、1995年インディ500およびCARTシリーズを制しての鳴り物入りでした。欧州フォーミュラのステップアップ組では、ハルムとフィッティパルディの3年目が短いと言えます。

初王座まで最も長かったのは、1992年マンセルの13年目です。近年ではハッキネンが8年かかりました。

デニス・ハルム(ニュージーランド)は1965年にデビュー。親分のブラバムを補助する役割から、1967年に初優勝すると親分を差し置き、一気にチャンピオンに登りつめます。翌年追われてマクラーレンに移籍。1970年にマクラーレンが事故死して解散の危機に陥ったとき、奔走してチームを立て直しました。現代のマクラーレンがあるのもハルムのおかげです。1974年、マクラーレンでフィッティパルディが王座に就いたとき、引退しました。

アラン・ジョーンズ(オーストラリア)は、ウィリアムズの頭角とともに選手権上位に姿を現し、1980年にピケとの激闘そ制してチャンピオンになります。1981年はチームメイトのロイテマンと確執をおこし、いったん退きます。その後、スポット参戦で、1985年に地元オーストラリアでの初開催まで出つづけました。

ナイジェル・マンセル(イギリス)は1980年に26歳でデビュー。初優勝は6年目と遅めでしたが、チャンピオンになったのも苦節13年目でした。1986,1987,1991と選手権争いに3度敗れた末に勝ち取ったものでした。

王座の翌年にCARTに転じ、チャンピオンになりました。セナの死後F1に呼び戻されましたが、すでに時代はシューマッハとD・ヒル中心になっていました。

王座後、無冠で走ったシーズン数


王座後、引退するまで無冠で走りつづけた年数ごとの人数です。平均すると3.1年しかありません。チャンピオンのプライドは下位走行を許さないというところでしょうか。

ホーソン、スチュワート、プロストの3人はチャンピオンの翌年は走りませんでした。リントは死んでしまいました。

最も長く走りつづけたのは、サーティースの8年です。G・ヒルとハルムの7年もそうですが、チーム運営に関わるとなかなかやめられなかったようです。



ジョディ・シェクター(南アフリカ)は7年間、選手権をいいところまで戦いました。1979年、彼がフェラーリに入った理由は、憧れではなく、チャンピオンになるためでした。チームメイトのG・ビルヌーブのことも観察し、速いがチャンピオンになれないことを見抜きました。そして目標どおり王座を達成します。翌年、フェラーリが不調になるやいなや、引退します。

ケケ・ロズベルグ(フィンランド)は野武士ファイター。1981年ノーポイントながら、翌1982年、大混乱の年、選手権争いに名乗りを上げます。わずか1勝してチャンピオンになりました。ロズベルグはどさくさまぎれに獲ったと言われましたが、翌年以降に真価を発揮。ホンダでも優勝します。1986年、マクラーレンでプロストとジョイントNo.1を組みますが、プロストの前に完敗。引退します。その後は母国のレートやハッキネンらをサポートしました。パワースライド走法でハッキネンの師匠です。

サーキットで事故死した4人のチャンピオン



アルベルト・アスカーリは1949年地元イタリアGPで優勝するなど、F1以前から活動していました。1950年のF1開始からフェラーリに乗り、52,53年に無敵の9連勝などで連続チャンピオンとなりました。1955年、モンツァでスポーツカー試走中に事故死。それは父アントニオが事故死した日と同じでした。アスカーリが死んだ場所はアスカーリ・シケインと呼ばれています。

 



スコットランドの農家の息子、ジム・クラークは1960年にデビュー。3年目に初優勝し、4年目で初チャンピオンにつきます。1960年代最高のドライバーで、フライング・スコットと呼ばれました。1968年開幕戦に優勝し、3度目の王座と思われましたが、5月にホッケンハイムのマイナーなF2戦で事故死します。その場所はジムクラーク・シケインと呼ばれています。

オーストリアの企業家の息子ヨッヘン・リントは1964年にデビュー。長らく未勝利が続いていましたが、6年目の1969年に初勝利すると、翌1970年せきを切ったように勝ちまくり、選手権を独走します。しかしイタリアGP予選、モンツァの最終コーナー、パラボリカでクラッシュし死亡します。3戦後にチャンピオンとなりました。

アイルトン・セナ(ブラジル)は1984年にデビューし雨のモナコGPで2位。2年目に初優勝。5年目に初チャンピオンになります。通算65回のPPは最多記録。史上最速のドライバー。1994年5月1日、サンマリノGP7周目のタンブレロコーナー。時速309kmでステアリングの異変を察知。1.5秒後、80m先の壁に時速229kmで激突。収容先の病院で死亡とTV中継にテロップが出ました。涙が流れたこと、ずっと忘れません。


自チームを創設したチャンピオンは長い


ジャック・ブラバム(オーストラリア)は4年間の低迷の後、ミッドシップ革命の5年目に初優勝するやチャンピオンに輝き、翌年も連続王座。その後、自チームを創設して雌伏の時となりますが、1966年の車両規定大変更(排気量1.5リットルから3リットル)を生かして3度目のチャンピオンになります。ことあるごとにベテランの力を発揮しますが、1970年、リントに何度も逆転負けをくらい、そのリントが事故死すると、ヘルメットを置くだけでなく、チームを別人に任せて故郷に帰りました。

グラハム・ヒル(イギリス)は1958年にデビュー。5年目の1961年にBRMで初優勝し、初チャンピオンにもなります。1968年、ロータスのチームメイト、ジム・クラークが事故死。意気消沈のチームをまとめ、2度目の王座に就きます。その後、チームメイトのリントに押されてロータスを出てからは下り坂となります。元チャンピオンの誇りを捨て、下位を走っても現役を続けたのは、自チーム創設のためでした。それがかなった1975年に引退。しかしヒルや主要メンバーを乗せた飛行機が墜落して全員死亡という悲しい結末になりました。

ジョン・サーティース(イギリス)は、2輪の世界チャンピオンからF1に転じました。5年目の1964年にフェラーリで最終戦の逆転チャンピオンになります。1966年にフェラーリとケンカ別れした後、ホンダに乗りますが、ホンダもやめてしまいます。サーティースは一念発起して自チームを創設します。結果は、ダメでした。

ジャッキー・スチュワート(イギリス)は1965年のデビューの年に初優勝を飾りました。1969年初チャンピオン。全力を出さなくても勝てるという言葉を残します。このころ多発した事故死は、自分の限界を超えて走るからだと考えました。1973年に3度目のチャンピオンになり引退して後輩のセベールに託しますが、最終戦でセベールが体が真っ二つに裂けるという凄惨な事故死。悲しみのうちに出走をやめます。

1997年、スチュワートは息子のポールとともに自チームを結成。1999年にハーバートが優勝という記録を残します。翌年にジャガーにチームを譲り、発展的解消しました。

エマーソン・フィッティパルディ(ブラジル)はリントの死後、ロータスに乗り、初年度に優勝。1972年に初チャンピオンになります。ロータスとケンカ別れしてマクラーレンに移り、1974年に2度目の王座。1976年に自チームを結成しますが、最高成績は1978年地元ブラジルの2位だけでした。これ以上勝てる見込みがない1980年にF1をやめ、CARTに活躍の舞台を移します。

アラン・プロスト(フランス)は4度のチャンピオンに輝きます。ルノー、マクラーレン、フェラーリ、ウィリアムズと、常に一流のチームにいました。1993年に4度目の王座に就いた時、翌年にセナがチームメイトになることが発表され、引退します。セナだけでなく、ハイテク禁止というのも理由だったかもしれません。1997年にリジェを買収してプロストチームを設立。無限ホンダと組んだ初年度は良かったのですが、その後は運営のまずさからチーム存亡の危機に立っています。

 

現役チャンピオン(成績は2001年ドイツGPまで)


ミハエル・シューマッハ(ドイツ)は1991年途中からデビュー。翌年初優勝。5年目に初王座に就きます。連続王座のあと、不振のフェラーリを立て直すため移籍。1999年に骨折の大事故を負いますが2000年にフェラーリ21年ぶり王座を達成。2001年も独走。フェラーリとは2004年(35歳)まで契約。

ミカ・ハッキネン(フィンランド)は1991年にデビュー。1995年に生死をさまよう大事故をおこします。1997年の初優勝まで7年かかりましたが、それからは一気に勝ちだし、翌1998年チャンピオン。1999年も連続。2000年も激戦の末の2位でした。2001年に極度の不振に陥り、引退を考えたことを明らかにしました。

ジャック・ビルヌーブ(カナダ)は1995年にインディ500で優勝、CARTチャンピオンにもなります。1996年にウィリアムズからデビュー。初戦でPPをとり、最終戦まで選手権を争います。翌1997年にチャンピオン。1999年創設のBARに移籍後は、苦戦が続きますが、勝利への執念は衰えていません。