Formula One History

4度目チャンピオン、達成と断念の歴史

2001.12.14 Updated

2001年はシューマッハが4度目チャンピオンを達成しました。過去に3度チャンピオンになった者は7人いましたが、4度目を達成したのはファンジオ・プロスト・シューマッハの3人です。

 

ファンジオ(3度目の翌年に4度目達成)

ファン・マヌエル・ファンジオ(アルゼンチン)は、1955年に3度目のチャンピオンになり、翌56年すぐに4度目を達成しました。

過去3度はアルファロメオ、メルセデスベンツといった強力マシンでしたが、4度目はフェラーリで成し遂げました。マセラーティとの死闘を制しました。

当代一のドライバーとしてピーク時にあり、最大のライバルだったアスカーリは1955年に事故死していました。モスらの若手はまだファンジオの敵ではありませんでした。

ファンジオは、エンツォ・フェラーリとはソリが合わず、翌1957年はマセラーティへ移籍します。ファンジオは「いかに楽して勝つか」がモットーでしたが、エンツォは常にドライバーに全力走行を求めました。

ファンジオは以前、1952年に大事故で瀕死の重傷を負い、1年を棒に振りました。この経験が、後の最多王者の糧となりました。1957年のドイツGPでは38秒差を逆転する名レースを演じ、5度目の王座につきます。これで精魂尽き果てたか、翌年に引退しました。

(注:右図の赤い印はチャンピオンの年を表します)

 

 

 

ブラバム(3度目のあと4年走ったが成らず)

ジャック・ブラバム(オーストラリア)は、1959,60年に当時革新的だったミッドシップのクーパーで2年連続チャンピオンになりました。ブラバムは時代の波に乗りました。

62年、ブラバムは自分のチームを創設します。排気量が3リッターに変わった66年、他車がトラブる中、安定したレプコエンジンで3度目王座につきます。翌67年、4度目を狙いますが、チームメイトで子分のハルムにさらわれてしまいます。

ブラバムのチャンスはここまででした。このあとはロータスやティレルが躍進し、歯が立たなくなります。70年、開幕戦に勝って最後の花を咲かせようとしたものの、モナコとイギリスでリントに最終ラップ逆転負けを喫しました。リントが死後チャンピオンになったこの年、ブラバムは引退します。チームを他人に引き渡し、地元オーストラリアへ帰りました。

 

 

スチュワート(3度目の年に引退)

ジャッキー・スチュワート(イギリス)は、1969,71,73年の3度王座につきますが、3度目の年に引退し、4度目は目指しませんでした。

スコットランドの王家の血を引くスチュワートは、デビューの65年に優勝するなど、若くして天才ぶりを発揮しました。しかし、66年にスパ、68年にハラマで大事故をおこし、骨折します。

スチュワートは死ななかったのが幸運でした。それほど、このころ事故死は多かったのです。一緒に走った仲間が次々に死んでいく様を見つづけなければなりませんでした。先輩クラーク、親友リント、他の多くのドライバーたち。

また、2度目の王座翌年の72年には、ストレスから胃潰瘍をわずらい、欠場しています。スチュワートは肉体的にも精神的にも限界が来ていました。

73年、チャンピオンを決め、後輩セベールに後を託して引退を決意します。しかし、最後のレースとなるはずのアメリカGP予選で、セベールが事故死してしまいます。スチュワートは100戦目となるはずのレースを前にして、ヘルメットを置きました。

 

 

ラウダ(3度目の翌年に引退)

ニキ・ラウダ(オーストリア)は、フェラーリで2度王座を取った後、一度引退し、マクラーレンでカムバックして3度目の王座をつきました。翌年は1勝しただけで引退し、プロストに後を託します。

若き日のラウダは、フェラーリで年間9度のPPを2年連続で記録するなど、誰も手がつけられないほど速いものでした。しかし、76年ドイツGPの事故で大火傷を負い、生死をさまよいます。

奇跡のカムバックで77年に2度目の王座につきました。しかし79年にはチームメイトの新進ピケに押され、「同じところをグルグル回るのが嫌になった」と言ってシーズン途中でマシンを降ります。

82年、ロン・デニスに請われてマクラーレンで復帰し、84年にはプロストと激戦の末、3度目の王座につきます。そのときラウダはプロストに「来年は君の番だよ」と言いました。潮時でした。

総帥エンツォ・フェラーリは、ラウダとなら6度の王座くらい獲れたと、後に語りました。ポッカリ穴のあいた30〜32歳に、フェラーリで走っていればそうだったかもしれません。しかし、エンツォは76年、雨の富士で棄権したラウダを責め、翌77年はロイテマンを優遇しました。エンツォは過去にも幾多のドライバーを酷使し、死に追いやりました。ラウダはそれを嫌い、去ったのです。

 

 

ピケ(3度目のあと4年走ったが成らず)

ネルソン・ピケ(ブラジル)は、ブラバムで混戦を2度制し、ウィリアムズで3度目の王座につきました。その後4年走りましたが、チャンピオン・ドライバーとしての評価を落とす一方でした。

3度の王座について、81年はライバル・ウィリアムズの内紛、83年はプロストの自滅、87年はホンダのたまものと言われています。

88,89年のロータスでは低迷して1勝もできないばかりか、予選落ちさえ喫します。90,91年はベネトンで3勝しますが、セナ・プロスト・マンセルが消えたときばかりでした。

91年後半にチームメイトになった新人シューマッハの速さに、ピケの存在がかすみ、翌年チームを追い出されてしまいました。

 

 

プロスト(3度目の4年後に達成)

アラン・プロスト(フランス)は、1985,86年にマクラーレン・TAGポルシェ、89年にマクラーレン・ホンダと、3度王座につきました。フェラーリで2年走った後、1年休養し、93年にウィリアムズ・ルノーで4度目の王座を達成して引退しました。

プロストは3度目までは激闘を制してきました。すでに栄誉と名声のある男は、確実に速い車に乗れるから、4度目を目指し、それを得ました。

プロストはチャンピオン争いをした年が8回あり、半分は失いました。同時代にラウダとセナがいなければ、6度王座も可能だったかもしれません。

プロストはファンジオと同じく、年間を通して無理をしない哲学を持っていました。1年のうち本気で走るのは2レースぐらいです。2位を走っていれば1位がリタイヤすることもあるし、2位でも得点は増えます。王座は自然と転がり込むというものです。

プロストとファンジオの共通点はまだあります。速いマシンに乗れるように自ら働きかけることです。遅い車で何年も辛酸をなめないことです。3度で終わった者と、それを越えた者の違いはそこにあります。

ファンジオは唯一のライバルだったアスカーリが死んだため、5度の王座を得ました。それに比べてプロストはセナを倒す必要がありました。これが二人の差になりました。

 

 

セナ(3度目の3年後に事故死)

アイルトン・セナ(ブラジル)は、1988,90,91年にいずれもマクラーレン・ホンダでチャンピオンになりました。その後マクラーレンの衰退に苦戦し、94年にウィリアムズに乗りますが、サンマリノGPで事故死します。

速さは当代一でしたが、89年は6勝しながら、4勝プロストの前に敗れました。2位がセナ1回に対し、プロストは6回もあるのです。これを学び、90,91の王座をたぐり寄せました。

しかし92,93年はウィリアムズ・ルノーの速さにセナをもってしても歯が立ちません。それでも92年モナコ、93年ヨーロッパのように光を見せました。

93年、プロストはフランク・ウィリアムズがセナを入れたがっているのを知り、チャンピオンになりながらヘルメットを脱ぎます。プロストはルノーとそんなに良い関係ではないし、マクラーレンのときのようにセナと激しい戦いをする気はなくなっていました。

94年、セナはやっとウィリアムズに入れました。しかし、このときアクティブサスペンションなどのハイテクが禁止され、ウィリアムズは安定感を失っていました。

セナは速さと裏腹に、他をかえりみない危険さも持っていました。2年間苦戦し、やっと乗ったウィリアムズでもシューマッハに2連敗。そしてサンマリノでシューマッハに背後につかれます。セナは無理をしていたのかもしれません。

 

 

シューマッハ(ファンジオと同じ3度目の翌年に達成)

ミハエル・シューマッハ(ドイツ)は、1994,95年にベネトンで王座を獲ったあと、フェラーリに移り、5年目の2000年にようやくチャンピオンになりました。1999年には足を骨折する重傷を負うなど苦戦した末のものでした。

そして2001年、選手権を独走し、史上3人目の4度目王座に就きました。

シューマッハはプロストの記録(最多勝・最多得点・最多FL)は塗り替えました。次はファンジオの記録(最多王座)です。フェラーリは戦闘力が高く、ライバルだったハッキネンが休養したため、可能性は高くなりました。

シューマッハにとって気になるのは年齢が33歳になるということです。これからは衰えも見せてくるかもしれません。円熟の走りで若手を一蹴することができるでしょうか。