ロードランナー日記・
絶望を抱きしめろ
不調のため、走れない日が続いている。
身体も精神も、今は、休養を望んでいる期間のようである。
そういうわけでわたしは、医者を予約して、少しずつ自分をほぐしていくようにな
った。
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時がたてば、すべてが癒される。わたしはそう思っていた。
仲間はずれにされた日、ランドセルがたまらなく重かったのに、母親に伝えられな
かったこと。
生きて、また消えてゆくことへの不安に、眠れなかった夜。冷や汗が出るほどの恐
ろしさを、言葉にする術を知らなかったこと。
まるごとの自分をさらけ出しても、拒絶されることをはじめて知った。男と別れて
ひとりでタクシーに乗った夜。
わたしは続いているのに、死に別れたり生き別れたりして二度と会えなくなる人た
ちがいること。不思議だけど、どう変えることもできない、激しい欠落感。
だけどすべては、時がたてば忘れられる。記憶は薄められる。
経験の中でわたしはそれを知っていた。だからわたしはいつも身を潜めて眠るよう
にして、時が過ぎ去ってゆくのを待っていた。
だが、わたしは何ひとつ忘れてなんかいなかった。
すべては、わたしと同化しただけなのだ。わたしの外側にあった絶望は、わたしの
内部に取り込まれて、絶望はわたしの身体の一部になった。うまい言い方をすれば、
それがわたしの感情の深みになっていった、ただ、それだけのことだったのだ。
「そういうことなんです。そして、あるきっかけで、それが突然、剥がれ落ちるん
です。それがフラッシュバックなんです」
担当医がそう言った。
忘れてなんかいなかったものが、突然襲ってきた。だから、忘れていなかったこと
に気づいた。
保っていた「わたし」は、そんなふうにいとも簡単に崩壊していくのだ。
だけど、先生。最初はそうだったけど、そんなに悪いことばかりじゃないって、今
はそんな気持ちにもなってるんです。
海の底に沈む、ガラスの破片は、もう何年も光に照らされていない。
そのガラスはくすんだままで、わたしはけっして目を向けようとはしない。
だけど、それが、今までとは違う角度の光に照らされて。
激しい悲しみは、その時の瞬間とは違う色をして、その場所でほんのり光ってゆく。
だから、その時は、忘れて遠くなることだけを望んでいたのに。
今は、そのガラスをすくいあげてみたいと、手を伸ばしてみたいと思うんです。
わたしは今、あの時の絶望を、自分の手で抱き締めてみたい。
こがゆき