虎杖丸の曲 Kutune shirika
副題 Okokko ituren chihoma ituren 変怪の憑依 恐怖の憑依
kutune shirika は大正二年に、1番始めにワカルパ翁から筆録されたものです。
ワカルパ翁は、その出自を明らかにしていて、新平賀の大酋長(乙名)サンゲレキ翁の兄 Chikupshiri から受け継いでいます。
そのように沙流川沿いの三大豪族のものは、創作では無くて伝承に依るものです。
又、ワカルパ翁は、Ikokuttara(虎杖) oro mun ホントはKutu と云っていて・・・
昔は、虎杖のことを kutu と云って、orom kuttara は、ナナツバ(反魂草)とも博士に伝えて居る。
又、伝承だから解らない言葉もあることを正直に伝えて居る。
金田一博士は、oro mun と orom kuttara を混同されたものか? 大正3年に北海道庁から嘱託として踏査をするのに
提出されたKutune shirika の解題を『反魂丸の曲』とされております。
北海道大学の知里真志保博士は、Kutu を虎杖と訳すのは間違いだ!! 虎杖はIkokuttara だと
金田一博士を激しく攻撃して・・・それが定説になり金田一博士のユーカラノートが疎んじられ
アイヌ文化の迷走が始まった。 (*^_^*)
金田一博士が筆録に徹したのは、明治40年に樺太でラマンテからハウキを筆録されて、帰って来てから
訳そうと思っても、手も足も出なかったと云う苦い経験から、筆録を読み返して違うところを指摘してもらい
解らない言葉の意味をその場で確認されていると言う事。録音して後から訳そうと思っても
殆ど、不可能に近いこと知っておられた・・・他の人達は、皆録音に頼った。
そう言った音の資料は、本当の伝承者のものは、殆ど無いと云っても良いくらいでしょう。
基本的にユーカラ・メノコユーカラ・カムイユーカラは、雅語( atomte itak)で語られているので
現行のアイヌ語辞書(日常語 yayan itak)では、訳せません。
その過酷な筆録を始められた 第一歩の 『 虎杖丸の曲 』 をお楽しみ下さい。
尚、金田一博士は、筆録原文の一部の語句を省いておられますので、今回は挿入しております。
それで、復刻版とさせて頂きます。
※ この物語に出て来るメヨイ小袖の童子とケチャウ小袖の童子は、カミアシ(化け物)とワカルパ翁は云っており
意味は全く、分からないそうです。 只、チワシペツと云うのは山田秀三著『北海道の地名』からすると
釧路とされております。何かヒント御座いましたらご一報下さると大変、有り難く思います。 <(_ _)>