あたたかな雪・
第二章
それからネズミがやってきた。
私は今でも彼の事を信用していない。どこか胡散臭いところがどうしても好きにな
れない。
だが反面、ネズミは私の一番弱いところを知っている。それは認めないわけにはい
かない。
私はネズミに喋っている。今まで誰にも言えなかった事を、降伏したかのようにぼ
ろぼろ喋っている。
それで一体どうなるのか。今の私には全くわからない。
いつも夕方来ては、小さな花束を買っていく男。それがネズミだった。花を差し出
すだけで、言葉のひとつも出ない無口な男。そういう印象しかなかった。
ある日、閉店後にひとりで地下鉄に向かっていると、後ろから呼び止められた。そ
れがネズミだった。
悪い事でもしたような、消え入るような声で彼は言った。
「あの、花屋さんの人ですね」
彼の声を聞いたのは、それが最初だ。何度も何度も花を買っているのに、彼は一度
も声を出した事がなかったのだ。
「あの、仕事が終わるの、遅いんですね、いや、この時間に何度か見かけたものだ
から、一度話したいなと思って、いや、迷惑だったらすみません」
私は何も言えない。閉店後の私を何度か見かけたからといって、わざわざこんな時
間に声かけなくてもいいのに。お店でなら、もう少しちゃんと話ができるだろうけど、
もう、疲れて話しもしたくなくなっている。私はじっと彼の顔を見た。
「この近所のアパートに住んでいるんです。それで夜、コンビニに行ったりするも
のだから。あの、僕の名前は根津といいます。だけどみんなネズミって呼びます。顔
がねずみ男に似ているからだって。僕はそう呼ばれるのが嫌じゃない、だから、ネズ
ミって呼んでいただいて結構です」
それで私は少し笑った。言われてみればねずみ男に似ている。いつものスーツでは
なく、グレイのTシャツを着ていた彼は、なかなかその雰囲気にぴったりだった。彼
は私が笑ったのを見て、少し安心したようだ。ネズミは、私をコーヒーに誘った。私
はあまり気乗りはしなかったが、しばらく迷ってから、行く事にする。彼には何か喋
りたい事があるように見えたし、それを伝えるために、本当に、勇気をだして、やっ
と声をかけたような切迫感が漂っていたからだ。
喋りたいのなら、それを聞いてみたい。私は少し気持ちの緊張がとけて、そう思え
るようになってきた。
私たちは、24時間営業のファーストフードに入り、コーヒーとドーナツをテーブ
ルに並べた。
「本当に突然声をかけて、すみません、驚いたでしょう」
ネズミは汗をかいていた。暑いのかなと最初は思ったが、しばらくしてそれは、緊
張からくる冷や汗のようなものだと気づいた。それほどネズミは堅くなっていたのだ。
「何度か花屋さんで会って、一度話してみたいなと思っていたんです。でも、実際
に何か話さなくちゃいけない事があるっていうわけでもない。だから、何の用ですか
って言われたらどうしようって思っているんです」
ネズミは素手で汗をふいた。その手は小刻みに震えていた。
「じゃ、どうしてって聞いてもいい? どうしてお店が終わってから声をかけたの。
お店で何か喋ってくれればよかったのに」
いじわるな言い方だと自分でも思う。でも閉店後にこんな形で声をかけられるのは、
あまり気分のいいものでもなかった。それに私は、ネズミが後をつけていたのかもし
れないとも思っていた。
「すみません」
彼は私の悪意に気づいたらしい。
「悪かったと思っています。でも僕は、どうしてもゆっくりあなたの話を聞きたか
った。だから、お店じゃないところで話したかったんです」
「私の話? 会ったばかりなのに、私、何の話をしたらいいの? 悪いけど、人に
話せる話しなんて何もないのよ。意地悪で言ってるんじゃなくて、本当にそうなの。
退屈な人間だし、人に話して楽しませるようなネタは、何ひとつもっていないの」
ああ、何でこんな言い方をしてしまうんだろう。なんて意地悪な言い方だ、そう思
う反面、これはネズミの持っている雰囲気だとも思った。何か、わざとつっけんどん
に言わせる雰囲気を彼は持っている。苛立って、それをぶつけたくなるような雰囲気。
その雰囲気のおかげで、ひどい目にあってきたのかもしれない。そうしてこの男は、
自分でそれを知っていて、それに甘んじている人間だ、なぜかそんな気がして、その
事はよけいに私を苛立たせた。
(ネズミとの会話)
「どんな話しでもいいんです。嫌な事でもいい、退屈で話すような事がないってい
うのなら、どんなふうに退屈か話してくれればいい。僕の言っている事が気に障るっ
ていうのなら、それをぶつけてくれればいい。僕は、話してて会話が弾んで楽しくな
るような、そんな事を望んでいるわけじゃない、誰にも話せなくて、心の奥底にたま
ってしまうような、そんな話をぶつけてもらえば、それでいいんです」
「それでどうなるの? それをどうにか解決して、あなたは私を癒してくれるとい
うの?」
彼はきっと宗教関係者だ。きっと全てを話した後に、私のとるべき道を教えてくれ
るのだろう。私はとっさにそう思って、彼に対して身構えた。
「僕は何もしません、いや、正直に言うなら、僕にできるのはそれだけなんです。
だけど、話さないままでいるよりも少しは楽かも知れない。何よりも僕はあかの他人
だし、自分の胸の中にしまいこむだけですから。ただ、心の中にたまっていく、埃の
ようなものを、はき捨ててくれればそれでいいんです」
「私にはよくわからないわ、でも」私は言った。
「もし本当にそれでいいのなら、話したい事があるような気もする」
私はまず、アサミの事を話した。彼女が結婚して会社をやめた事、そうして会社に
は、話せる女友達がひとりもいなくなってしまった事。今でも遊びにきてくれるけど、
もう昔みたいに夜は明かせなくなってしまった事。
話しながら私は驚いた。そう、私はアサミを失っていたのだ。しょっちゅう話して
いるので気づかなかったけれど、私は、アサミという友達の、核みたいな部分を失っ
ていたのだ。
話し終えた私は放心した。
こんな気持ちが心の中にたまっていたのか、埃のようにうっすらと積もっていたの
かと。それは、自分でも気づかないほど小さなものだった。私はネズミにたいして、
それをはき捨てたのだろうか。それすらも私にはわからなかった。
私の話が一息つくと、ネズミは、そうですか、それは寂しかったですねとか、そん
なことを言った。
それから彼はカップを飲み干して席を立った。また会いましょう、よかったらまた、
話を聞かせてください。僕は、あなたの話が聞けて嬉しかったです。
そういったネズミの後ろ姿は、明らかにひどく疲れていた。
私はその姿が消えてドアが閉まるまで、呆然とネズミを見ていた。
ネズミはそれからもちょくちょく顔をだす。
フラワーショップで話をする事はあまりないが、週に一度位は帰り道にいてくれる。
私たちは、ファーストフードにはいったり、喫茶店に行ったりする。幸いこのあた
りは夜の長い繁華街だから、メニューには事欠かない。
そうして驚くべき事に、私たちはいつのまにか会話をするようになっていた。
彼がモンティをよく知っていたからだ。この町のロックシンガーだからといって、
誰もがモンティを知るわけではない。だが、ネズミは違った。彼はほとんどのライブ
に顔をだしていたし、歌のレパートリーに関しては私よりも詳しかった。ライブハウ
スで録音したという、ひどい音質のテープを貸してくれたりもした。
私がモンティを失った時の感触を誰よりもよく理解してくれた。
いなくなった後、心にあいた穴が消えないというような事も言った。
人の死は、誰に対してでもそうだ。けっして埋め合わせる事のできない喪失感を残
していく。共有する事はできても、その喪失感をゼロにする事はできない。
モンティを共有した今、私の警戒心はかなりのところ消え失せていった。
私たちは、夜の町で会話した。ほとんどが私の愚痴ではあったけれど、ネズミも次
第に自分の事にも触れるようになっていた。勤めている会社の名前や仕事の内容、そ
してそこで自分が感じるさまざまな事。もちろん、それがネズミの全てとはとうてい
思えないほどの、ありきたりの内容ではあったけれど。
アサミは私が明るくなったと喜んだ。きっとネズミのおかげよね、私もその人に会
いたい、ね、みんなでご飯でも食べよう、絶対会わせてね、アサミのその言葉に背中
を押された。
今私は、自分の部屋の小さなテーブルにコップを並べている。土曜日の午後、今日
はネズミの会社は休みだ。私も毎週土曜日が休みになっている。土日続けて仕事をす
ると友達と会う時間もないだろうという、店長の気遣いだった。会う友達なんていな
いのだから、休みなんていらないと思っていたのに、今日はちょっと嬉しかった。な
にしろ、明るい時間にネズミに会うなんて、一度もなかったのだから。
一郎は今日は仕事にだから、ゆっくりいいわよとアサミは言った。
ネズミもアサミも、もうじきこの部屋にくるはずだ。
私は宅配のピザと、手作りのフルーツマカロニサラダをテーブルに並べる。お皿と
フォークの数を確かめてから、時計の針を確かめる。
あと五分、おそらくそれくらいだろう。
私はどきどきしていた。胸が高鳴るような、ちよっと期待がかったどきどきだった。
まず、アサミが来て、それからネズミがやってきた。
二人を紹介して、それからピザを勧める。ちょっと早めの夕食だ。
ネズミは初対面のアサミにたいしておどおどするかもしれない。そんな私の予想に
反して彼は雄弁だった。自分の事を話し、モンティの話題をふり、彼はその場の雰囲
気を明るくやわらげた。
それは、何か自分自身に見切りをつけているような、そんな感じの明るさだった。
武装するような明るさ。心を見せないための明るさ。
ちょっと驚きだった。彼はこんな処世術も身につけていたのか。自分の内側を悟ら
れないための手段も、一応は知っていたのか。もっとも、私の友達だから、そこまで
身構えなくってもいいのに。
アサミは、最近はナツが明るくなったから、ほっとしていると言った。いい友達が
できたのね、これからもよろしくね、彼女がそう言うと、ネズミの頬は紅潮した。
食後のコーヒーを飲みながら、私たちはとてもいい雰囲気だった。ネズミは、この
町のゲーセンの話をした。UFOキャッチャーが取りやすいとか、大画面で戦えるス
トリートファイターがある場所。アサミがこの話しに飛びつかない訳がない。アサミ
と一郎は、休日のたびにゲーセンやパチンコ屋をまわっているのだから。
だけども私は腑に落ちない。それどころか少し悲しくさえなっていた。
ネズミにだって休日の娯楽くらいあるはずだ。だけども私たちは、今までそんな事
一度だって話した事はなかった。彼が上手に話題をふればふるほど、痛々しいとさえ
思った。
誰かと話すために用意された休日の趣味。異端にされないために身につけた、いく
つかのテクニック。
それはもちろん悪い事じゃない。私だって多かれ少なかれそれくらいの技術は持っ
ている。
だけども、ネズミほど、私は極端ではない。
彼は今、自分の心の向こう岸の、遠く離れた河川敷で話をしている。悪気ではない、
むしろ私の友達を安心させ、いい気分にさせるため。
だけども私には、痛々しかった。ねずみがはきっと、こんな風に自分を武装して、
世間を渡っているのだ。会社勤めをして、昼休みには楽しい話題をふって。
片側しかしらなかったネズミの両面。
それを知って初めて、そのギャップに驚いた。
なんという人だ、なんと極端な人だ。
だが、いつか私は驚きよりももっと、なにか暖かい気持ちになってきた。
親しみとかではない、愛しさとかでも違う。
うまく言葉にはならない気持ち。ああ、この人はこんなふうに生きてきたんだ。私
の知らないところで折り合いつけて。
同情でもない。尊敬でもない。
ただ、そんなネズミを知り、認めただけの。
ある意味の承認。
そんなものなんて言葉にしてしまえば、たいしたものじゃないけれど。
私はただ、そんな気持ちになって、それをかみしめていた。
「悪いけど私、考え違いしてたみたい」
アサミは笑いながら言った。
「もっと風変わりな人を想像していたの。話があわなかったらどうしようなんて、
思っていたのよ」
「変わっていますよ、僕は。でも普通の人間です。猿と話すみたいに言わないで下
さいよ」
その言い方にアサミは、もっと大きな声で笑った。
「ほんと、いい人で良かったわ。でも今度会うときは、私の話も聞いてね、ナツの
話を聞いてくれたみたいにして」
ネズミの顔が赤くなる。そんな事まで聞いてたのかと思ったのだろう。女の友情を
わかっていない。そんな事、当然つうつうなのだ。
アサミは、一郎の帰る時間にあわせて、帰り支度をした。悪いけど後かたづけは二
人でお願い、と彼女が言う。気をきかせたつもりか、そこまでしなくてもいいのに。
とりあえずネズミは、アサミを玄関で送り、片づけものを手伝う。
なんだか落ちつかない。いつも外でばかり会っていたから、ふたりで台所に立つな
んて、お互いに馴れていない。
私たちは言葉数も少なく、黙々と洗い物を片づけて、テーブルに向き合ったが、な
んとなく照れて、話しもとぎれがちだった。
もっともこの後私は、ネズミのとてつもなく長い話を聞くことになるのだが、この
時点ではまで、その糸口すらつかんではいなかった。
私たちは、片づけを終えてテーブルでお茶を飲んだ。
ネズミは言った。
「知らない人と話すのに馴れていないんだ。アサミさんは退屈しなかったかな」
「喜んで帰ってったじゃない。驚いたわ。私、ネズミがあんな風に話すところなん
て知らなかった。でも、いつものネズミでもよかったと思う。少し無理したんじゃな
いの」
「ナツの友達に嫌われたくなかったからね。でもちょっと疲れた」
「彼女の話を聞いてみたいとは思わなかったの」
「彼女は満たされている。人に話してみたい愚痴のひとつやふたつは持っているか
もしれないけれど。アサミさんの魂は、助けを呼んではいない。だから、それでいい
と思ったんだ」
「ネズミの魂は、助けを呼んでいるの?」
「どうなんだろう、呼んでいるのかもしれない。だけど僕は伝え方を知らなかった
から、変わりに人の話を聞きたいと思ったんだろうな。同じように助けを呼ぶ人の話
を聞いてあげられれば、少なくともその人は、少しは満たされるかもしれない。なん
だか、そうするのが一番いいと思ったんだ」
「私が聞いてあげられると思う」
私はずっと思っていた事を言った。
「私は多分、何の解決もできないと思う。だけども、話せばそれだけで少しは救わ
れるって、ネズミは前に言ったわ。だったら、あなたもそんなふうにして、私に向か
って吐き出せばいいのよ」
「つまらない話だよ。人が聞いたらとてもつまらない話なのに、僕はそれに縛り付
けられている。ナツが聞いてくれたって、あきれかえるだけかもしれない」
「私にとってつまらない話でも、ネズミにとっては、大事な事なんだもの。そう思
って聞くようにする。ネズミみたいな上手な聞き手じゃないかもしれないけど、今度
は私がそうしたいの」
ネズミは、話す決心をした。
だけどうまく話せないかも知れない、こんな話をして、笑われるかもしれない、彼
はそう言って、そのあとに、こうつけ加えた。
だけど、なんだか、話してみたいと思う。
ネズミの話は深夜まで続いた。
大筋はこんなところだ。
ネズミは父と母の間に生まれたたった一人の子どもだった。ネズミの母は心臓を煩
っており、それ以上子どもを生む事はできなかった。
そのかわりに両親は、家族をとても大切にした。母親は身体が弱くて無理はできな
かったが、その分父親やネズミに愛情をそそいだ。父親は、そんな母に負担をかけな
いように家事をずいぶん手伝ってくれていたし、ネズミに対してもとても優しかった。
一人の弱い人間のおかげで、家族は思いやりを知ったのだ。
相手の事を考えて、何も言わずに何かをする、そんな気持ちを誰もが持っていて、
みんなが家族を愛していた。
僕の少年時代は本当に天国みたいだった。もっとも、最初からそんな環境にいたか
ら、失うまではそこが天国なんて思う事はなかったけれど、とにかくそれくらいに完
璧だったんだ、とネズミは言った。
ネズミが小学校六年になって、母親は入院した。心臓が少し衰弱したため療養が必
要だったらしい。
母親は病院に入ったが、それでも家族は損なわれなかった。
父親は毎日のように、会社が終わるとネズミをつれて病院にいった。家の事は心配
ないから、ゆっくりと直せばいいと、暖かく母親を励ました。家事は父親がこなした。
かあさんが心配しないように仲良くやろう。寂しいけれど励ましあって、そう思わな
いようにしよう。父は、そう言ってはネズミにお菓子や雑誌を買ってくれた。
母親は病状が落ちついて半年ほどして退院した。普通の生活は無理だったが、ゆっ
たりとテーブルに座って夕御飯の下ごしらえくらいは出来るようになった。
買い物はネズミの仕事だった。母親は品物をメモしながら、いろんな話をしてくれ
た。八百屋さんにグリーンピースがでたら教えてね、あなたの大好きな豆ごはんがで
きるからとか、牛乳の日付を忘れないで見てねとか。そのたびにネズミは、おかあさ
んとゆっくり歩きながら買い物できたらどんなに楽しいだろうと思ったそうだ。
ある朝の事だ。
ネズミは、右手の人差し指の爪がめくれているのに気が付いた。それほどの痛みは
ない、だが明らかに不快な異物感は感じる。爪は半分ほどめくれて、付け根の部分だ
けでかろうじてくっついているような状態だった。いつのまにこうなったんだろう。
昨日までは何ともなかった。寝ているうちにどうかしたんだろうか、それにしても、
不思議なくらいに覚えのない事だった。
父親は、病院に行ったほうがいいと言った。今日は早朝の会議があるからついては
いけないが、一人でも大丈夫だろう、心配ない、先生に見せればきちんと処置として
くれる、そういって父は、いくらかのお金をくれた。
父親がでかけた後に母は言った。
一緒についていくわ、ひとりじゃ心細いよね。
ネズミは迷った。確かに心細い。だけどもバス停ひとつ分くらいは歩かなきゃいけ
ない。今の母にそんな体力があるというのだろうか。父なら絶対にダメだというだろ
う。
ひとりで大丈夫だよ、おかあさん、病院に寄ってくるからって、学校に電話してく
れれば、僕は全然平気だよ。そう言ってみたものの、その日の母は、頑として聞かな
かった。
母はいつも頭に描いていた。坂の途中の薮椿が真っ赤な花を付けるのや、魚屋にさ
んまが並ぶ日、山茶花の垣根を彩る鮮やかなピンク色の花々。
母はそんな世界を肌で感じたがっていた。その空気を思いっきり吸いたいと思って
いた。
だから、僕は、そうさせてあげたいと思ったんだ。
ゆっくりと歩く病院までの道を、母はとても喜んだ。ただの空気がこんなにおいし
いとは思わなかったわ、そう言って母は深呼吸をした。
爪は、思ったほど深刻ではなかった。今、無理してとるまでもない、自然に剥がれ
るのを待っていればいいですよ、バイ菌が入らないように注意してください、そう言
われて、僕たちは今来た道を、また家までゆっくりと歩いた。
事態が変わったのは夜になってからだ。
父と三人で夕飯を食べた後、母は少し疲れたと言った。
横になろうと身体を動かして、その時何かが壊れた。
母はそのまま、テーブルに頭を打ちつけて倒れてしまった。
それから後の事は、悪夢のように今でも思い出す。
救急車の音、病院での心臓マッサージ、そして、そのまま二度と開かなかった母の
優しい瞼。
こんなに早く逝ってしまうなんて、父も思っていなかったのだろう、大声をあげる
わけでもなく、目をつむるわけでもなく、父の目からは、ただぼろぼろと涙がこぼれ
ていった。
僕も泣いた。とてつもなく長い事泣いた。
それは、父とは違った意味の、とりかえしのつかない事をしてしまった自分への、
後悔の涙でもあった。
なぜあのとき、母を止められなかったのだろう、僕が母と一緒に歩きたかったから
だ。それに僕は、まさかこんな事になるなんて、思ってもいなかった。
とにかく恐ろしさでいっぱいだった。
父には決して言ってはいけない、そんな事言ったら、父までも僕を見捨てるだろう。
そう思う反面、ちゃんと言わなければという思いにもかられた。
いや、父はその事を知っている、そう思おうともした。
父は、その日の様子などけっして尋ねなかった。昼間の様子はどうだったかとか、
聞いてもよさそうなのに、そんなこと一言も尋ねなかった。
今考えてみると、父は父で、自分の絶望の淵に、たったひとりで立ち尽くしていた
のだ。
葬式の最中に僕の爪は、ぽろりと剥がれた。お経を読む声の中、焼香が進んでいる
最中だった。
僕は、その爪を手にとってじっと見つめた。
こんな事したってもどらない、不吉の前兆のように、母の死を予言したこの爪も、
優しい母の笑顔も、けっして戻らないのだ。
そう思ったら涙があふれてきた。とめどなく、あふれてきてどうしようもなかった。
そうして僕は、いつまでたっても、その時の後悔を打ち消せないままでいるんだ。
そうネズミは言った。
私は、その年月の長さを思いやる。
十年以上もの間、そんな思いにとらわれているなんて。
他人から見れば、ばかげた事なのかもしれない。
だけど私にはわかる。
ネズミも私も、ただそれに、とらわれているのだ。
消えてなくなることのない、何かやっかいなもの。小さくなって消滅する事がない
から、いつまでも続く、迷路のような行き場のない思い。
私は、ネズミのことを初めて知った。その胸の奥にある、私と同質の傷も含めて。
そうしてそれは、私とネズミとの距離を、一気に引き寄せていった。
それから私たちは、より深い迷路に迷い込んでしまった。
結局、わかりあう事は何も解決しなかった。
私たちはただ、お互いの傷を確認して、やっぱり自分は傷を負っていると思い直し
ただけだったのだ。
そうして私たちは、お互いの死の影におびえ、核シェルターに隠れるかのように、
じっと家の中に潜んだ。
ネズミはニュース番組を極端に嫌った。それなのに彼は、家に帰ると当たり前のよ
うにテレビをつけっぱなしにした。家がしんとしていると、とても不安になるのだそ
うだ。
つけっぱなしのテレビからは否応なしにニュースが流れてくる。何をしていてもど
んな時でも、ネズミの動きは止まり、彼はニュースに釘付けになる。そしてニュース
番組の中で人が死ぬたびに、彼は暗い溜息をついた。
一度、私の仕事が終わったあとに、ふたりで深夜番組を見ていると臨時ニュースが
入った事があった。
新宿で深夜の爆弾事件がおこった時だ。週末の歌舞伎町が血だらけに染まった。皮
ジャンを着ている若者が何人も道ばたに倒れ、そのまわりにはなすすべもなく、友人
たちがじっと立ちすくんでいた。ニュースの最中に何人もの死亡が確認された。救急
車にも間に合わず死亡したらしいひとりの男の手を、赤い髪の女の子が握りしめて、
狂ったように泣きさけんでいた。
私たちはこたつに並んでうずくまった。ネズミは言った。
「ひとりの人が死ぬだけで、僕たちはどうしようもなくなるのに、こんなにたくさ
んの人が死ぬなんて。僕にはとても耐えられない。世の中には、不幸がみちあふれて
いる」
それでも彼の視線はテレビから離れない。あまりの恐怖を感じすぎて、彼は視線を
逸らすことができなくなってしまったのだ。
「あそこは、ナツの勤めている場所に似ている。僕は、ナツがあんな目にあったら、
そう考えるだけで気が狂いそうになる」
私もそう思った。夜ににぎあう町。闇に爆弾の紛れる町。そんな場所に身を置いて
いたなんて。
私は仕事にでる事が嫌になってしまった。
無断欠勤を何日も続けた。
電話がかかると、身体の具合が悪くってと嘘をついた。これではお店がどうにもな
らない。とりあえず新しい人を捜すから、しばらくゆっくり静養するといいと、店長
は言った。
私はクビになった。
ネズミはなんとか会社へ行ったが、それでも、朝気分がすぐれずに休む事が多かっ
た。ここから一歩もでたくないとさえ言った。そんな日は、本当に買い物にも行かず、
店屋物をとって、テレビをつけっぱなしにして一日を過ごした。
ふたりでいても、どこかへ行こう、という気はまったく起きなかった。ここにこう
している意外に、お互いを確認するすべなんてない。そんな空虚な気持ちでしか、私
たちは繋がれなかったのだ。
ネズミは、父親の夢をよく見たようだ。
夢の中で彼の父親は、彼をひどくなじる。かあさんが死んだのはおまえのせいだと
か、そんな事をいつも叫ぶらしい。ある日、夢の中の父親はこう言った。
「けっしてかあさんに会えないようにしてやる。おまえだけを、絶対に死なないよ
うにしてやる。そうすればいつまでもかあさんに会えない。いろんな人がそのうち死
んでいく。おまえは最後の最後まで生き残って、人と死に別れるつらさを味わいつく
すといい」
ネズミは、ああとうめき声をたてて、飛び起きた。汗びっしょりの彼はあきらかに
おびえていた。
実の父親がそんな事言うはずないと言っても、彼は、けっして信じなかった。
僕は、父親に愛されていなかった。ただ、おかあさんの付属物として、大切にされ
ていただけだったんだ。
本当にそうなのかどうか、私にはわからない。だけどネズミは、そのころ本当にそ
う信じていた。
一方私は、その話で母のことを思いだした。
母とは、こっちで暮らすようになってから、年に何回かしか会わない。話があわな
いのは、昔からなので、愛されているとか愛されていないとか、そんな事を考えた事
もなかった。
だけども今考えてみると、母は明らかに私を愛していなかった。
私は、夕暮れの買い物の風景を思い出すたびにそんな気持ちになる。それは、小学
校の頃の私の記憶の中で、一番寂しい光景だった。
夕飯の準備の時間になるといつも、母は私と妹をつれて、近所の商店街へと買い物
にでた。
ざわめく町なかで、今晩のおかずを決めながら歩き回る母。その右手には買い物か
ご。そして左手にはいつも、二歳年下の妹が繋がっていた。それが必ず左手だったこ
とまで、今でもよく覚えている。私はいつもその後ろについていたからだ。
ずっと大きくなってからもそうだった。高学年になっても、中学生になっても、大
晦日に大きな荷物をぶらさげるときでさえも。妹はいつも、母の腕に得意げにぶらさ
がっていた。私はいつも、その後ろ側にいた。
母はいつも、妹だけを保護していた。引っ込み思案の末っ子だった妹も、またそれ
に甘んじていた。
私は当時、それを快く思っていなかったが、なぜかつい最近まで、すっかり忘れき
っていた。
多分、愛されていないと言う事実を忘れさってしまいたかったのだろう。だけども
それをネズミの夢のせいで思い出してしまったのだ。
たとえどんなに親を嫌っていても、親に愛されていないという事実は異常に堪える。
自分を生み育てた人。自分の根元。そんなおおもとのところで否定されたら、もうど
うしようもない。
私は、絶望した。
ネズミの絶望に同調するように、ぴったりと絶望した。
私たちは、静かに絶望の淵に佇んだ。
そこにふたりでいる事だけが、私たちの存在理由であるかのように。
ただただじっと、佇んだ。
(続く)