冷蔵庫へ

.kogayuki.  「Vegetable Green」


 麦畑の向こうの小さな空き地に、柿の老木がぽつんと一本立っていた。
 配達の車から見えるその柿の木を「処女の顔をした魔女の木」と、わたしは呼んでいた。冬は魔女の住みかのようにくねくねと折れ曲がった枝ばかりだったのが、春になると花嫁のベールのように明るい新緑が芽吹いたのがとても不似合いだったからだ。
 きっと風が気持ちいいんだろう。新緑がさわさわ揺れていた。でも花粉症だしクシャミが出たらいやだから、結局車の窓は開けない。FMは夕方の番組に変わったばかりだ。「4時からはDJエイジでお届けします」ここからあと3軒。予定よりちょっと遅れぎみ。
 急いだ方がいいかな? サカタさんはもう少ししたらお嬢さんのスイミングのお迎えの時間だ。行き違いになっても問題ないし、野菜セットさえ置いておけば、集金は来週でもいいんだけど、できれば会って手渡ししたいなと思う。
 この信号を左折したら車の通りの少ない一本道。そこからちょっとスピードを出そう。

 今日はアラカワさんの家で思いのほか時間をくってしまった。
 ふつうはパックに入れてセット野菜を配達するのだけど、アラカワさんだけは必要な分だけ選んでもらっている。お年寄りの一人暮らしだし、そんなに量もいらないからだ。
「えーっと、冷蔵庫に何があったかしら、ちょっと見てきますね」
 銀髪のゆるゆるのウェーブがきれいなアライさんはそう言って席を立った。近所に嫁いだお嬢さんがときどき買い物してきてくれるらしい。
「ジャガイモ、人参、カボチャ、大根・・・ジャガイモ、人参。カボチャ、大根・・・」
 そうつぶやきながら玄関に戻ってくる。それくらいあったら何もいらないんじゃないかと心の中で思う。
「そうね、このエノキとシメジはあった方がいいわね、これの三杯酢が好きだから、あと、ほうれん草と・・・あら、これは何かしら?」
「小松菜です、厚揚げと煮るとおいしいです」
「じゃあ、その小松菜と・・・えーっと、ゴボウはウチにあったかしら」
「ジャガイモ、人参、カボチャ、大根だったですね、ゴボウはなかったです」
「じゃあ、ゴボウもいただくわ。これでしばらくは買い物行かなくても安心だわ。ひとりだから、家をあけるわけにもいかなくって」
 それからアラカワさんは財布を取りに行った。そうして5分くらいして、古いお屋敷の奥から泣きそうな顔をして戻ってきた。
「ごめんなさいね、お財布を見つからなくって。えーっと、いったいどこに置いたのかしら。もう、うっかりしちゃって、ほんと、どうしたことでしょう」
「わたしもよくお財布どこに置いたかわからなくなります。来週伺ったときにいっしょにご集金します」
「あら、ごめんなさいね、じゃあ、何かにお値段を書いてくださる? 忘れないように冷蔵庫に貼っておくから」
 アラかわさんはいつも、勧めると勧めるだけ買ってくださる。だからできるだけ勧めすぎないようにしてる。それでも売り上げの少ない日はちょっと邪悪な心が囁く。ゴボウはよけいだったかな?  まあ、長持ちするからいいか。

 ときどき、大豆がいっぱいに詰まったビーカーの図を思い浮かべた。学生の頃、理科の教科書で見たヤツだ。
 このビーカーの中にゆっくりと水を入れてもあふれることはない。ビーカーいっぱいに詰まっているように見えても、あいだに隙間がいっぱいあるからだ。
 ゆっくりと、あふれないように水を注ぎ込むという作業。
 たぶん、そういうのがわたしは嫌いじゃない。

*   *   *

 ふとしたきっかけではじめた野菜の配達ももう2年目に入った(と思う)。
 それからずっとおんなじ景色を見ている。
 いつまでこの景色をわたしは見るんだろう?
 いろんな場所で同じ景色を繰り返し見ていると、わたしはよくそんな気持ちになった。
 派遣の仕事をしていた頃のことだ。テレフォンショッピングのデータ入力をしていたときは、お昼休みに近所の総菜屋さんに行った。渋滞の多い国道をのろのろ進む車の排気ガスにまみれながら、あと何ヶ月くらいこの道を歩くんだろうかと思った。映画館のあるビルの上の事務所に雇われていたときは、目の前においしいパン屋さんがあった。押しボタンの信号を押して、車の流れが途切れるのを待って、何度食べても飽きない焼きたてパンのにおいを想像しながら、やっぱり、あとどれくらい……と思ったものだ。
 ちょっとしたジンクス。
 いつまで景色が続くんだろうと何度も思う仕事場は長続きしない。反対にそう思わない仕事場は長続きできる。
 わたしは派遣会社から雇われていたから、自分から辞めなくても、契約が終わったり人件費が逼迫したりして仕事自体がなくなることはよくあった。そうしてもちろん、どの会社にも長く勤めていたいと思っていた。(新しい仕事に変わると、馴れるまでの空気で疲れた。あと経済的な問題ももちろんあった。)
 最後に勤めた会社だけは中途採用の社員だった。けれど不思議なことにいつまで続くのだろうという感じはなくならなかった。高層ビルの13階の窓に広がる、海を渡る都市高速。吹く風までも感じられるような気分のいい眺め。こっちから辞めないかぎりこの風景はずっと続くはずだった。
 だけど同じ部署にいたタロウの転勤をきっかけに、結婚して全然知らない土地に来たわけだから、やはりそこまでだった。
 今わたしは住み慣れた福岡から100キロほど南の少しのんびりした土地にいて、繰り返しおんなじ風景を眺めている。
 いつまで続くだろうと、わたしは思わない。
 むしろ永遠に続いてもいいんじゃないか、とも思っている。
 それがイヤにならない程度にこの場所は平坦なんだろう。

*   *   *

 結婚してから新築の2DKのアパートに越してきた。
 全部で6世帯。2階のまんなかがわたしたちの部屋だ。
 バタバタで転勤してきたタロウが決めたアパートで、わたしは一ヶ月後にそこにやってきた。新築のアパートは、まだ壁紙のニオイのする、まっさらな部屋だった。
 最初の頃、タロウが会社に出勤したあと、わたしがひとりで荷物の片づけをしていた日のことをよく覚えている。
 わたしはふたりの服を一枚一枚折りたたんでタンスに入れていくのに、とうに飽きてしまっていた。最初は楽しかった作業も続ければ単調になってくる。まあいいや、今日中に終わらなくったって、そう決めて横になって、そのまま大きなクッションに顔をうずめた。いつのまにか眠ってしまったらしく、わたしは夢を見た。
 黒光りのする長い廊下が続いていた。その先に客間らしき場所がある。客間にはお膳が並んでいて、大勢の笑い声が響いていた。ああ、今日は法事の日なんだな、と夢の中で思った。知らない家に忍び込んだように気分だった。
「大きな古いお屋敷だったんだよ、ここが建つ前は」
 と数日後に近所の人に言われたとき、ああ、やっぱり法事をやってた家はここだったんだなと思った。
 新築のアパートはまだ、古い家の記憶を残していた。
 この古い記憶は、わたしたちを拒否するのだろうか、それとも受け入れてくれるのだろうか。どうか受け入れてくれますように、と心の中で祈った。

 幸運にも隣の部屋のカズちゃんとはすぐに仲よくなれた。
 なのに住み始めて数ヶ月が過ぎた頃に、彼女は流産してしまった。
 子供ができたときは、ウチの玄関のチャイムを鳴らして嬉しそうに報告してくれた。なのにある日定期検診に行ったまま戻ってこなくって、しばらくたって帰ってくると言葉少なにそのことを報告して、その日からぱったりと顔を合わせなくなってしまった。
「わたしが悪かったんだと思うの」
 一ヶ月もしてから、いよいよ心配になって部屋を訪ねると彼女はそう言った。
「今の食品って、添加物もいっぱいだし、野菜も農薬とかいっぱいなんでしょ? わたしそういうの何も考えずに食べていたから。だから赤ちゃんが耐えられなかったのかもしれない。これからは、生活を変えなくちゃって、考えていたところなんだ」
 今日からは閉じこもってないでちゃんと外出するようにする、買い物もダンナ任せだったし、少し自分で歩くようにしなくっちゃ。心配かけてごめんね。それでね、話はちがうんだけど……とカズちゃんは切り出した。お向かいの集合住宅の空き地で青空市場ってやってるでしょ? ほら、朝トラックが来てみんなでお野菜を分けてるの。あそこに入れてもらおうと思ってるんだけど、よかったら明日一緒に行ってみない?
 わたしは流産は不幸な事故だと思っていたし、食べ物のこととかが原因になるのかなんてわからなかった。けれど、それでカズちゃんが元気になるんだったらと思った。
 翌朝おそるおそるふたりで行ってみて声をかけたら、思いのほか歓迎された。年上の奥さんたちが多くて、高校生くらいの子供さんの話で盛り上がっていた。それでもわたしたちがよそから引っ越してきたことを知ると、近所のお店のこととかをいろいろ教えてくれた。
 それからは毎週ほうれん草やニラや見たこともない野菜を、勧められるままにそこで分けてもらうようになった。ジャガイモやキャベツくらいしか知らなかったわたしは、カズちゃんにしょっちゅう作り方を尋ねた。馴れてくると、市場に来る奥さんたちに野菜の使い方とか気軽に聞けるようにもなった。告白すると、野菜の茹で方ひとつもロクに知らないままにわたしは結婚したのだ。それが今ではほうれん草のおひたしとかも作れるようになった。夫は料理のレパートリーが増えたと喜んでくれた。カズちゃんも少しずつ元気になってきた。彼女は安全な食品の話とかを市場の年配のリーダーさんに話してもらうのが好きだった。

 しばらくしてわたしは、配達スタッフにならないかと荷下ろしをしている事務局の人に誘われた。(車を持っている無職の人を探していたらしい。カズちゃんのところは車はご主人が使っていた。それと、熱心なカズちゃんの連れなので、わたしも熱心なんだと誤解されたのかもしれない。)
 青空市場のない地域に個別配達をはじめるのだと言う。事務所で下ろした野菜を小分けにして配達するの。ほら、青空市場がない地域も多いしね。週2回だけどバイト代も出るからと言われた。忙しくもなかったし、今のところ仕事をする予定もなくて少々退屈してたから、断る理由もなかった。

 それからずっと自分の車で週に2回配達をしている。
 実際に行ってみると事務局の人から最初に聞いたのとはかなりニュアンスは違っていた。
 自主運営の青空市場は年々売り上げが減っていたのだ。若い人は気後れしてなかなかそういう場所に出てこないらしい(どおりで歓迎されたわけだ)。食べ盛りの子供が巣立つと野菜をやめる人もいる。売り上げが減少すると畑を契約している生産者に迷惑をかけてしまう。その苦肉の策が配達だったのだ。
「とにかく、がんばって売ってきて。期待してっから」
 そう言って豪快に笑う事務局のオバタさんに逆らうすべもなかった。
 宅配はお客さんからの紹介やオバタさんの営業のおかげで、一日15軒くらいに増えていった。それを週に2回、全部で30軒の配達だ。

*   *   *

「なるほどね、今日は水菜と春菊が余ったんだ」
 タロウがそう言いながら鍋をつついている。鶏肉に刻んだネギとショウガをまぜたつくね鍋だ。シイタケ、エノキ、シメジも入っている。キノコ類はなんでいつも一緒に余るんだろう。まあ、いろいろあった方がいろんな味が出ておいしいからいいけど。
「できれば白菜もあまってほしかったな」
「自分用の白菜キープしてたんだけどね」
「キープしてたのに、どうしたんだ?」
「だいたい白菜の季節も終わりがけで、数が少なかったのよ。それで、もう今年は終わりなんですかって言われて売っちゃったんだ。だって、そのお客さん、ああ、もっと食べたかったわってすごく残念そうだったんだもの」
「白菜なんて一年中食べれるもんだと思ってた」
「わたしも! 福岡にいる頃は白菜も大根もキャベツもレタスもふつうにいつでも食べれるもんだと思ってた」
「じゃあ、なんでアユミのとこにはないんだ?」
「スーパーとかだとこっちに白菜がない季節は、もっと寒い地方の白菜が来るんじゃない? それにハウス栽培してるとトマトなんかもずっと食べれるし。わたしが売ってる野菜は露地野菜で、ハウス栽培もしてないのよ。だからほんとの野菜の季節しかないの。白菜は冬で夏はニラ。実はわたしもそんなこと全然知らなかったわ」
「おんなじ野菜ばっかだと飽きないのかな?」
「……飽きないんじゃないの? よくわからないけれど。夏に鍋したりはしないし」
 そういえば、キュウリとか夏の生野菜は身体を冷やすし、冬は温野菜で身体をあっためるみたいなことを青空市場のリーダーさんが言ってたっけ。なにしろわたしは、この前産地の畑まで行ってはじめて、大根が土の中に埋まっているって知ったくらいなんだから。
 そんな話をするとタロウがケラケラ笑った。
「詐欺だよなあ。そんなんで、野菜売ってるなんて」
「もっと勉強した方がいいね」
「そうそう、商品知識は大事だよ」
 週に二日だけ働いているのも効率よくないし、もっと他の仕事探した方がいいかとも思うけれど、タロウは意外にわたしの仕事が気に入っているようだ。
 フルタイムで働いてバタバタされるよりマシと思っているのかもしれないし、子供ができたらいつでも辞めれる仕事と思っているのかもしれない。
 どういう巡り合わせか、子供はなかなか出来ない。カズちゃんもあのとき流産して以来そのままだ。
「とりあえずは、そういうことは気にせずに、しばらくふたりで楽しくやろうよ」
 とタロウは言う。
 未来はまだ夢の中だ。

*   *   *

 退屈ではなかった。
 むしろ、何もしなくてもいつまでたっても、退屈しないのが不思議だった。

 仕事がない日のわたしは部屋でだらだらと過ごす。
 仕事は週に二日、土日はタロウと一緒だから、週に三日はひとりきりだ。
 タロウが出社したあとにパジャマのままで洗濯して掃除や棚の整理をして、そのあいまに雑誌とかをパラパラめくるだけで、気づいたら夕方。ああ、またパジャマを脱ぐ機会を逸してしまった、今日も一度も外に出なかったなんて日もしょっちゅうだ。一日パジャマのままだって、タロウ以外の誰とも話さない一日だったって、つつがなく時間は流れる。
 怠惰はなんて気持ちいいんだろう。いつまでもこんなことでいいのかとか、残り何万日あるかわからない人生の一日を無駄にしてしまったとか、ちらりと考えないではなかったけど、それでも無為な時間が気持ちよかった。
 隣のカズちゃんに誘われてカズちゃんの家でお茶することもあったし、夕方には買い物に出かけることもあったけれど、だいたい用事がなければ洗濯や部屋の掃除をした。早めに煮物を作っておくこともあった。けれどだいたいの用事を終えてしまっても、だいたい半日分くらいは時間が余った。
 タロウはちょっとした小物をコレクションしていた。アメリカっぽいデザインの額縁やらゴミ箱やらもっと小さくて色鮮やかなキャラクターのついたキーホルダーやら、あとコンビニに売ってるような食玩やらだ。大学の頃留学したあたりから買いそろえはじめたのだと言うけれど、そういったものはいつも、テーブルの上に乱雑に散らばっているだけだ。 わたしはそれをトレイに並べてみたり、額縁を壁にかけながら色合いを考えてみたりした。そうしている時間は楽しかった。なのにしばらくすると飽きてしまった。飽きるとごろんとフローリングの床に横になって大きなクッションを抱え、ポスターや額縁の高さを揃えた白い壁を何時間も眺めた。
 夏至が近い夕暮れはいつまでも明るかった。わたしは白とブルーのストライプの大きなクッションを抱えたままで、思い出すのは昔のことばかりだった。

*   *   *

 平日の会社の帰りには、バスに揺られてサトウカズキの家まで行った。
 バスの番号は72番。同じバス停でも番号が違うとルートが違うので、この番号を何度も心でつぶやいた。
 中型のバイクで会社の近くまで迎えに来てくれることも何度かあったけれど、だいたいわたしがバスで行った。そういう力関係だったのだと思う。
 木造のアパートの2階だ。玄関で靴は脱がない。土足のまま廊下を歩いていく。そうして部屋の前で靴を脱いで上がる。女物のサンダルはその場所にはあからさまに不似合いだったけれど、サトウカズキはそんなことには頓着しなかった。
 六畳一間の部屋にはタイル貼りの台所がついているだけ。トイレは共同で玄関の脇。シャワーはもちろんのこと、風呂さえもついていない。
 いまどきそんなアパートがよくあったものだ。
 引っ越そうなんてぜんぜん思ってないよ、取り壊しになるまでここに住むんだと言ってサトウカズキは笑った。アゴのしゃくれた顔を隠すように髪を肩まで伸ばしていた。色白の神経質そうな顔は、どんなに笑ってもシニカルにしか見えなかった。
 学生街だからそんなアパートがあっても不思議はないのだけど、当の学生たちは新築のワンルームマンションに住んでるらしい。住人は中年のひとり暮らしの女性とか土木作業員らしき男性だったりだった。すれ違っても挨拶をしないのも、暗黙のルールだったのかもしれない。
 わたしは本棚から読んでない小説を持ち帰り用に選んだり、勝手にCDを聞いたりして遊んだ。そうして、そんな遊びが途切れる頃合いをみて、サトウカズキが横からわたしの耳たぶにキスをして、それから始まるのだ。
 小さな部屋のシングルのパイプベッドのクッションが悪かったので、わたしたちはいつも緩慢だった。テレビが照明がわりにチラチラしたり、かけっぱなしのCDがエンドレスに繰り返したりもした。ノイズ感が心地よかった。
 服を脱いだときの肌の色が白い。
 サトウカズキのこういうところがイヤだ。
 福岡はよそ者の集まりのような町だけど、わたしはJRで一本の県内から来たよそ者だ。彼は東京よりももっと北の町からやってきた。大学まではその町にいて大学院に入ったときから福岡に来たという。生まれ育った町の日差しは、きっと九州とは比べものにならないくらいに柔らかかったに違いない。
 シャワーがなくてもセックスできるんだな、と思った。
 シャワーがなくてもセックスできるかと思うと、なんだかいろんなことがどうでもいいように思えた。
  わたしはあの、どうでもいいような投げやりで無敵な感覚を、今でもふっと思い出してしまう。

 福岡に住み始めたのは就職してからだ。大学の頃は本数の少ない地方のJR線で40分かけて通っていたけれど、就職してからは不可能だった。終電までに仕事が終わらないなんてしょっちゅうだったからだ。電車がなくなるんで帰ります、となかなか言えない、でも帰らないわけにはいかない。終電の1時間くらい前からそんなことばかり考える生活は、新入社員のわたしにはとてつもなく重荷だった。
 コンピューターのソフトの会社は残業続きで、家まで借りたのに結局一年足らずで辞めてしまった。同期で入ったもうひとりの女の子メグミもいっしょに辞めた。社内のトラブルで何人もの社員が辞めたときで、今を逃したら一生辞められないと思って、二人して辞表を出したのだ。もっと重要な人たちが先に何人も辞めていたので社長もヤケだったのかもしれない。いいよ、もう、どうにでもして、と無精ひげの生えた社長に言われ、辞表はあっさりと受理された。引き留められたらどうしようと思っていたので、心の中で拍手した。
 あとで聞いたところによると、それが元で会社は分裂したらしい。たぶん原因は、わたしたちにはまったく知らされてない人間関係とかのトラブルなのだろうけれど、あまりにも雰囲気がすさんでいて、そこにいるのも苦痛なくらいだったから、そのことで後ろ髪ひかれることはなかった。
 これでもう終わらない仕事に追われて延々と残業する必要はなくなった。ああ、やっと眠れると思った。

「もう、しばらくは仕事なんてしたくないや。今まで、夜遊びする余裕なんかなかったから、これからは二人で遊んでみようよ」
 とメグミが言った。
 中洲とか天神は終電がすぎたあとでも毎日お祭りの行列のように人が溢れていたけれど、社会人になってからの方がそういう場所に行かなくなってしまっていた。
 会社で集まるのはいつも、会社の隣にある居酒屋だったし、わたしたちはほんとに疲れきっていて、二次会に繰り出すくらいなら家に帰って寝たいと本気で思っていた。それくらいわたしたちは、激務についていけてなかった。金曜の深夜からこんこんと眠り、土曜の夜には実家でごはんを食べ、遊ぶ元気はきれいさっぱりと剥ぎ取られてしまってたのだ。
 メグミとわたしは週末になるとおそるおそる夜の町に繰り出した。学生の頃は入れなかった不可解な照明のバーに入って名前だけしか知らないカクテルを頼んでみたり、深夜に流しのタクシーに乗ってみたりした。ふたりで歩いていて男性から声をかけられることもあったけれど、ついて行く勇気はなかった。勇気はなかったくせに、声をかけられると嬉しくて、そのあとクスクスと長いこと二人で笑いながら歩いた。
 だけどお互い失業保険で食いつなぐ身だ。毎日そんな生活ができるわけない。
 だんだん家賃のこととか不安になってくると、新しい仕事の情報を交換したり就職情報誌を回し読みしたりもした。遊ぶのは週末だけ、そう決めて、あとは面接にも何度も行った。なかなかすぐには決まらない。がっくりくる。そして週末。乏しい戦果を報告しあって、同じ状況に安堵してふたりで飲んだ。
 メグミはおっとりしていてあまり無茶な冒険もしないタイプだった。だけどもくりんと目が大きいものだから少量のマスカラだけでもとても派手に見える。彼女は、「ケバく見えるでしょ、嫌いなの、この顔」とよく言った。人目を引く魅力的な顔でもコンプレックスになるんだなと思った。

 わたしたちは結局お互いに何度か面接に落ちたすえに、メグミの提案で一緒に派遣の登録に行って、そこでやっと仕事にありつけた。派遣のシステムはよくわからなかったが、ちょっと上品なアルバイトのようなものだと思った。以前に比べて収入も下がることは目に見えていたが、ここで妥協しないと家賃が払えない。
 メグミとわたしは派遣される場所も離れていたし、彼女は販売の仕事に就くことが多かった。最初本人はそれほど乗り気ではなかったが、勧められてやっているうちに馴れてきたようだった。容貌のおかげもあったが、高飛車でなくおっとりした進め方が意外にも評判がよかったらしい。土日のマネキンでもけっこう売り上げて引っぱりだこなのだと人づてに聞いた。見た目もかわいいし、誰とでも合わせられる毒のない子だとは思っていたけれど、そういう才覚があったのは意外だった。結局お互いの休日が合わなくなって、彼女はわたしが都合のいい日に限って遠方に派遣されていたりして、そのうちだんだん疎遠になってしまっていった。
 わたしは相変わらず派遣でデータの入力ばかりをしていた。
 期間限定ではあったけど、そのことを不満に思うことはなかった。期限中何事もなく過ごせればどこでだっていいのだ。一生そこにいるわけじゃないんだから。
 中年の脂ぎった男性社員からしつこく飲みに誘われて閉口することもあった。そういうときに心を抜け殻にして怒ることなく事務的の断るすべをわたしは身につけた。
 休憩室の自販機の前で言葉を交わした男性社員と噂をたてられたこともあった。ダークスーツの着こなしがスマートでイヤミのないその男は、わたしがコーヒーの自販機の前に立つと、当然のように「コーヒー飲むの? 奢るよ」と言った。気持ちはすごく嬉しかったが断わらなければいけないと思った。コーヒー1杯の負債すらも作らない立ち位置をわたしは身につけた。その日のうちに「わたしはあいつに気があるんだ」と噂が広まったくらいだから結局は無駄だったのだけど。

 メグミと久しぶりに会ったらちょっと少し雰囲気が変わっていた。ケバくなるからと躊躇していたマスカラをかなりつけていたせいかもしれない。
「やっぱり売り上げの目標とかあるしね?。きついよ。ああ、いい人みつけて早く結婚したいよ」
と彼女は言った。
 マスカラにしろ、服にしろ、彼女は一段と洗練されていたし、おまけに彼女はいつのまにか、誰もが名前を知っているブランドに勤めていた。笑い方ひとつまでが陳列した商品みたいにきれいだった。なのに、彼女は家に帰ってひとりになるのがさみしくてイヤだと言った。ねえ、ハウスシェアしない? いっしょに住むと家賃安くなるし。
 家に帰って考えると言って、いったん帰った。
 そうして、ひとりの部屋でベッドでぼんやりとそのことを考えているうちに、なんだか不思議な悲しさに襲われて泣いてしまった。
 メグミと一緒に住むことはないだろう。わたしはここでひとりでしんと暮らすことが好きだからだ。
 だけども、この場所はたぶん永遠ではないのだと思った。
 その頃わたしの部屋は、カラダの一部のようにわたしにぴったりと馴染んでいた。風呂上がりに裸を全身鏡に映して確認することも、服を着る前にコップ一杯の水を飲み干すことも、ごく自然で不可欠な習慣だった。眠たくなるまでベッドで本を読むことも、そのまま寝てしまって、夜中に目覚めて電気を消すことも、合理的ではないけれどそれでもわたしの一部だった。
 メグミとハウスシェアすることはないにしても、わたしは一生こういうふうに生活することはできないだろう。
 それは「一生この生活をするつもりはない」という決意でもなく、ただの漠然とした予感だった。
 結婚をするのかもしれない。あるいは何らかの事情で実家に帰ったり、別の人と暮らすのかもしれない。だけども漠然とした予感の中で、わたしのこの生活は長くは続かなかった。
 壁にお気に入りのポストカードを一枚画鋲で留めていた。赤いポットを描いたきれいな色のポストカードはいつか色あせて朽ち果てるだろう。いや、朽ち果てる前になんらかの理由でこの部屋を引き払い、このポストカードははずされてしまうのかもしれない。
 そんなふうにしてここでの生活はなくなってしまう。やっと手に入れた心地よい孤独をわたしはそういうふうにしてなくしてしまう。
 そう思ったときに、思いもかけず涙がこぼれた。

 そうして予感どおりに、数年後に結婚して、わたしはその部屋を引き払うことになる。
 タロウの転勤が決まってからの結婚だったので、この部屋にそのまま住むという選択肢もなかった。もっとも7.5畳とキッチンだけでは二人で暮らすのも不可能だろうけど。
 少し広くなった2DK。
 わたしは今は、あのとき「なくしてしまう」と思ったものを、すべてなくしたわけではないと思っている。こうしてタロウが仕事から戻ってくるまでのあいだ、フローリングの床に寝転がって長い時間考え事をしたり、夏の夕暮れにゆっくりとシャワーを浴びたりもするし、ひとりで無為にすごす時間もちゃんとここにはあったからだ。だけども裸で部屋をうろうろしながら、鏡の前や扇風機の前でくつろいだりすることはなくなった。そこまでわたしは完璧なひとりではなかったからだと思う。
 玄関のチャイムが鳴ってタロウが戻ってくるまであと1時間足らず。
 そろそろごはんの準備をしなくっちゃ。
 そう思って、横になっていた身体をようやく縦にする。

*   *   *

「あ?、今日も暑くなるよね、こりゃぜったいお昼から暑くなるよ、ヤだなあ・・・また焼けちゃうよ」
 配達のユミコさんが煙草を消しながらブツブツ言っている。小柄なユミコさんは化粧が派手でショートカットの髪はブリーチしているし座りこんで煙草も吸うし、無農薬のイメージにぜんぜん合っていない。失礼を承知で言えば、年取ったヤンキーみたいな人だ。野菜の配達よりも化粧品のセールスをやってるって言った方がみんな納得できるんじゃないかと思う。
 なのにたくさんのお客さんに信頼されている。つきあってみると料理が好きでまっすぐないい人だってわかったけれど、いまだにわたしの中ではまだイメージが一定しない。
 この町は大きな山脈に囲まれた盆地のような地形になっていた。そのせいか夏はものすごく暑い。36度を超える日は車から出て野菜を運ぶだけで息苦しかった。それでもわたしは暑いのが嫌いじゃない。冬場の配達は尿意との闘いで、車を止めてトイレを探すのも至難の業だったから、汗で出る方がずっとラクだったのだ。
 15個ほどの野菜セットの大袋を詰めるとわたしのマーチはいっぱいいっぱいだ。急ブレーキをかけても落ちないように、荷物は床から順番に並べていく。
 このあと経理のイリベさんと代表のオバタさんは、事務所で今日の売り上げの計算。気をつけてね、事故らないようにね、と言いながら代表のオバタさんは、野菜の下に広げたシートをぱたぱたと折りたたんでいった。ここはいつもびみょうに忙しい。

 事務所から一番近い配達はファミーユマンション。100世帯はある大きなマンションだ。そこに3軒分の配達がある。
 同じマンションに3軒だと無駄がなくてラクだ。最初はコバヤシさんだけだったのがマンションの知り合いを紹介してくださった。欠点は、小学校の参観日や学校行事などの日はみんな一斉に不在になること。そんな日はオートロックのドアの前で立ち往生してしまう。だけども知らない人が来たときに「配達です」と言えばだいたい入れてもらえるし、「エスポワ」の配達さんと時間が重なっていたから、それは長い時間ではなかった。
「エスポワ」は食材と生活雑貨全体の配達を行っているこの地域の大手だ。安全な食材で人気もあり、ここのマンションにもかなりの利用者がいるらしい。エスポワは発砲スチロールの箱を台車いっぱいに載せて配達車から2往復するから、玄関で会う確率が高い。おまけにわたしが配達しているヤグチさんはエスポアとウチと両方を取っていらっしゃった。
「転勤してきてすぐにね、前のところでお世話になってたエスポアさんに連絡したの。こっちにもあるって聞いてきたから。でもね、お野菜は地元で無農薬のがあるからってコバヤシさんに紹介していただいて。だから、お野菜だけお宅にお願いしようと思って」
 まだ引っ越して間もないというヤグチさんはイエローブラウンの髪をふんわりとカールさせた細面の奥さんだった。6年生の男の子がひとりいるのだという。ジーンズを履いているのを見たことがない。無地だったりふわふわのプリントだったりするけれどいつだって膝丈のスカートだ。
「どちらから来られたんですか?」と尋ねると「福岡からなの」と言われた。
 住み慣れたなつかしい土地の名前だ。
「まあ! こんなところで福岡の方と会うなんて、嬉しい! まだこっちに馴れてなくて、ああ、クァトロカフェでお茶したい、なんて時々思うのよ」
「クァトロ。懐かしいです。まだあるんですね。独身の頃よくランチに行ってました。パスタランチ、いまでも食べたくなります」
「あのあたりに住んでいらしたの?」
「いえ、仕事場が近くだったんです」
 タロウとわたしの会社のあるビルの一階にあるオープンカフェだった。
 ヤグチさんはそこからバスで10分ほどのところに住んでいたのだと言う。よくショッピングの帰りにあそこでお茶をしたそうだ。手作りのケーキの中で一番好きなのはモカロールと言われて、口の中にじんわりと唾液が滲み出てきた。
 そんな話をしていたら「エスポア」の配達の男性が荷物を運んできて、その日はそこでタッチ交代。

 それ以来、エスポアの職員さんは、マンションのエントランスでわたしを見つけると、ドアを開けて待ってくれようになった。
「野菜屋さん?。どうぞ」
 愛想がよさそうな顔をしたふわふわ天然パーマの男性だった。30代前半といったところか。配達が天職のように見える。郵便配達の男性に挨拶したり、別の食材配達の女性と玄関で話しているのも見かけた。
 配達の人同士はおおむね友好的なのもわかった。宅配便でも郵便の人でも、入る際に後ろにいると必ず開けて待ってくれる。オートロックでの時間ロスはお互いさまだからだろう。だいたい時間帯は決まっているから担当代えがないかぎりは同じメンバーだ。そうして中にさえ入れば、どこの世帯にでも行けるのはやはり便利だった。(オートロックなのにどうして入ったの、と問いつめられることもなかった。そういう平和なマンションなのかもしれない)

 きっかけがあったせいかヤグチさんとはついつい話しこんでしまうことが多くなった。彼女はいつも福岡の話を聞きたがった。わたしの勤めていた中央区にはちょっとこぎれいなカフェやレストランがいっぱいあって、もちろんヤグチさんの方がすごく詳しかったのだけれど、わたしが知っているお店があると彼女は目を輝かせてなつかしがった。
「ほんとはね、向こうで私立の中学を受けさせるつもりだったの。単身赴任も考えたけど、息子がついて行きたいって言うし。結局受験はしないことにしたわ。こっちは私立がそこまでないから。ほんとはちょっとがっかりだったけど。まあ、疎開しててよかったわって思うこともいろいろあるし」
 たとえば病院での待ち時間が短くて済むとか、デパートの招待日でもそこまで混雑してないのでゆっくり買い物ができるとか、小学校も受験する子がいないのでのんびりしてるしお母さんたちも腹の探り合いがなくて気楽とか、そういう話だった。そっか、疎開って言うのか。
 でもね、デパートは混雑してなくても品物の感じはぜんぜん違うのね、ブランドものも揃ってないし。ねえ、そう思わない? 客層も違うっていうか、なんていうか・・・まあ、わたしの場合は里帰りしたときに思う存分あちらで買い物するからそんなに不便じゃないけど、とヤグチさんは小声で付け加えた。デパートで服を買う習慣がないわたしは、あいまいに笑った。
 エレベーターの開く気配がして台車を転がす音が後ろから聞こえた。
 エスポアさんと交代の時間だ。挨拶をしようとすると、いつもの人よりもいくぶん若いお兄ちゃんの姿が見えた。
「あら、エスポアさんの担当変わられたんですね」
「そうなの。バイトさんが入ったんだって。ね、前の人よりかっこいいでしょ?」
 ヤグチさんが耳元でそう言った。
 配達服のグレイのジャンバーの下のジーパンはダボダボで、腰をずいぶん下まで下げている。紫色に白のストライプのトランクスが丸見えだ。髪はライオンのように逆立てた金髪だった。その金髪のすきまから、とても重たそうな輪っかのピアスが見えている。
「ちわ?、配達です?」
 そう言って、発砲スチロールのケースをドンと下ろした。荷物の扱いがぞんざいなのがわたしは気に入らない。けれどヤグチさんは前よりもずっとニコニコしている。お疲れ様です、と挨拶して、すでに階下まで降りてしまったエレベーターのボタンを押した。
 エレベーターが上ってくるのを待ってるあいだ、コロコロと笑うヤグチさんの声が、いつまでも耳の後ろから響いた。

*   *   *

 家に帰って、残り野菜で食事を作った。空芯菜とベーコンの炒め物に赤魚の煮ものだ。
 空芯菜は、食べ方がわからないから人気のない野菜だ。ヤグチさんは、ああ、懐かしい、福岡のタイ料理のお店に行くと必ず注文したわ、と取ってくださるけど、「食べこなせないからいらない」って断られる方が圧倒的に多い。ニンニクと塩コショウで炒めるだけでおいしいですよって言うけれど、和食の味付けじゃないせいか敬遠される。今度、試食でも作って持って歩いてみようか。
 そういえばこの前、タイ料理のお店見つけたらぜったい教えてね、こっちに来てからぜんぜん食べてないの、とヤグチさんに誘われてしまった。タイ料理、どこにあるんだろう?

 そろそろタロウが帰るかなと思った頃に「遅くなりそう」とのケイタイメールが入った。空芯菜はちょっと色が変わるけど仕方ない、あとで一緒に食べようと思ってパソコンを開いた。
 暇にまかせてメールチェックをする。そうは言ってもメールなんてめったに来ない。日に何通かの迷惑メールを削除するくらいだ。それでもメールチェックするのは、誰かが思い出してメールでもくれないかなと思っているからなんだろう。
 結局新着メールは何もなくって、数日前に届いたサトウカズキのメールをもう一度開いた。簡単には読んだけれど、タロウが横でテレビをつけていたので、すぐにクロウズしたやつだ。
 どんなメールであろうとも、迷惑メール以外のメールは嬉しい。

 サトウカズキのメールは「通信 その13」というタイトルで、知り合いにまとめて送信する、ちょっとしたメルマガのようなものだった。

 今度自作詩の朗読ライブが8/22日に決定しました。ワンドリンク制、1500円。場所は福岡市中央区大名2丁目 ライブハウス「パワーオン」
出演者は以下の通り・・・・

10人ほど並んでいる名前のなかにはサトウカズキとカタヤマくんの名前があった。もうひとりが加わって3人でグループを組んで、もう何年も定期的に集まっているらしい。
 いつもは小説を批評しあったりするんだけど肩ひじの張ったものじゃないから、一度顔出してみない? とメールで誘われたことはあったけれど、正直そんなことのために福岡まで行く気にはなれなかった。わたしには知識も言うべきことも何もなかったし。

 あの頃わたしは。水中でしか生きられないサカナが時間をかけて両生類になっていくみたいに、サトウカズキという水槽から出ても呼吸ができるようになりたいと思っていたのだ。

 メールには「今月の作品」というURLがみっつ貼られていた。3人のメンバーが月に一作品ずつ発表しているわけだ。
 サトウカズキの作品のURLをクリックしてみた。近所で生まれた野良猫の子供が死んだり神隠しのように消えたりして1週間もしないうちに1匹もいなくなってしまったという日記のような短編だった。
 そりゃ誰だって大切なものをなくしてしまうのはつらいさ。だけどあんたは自分の大切な「喪失感」みたいなものをずっと大事にして、ときどき取り出して眺めてるだけじゃないか。
 あの頃わたしは、サトウカズキの描く恋愛小説の「なくしものだけが持つ輝き」みたいなものに憧れていた。なのに、いくつものやりとりのあげくにそういったものにうんざりしていたし、今は「なくしたもの」が輝いているなんて1ミリも思えなかった。
 メールの最後に私的なメッセージを一行見つけた。
 [朗読のイベント、見にこない? けっこーおもしろいと思うよ]
 毎月の「通信」を送ってくれることは、純粋にありがたかったけれど。
 サトウカズキが、いまだにわたしを「なくして」いないことがむしょうに腹立たしかった。

 サトウカズキとは通算3年くらいつきあっていただろうか。
 若かった頃、派遣されていた会社の近くの喫茶店に彼は座っていた。
 そのときの派遣先は、自宅からバスを2本乗り継いだところ。倉庫の横のちいさな事務所だった。お中元のシーズンに向けて、わたしは期間限定の派遣だった。
 普段は女性事務員がひとりだけらしい。メガネをかけた30すぎのその女性は、毎朝きちんとちょうど一日分ほどの仕事をわたしに与えた。仕事ができる人だったんだと思う。口数が少なくて仕事中ほとんど喋らなかった。でも、昼休みにはわたしの分もお茶を必ず煎れてくれたし、不機嫌でも嫌っているわけでもないと思うとむしろそれがラクだった。
 一方で荷下ろしの男性たちは派遣の女性が珍しいらしく、いろんなことを聞いたりしてきた。けっして悪い人たちではなかった。ただわたしの方が防御していただけだ。
 派遣先の会社の近くに安く食事のできる喫茶店を見つけて、わたしは帰りにときどきそこでひとりで食事をした。
 週に一度はここで食べていたと思う。チキンのソテーがおいしかった。ブルージュという名前が覚えられなくて、わたしはひとりひそかにこの店を「中島みゆきの喫茶店」と呼んだ。胸の大きな太めのおばさんの野太くてよく通る声が、中島みゆきの雰囲気に似ていたからだ。
 そのころのわたしは誰にも気を使わず食べたいものを食べることが楽しくてたまらなかった。ひとり暮らしにも慣れ、やっとそういう余裕が出てきたのだと思う。それでもお店のおばさんは、いつもひとりでやってきてカウンターに座るわたしを少し気にかけてくれていたのかもしれない。

「その無駄話に、このお嬢さんも入れてあげたら? どうせ、何時間もいる気やろう?」
 ある日、奥のテーブルにいた二人組の男性は、グループの客に席を譲るようにおばさんに言われてカウンター席に移動してきた。2人の顔色の悪い男たちはそういうふうに言われてちょっととまどっていた。(もちろんわたしもよけいなお世話だとちらりと思った)
同じように背の高いひょろりとした二人組は、まるでペアルックのようだけど微妙に色合いの違う安っぽいチェックの半袖のシャツを着ていた。
「ああ。よかったらどうぞ」
 そう言ったのはサトウカズキではなくて、もうひとりの方だ。サトウカズキは話の腰を折られたのが不機嫌そうな顔をしていた。
 近くの大学の助手という立場なのだという。それではじめて、ここが大学の近くのいわゆる学生街で、だから安い夕食にありつけるんだということに気づいた。
 もう一人のカタヤマという男性も色が白くて神経質な感じでサトウカズキと同じような雰囲気だったが、少なくとも彼の方が友好的だった。二人分の名前を紹介してくれたのは彼の方だった。
「ぼくたち小説、書いてるんだけど、そんなのって興味ある?」
 せっかく話に入れてもらって申し訳ないけれど、まったく興味がなかったのでそう言った。嘘はつかない、興味があるふりしてもすぐにバレるだろうと思った。
「まあ、それがふつうそうだよね、何してる人?」
 派遣で仕事に行っているのだと言ったら、サトウカズキが今度は興味を持った。いろんな会社に行けるなんておもしろそうだ、なんかおもしろいことある?って聞かれた。
 おもしろいことなんて何もない、鎧を着て仕事しているようなものだとつい、その前に勤めていた会社の愚痴を喋ってしまったら、よけいにおもしろがった。
「へえ?、セクハラおやじなんて、まわりにいないから、おもしろいよ。世の中にはそんなバカなヤツがいるんだな。ねえ、それで、そういうヤツにはどんなお仕置きをするわけ?」
 お仕置きなんて出来るわけない。笑って愛想ふりまいておくだけだ。そうして派遣の期間が終わるのを指折り数えているだけだ。(実際その仕事は3ヶ月の契約、場合によっては延長もありという内容だったし、けっきょく延長はなかった)。
 そう答えるとサトウカズキはよけいにおもしろがった。
「泣き寝入りするわけ? 最後にドカンとなんかやればよかったのに。それがスジってもんだろ? 出ていくときにそいつのヅラをぱかっとはずすとかさ」
「ヅラじゃないよ、髪は薄いけど」
「じゃあ、モップでもかぶせてやればいい」
 頭が痛くなった。派遣は派遣会社が行うんで、会社の顔に泥を塗るようなことできるわけがない。だから、そんなことはしないもんなのよと噛んで含めるようにと言うと、連れのカタヤマという男がうなずいた。
「ごめんね。サトウは常識がなくって」
 サトウカズキはそんなアホな世間なんて知らなくても平気だよと笑った。子供のようだと思ったが、サトウカズキは神経質で他人を許せないだけだった。だからわたしの話にでてくる「檻の中で威張っているライオンのようなオヤジ」が大嫌いだったのだ。

 それからその店で会うとわたしたちはなぜか3人で話しこむようになった。
 カタヤマだけのことは不思議となかったけれど、サトウカズキだけの日はやはり長々と話しこんだ。
「ねえ、なんかおもしろいことない?」が、彼の口癖だった。
 派遣先の会社と自宅を行き来するだけの生活におもしろいことなどあるわけもないのだが、正社員の女性の連絡ミスでわたしの仕事が遅れて、それでわたしの責任になってしまった話などを彼はとても喜んだ。あと、前の会社の会議室でコピーした書類を仕分けするように言われたのに中からカギがかかっていて、おまけに怪しげな吐息が漏れていた話をすると椅子から落ちそうになるくらいに笑った。わたしはノックをすることもできなくてすごく困ったというのに。
「アユミってさ、なんでも我慢するんだよな。我慢してるくせに怒ってるとこがおかしい。立場上弱い人間だって自分のこと思ってそれであきらめてるとこがおかしい。それってムカつかない?」
「むかつくよ。でもむかつくって思っていつも仕返ししてたらキリがないのよ、会社勤めって」
「世間の人たちって、そうなんだなあ。一生そいつらと会わないで暮らしていたいけど。でも見てみたい気もするなあ。あ、でも大学の人間関係もつまんないから、同じようなもんか。ああ、つまんないよな、やつらってさ。どうして人は怒れないんだろう。イヤなものをイヤって言えないんだろう。それをすると自分が傷つくのがわかってるからなんだよな、きっと」
「どうして、イヤっていうと傷つくの?」
「人間ってイヤって言えないように小さい頃から仕込まれているんだ。仕込まれていることと違うことをやると、どうしていいかわからなくなってひどく傷ついてしまうんだ。人はそういうとき、途方に暮れるんじゃなくて傷ついてしまうんだよ」
 今ならよくわかる。これはサトウカズキが自分のことを言った言葉だ。
 だけどもそのときはそれを見抜けなくって、わたしは自分が責められているような気がした。彼はすごく巧妙に自分の弱さを隠していた。自分が自分の弱さをよく知っている分、巧妙すぎるくらい上手に隠していた。
「ねえ、うちにおいでよ、セックスしよう」
 青白い顔のサトウカズキが笑いながらそう言った。伸びすぎた前髪が両目を半分くらい隠していて表情がイマイチわからなかったけど、サトウカズキはたしかに笑ってそう言った。この言いぐさはなんだ、もっと気の利いた口説き方はできないのか、と思う反面、わたしはサトウカズキのこういうところに負けるしかなかった。
 サトウカズキはある意味無敵だった。
 だから、わたしは、サトウカズキと一緒にいて、同じくらい無敵になりたかったのかもしれない。

「ねえ、したくないの? セックス」
「いや、そういうわけじゃなくて」
「じゃあ、セックスしたいんだ」
「そうね」
「そうね、ってなんかあいまいだよ。セックスしたいの? したくないの? はっきり言ってよ。イヤならイヤでいいんだからさ」
「ああ、したいよ。セックスしたいよ」
「オケー。じゃあ今からウチに行こう」

 そう言って連れていかれたのに、サトウカズキのアパートは木造の学生長屋のような所だった。廊下はゴミこそ落ちてなかったけれどものすごく汚れていた。何をこぼしたかもわからないような真っ黒い染みの点在。
 中は畳の6畳に板張りの台所。本棚の上にも畳の上にも雑然と本が積み上げられてるだけの部屋。おまけにバスルームもシャワーもなかった。
「でも、トイレは玄関のわきにあるよ。それに銭湯も近いからそんなに不自由はしてないよ」
 そういう問題じゃないと思った。
 だけど、それでもかまわなかったのだ。そういうのもいいなと思って、いつかそういう場所が自分の場所だと思うようになってしまっていたのだ。

*   *   *

「タイ料理のお店、今度行くんだけどご一緒しない?」
 配達のときにヤグチさんに誘われた。「お野菜を取ってるうちのマンションの3人グループでね、外に飲みに行こうって話になってるのよ。そうそう、コバヤシさんからタイ料理のお店も教えてもらったの」
 タイ料理は魅力的だったけれど、いつか行こうという話が現実味を帯びてくるととたんに面倒になってしまった。お客さんと一緒っていうのは気を遣いそうだ。
「ほら、子供たちはみんな同級生で男の子でしょ、同じマンションのコバヤシさんところに泊まるの。あそこのダンナさん子供好きだし寛大だから。ウチはその点、ぜんぜんダメ。ほかのダンナさんともあまり話しないし、こっちが気疲れするばかりで」
 日にちが決まったらケイタイに電話を入れるから、と言われた。わたしのケイタイ電話の番号は連絡先として知らせてあるし、断る理由もなかった。
 まあ、いいや。その時になってイヤだったら何か用事を作ればいいんだから。
 次に行ったコバヤシさんのお宅でも同じおさそいをされた。
 コバヤシさんはヤグチさんの一階上で、一番最初から野菜を取ってくださってる方だ。PTAの副会長をしていると聞いたけど、ヤグチさんに比べたら服装は地味。ジーンズにTシャツ以外の日を見たことがない。ストレートな長い黒髪はとてもきれいだけど、それをきっちりとひとつ結びにしている。目鼻立ちがくっきりしてて大柄だけどいつもお化粧はしていない、そういうことも含めて無駄話ができる雰囲気ではなかった。
「ヤグチさんとおんなじご出身だったのね」
「いえ、出身は違うところなんです、独身の頃住んでただけで・・」
 と言うと、自分はこの町から出たことがないから羨ましいと言われた。
「でも女の子がひとり暮らしなんてとんでもないって親に言われてね。夫はウチの家業を継ぐ人という条件だったから、悪い虫がついちゃいけないってすごく親が厳しかったの。門限だって結婚するまでずっと9時だったし。だからわたし、独身の頃あんまり遊んでないのよ。いろいろ楽しいこと教えてね」
 マンションの最後の一軒のタナカさんにもタイ料理のことを言われた。
 小柄でおとなしくてほとんど言葉を交わさないタナカさんが小さな声で「楽しみにしています」と笑いながら言ったのが意外だった。

*   *   *

 月初めの会議のたびにタロウは福岡に出向く。
 同じ会社の人と車を乗り合わせていって、帰りはいつも会社の近くの屋台でラーメンを食べてくる。
 その屋台のすぐ傍には川が流れていた。川はすぐに博多湾へと繋がっていた。博多湾の先端には赤いタワーが見えていた。夕暮れの斜めに差し込む太陽を受けて、川のさざなみのひとつひとつがキラキラ輝いていた。
 ラーメンの味はもう今は思い出せないけれど、少し潮のまじった風を受けながら屋台の椅子に座ったときの、すごい開放感だけは今でも鮮明に覚えている。
 いや、あのときいっしょだったのは、タロウだったんだろうか・・・

「ねえ、クァトロカフェって、まだある?」
 なんとなく懐かしくなってタロウに尋ねた。
「ああ、会社の一階ね、あいかわらず多いなあ。でも、女の人ばっかりだからあそこでは食べないよね」
「大名のタイ料理のお店、覚えてる? あそこなんて名前だっけ? 前に一緒に行ったよね」
「タイ料理? 行ったっけ? 覚えてないなあ。高いステーキ屋に奮発して入ったのは覚えてるけど」
 またわたしの記憶違いか? タロウと福岡で外食した回数は意外に少ない。つきあいはじめてすぐに転勤が決まって、福岡を出歩いたことはそんなになかったのだ。なのにわたしの記憶は混乱している。
「ねえ。お客さんにタイ料理に行こうって誘われてるの、どうだろ?」
「へえ、いいねえ。男同士って、お客さんとそんなおしゃれなとこ行かないけど、いいんじゃない?」
「仕事先のお客さんと食べに行くのって経験ないんだよね、おもしろい?」
「おもしろいか、なんて考えたっことなかったなあ。酒飲んだりするのも仕事のうちって感覚だからね。でも、趣味とか一緒で話してておもしろいこともあるし。気が合う人間ができると仕事もスムーズになるのはたしかだよ」
「行ってみようかな?」
「いいんじゃない?」

「いいんじゃない?」が口癖の男って一緒にいてラクなんじゃない?
 タロウのことをよく知っている同僚が昔給湯室でそう囁いたことを思い出した。わたしもそう思った。サトウカズキには到底言えない言葉だ。彼の口癖は「ほんとにそう思ってる?」だったから。

「いいんじゃない?」は肯定ではあるけれど、どこにも着地しない言葉だと最近気づいた。
 わかっている。
 どこかに着地する言葉なんて誰も使わない。

*   *   *

 ルームシェアの申し出を断ってから半年後にメグミは結婚した。
 肩を大きくだしたマーメイドラインのウエディングドレスがよく似合っていた。
 アパレル関係の結婚式は華やかだ。ノースリーブのドレスにショールの女性たちは髪も爪の先も笑い声も特別な日のものだった。男性ももちろんそうだ。髪の毛のセット具合まで芸術的に見える。悪意も何もないにちがいないのに、まぶしすぎて中に入れない。雑誌の「結婚式特集」を眺めているみたいにわたしはその外側に立っていた。
 勝手に気後れしてしまって悪いとは思ったけれど、親しげに話しかけてくる男性からの二次会のお誘いを断って、ひとりで部屋に戻ることにした。
「帰っちゃうの? ひさしぶりだからゆっくり話したかったのに?」
 白い陶器のような肩がまぶしいウエディングドレスのメグミがそう言った。
「ごめんね、明日、早いから」
「じゃあ、旅行から帰ってからゆっくり会おうね」
 そう約束したのに、なんとなくそれからまた会う機会がなくって、その後メグミとは結局年賀状だけのつきあいになってしまっている。

 サトウカズキとのつきあいはそのあいだもずっと続いていた。
「アユミ、そういうのってどう思う?」
 サトウカズキはわたしにそう尋ねる。前髪を切ればいいのに、とその顔を見ながらわたしは思う。肩に届かないくらいのバランスよく切った髪型に不満はなかったが、目を隠す前髪のせいでサトウカズキの表情はいつもよくわからない。
 サトウカズキが尋ねるのは一般的な人間の思考の傾向であったり、こういう傍若無人な発言をする人はいったい何を考えているのかという、間接的な人間関係の愚痴であったりした。わたしは自分の思ったことを口にする。とりあえずそいつが俗物であると判断し、どういうふうに俗物であるかを口にしたりもする。そんなときわたしは、偽物の神様になれたような気がした。それから詐欺師にもなれた。話を作り上げてゆくあいだに自分の言葉に酔いしれられる詐欺師だ。
 不思議なことにサトウカズキはわたしの仕事にとてもシンパシーを感じていた。憧れていたと言っても言い過ぎでないかもしれない。ときどきわたしの派遣先は変わる。長かったり短かったりもするけれど、それでもときどき変わるのだ。
「今も博多駅?」
「ううん。流通センターのあたり」
「あれ、ここから近いじゃん」
「でも、今週までだからね」
「来週はどこ?」
「ちょっと休むつもり。次は決まってるけど、来月からだから」
「いいな。どんどん仕事変われて」
 そういう言い方には馴れていた。殿様商売だとか好きな日に休んでいるとかラクしてるわりには時給がいいとか。そのたびに人間の持つ誤解力に驚嘆しないではいられなかったが、サトウカズキが言っているのは少しばかりニュアンスが違っているような気がした。
仕事ってしがらみが増えていくばかりなのに、そういう働き方をしていない。むしろその逆だ。時間を切るように淡々としがらみを切り捨てていける。それがカッコイイのだとサトウカズキは言った。
「もちろん、しがらみがないなら、すべてがラクと思ってるわけではないんでしょう?」
「うん、それはわかるよ。一定の距離を保つってのは、なかなかむつかしいことだと思う」
「そう、一定の距離を持ってつきあうのってむつかしい。つけいられる隙を作らないことばかり考えてる」
 それはサトウカズキに対してだっていっしょだ、と心の中でつぶやいた。だけどほんとはつけいったりつけいられたり、頼ったり頼られたりもしてみたい。なのにサトウカズキにはそういう隙間がなかった。
 そのころのわたしはある程度は仕事ができるようにはなっていたと思う。それでも、ほんとうのわたしは「誰とでも入れ替わりの効く臨時の要員」だった。もちろんわたし自身はそのことをイヤになるくらいよくわかっていた。
 何の保証もない状態であることも、気の許せる仲間を作れないことも、これからずっとこういう生活を続ける不安ももちろんあって。わたしはひとりの夜にときどきその不安に押し潰されそうになった。いつまでこのままひとりでいるんだろう、いつまでこんなふうに面倒な仕事をひとりで抱えて、いつまで夜にひとりでごはんを食べるんだろう。それ自体が不満であるほどではないのに、これが永遠に続くかと思うとなぜだかすごくうんざりしてしまうのだった。かといって。メグミのように頼りにできる相手がいるわけではなかった。
 サトウカズキは頼りにしてはいけない人間だった。そう思わせたのはサトウカズキだったかもしれないし、サトウカズキの思うような人間でありたいわたし自身だったかもしれない。
 それでも、派遣の仕事を繰り返す不安はサトウカズキがいたから忘れていられただけなのだ。そのためわたしはサトウカズキが必要だった。
 彼の前にいるときだけ、わたしはこの仕事のことを少し誇らしく思えた。
 サトウカズキという水槽の中で自由に泳ぎ回っていても、わたしは、そこを出れば窒息してしまう気の弱い人間だ。だから、サトウカズキから離れられないくせに、それ以上近づくこともできなかったのだ。

「ねえ。結婚とか、そんなことは考えないの?」
 わたしをその対象とは思えないのかというニュアンスを含ませて、ある日わたしはそう尋ねた。
「自分のDNAが嫌いなんだ。だから、子孫を残したくない」
「結婚することと、子供を作ることは一緒じゃないわ」
「一緒じゃないけど、繋がってる」
 それからサトウカズキは少し考えて沈黙する。青白い肌に、前髪がかかっている。色は白いが綺麗な顔とは思えない。むしろ病的だと思った。
「おれ、ひとりだけ顔が違ってたんだ」サトウカズキは言った。「ねえちゃんがふたりいてさ、ちょっと濃い顔なんだ、父親似のね。眉毛なんてすぐに繋がってしまうから、中学生の頃からふたりでしょっちゅう抜いてたよ。抜いたとこはだんだん生えて来なくなるからって言ってさ、もっとも抜いても抜いてもふたりの眉はすごい勢いで生えてきてたけどな。
 ウチは父親も母親も小学校の教師でさ、すごく忙しくて帰りも遅くて、家にいたのはばあちゃんだけだった。で。ねえちゃんふたりでおれを脅かすんだ。ほんとはね、あんただけウチの子供じゃないのよ。眉毛うすいし、目だって一重まぶたじゃないか。男の子もひとり欲しくってね、お父さんとお母さんが川で拾ってきたのよってさ。おれ、嘘だって思ったけど、完璧に嘘と思えなくって夜になるとひとりで泣いたよ。ばあちゃんにもこっそり聞いたことある。ほんとに拾われてきたのかって。そんなことない、ちゃんとお母さんのおなかから生まれたんだってばあちゃんは言ったよ。おまえは死んだおじいちゃんにそっくり、顔もそんな性格もそっくりだからウチの子に間違いないよってね。でもさ、母親が一緒だからって父親も一緒だってかぎらないんだよな。
 眉毛が太いのは父親の遺伝子なんだ。それがおれにはなかった。高校の生物の時間にそのことに気づいたんだ。で、高校3年の夏休みにさ。なんとなく本棚に並べてある昔のアルバムを見たら、母親が修学旅行の引率かなんかでみんなで集まってる集合写真があったんだ。その中に、おれにそっくりな男がいて、母親のとなりで笑っていた」
「写真だもの。本物じゃないからわからないわ。それに先入観もあったと思う」
「ああ。そうだ。あくまで推測だよ。きっと、どこの子供でも一度は考えるようなことだ。だけども、一生答えなんてわからないんだよな。そう思ったら、けっこう堪えたよ。勉強したらなんでもわかりそうな気がしていた矢先だったからね。学んでも、どれだけ本を読んでも追求しても、一生わからないことがあるってことにそのとき気づいたんだ。宇宙の真理みたいなさ、そういうことが目の前にあって、おれは一生わからないことを抱えて生きなきゃいけないんだ。宇宙の真理はみんながわからないことだから仕方がない。でも、おれの個人的に一生わからないことはおれにとってどうしようもなかったんだ。だから、おれは結婚しないことに決めたの」
「一生わからないことなんて誰だって多かれ少なかれ抱えていると思う」
「そうだよな、自分だけの不幸っていうほどのできごとでもないよ。母親の女の部分ってすごくなまなましくって認められなかったし、母親に写真を見せて問いつめる勇気もなかった。戸籍だって完璧なはずだ。だから一生答えの出ないままにしておくしかないんだ。そういう感じってわかる?」
「正直言ってわからない」
 わたしはそう答えた。わからないんだもの、仕方ないじゃないか。わたしの父親はわたしにそっくりだし、そんなこと疑ったこともなかった。それがわたし自身の負い目に見えるくらい、サトウカズキは自分の傷をしっかり自分のものにしていたのだ。
 あるゴミ出し日の朝、父母が出かけたあとの登校前の時間に、サトウカズキはそのアルバムを自分の部屋のゴミと一緒に袋にまとめて捨てた。ささやかな復讐のつもりだった。
「だけどさ、母親がそれに気づいたのかどうかはわかんないんだよな。母親は学校を変わるごとにその学校の記念写真を一冊のアルバムにまとめて整理してたんだ。その中の一冊、日の山小学校の分のアルバムだけが本棚からなくなっている。それがどういうことか、母親は気づいたのかな? 偶然なくなったって思うんだろうか? それともずっと忙しそうな人だったから、なくなったことすら気づいてないかもしれない。もっともなくなったことに気づいたとしても、そんな重大な秘密があったとしたら、誰にも聞かないよな、ふつう。
 だから、子供のオレにとっては精一杯の復讐だったんだけど、効果的な復讐だったのかさえ、この年になってもいまだにわかってないんだよな」
 こういうところだ。
 こういうところにわたしはいつも負けてしまうのだ。

 タロウの家に最初にごあいさつに行ったときのことをそれから思い出した。
 タロウは父親に並ぶとまるで兄弟のようにそっくりだった。おまけに母親までもが父親と同じ顔をしていた。
 うち解けてきた頃にそのことを言ったら、お義母さんは笑って答えた。
「誰にでもそう言われるのよ。夫婦じゃなくって兄妹みたいだって。でもね、毎日おなじものを食べているとね、顔まで似てくるものなのよ。あなたとタロウだって何年かたつと兄弟みたいに顔がおんなじになるかもしれないわよ」
 天真爛漫という言葉を思い出した。これがタロウの育った環境なのだ。この家には「一生わからないもの」なんて存在していないように見えた。
 サトウカズキは幼い頃偏食が多かったのだと勝手に推論した。彼は今でもチーズが食べられないし、きっと父母と同じものを食べていなかったのだ。だから家族の中でひとり違う顔をしていたのだ。
 そうだ。そんなふうに彼のトラウマを「偏食の弊害」として片づけてしまおう、ばかばかしすぎて笑うしかなくなってしまうだろう。わたしは、タロウの家でふとサトウカズキのことなどを思い出してしまう自分の不埒さを慌てて打ち消して、お義母さんのにこやかな顔に対して、同じくらいにこやかに笑い返した。

*   *   *

「ビール、何にする?」
メニューを広げたコバヤシさんが尋ねた。
「シンハがいいわ。大好き。あっちにいくといつもシンハだったの」
 とヤグチさんが言った。
「ヤグチさん、馴れてるよね、ボーナスのたびに海外旅行に行ってたってだけあるわ、わたしなんか新婚旅行のハワイしか知らないんだもの。それも集団で観光地巡りしただけ。羨ましいわよね」
 コバヤシさんが言った。わたしも新婚旅行の香港以外、海外に行ったことがない。同じ福岡での独身生活を送っていてもぜんぜん違うなあとみょうに感心してしまった。
 同じマンションのタナカさんは子供が熱だしてダメになったらしい。
「仕方ないのよね、お泊まりとか楽しみにしてるときにかぎって子供って熱だしちゃうんだから」とヤグチさんが言った。
「でも、タナカさん、がっかりしてるわよね、あの人、ほんとに飲むのが大好きなんだもの」とコバヤシさんが続ける。
 正直言って意外だった。タナカさんは小柄でおとなしい感じでお酒を飲むのが好きという感じに見えない。わたしがそう言うと、コバヤシさんは声をたてて笑った。
「そうそう。一見そんな感じよねー。でも、外見にダマされちゃいけないわよ。あの人が一番すごいんだから。酔っぱらって笑い出すともう誰も止められない。もう辞めたらって言ってもいつまでもおかわりするし。前後不覚になって、何度抱えるようにして帰ったことか・・」
「そう言えば、タナカさん、アレもあったわよね。酔っぱらったわたしに恐いものなんてないんだから?って道の真ん中で叫んだの。ちょっとびびったわ、まあ、周りに人がいなかったからよかったものの」とヤグチさんが付け加えた。
 え?
 それは、ちょっとイヤかもしれない。

 ヤグチさんはラメが動くたびにチラチラと光る黒いニットを着ていた。身体にぴったりのラインでいつもより一層エレガントだ。そしてコバヤシさんは黒い上着にラベンダー色のシフォンのスカーフを巻いている。もちろんストレートの黒髪は、今日はひとつ結びではなくてまっすぐ肩にかかっている。普段のサイズの合っていないTシャツ姿とはえらい違いだった。
「えーと、野菜屋さんは・・名前、なんて呼んだらいい?」とコバヤシさんが尋ねると「アユミちゃん!」とヤグチさんが叫んだ。
 アユミちゃんなんて呼ばれるのは恥ずかしかった。でも年下なので親しみを込めてくれたのだろうと思ってあきらめる。今日のヤグチさんはみょうにテンションが高かった。
 シンハビールで乾杯したあとに、ヤグチさんがウェイターにぽんぽんと注文していった。生春巻き、ナシゴレン、トムヤムクン・・・空芯菜も食べる? と尋ねられたんでお願いします、と答えた。
 一束100円程度の空芯菜を、調理してもらって500円。ニンニクとナンプラーの風味が効いた空芯菜はすごくおいしかった。そっかこんなふうに味付けすればいいのか、でも家庭ではムリかな? でも、素材自体はウチのヤツの方が新鮮かな、などと考え、ここまで来て野菜の味を吟味している自分がちょっとおかしかった。
 コバヤシさんとはあまり雑談したことがなかったけれど、ヤグチさんには気を許しているらしい。しばらくはコバヤシさんの一方的なお喋りが続いた。PTA に協力的でない母親への不満とか、学校での問題児から自分の子供がどんなことをされたのかとか、それに対する先生の対応。具体的にはあの先生は子供を産んだことがないから子供のことをちっともわかっていないという愚痴。ヤグチさんは軽くいなすようにそれに同意しながら、ほらスィートチリソースもつけた方がいいわよ、とか言っている。かみあってない、というよりも、お互い別々の世界を目の前に広げているような感じだったのが不思議だった。案外ヤグチさんはPTAとか学校のことには興味がないのかもしれない。
 ヤグチさんはお料理よりむしろ異国の雰囲気を堪能しているような気がした。ナイフでソースのついた唐揚げを手際よく切り分ける彼女を見ていると、ここがバンコクのレストランにいるように見える。わたしはバンコクなんて、行ったことないのに。

「あーあ。わたしもヤグチさんみたいに独身の頃いっぱい旅行しとくんだった」
「これからご主人と行けばいいじゃない。ご両親が子供預かってくれるんでしょ?」
「ダンナはね、家で遊ぶ方が好きなんだ。パソコンおたくだし。わたしってそういう星回りなんだよね。両親はずっと自宅から出してくれなかったし、短大出たら、家業の手伝いとお見合いの繰り返し、あ、お稽古ごとも繰り返したな、お茶とかお花とか。でも夜遊びをしてないから、男を吟味する目もなかったのよね」
「今は優しいダンナ様が社長なんでしょ? 甘えさせてもらって自分で遊んだらいいじゃない」
「うん、そうしようと思ってる。今からでも遅くないよね」
 そう言って勢いよくコバヤシさんはシンハを飲み干した。
「あの、ご主人、社長さんなんですか? すごいですね」
 そういえばコバヤシさんの家業の話なんて聞いたことなかった
「入り婿でね。大学では経営と会計学が専攻で、ゆくゆくは社長ってことで来たわけだからね。まあ、会計はバシバシやってる。スーパーコバヤシって知ってる? そこがウチのお店なんだ」
 知ってるどころではない。この地方に何軒もあるスーパーだ。小さな店舗だけど品揃えもよくて、近所でよく利用しているところだった。そう大きくはないのに何種類ものドレッシングや外国製のスパイスが並んでいる、ちょっと見ていて楽しくなるスーパーだった。
「よく利用しますよ。近所だし、品数も豊富だし」
「あら、ありがと。嬉しいわ」
「でも」でも・・とわたしは思った。
「スーパーにもお野菜いっぱい揃っているのに、どうしてウチなんかで取ってくださるんですか?」
 まあ、気分転換、てか、ちょっとした裏切りかな、そう言ってコバヤシさんは笑った。
「ダンナさんを裏切りたいの?」
「そうかもね、ダンナを裏切ってみたいのかも。子供も好きだし。経営も好きそうだし。まあ大変かもしれないけど、あの人はあの人なりにちゃんとやってる。外国製のオリーブオイルや食材を揃えたのもダンナ。こういうふうに差別化していくとそれなりのお客がつくんだって、すごく一生懸命にやってくれて、実際にあの人の代になって売り上げもずいぶん増えたわ。でも、わたしはずっと退屈だった・・・PTAやっても何やっても。それって子供のためと思っていても、ぜんぜん自分のためって感じがしないのよ。だから、もっと楽しまなくっちゃね。だってね。ヤグチさんとわたしは違いすぎるもの」
「違わないわよ・・・おなじマンションでおなじように夕飯作ってるじゃない。それにわたし、転勤でこっちに来ていきなりひとりぼっちになって、これからなんでもひとりだよ、って言われたみたいで、どうしていいかわからなかったもの。だからコバヤシさんやタナカさんに会えて心強かったのよ、ほんとに」
 目鼻立ちのはっきりした美人なのにヤグチさんは、プライドの高そうな印象とは裏腹にとても気遣いができる人だった。上手に人に頼れる。そこが魅力的だと思った。
 コバヤシさんが聞きたがったこともあって、それからはヤグチさんの独身時代の話になった。
 誰もが名前を聞いたことのある家電のメーカーの福岡支社だった。わたしの部署ってクレームの電話も多かったから、いつのまにか口がうまくなっちゃってねと笑いながら話してくれた。
 同僚の女の子と一緒に海外旅行に行くのが楽しみで夏とゴールデンウィークの休暇は家にいたことなんかなかったという。ヨーロッパもニューヨークも行ったけれど、タイやバリ島の方にだんだん魅力を感じてきた。そういう場所にある高級ホテルの雰囲気が好きだった。ビーチで三つ編みを編んでもらったりドラッグを勧められたりしたことや、おみやげやさんで買った家具を船便で送ってもらったら虫がわいていた話なんかをおもしろおかしく話してくれた。
 でもね。わたし、夕飯なんて家に帰ればいつでも出来てるもんだって思ってたのよ、ずっと。母親は料理が大好きだったしね。だから結婚して仕事辞めてからも子供といっしょに近所にある実家で食事をすることが多かったの。夫は平日はほとんど夕食を家で食べなかったから。だいたい息子は小学校から実家に帰ってきて、それで食事してからふたりで家に帰るの。もちろん休日くらいはわたしも作ったけど、家族でどこか行くと外食だったし。まともに夕ご飯作るようになったのはこっちに来てからなの。もう、うそ?! こんなに大変なの? って思ったわよ。夫もあっちにいたときほど接待漬けじゃなくなったから、遅くなっても家で食べるようになって、どうしていいかわからなかった。ほんと、食材とお野菜見て、何度もコバヤシさんに相談したくらいで・・・
「エスポア」の食材を利用していたのも、どうやら実家のおかあさんの方らしい。
「わたしも、二人分のお料理で苦労しました。ひとりだといつも適当だったから。どれくらい作っていいかわかんなくて」
「アユミちゃんはひとり暮らしだったのね。それじゃ、結婚してもそんなにさみしくなかったんじゃない?」とヤグチさんが尋ねた。
 そういえば、結婚したからさみしいという感じはなかったな。知らない土地に来てもさみしいという感じではなかった。
「いいわよ。ふたりとも。わたしの知らない経験をいっぱいしてるじゃない。きっと男の人だってよりどりみどりだったんでしょ? あ?あ、羨ましいわー。わたしの青春、だれか返して?って叫びたい気分よ」
 そう言いながらコバヤシさんは、話半分にケイタイメールに返信を打ち返している。目がとろんとして見えるのはお酒のせいなのだろうか。それともだんだん話に飽きてきたのか? そう思っていると、さあ、お迎えが来るわ、そろそろ出ましょ、とコバヤシさんが言い出したので会計になった。
 チェックをして外に出ると、黒いセダンがハザードランプを点滅させて駐車していた。中から一人の男性が手を挙げて出てくる。シンプルなチャコールグレーのスーツを着た目鼻だちのしっかりした男性だ。その腕にロレックスの金時計やブレスレットをしてても違和感のないような独特のニオイがしたけれど、体毛の濃い腕に金のロレックスはなかった。
「省吾さん、おひさしぶり」とヤグチさんが言って、それから、こちら、アユミちゃん、とわたしを紹介してくれた。コバヤシさんのご主人なのだろうと思いながらわたしは頭を下げた。
「アユミちゃん、若いね。いいねえ。これからみんなでカラオケでも行く?」
 と聞かれて、ヤグチさんは、遠慮しとくわ、おじゃまだろうからと答えた。
「それじゃ、日を改めて。ヤグチさんとアユミちゃんの歌声楽しみにしていますよ」
 そう言いながらその男性は、ヤグチさんの耳たぶにふうっと息を吹きかけたように見えた。すでに助手席に乗り込もうとしていたコバヤシさんは、そのやりとりに気づいていなかった。
 この男性が、コバヤシさんの話にでてきたご主人とは到底思えなかった。
 突風のようなものすごい嫌悪感が走った。

「アユミちゃんはカラオケの方がよかったかしら?」
 というヤグチさんと二人で、その後ミスタードーナッツの座席でアイスティーを飲んだ。少し酔いを覚まして帰りたいと言われたのだ。わたしはカラオケになんて行きたくなかった。いや、女性3人だったらいいけど、知らない男の人には気をつかうんで、ヤグチさんが断ってくださって助かったと言った。そもそもあの、省吾って男の人は何なんですか? とは聞けなかった。
「シュミ悪いわ、コバヤシさん。省吾ってやっぱどう見ても田舎の不動産屋のオヤジって感じだよね。ねえ、そう思わない?」
 そう言いながらヤグチさんは今まで吸ってなかったメンソールの煙草をすぱすぱと吸いだした。
「あの。あの省吾さんて人は、コバヤシさんの・・・」
「恋人よ。ケイタイの伝言板みたいなとこで知り合ったんだって。よくやるわよね。わたしもびっくりした。そういう主婦がいるってことは知ってたけど、まさかこんなに身近にいるなんて思いもしなかった。でも、コバヤシさんだけじゃないの。小学校のPTAのグループで流行ってるらしいんだ。わたしはとちゅうから来たからPTAじゃないけど、いっかい飲み会に誘われてびっくりしたわ。まるで合コンみたいだった。タナカさんも今日は来なかったけど、あの人もけっこう男の人が来るの楽しんで来るのよ。まあ、積極的に相手を見つけるタイプじゃないけどね」
「え? 合コン?」
「省吾さんはその中では金回りもいい方なの。だから、自分の友達の男性とか部下とかを連れてきたりもするの。他の人が見つけてきた人よりも人気があるのね。なんでもかんでも払ってくれるから。でも、カラオケって個室だからさ、平気で人の胸触ったりするし。いっかいなんか会長さんのスカートに手入れてたって話も聞いたことある。もうパンツまる見えだったらしいわ。さすがにそのときはコバヤシさん怒ったらしいけどね」
 わたしは何と言っていいかわからなくて、アイスティをストローで飲み干した。頭の奥に短く、キーンと氷が響いた。
「ああ、主婦って退屈だわ。いきなりこんなとこに来ちゃったし。でも、わたしはあの人たちと一緒にはなれない。人種が違うわ、とてもついていけない。どうしたって福岡がなつかしいの。もっと洗練されてたっていうか、そりゃ、昔の男の人とグループでジャズとか聞きに行ったりもあったけど、ああいうノリじゃなかったわ。もっと会話を楽しめるっていうか、シュミが広いっていうか。そう、みんな紳士だったわ。ここに来てからは、町全体が場末のおさわりバーみたいに見えるの。みんなセックスのことしか考えてなくて誰かとやることばかり考えててまるでそれがすべてみたいに思ってて。あの人たちはグループだから歯止めがきかなくなってしまってるのよ。みんながやってるから自分だって平気みたいな、だから悪びれてもないし、隠そうともしない。どんどんエスカレートできるのよ。福岡にはもっと楽しいことがいっぱいあった。だからあんなさかりがついた猫みたいな人たちはいなかった。だからわたし、アユミちゃんとお友達になりたかったの」
 福岡にだってくだらない男はいっぱいいたはずだ。実際に誰がそういう類の人間だったか名前だって挙げられる。仕事にともなってわたしはよくそういう男に遭遇したけれど、そこまで入れてお給料の分なんだと思ってずっとやりすごしていた。たまたまヤグチさんのまわりにそういう男がいなかっただけだ。それでも、ヤグチさんの言ってることはわかるような気がした。
 わたしたちは、自分の意志とは関係なくうっかりこの町に来てしまったってことだ。
 わたしは仕事が派遣だったから転勤はなかったけれど、うっかりいろんなところに行くのに少しは馴れていた。夫たちだってそうだろう。仕事上転勤が避けられないということは、その種の仕事をしていたら誰だって覚悟の上だ。
 だけども不幸にも、ヤグチさんは馴れていなかった。
 わたしは。
 わたし自身はとうに馴れていたはずなのに、そう言われるとやっぱり、うっかりここに来て、今うっかりヤグチさんとミスタードーナッツにぽつんと座っているような気になってしまうのだった。

*   *   *

 けっきょく、サトウカズキが失ったのは、「あの女性」だけだったのかもしれないと、最近思うようになった。いや、認められるようになった、と言った方がいいのかもしれない。

 かつてサトウカズキが失踪したことがあった。つきあって2年以上たっていた頃のことだ。最初に出会った喫茶店のママから電話がかかってきて、はじめてそのことを知った。
「アユミちゃん、最近、サトウ君と会った?」
 ただならぬ事態であるとその口調が言っていた。ここ1週間ほどサトウカズキのケイタイが繋がらなかった。嫌な予感はわたしにもあった。
「いなくなったらしいよ。今、あのカタヤマくんに頼まれてあんたのケイタイにかけているとこ」
 サトウカズキの大学の試験あけの長い夏休みがはじまった頃だ。以前の大学の担当の教授が亡くなってお葬式があったのだという。近くの大学に勤務していたサトウカズキもそれに出席した。東京に嫁いでいったゼミの女性もひさしぶりに帰省してきた。そのふたりがいなくなったんだという。
 経緯を知ったその女性のご主人が、今やっきになって探し回っている。それでカタヤマくんがいろいろ奔走しているらしい。
 1週間前のある夜のことを思い出した。その日どしゃぶりの雨の中でチャイムが続けて3回鳴った。
「借りてた本を返すよ。ちょっといなくなるから」
 思い詰めたような青白い顔のサトウカズキがそう言った。5冊ほどの本の中には半年以上借りっぱなしのものもあった。お互いの部屋から本を借りると言って持ち帰ることはあったが、わたしたちのあいだにはそれを「返す」という感覚はなかった。
「オレの本はもういらない。元気でな」
 そう言ってサトウカズキは止めていたタクシーにまた乗り込んだ。どういうこと? わたしの慌てて叫んだ声が彼の耳に届いたはずなのだが、サトウカズキは振り返らずにずぶぬれで走っていった。
 喫茶店のママに電話でそのことを説明すると、わかった、そう伝える、アユミちゃんのケイタイをカタヤマくんに教えてもいい? と言われて承知したけれど、その後電話がかかってくることはなかった。
 だからわたしはその後のことは何も知らない。知らないということに消耗して、その年の夏の異常とも言える暑さにどんどんやせ細っていっただけだ。
 お風呂上がりに鏡を見ると、胸の部分だけがげっそりとそげ落ちた猫背気味の不健康なわたしが立っていた。
 失恋のショックによる食欲不振はダイエットにはならないなと思いながら、わたしはいつまでも自分の裸体を見つめていただけだ。

 9月になって、待ちきれずに消息を知りたくて「ブルージュ」に行って、友人のカタヤマ君から、サトウカズキが戻ってきたことを知った。
 駆け落ちから戻ってきたサトウカズキは、一日中ひとりでアパートに籠もっているらしかった。
 「この前は急に電話してごめん。びっくりしたでしょ? ああ、それにその後のことも何も報告してなくって・・・ごめん」
 カタヤマ君はサトウカズキの友人とは思えないくらいに気遣いの人だ。こっちの事情を知っているだけにその言い方もおそるおそるだったのだが、なんと答えていいのかもわからない。ここ数週間の感情のうねりとか不安とかが、燃えないゴミの山のように心の中に溜まりに溜まっていたけれど、それを吐き出すことすらわたしにはできなかった。
 というか。この雨ざらしになったゴミ山のような感情はほんとに何から何までいっしょくたになりすぎていて、それがどういうものなのかさえ、わたしにはわからなかったのだ。
「さすがに、学校には顔をだすけれど、廃人のようにしてるよ。まわりも事情を知っているから気安く声かけたりもしないし。もともと。もともとサトウはああいうヤツだから、あまり友だちづきあいもないんだ。みんな遠巻きに眺めていて、そのまんなかで廃人のようにぼんやりしてる。
 僕が、大丈夫かって聞くと、ははは、って笑ってさ。ははは、壊れたままだよ、まだ、って言うんだ。そんな言い方だけどかなり堪えてるんだと思う。担当の教授にも迷惑かけてしまったしね」
 ふうん、そうなの・・・とわたしは言った。こんな話題が適切じゃないことにはカタヤマ君だってわかっている。だけども最低限のことは伝えなければいけなかったのだ。あとは・・・カタヤマ君はなるべく関係ないような話題に行きたかったにちがいないが、不幸にもわたしたちには、サトウカズキのこと以外に共通の話題が何もなかった。
「僕もいろいろ考えたよ。実は僕はね、小説を書いているけれど、小説になりそうな思い切ったことをできるタイプじゃないんだ。どっちかというと堅実すぎるくらいだ。でもサトウは違うよね。生きてること自体が小説みたいで、ほんとにそういう世界を生きている。ほんとうに小説を書く資格があるのはああいうヤツで、僕には小説を書く資格なんてないんじゃないかと思ったよ。ああ、ごめんね、こういう話、アユミさんには関係ないし、おもしろくもなんともないよね」
 カタヤマくんは結局わけのわからないことを言ってしまった、とでも思っているのか落ち着きなくブルーを基調にしたチェックのシャツの袖を触った。ここにちゃんと自分が存在しているのを確かめるような仕草だった。テーブルのアイスコーヒーが汗をかいていた。ぽたぽたとテーブルを濡らすようなコップの大汗で、カタヤマくんの長袖のシャツが濡れなければいいのだけど、と、わたしもまた、わけのわからないことを考えた。
 誰もがみんながこういうふうにして、サトウカズキを見ているだけで落ち着かない気持ちになってしまうのだ。そう思ったときにはじめて、サトウカズキの対する怒りが溢れてきた。
「小説を書くのに資格なんて関係ないわ。現実でひとつひとつ実証しないと小説を書けない方がよっぽど馬鹿げてると思う。よくわからないけれど、たくさんの経験をした人がいい小説を書けるわけじゃないと思う。想像力とか観察とか繊細さとか、そういうものがなくて、何も考えずにやらかしてしまう人間は愚かなだけよ。そういう意味では、カタヤマくんの方がよっぽどいい小説が書けるような気がする!」
 ・・・ありがとう、なぐさめてくれて・・・小さくそう言ってカタヤマくんは俯いた。
 サトウカズキのやることなすことが、みんなを傷つけ、自信をなくさせてしまう。そして、彼自身はなにごともなかったように自分の世界の閉じこもってゆくのだ。
「よかったら、サトウに会ってやってくれないか」
 そうカタヤマくんが言った。
「・・・会えないよね、ふつう」
 わたしは下を向いてぶっきらぼうに答えた。
「ほんとだね。会えないよね、ふつう。ごめん、こういうところが僕のいけないところだ。想像できないんだ、その未熟さがぼくの小説の未熟さかもしれない。でも。それでも、アユミさんしかいないような気がするんだ。廃人のようになってしまったサトウを見るにつけ、ああ、アユミさんがいてくれたらなあって思ってしまうんだ。でも、今のは忘れてください。ほんとに失礼なことを言ってしまったって思ってる」
「ねえ」わたしは尋ねた。「カタヤマくんの小説の中の女性だったら、サトウカズキにやっぱり会いにゆくの?」
「・・・小説としての理想だよ。ぼくの、勝手な。それでも会いに行ってくれる女性を、ぼくは物語の中に求めている。でも、それを現実のアユミさんに託すのは全然意味が違うんだ。そんなことを期待するなんて人間としてひどすぎる。人間は小説のように生きなければいけないわけではない。いや。むしろ、小説のように生きるべきではないんだ」
「わたしもそう思う。そうしてサトウカズキのように生きるべきでもない。まあ。これは本人の勝手で、わたしが言うことじゃないけど」
 そう言うとカタヤマくんは弱々しく笑って、迷惑かけたからとわたしの夕食代まで払ってくれてブルージュをあとにした。
 今度、誰かを好きになるときはぜったいにカタヤマくんみたいな人を好きになろう。だけど、そんな時がほんとうに来るんだろうか? ドアをあけて出てゆくカタヤマくんの後ろ姿を見ながらそんなことを考えた。

 その足でわたしはサトウカズキのアパートに向かった。
 小説のように生きようと思ったわけでもなんでもない。
 ここは行かないのがふつうだろう、と自分を押しとどめていたのを、カタヤマくんの言葉に後押しされてしまっただけだ。
 だけど。どんなにイヤなことを差し引いても、たぶんサトウカズキから離れられないとわかっていたのだ。慰めようとか、そんな殊勝なことを思ったわけでもない。サトウカズキという人間のいない世界を想像できなかったのだ。ここで発していた言葉がなくなってしまうような場所では生きられない。
 この水槽を出たら、わたしが窒息してしまう。

廃人のようなサトウカズキに食事をさせて音楽を聴かせ、そして会話もした。
 あの日のことを聞くことはできなかった。それはサトウカズキの目の前にずっと横たわったまだった。
 半年がすぎた。そのあいだにわたしたちは、セックスをするくらいまでに修復していた。
 嫌いでもなく寄り添って、セックスだって出来るのに。
 それでもわたしは「とうに失われてしまった人」にサトウカズキをずっと奪われてしまったままだった。

*   *   *

 夏が終わりに近づくと、野菜の質が悪くなってきた。
 荷下ろししたときはよくても、移動中の車の中でドロリと溶けたりしてしまう。新聞でくるんだりいろいろ工夫するけれど、それでも防げない。
「人間だってね。若いウチはシャキっとしてるけど年を取るとそうもいかないでしょ? 春先に植えた夏野菜も、この頃になると老木になっちゃうんだ。悪かったらクレームだして値引きできるんだから、品質だけしっかり見てね、特にピーマン」
 と代表のオバタさんが言った。
 ピーマンはだいたい300グラムずつ袋詰めにする。その中に中心の星形の部分が溶けたものが入っていると、袋全体が悪くなってしまう。手渡しするときにかならず確認するように気をつけた。そうしてピーマンばかり気をつけていると、空芯菜の葉っぱが真っ黒になっていて慌てて引っ込めたりすることもあった。
 しょうがない。自然の産物なんだから、と思うようにした。

 アラカワさんのお宅に行くと、耳慣れない声がインターフォンから聞こえた。
 近所に嫁いでいるお嬢さんなのだろう。老齢だから夏バテでもしてないかと心配して、出て来られるのを待った。
「母は今日は法事ででかけているの。家をからっぽにすると帰ってくるときに泥棒がいるんじゃないかって怖がるから、今日はわたしが留守番なんです」
 わたしより少し年配の小ぎれいでスレンダーな女性だった。栗色のきれいなボブカットが顔の輪郭をきれいに囲んでいる。
「ニンジンがあればいただいといてって」と言われた。
「ニンジンは秋の出荷までは出てないんです。今ちょうどない時期で」
「そう。じゃ、あとはいらないわ」
 そう言われて、荷物を持って引き返そうとしたとき、後ろから声をかけられた。
「あの・・・・」
「はい?」
 アラカワさんのお嬢さんが下を向いて言った。まるでわたしではなく地面に向かって話しかけているみたいだった。
「母がいないときに勝手で申し訳ないけれど、来週からは来ないでいただけるかしら? わかっていらっしゃるかもしれないけど、少し痴呆気味なのよ。月曜日に来ていただけるのは覚えているし、お話相手をしていただけるって楽しみにしてるわ。でも、ひとり暮らしなのにあんなに食べれるわけないじゃない。なのについ買ってしまうのね。それに、火をつけっぱなしで危なかったりすることも多くて最近IHヒーターに替えたの。そしたら使い方わかんなくて今はお湯を沸かすくらいしかできないの。正直言うと、野菜は無駄になってるの。夕飯はわたしが持ってくるようにしているから。わたしからうまく言っておくから、すみませんが今日でおしまいにしてください」
 俯くしかなかった。
 本当のことだ。こんなに食べきれないんじゃないかと思いながら、言われるままに売っていた。アラカワさんは野菜が必要なんじゃなくて、少しでも長く誰かと話していたかっただけなのだ。わたしがいただいていたお金は野菜の代金ではなくて、お話を聞く代償だったのだ。
 言い訳になるけれど、それでもわたしはアラカワさんのお話を聞くのが好きだった。結婚前に住んでいたツツジの咲き乱れるお屋敷。学校から石畳の坂道を上って、両側の藪椿を眺めながら女学校から帰っていたこと。銀行勤めをされていた優しいお父様。嫁いだこの家は今の3倍くらいの敷地があったけれど戦争で没収されてしまったこと。数年前、朝起きたら布団から半身を乗り出すようにしてご主人が亡くなっていたこと。
 どの話も何度も聞いたけれど、同じ話だから退屈だと思ったことはなかった。いつの時代のアラカワさんも、女学校の頃と変わりなく優しく好奇心旺盛にいろんな場面を乗り切られていた。そうして、まるではじめてそのことを話すように、いつもきらきらと瞳が輝いていた。
「あなたが来られるのを母は毎週楽しみにしていたから、ほんとによくしていただいてたんだと思う。でも、いつまでもそういうわけにいかないのは、おわかりでしょう? ほんとにこれまでありがとうございました」
 わたしは、アラカワさん、いつまでもお元気でと心の中でつぶやいて、その家をあとにした。
 来週の月曜日、それでもアラカワさんはわたしを待っておられるのだろうか?

*   *   *

 それからわたしとサトウカズキは、とくに何のトラブルもなくやはり定期的に会ったりしていたけれど、関係は好転もしなければ悪化もしなかった。
 わたしは何かの変化を期待していたけれど、期待してたのはわたしばかりで、サトウカズキはそれをどうにかしようとは思っていなかった。

 思い出したくないことばかりだ。
 わたしは捨て身になっていろんな懇願をしたし、そこにはいっしょに暮らすとか籍を入れるとかそんな現実的なことがいっぱい含まれていたけれど、サトウカズキの頭の中にはそんな現実的なことなんて何ひとつ残っていなかった。わたしはいつも敗北感の塊のようになって帰りのバスに乗った。

 一度、サトウカズキの家に行こうと思ってバスに乗ってきたのに、サトウカズキが帰ってなくてブルージュでごはんを食べて帰ったことがあった。
 まだ帰ってないみたいだから、ってわたしが言うと、言ってはいけないことを言うような厳しい顔つきににママが変わった。
「あんな男、好きになったあんたがかわいそうやん。あんたはいい子なんだから、他の人を見つけた方がいいのに」
 笑ってごまかした。
 だけどブルージュから出たあとにずっと、わたしはかわいそうなのか、わたしはかわいそうなのか、好きで一緒にいるつもりなのに、なんでわたしはかわいそうなのかと自問しながら道を歩いて、結局、もう一度サトウカズキの家にたどり着くまえに、歩く力もなくなって道路にへたりこんでしまった。道路脇に小さな神社があった。境内の大きな石に腰掛けた。少し早くなった夕暮れにツクツクホウシが鳴いていた。
 カワイソカワイソーとツクツクホウシは歌っていた。
 わたしは誰もいない神社の暗がりでせみの声を聞きながら声をださないように泣いて、結局サトウカズキの部屋には行かずにそのままバスで帰った。

 だからかもしれない。
 だからじゃないかもしれない。
 それからわたしは正社員になれる仕事を探した。履歴書を出して面接を受け、幸運にもわたしの何かが気に入られ、わたしは2件目の会社に受けた会社の事務職に採用された。
 急な欠員補充だったせいか、部内では(助かった!)という空気で受け入れられたのもよかった。派遣で同じような仕事を繰り返していたおかげで仕事が難なくこなせたこともあるが、なによりも同年代のスタッフの雰囲気がよかった。
 人間関係のいい職場で同僚の女の子たちと毎週居酒屋でおしゃべりすることを覚えたのも、ときどき参加する男性社員の中にタロウがいて、不思議なくらいに話していて嬉しい気持ちになれたのも。
 泣きたいこととか、思い出したくないこと以外のものを求めていたのかもしれない。

 両生類になろうと思ったのだ。
 水槽を出てもちゃんと呼吸できるようになって、そこで生きていこうと思ったのだ。

 最初、呼吸をすることさえ困難に思えた世界は思いのほか整然としてて、むしろ心地いいくらいだった。
 女の子同士の恋愛話もどれも真摯で胸を打った。思いが通じなかったり三角関係だったり不倫だったりと、彼女たちの告白はさまざまだったけれど、誰だってそんなふうに愚かに生きていたことをはじめて知って、彼女たちのひとりひとりを抱きしめたくなるくらいの親近感を覚えた。まわりがくだらないと喋るわたしたちが傲慢なだけだったのだ。

 タロウの転勤と結婚が決まってから、少しずつ疎遠になったサトウカズキの家に行ってそれを告げた。
 そう。さびしくなるな、と言って、それから、サトウカズキとセックスした。
 断ればよかったのだけれど、うまく断れずにそうした。
 おきまりのように伴っていた快感は魔法のように抜け落ちてしまっていていた。
 それはただの接触になっていた。
 その気がないくせにセックスなんてするもんじゃない。
 そんなことでさえ、わたしはそのときまで気づいていなかったのだ。

*   *   *

 不思議なもので、アラカワさんの家に行かなくなって一ヶ月ほどでサカタさんから新しいお客さんを紹介された。お子さんと同じ幼稚園だった方だという。
 小学校2年生の男の子のいる家庭。住宅街の一軒家で車を目の前に置けるのが嬉しかった。
「おかあさん、お野菜きたよ?」
 ケント君がそう言っておかあさんを呼んだ。
「はい?。ほら、ケントの好きなみかんが来たよ」そう言いながら、ハナダさんがセット袋の中を覗いている。「ケントはみかんが大好きでねえ。これくらい2日で食べてしまうんですよ」
 ちょうど秋野菜の出荷時期に入り、きれいな野菜が多かったこともあるが、それを差し引いてもハナダさんは最初からとても好意的だった。みんながみんな最初から好意的なわけではない。無農薬の野菜は出始めの時期でも、虫食いなどが混じっていてあんまりきれいじゃないからだ。
「だったら、もう一袋いかがですか? 実は、今日、あまってるんですけど」
「そう、よかった! もう一回スーパーに買いに行くのも面倒だしね、おたくのは安全だから、助かります」
 助かったのはこっちの方です、いっぱい余っても困るんで、ありがとうございます、と心の中でつぶやいた。
「ねえ、今度、一緒に配達に連れてって」
 とケント君が言った。ケント君は車が大好きで、わたしの白いマーチにも一度乗ってみたいのだそうだ。
「野菜でいっぱいだから、今度、少ないときに乗せるね」
 と約束した。
 小学2年生のケント君は学校に行ってない。だからいつも昼間家にいる。
「でも、家にいるときは元気だし、これはこれでいいと思って」
 とお母さんは言うけれど、ときどき教育相談とか面談に行くこともあるらしい。いろんな検査もしたんだと言う。(腹痛がひどかったらしい)
 ケント君はおかあさんと一緒に玄関まで出てきて、わたしの車をじっと見つめた。運転席を開けると計器を見つめ、わたしに許可を求めてから走行カウンターをリセットしてみたり。そうしてなかなか発車させようとしない。
 わたしにはそんなケント君がとても利発な子に見えた。

 玄関はびみょうな空間だなと思う。
 家の空気がこぼれ出している。玄関は嘘をつかない。
 このお宅にもそれなりの問題があるのかもしれないけれど。わたしは、ハナダさんの家の玄関でのやりとりがとても好きになった。

*   *   *

 わたしの家の玄関にはどんな匂いがあるんだろう。
 気をつけて嗅いでみるとそれはHEMPの芳香剤の匂いだった。少し甘い感じの匂い。タロウが気に入って買ったヤツだ。Black loveという名前にふさわしく甘すぎるほどではなかった。タロウはこんな雑貨を選ぶのが好きなのだ。休日にはふたりで色合いを考えながら小さな雑貨品を揃えていくのがいつしかわたしたちの習慣になっていた。最近わたしたちはいくつものカタログを取り寄せて山積みにして、冬のボーナスで買うソファを吟味している最中だ。ちょっとアメリカっぽい匂いのする明るい部屋にしたいんだとタロウは言う。まったく異存はなかった。二人の生活が、二人だけの彩りになってゆくのは楽しい。
 隣のカズちゃんちの玄関の匂いはすこし酸っぱくて甘い感じに変わっていた。子供が生まれたのだ。新生児独特のにおい、あるいはカズちゃんのおっぱいのにおい。
 最近は配達の残りの野菜をふたりで分けるのが習慣になっていた。すぐ近くとはいえ、青空市場まで出向くのはやはり無理らしい。
 少し巨乳になったカズちゃんはなんだか自信にあふれて見える。
「アユミも妊娠したら、もう重たい荷物を持つ仕事はダメだよ」
 と、小さなつくりもののような赤ん坊を抱きながらカズちゃんは言ってくれる。以前流産したときは、スーパーの化粧品売り場に勤めていたから立ちっぱなしだった。だから今回は気をつけていた分、無事に生まれてくれてほんとに嬉しかったのだという。
 やっと首のすわった赤ん坊をおそるおそる抱かせてもらった。落とさないようにと両脇をきゅっと締めて、そのうえに赤ちゃんを乗せてみる。カズちゃんと同じような甘い匂い。まだ顔の区別がつかないんだろうか、わたしの緊張した腕の中でじっと目を開けている。柔らかくてたまらない頬を指でそっとつついてみると、口元がゆれて笑ったように見えた。
「あ、笑った?」
「うん、笑ったんだと思う。愛想いい子なんだよ、おじいちゃんとかおばあちゃんに抱っこされるときもこんな感じなんだ。だからみんなメロメロよ」
 すごく大切なものを手に入れた自信。カズちゃんのそれがたまらなくまぶしく見えた。
「まだ、しばらく子供はいいね」とタロウと話してはいるけれど、神経質なほど避妊しているわけではない。
 だんだん馴れてきた配達の仕事をこのまま続けたい反面、カズちゃんの赤ちゃんやハナダさんのところのケント君を見ると子供が欲しくなったりもした。
 そうして、パソコンに向かうとまた、しばらく子供はいらないな、なんて思ってしまうのだ。

 サトウカズキとのメールのやりとりがここのところ続いていた。
 なんとなく、猫のエッセイの感想を送ってしまい、それは無難きわまりない感想だったけれど、そのついでに「詩の朗読会、時間が取れたら行ってみたいです」と書いたのがきっかけだった。もっともその一行は、福岡の懐かしさについ書いてしまった、まったく筋道を間違えた社交辞令の一行だった。
 それまでわたしはサトウカズキからの「通信」にほとんど返信したことはなかったから、久しぶりの返答に彼も喜んだのかもしれない。
「朗読会、来れたらいいね。遅い電車で帰るのも面倒だろうから、ウチにでも泊まるといいよ」
 その返信を読むと、髪の毛が逆立つくらいの怒りがこみ上げた。サトウカズキのウチに泊まるなんて、なんでそんなことを平気で言えるんだろう。わたしはサトウカズキという人間に愛想つかして離れていったんだと言うのに。
 当然、朗読会には行かなかった。連絡もしなかった。
 そんなふうに言われてノコノコ福岡まで行ったら、コバヤシさんと全然変わりないじゃないか。あれ以来、「今度はカラオケに」としきりに誘ってくるコバヤシさん。彼女にしてみれば、そんな楽しいことを嫌悪する人間がいるなんて思えないような邪気のない誘い。わたしは適当に義父を病気にしたり法事で帰省することにしたりしながら、何度かその誘いをはぐらかしていた。
 なのに。どこかで、夫以外の人間との繋がりくらいわたしにだってあるのだと思ってみたかったのかもしれない。
 それ以来、月に一度の「通信」についている私信に、簡単な返信をするのが習慣になってしまった。
「だんなさん、やさしい? アユミはほんとうに結婚が楽しいものだと思ってるの?」
「ふたりで雑貨を選んだりして、おだやかに心静かに生活しています。福岡にいるときよりもずっと健康的だよ」
「遊びに来るときは連絡ください。グループのみんなと飲むと、いろいろ刺激があって楽しいと思うよ」
「夫の実家に顔を出しに福岡に行くこともあります。渡辺通を車で通るだけでなつかしいけれど、なかなか自分だけで行動することはないよ」
「結婚した男女が同じ相手を好きでいられるのは3年が限度らしいよ。退屈したらまたセックスしよう」
 簡単な返信に簡単に返信して、それにもういっかい返信が来るともう返事を書かなかった。
 サトウカズキは、まだわたしを失っていない。
 イタリアの男は誰でも挨拶がわりに口説くものだって誰かに聞いたことがあったけれど、イタリアの女性というのは、もしかしたら、わたしと同じような気持ちなのかもしれない。
 好みの男でなかったり、ぜったいに結ばれるべきでない男であったとしても、口説かれて悪い気持ちにはならないものだ。
 そういう些細なことで自分に自信が持てたりもする。
 そうして些細な秘密で、少しだけ、生活に彩りができたような気持ちにもなれる。
 いやいや。
 それでもわたしは、わたしを「失っていない」サトウカズキを許すわけにはいかないのだ。

*   *   *

「ほうれん草が新しく出ました。根っこが赤くて、ほんとおいしいですよ」
 そう言いながら、タナカさんの玄関に入った。
 同じマンションの3世帯の中で彼女がいちばん無口だ。無口だから困るというわけではない。だけども何も言わないとそのまま辞める人もいるから少しだけ気をつかうことにしている。無口な人は、小松菜が虫食いだらけでもキャベツの中で青虫が巣くっていてそのままゴミ箱に行くしかなくても、何も言わない。そうしてある日、いきなりもういらないと言われる。できればそういう事態は回避したかった。
 毎週決まった数量取ってくださる方がひとりでも減るのが、経営上どれだけ痛手なのか、わたしにもわかるようになってきた。お客さんと収入は、放っておけば減るだけなのだ。けっして減らさない努力、それと引っ越しやアラカワさんのケースのように避けられないマイナス分を増やしていく努力。傍目から見て数字が変わらなくても、この努力だけは回り続ける水車のようにずっと続けていかなければいけないのだ。もちろんそれは仕事における必須事項で、それが苦になるというわけではなかったけれど。
「先週、入っていたニンジン。小さいなと思ってたけど、すごくおいしかったです。主人が、味が濃いなあって感心してましたよ。肉ジャガに入れただけなのに、ほんとにそんなに違うなんてびっくりしました」
 そう言ってもらえてほっとした。ニンジンは味の違いがわかりやすい。この分だとしばらくは取っていただけそうだ。
「そうそう。カラオケの話、コバヤシさんから聞きました? お野菜屋さんも誘おうって言われてたけど」
 ああ、そう言えばさっき言われた。今度の土曜日に、ってコバヤシさんのお宅で。男性もいっぱいくるのよ、アユミちゃんみたいな若い子がくるとみんな喜ぶわって。
「今、主人の父が具合が悪いので、週末はお見舞いに行かなければいけないんです。残念なんですけど」
 コバヤシさん宅で使ったのと同じ嘘を使った。
「わたし、この前行けなかったから、楽しみにしてるんですよ。自分から友達作るのは苦手なんだけど、コバヤシさんのお友達はみんなおもしろくって。ぜったいこの次はごいっしょしましょうね」
 と言いながら、タナカさんは静かに笑った。
 楽しみなんだな・・・と思った。そういうふうに何人かの人と集まって飲むのは楽しいことなんだな、と改めて思った。わたしは正直楽しいとは思えなかった。あの省吾という男性の雰囲気が嫌いだったし。知らない男性と飲むのも気を遣いそうでイヤだった。

 おそらくヤグチさんのおうちでも同じお誘いをされるんだろう。
 そう思って、義父が入院しているんで週末には里帰りして、と心の中で繰り返しつぶやいて言い訳の練習をした。お義父さん、ごめんなさい。ほんとは土日のゴルフが楽しみなすごく健康な人なのに。

「わたしは行かないのよ、ほら、こっちに行くの」
 そう言ってヤグチさんは数枚のチケットをわたしに見せた。
「ほら、エスポアのヒロトくん。ライブをやるんだって。チケットが売れないって言うから、調子に乗って10枚も買っちゃった」
 地元のロックグループの合同ライブらしい。情報誌で名前だけは見たことのある大きなクラブだ。一枚2千円だから、10枚で2万円。うわ、すごい散財だ。
「でも、10人も、行かれるアテあるんですか?」
「まさか。でも割り当て分が少しでも売れればいいのよ。アユミちゃんも行かない? わたしはその日、ギターとか機材積むのに車で送ってあげるからって約束してるから行くけど、ひとりでロックは正直気後れするのよ」
「あの、赤いボルボのワゴン?」
「そう。だからちょっと早めに行って音合わせから見学なんだけどね」
 そうか。エスポアのあの子はロックをしているから金髪なんだ。いや、若い子だからロックしてなくても金髪なのかもしれない。いや、それよりもヤグチさんの行動力にはびっくりした。ロックをやってる若い子のコンサートなんてわたしには無理だ。しかもあの、路地でのカーブもむつかしそうな車で繁華街に乗りつけるなんて。

 エレベーターのドアが開く音が聞こえた。
 エスポアのヒロトくんが来たらしい。台車をゴロゴロと押す音が聞こえてくる。
「それでは楽しんできてください」と言って、タッチ交代。
 おつかれさまです、と言葉を交わしたら、ちーっすと言ってわたしをちら見した。今日はジーンズに大きな鎖のキーホルダーをつけていて、それが歩くたびにカチャカチャと音をたてている。
 この男のこういうところが気にくわない。
 ていうか。
 ここの奥様たちが好きになるような男たちのひとりひとりが、わたしはなぜかまったく気にくわない。

*   *   *

「そのままでいろよ」
 終わったあとに下着をつけようとすると、お気に入りのブラとショーツをサトウカズキはポンと部屋の隅っこに放りなげた。
「いやよ。寒いし……恥ずかしいよ」
「大丈夫、暖房入れるから」
 そう言って、エアコンのスイッチを入れると、半身を隠していた毛布まで剥ぎとってしまう。

 それで何をするわけでもない。わたしの脚の間に手を入れて拡げ、大の字にさせて、そのままベッドに放置して置くだけだ。そうして自分はベッドに腰をかけて煙草を吸いながら、チラチラするテレビと交互にわたしの身体を眺める。動くなと言う言葉に呪文のように縛られわたしはけっして動かない。薄く茂った脚の根元を開いているせいか、冷たい風がそこに向かって吹き込んでくる。ときどき、胸の球体を握りつぶしたり、足首を両手で持ち上げてみたりして、そしてまた放置されるだけだ。
 わたしが椅子に座っていると、スカートをめくりあげて下着を剥ぎとったこともあった。
 脚、もっと開いてよ、と言われてイヤイヤすると、おもしろがって目隠しをされた。洗いたてのハンカチから洗剤の香りがした。
 心許ない開脚のまま、やはりサトウカズキは何もせずにじっと見つめているらしい。くぐもった感じのスローなジャズナンバーが聞こえるけれど、とても集中するなんてできやしない。じりじりと毛穴が開いてきて、身体が小刻みに震えていた。なのにそれを確認するかのようにじっと眺めるだけだった。
「おねがい……」
「どう、お願い?」
「はずかしい。止めて」
「服を着てこのまま帰りたいの?」
「そうじゃなくて……」
 まだサトウカズキの指は触れてこない。だけども声の方向からすると、彼の顔は、すぐその前にあるに違いないのだ。
 ゲームなのだ。羞恥に泣きそうにさせられることも、放置で静物のように扱われることも。そういうふうにして感情のひだを拡げて、奥に潜んでいたわたしの狼狽や懇願を楽しむことも。日常生活でけっして依存しない代償として行われる、ささやかな疑似体験ゲームなのだ。(少なくともわたしにとってはそうだった。サトウカズキにとってどうなのかは未だにわからない。)
 そうしてゲームは長く続かなかった。例の一件のあとのサトウカズに積極的にそんなゲームを楽しむ余力なんてなかったからだ。
 それ以来ゲームの中にいたわたしはいなくなり、そこに芽生えていた感情も、心の奥底に押し込められたままになってしまった。

 夢の中でわたしは泣いていた。サトウカズキの家からの帰り道だった。とうに終バスはなくなっていて、それでも帰りたくないわたしをサトウカズキが押しやるようにタクシーに乗せた。
 わたしはタクシーの中でずっと声を殺して泣いていて、声を殺していてもバックミラーで運転手はそのことを知っていたに違いない。かけっぱなしのラジオのニュースからプロ野球の結果が流れてきて、「ホークスはどうなんですかねえ」と運転手は繰り返し言った。 わたしは地元球団のホークスが今どれくらい勝ってるかなどまったく知らなくて、だからどう答えていいいかもわからなかったけれど、とりあえず何か言わなければと思って、「どうなんでしょうねえ」と無理に声を振り絞って答えていた。どうして、客が気を遣わなきゃいけないんだ、いや、そうじゃなくて、この運転手がわたしに気を遣ってくれてるんだと心の中でつぶやいて、そのうち、自分が見も知らぬ人から気を遣われている存在であることが身に染みてきて、また涙が出そうになってきていた。

 久しぶりにあの頃の夢を見た。
 はっと目覚めて、それが夢であることに気づき安堵する。
 ついさっき、そのことが起こってしまったような感覚。どうやら、いつのまにか台所のテーブルにうつぶせて眠っていたらしい。
「あ、残念、起きてしまったか」キッチンではタロウがスパゲティをオイルに絡めていた。「寝てたから、なにか作ってびっくりさせようと思ったんだけどね」
 そう言って笑うと、部屋のなかに日中の日差しが降り注いできたような気がした。
 どうやらニンニクを炒める匂いが嗅覚を刺激したらしい。
 時間を見ると、夜の9時少し前だった。
「夢を見てたの。わたしはお金持ちのマダムで、タロウに内緒でチケット買って、若い男の子のロックコンサートに行くっていう夢」
「だろうな、ヨダレが出てるよ」
 冗談だろ、と思いながら口元を見るとほんとにヨダレがついていた。恥ずかしくなってそれをぬぐう。涙じゃなくてよかった。以前のわたしは、こんな夢を見るたびに泣きながら目覚めていたのだから。
「大金持ちのマダムがロックコンサートのチケットはしょぼすぎるよ。そんなマダムは何十万もする宝石とか補正下着をダンナに内緒で買うんだ」
「どうしてそんなこと知ってるの?」
「取引先のクレジット会社のヤツと飲んだときに言ってた。ダンナ連中は何も知らなくてかわいそうだって。あ、これは仕事上の秘密事項だからここまでの話ね」
「わたしもなれるかな? そんなマダムに」
「アユミには無理だね。彼女たちとはまだ、物欲のレベルが違いすぎる」
 侮っちゃいけないよ、と心の中でつぶやいた。物欲も性欲も外で働いているウチに小出しできるならまだいい。わたしのお客さんは女性ばかりだ。あのマグマのように真っ赤に燃えているエネルギーが怖くなるときがある。
 そうしてそれに感化されたのか、わたしは、今頃になってあんな夢を見てしまうのだ。

*   *   *

 そうして翌週の配達日。コバヤシさんの家で呼び止められ、長い話を聞くはめになってしまった。例のカラオケ大会の話から始まる、長い長い話だった。自慢話かと思いながらふんふんとうなずいていると、その話は意外なところに着地してしまった。

 コバヤシさんたちは簡単な食事のあとに例の男性たちと3時間のカラオケを楽しんだ。それはあと30分ほどで翌日になるくらいの深夜まで続いた。
 カラオケは盛り上がった。いつものパターンだ。若い頃に誰もが歌ったような定番の曲を誰かが入れ、そのたびに誰かと誰かがカップルになって歌った。そのときにどれくらい派手なパフォーマンスができるかで、その日の盛り上がり方が決まる。
 今回の大ヒットはPTA会長の「愛の水中花」だった。柔らかい生地のワンピースに編みタイツ。きれいにセットされたゆるやかな巻き髪。案外これをやるつもりで最初からこの衣装だったのかもしれない。人に注目されるのが大好きな会長。自分の身体やファッションに自信を持っている会長。統率力のある会長は小学校では頼りになるけれど、コバヤシさんは少し不快な気持ちになるのを否めなかった。省吾がふざけ半分にその網タイツを歌を聴きながらいやらしくなで回していたからだ。そうして、自分の持っていたもう一本のマイクを、ワンピースごしに会長の股間に押しつけてねじ込む真似までした。まわりは大声ではやし立てた。会長は、いやん、と歌のとちゅうでアニメの主人公のような甘ったるい声をあげた。それを咎める雰囲気なんてかけらもなかった。
 省吾はコバヤシさんが見つけてきた男性だけど、やはりこの中では一番人気だ。同僚のグレイばかりを歌う男性や、取引先の身なりはトラッドだが毛髪の薄い男性も、会話では盛り上がるが省吾のような不敵なところがない。動物と一緒で一番強いオスにメスは群がる。その一番強いオスを確保しているという誇らしさと、その地位は常に揺らいでいるのだという実感をコバヤシさんは感じないではいられなかった。

 どうしようか、もう一軒行こうかという話をカラオケ屋を出た路上でやっていた。数人の女性が、日付が変わる前に帰らなくちゃ、わたしシンデレラだからと言った。会長が帰るというまでは帰りたくないな、省吾とふたりで残して帰るのだけはなんとかして避けたい、とコバヤシさんは思った。
 そのとき救急車が音をたてて素早く目の前を走りぬけていった。救急車の音は繁華街を抜けたところの小さな川を越えたあたりで止まった。
「あ、近くだね」
「近くだわ。でも川の向こう側の方よね」
「ホテル街のあたりだわ」
「男がむりやりホテルに入ろうとして、女が抵抗してぶつけたんだよ」
 そんな不謹慎なことを省吾が言って、不謹慎なのにみんなが笑った。タナカさんも笑った。ただその笑い方が尋常ではなかった。どこがどうと説明するのはむつかしい、けれど、それは間違いなく「壊れた」笑いだった。
「あはははは。おかしい?。わたし、ラブホテルなんか行ったこともないのに。そんな嫌がる人がいるなんて、いいじゃないよねえ?。誘われるだけで、ラッキーって思わなくっちゃ。そんなにイヤならわたしが代わりに行ってやるわよ?」
 軽い冗談とみなして、誰かがそれを返そうとしたけれど、なぜか誰も返せなかった。いつもなら省吾が「なら、おれがこれからエスコートして」と言ってタナカさんの腕を組むところだろう。そうしなかったのはコバヤシさんに遠慮したわけでもなんでもなくて。タナカさんの笑いがどこか変だったからだ。
「わたしだってね。あんなお城みたいなところへ一度くらい行ってみたかったのよー。でも夫は、そんなとこに行く勇気なんてない小心者だから、やれる場所とかどこにもなくって、結婚するまで処女だったのよ。ほんとに。いまだに夫以外の男知らないの。信じられる? 奥手にもほどがあるわ。わたし、このまま死ぬまでひとりの男しか知らないなんて。そんなの嫌なのよー。あああ?。誰でもいいから、わたしとセックスしてみてよ。まだ、ぜんぜん大丈夫なんだからあー」
 そう言ってタナカさんは膝をついてへたりこんで、そのまま道ばたにくの字に折れ曲がって横たわってしまった。
「失禁してたのよ。信じられる?」
「え?」
「道路がなんだか濡れてるような気がして、最初なんだかわからなかったの。そしたらスカートがびしょびしょだった。はじめて見たわ。あんなの」
「え……大丈夫だったんですか?」
「会長は元看護婦なの。自販機の水飲ませて、それから道の脇でタナカさんを吐かせたの。もう男たちはどうしていいかわかんなくって、そそくさと帰っちゃったわ。だって、あんなの見せられたら、ふつうその場にいられないよね」
 病院に行くほどもないだろう、それに今病院にかけこんだら、自分たちだってかなり面倒なことになってしまう。とりあえず、家まで送り届けて寝かせておくしかないんじゃないかと会長が言って、3人でタクシーを拾った。タナカさんの腰にはコバヤシさんのストールを巻き付けた。
「あとは、コバヤシさん、お願いね」
 と、いつもの命令口調で会長はマンションの前で二人を下ろして行ってしまった。コバヤシさんは、ほとんど足元もおぼつかないタナカさんを引きずるようにして部屋まで送り届けて、玄関の中に放り込んだ。
「あのストール、カシミアだし高かったのよ。もう、洗って返すって言われてもいらないわよね。ねえ、これからタナカさんとこに行くんでしょ? もし、まだ様子がヤバかったらわたしに教えてくれない? ふつうにしてたらそのままでいいから」
 とコバヤシさんに手を合わされてしまった。

 仕方ない。そう思ってタナカさんの家をピンポンすると、化粧もしていない顔色の悪いタナカさんが出てきた。土色の顔で、なんだか10才くらい老けた感じに見える。土曜日に飲み過ぎてしまい、日曜日は一日寝ていたという。
「ちょっとわたし、今回は飲み過ぎてしまって迷惑かけちゃったみたい。最後の方ほとんど記憶がなくって。でも、今度は来月にってコバヤシさん言ってたから、今度こそご一緒しましょうね」
 そう言いながらタナカさんが弱々しく笑った。そうだ。わたしの前のタナカさんはいつも、こんなふうに自信なさそうに笑うのだ。小さくささやくような声で喋り、ときどき不幸わせそうな小さな目を伏せてしまうのだ。コバヤシさんが話した痴態を思い出そうとしたけれど、それは今目の前にいるタナカさんとはどうしても一致しなかった。
 ああ、それでもまた一緒に遊ぶつもりなんだ。
 だとしたら、すごい。
 ああ、この人たちはこんなふうにして一生つきあっていく覚悟があるのかもしれない。このマンションを分譲で買ってしまった人たちだから。そう思ったら、わたしとかヤグチさんにはけっしてない「土着」の強さみたいなものを感じてしまった。

 ヤグチさんは留守だった。
 めずらしい。買い物にでも行ったんだろうか。
 ライブの話を聞かせてくれると思っていたのに。
 今日はエスポアの方が早く配達に来たらしく、白い発砲スチロールの箱は2段重ねになって玄関に置かれていた。わたしはその上に野菜を置いて行った。
 ヤグチ様、未納。忘れないように集計表に書き込む。
 ヤグチさんのロックライブの話を聞いて、今日のやりとりを帳消したかったのだけど、まあ、仕方ない。
 きっと来週には会えるだろう。

*   *   *

 翌週の配達は雨だった。
 秋冬野菜はかさばるものが多い。出始めの白菜に里芋などをマンション3軒分。両手にずしんと重みがかかる。小雨だったので傘が差すのはあきらめてパーカーのフードをかぶった。

「ねえ、ヤグチさんとこ、もう行った?」
 顔を見るなりコバヤシさんに尋ねられた。
「いえ、これからです」
「福岡に帰ることになったんだって」
 声を潜めてコバヤシさんが言った。
 え? もう? たしか今年転勤で来られたばかりなのに?
「これから行くんなら、わたしが話しておいた方がいいね。本人は言いづらいだろうから」
 とコバヤシさんが言った。先週の土曜日の話だった。
 若い男の子とロックのライブに行ったらしいんだ。(エスポアのバイトくんのことだ)
それで帰りにその子を送っててさ、電柱に車ぶつけて大破。申し開きができない場所だったんだよ。ラブホの真ん前でさ。それでダンナが怒っちゃって別居が決まってさ。子供連れて実家に帰るらしいんだ、とコバヤシさんが言った。
 え? そんなことになっていたなんて。
「ほんとびっくりしたよ。あのカラオケに行った日の救急車の音。あれヤグチさんだったんだろうね。時間も場所もそうだから間違いないだろうけど。あのときタナカさんもおかしくなっちゃって。不思議な偶然だよね、なんかこわくなっちゃったよ」
「あの。ヤグチさんは。二人とも無事だったんでしょうか?」
「ああ。不幸中の幸い。ヤグチさんはむち打ちで首をぐるぐる巻きにしてるけど、男の子の方は無傷だったらしい。でも、悪いことはできないね。わたしも、いろいろ考えたわ」
 アユミちゃんは知ってる? エスポアの子なんだって? って聞かれた。
 エスポアの方なら何度か顔見たことはあります、とだけ答えて、ライブに誘われたことは言わなかった。
 だけども。あの日。わたしが一緒だったら。
 そう思ったら、パーカーについた小さな雨粒がどんどん気持ちの奥まで濡らしていくような気分になってしまった。わたしが一緒だったらどうだったんだろう? 三人だったらこんな事故にはならなかったんじゃないか? いや。三人だったら。ヤグチさんはわたしを先に帰したに違いない。でも、もし、一緒だったら。事故は止められたんだろうか?

 そんなことをぐるぐる考えながらおそるおそるヤグチさんのお宅をピンポンすると、首に水色のギブスのようなものを巻いているヤグチさんが出てこられた。いつものおだやかに輝いている目つきではなかった。棘だらけのバラの蔦がぐるぐるに絡まったような顔。そのなかに、暗い池の底のような目が見えていた。
「時間があるなら、中に入らない? ここだと人目についてしまうから」
 事情を知っているだけに、そのままあがらせてもらうことにした。少し散らかったままの台所のテーブルに座り、コーヒーをいただいた。
「もう、コバヤシさんに聞いたんでしょ? ヘマやっちゃったわ」
 引っ越すと言っても、片づけが進んでいるわけではないらしい。ただ引っ越しセンターの名前の入った段ボールが部屋の隅にはたくさん立てかけてあるだけだ。引っ越しするのは間違いないんだ。でもこのギプスじゃ無理だろう。業者の人にすべて頼むしかないに違いない。
「コンサートが終わって、もうひとりの子を送って、最後にヒロトを下ろす予定だったの。ロックなんてひさしぶりだったし、気持ちもずいぶん高ぶっていたんだと思う。だからあの道を選んだのかもしれない。川沿いにラブホが並んでいて景色もきれいでしょ。邪心ももちろんあったかもしれない。そうしてそれもみんな見透かされていたのかもしれない」

 車を運転しながら、ヤグチさんはヒロトからもらったロックグループの録音MDを聞いていた。ヒロトはときおり、サビの部分をシャウトして歌ったりもした。
 そうして信号が赤になったとき、ヒロトが肩に腕をまわしてきた。
「オレほんと、すごい感謝してるんです。チケットも助かったし。オレ、なんかお礼したいけど、金ないから。だから、ここで・・」
「ここでって・・・ここのホテルでってこと?」
「はい。ヤグチさんさえよければ」
「バカにしないでよ! そんなつもりじゃないわ!」
 そう言いながらヤグチさんのハンドルを持つ手はガタガタと震えた。なのに肩にかかったその手をふりほどくことはできなかった。
 いや、そんなつもりだったのかもしれない。誰でもいいからぎゅっと抱きしめてくれたらいいのにとずっと思っていた。そうして、それがヒロトだったらどんなにいいだろうと思っていた。夫とのセックスが皆無というわけではなかったが、それは、抱きしめられるのとは違っていた。どちらかというと消化試合。どちらかというと義務。もしくはお互いの性欲処理。そこには何の快感もなかった。夫は相手のことを考えて抱くというよりも、自分の衝動だけを満たしていただけだから。だから、抱かれるたびに自分がただのおもちゃの人形になってしまっているような感覚しかなかった。
 だけどもヒロトの言い方が気にくわなかった。お金がないから身体でお礼なんて、それじゃ、わたしはヒロトを買ったっていうことじゃないか。
 こんな若い子に抱きしめられたらどんな気持ちになれるんだろう、と何度も何度も妄想していた。硬い筋肉。引き締まったウエスト。ゴムの風船のような夫とはまったく比べものにならない、ぴんと張りつめた皮膚。そんな身体に触れられるなら、どんな気持ちになれるんだろうと。だけども、妄想の中ではいつも、「求められ」ていたのだ。自分という人間に吸い寄せられる誰かに求められ、その情熱に包まれるようにしてあたたかい気持ちになっていたのだ。
 だからこそヒロトの言い方が許せなかった。
「すいません・・言い方、悪かったみたいで。おれ、いつもそうなんです、音楽だとなんてことないのに、自分の気持ちが上手に言えないんだ。でも、オレ、ほんとヤグチさんって魅力的な奥さんだなってずっと思ってて・・・」
 その言い方でまた心が揺らいだ。言い方を変えたら自分は納得するんだろうか。ああ、そうだ、ヒロトとセックスをしてみたかったのは本当だ。このままハンドルを切って、あの、目の前の「シャノワール」って看板のホテルに入ったらどんな感じだろう。そこでヒロトはどんなふうにわたしを愛してくれるんだろうか。誰かに求められる喜びを、わたしはもう一度確認できるんじゃないだろうか。もうすでに夫では感じることのできなくなっていた二人で落下してゆくようなエクスタシーを、わたしはもう一度味わうことができるんじゃないだろうか。
 不安がることなんてない。コバヤシさんだってやってることだ。コバヤシさんだけじゃない、PTAの会長だってやってるかもしれないし、同級の母親とよその父親との噂話だって何度か聞いたことある。いや、そういう自慢をしないで、ひとりでこっそりやってる人はもっともっといるはずだ。誰だってやってるようなこと。けっして責められるようなことじゃない。今、ここで決断したら、みんなと同じような楽しみを自分も持てるのだけのことなのだ。
 でもそれでもそれはチケットを買った代償であることに変わりはない、きっとずっとそうだ、わたしはヒロトに抱かれたくなるたびに、彼になんらかの施しをするに違いない。この身体をつなぎ止める麻薬のように、わたしはこれからずっと愚かなお金を使い続けるんじゃないだろうか。
 などと決めあぐねているうちに、ボルボはシャノワールの前の電柱に激突してしまった。

「飲酒運転だったの。そういえばずいぶんビールを飲んだみたいな気がする。ちゃんとしてるみたいで、そういうときって判断力がなくなってしまうのね。慌ててブレーキを踏んだのに、ブレーキが効かないって思ったの、スローモーションで、ゆっくり進んで、そのまま電柱にぶつかる瞬間まで覚えてるわ。ゆっくりとだんだんボンネットがひしゃげていくのまでわかった。お酒を飲むとブレーキが遅くなるって、そういえば何かで読んだことあったのを、あとから思い出したわ」
 ヤグチさんは、テーブルに目を落として言った。
「夫は。すごく怒って今でもロクに口も効かないの。それでも離婚だけはしないって言ってる。男の人ってそうよね。面倒だもん、離婚なんて。見た目も悪いし。でも、もう信頼も何もないわ。針のむしろだけど実家に帰るしかないの・・・でも、福岡に行けば、子供の中学受験には間に合うわ。準備が遅れてしまったけど、どこか入りこめるとは思うの。そうして、何年かして夫が福岡に戻ってきたら、そのときはわたしたち、また一緒に住むようになるんでしょうね、きっと」
 ヤグチさんはそう言って口の端を歪めるようにして笑った。
「残念です」
 何も言えなくて、そう言った。
「夫に、いったい何が不満なんだ、って言われちゃったわ。給料がもらえてこうしてつつがなく生活できてれば幸せって男の人は思っているのね。でも、そう思ってるだけで、いまだにわたしの気持ちなんか考えてみようともしてないんだわ。自分が転勤してもうまくやってるから、妻もそうだって思ってるだけなのよ。でも、会社と家庭は違う。わたしはこっちに来てからずっとひとりぼっちで、ちっとも幸せじゃなかった。独身の頃、実家は中洲からタクシーでワンメーターほどのところだったの。だからタクシー拾うほどの距離じゃないし、おんなじ方向の人がいないときは電話して父に迎えにきてもらってたの。ずっとそういうものだと思ってた。女なんだから、ひとりで帰ってくるなんて危ないって父は言ってたから。夜にひとりで出かけたり帰ったりなんて女性のすることじゃないってずっと思っていたの。
 でもこっちに来てからのわたしは女性じゃなくなった。一転してお迎え係になってしまったの。塾に行く子供の送り迎え、遅くなってしまった夫の送り迎え。一日に何度も夜に車を出したわ。帰りに雨でも降っていようものなら、夫は当たり前のように迎えに来てくれって言うの。やっとくつろげる時間になっても、ちっとも落ち着かなかった。お風呂あがりにパジャマに着替えてて、また着替えていくのも嫌だったわ。でも、夫自身はまだ、誰かが迎えにきてくれる立場の人間なのよ。わたしもつい最近までそうだったはずなのに。わたしだけが、いつのまにかそうじゃなくなってしまった。お迎えだけじゃなかった。校納金の銀行を決めたり塾をさがしたりいろんな手続きしたり、そんなのわたしがひとりでやらなきゃいけないの。ごはんを作るのも、洗い物も、何もかもよ。福岡にいるときはよかったわ。両親もいたし、友だちの情報があったから。塾も習い事もみんな、友だちがいいって言うものを選んでいくだけでよかったのよ。いつも誰かの紹介があったから、どこかに飛び込みで行く必要なんてなかったの。でも、このマンションには、ちゃんとした受験用の塾に子供を行かせてる人なんて誰もいないの。わたし、なにもかもひとりでやったのよ、チラシ集めて、実際にいくつか見学して、先生の質を見たり、私立中学の合格率見たり。もっとも私立の中学なんてこっちにはほとんどないし、まわりも誰も受けないから、高い塾に通ってても息子は受験しないなんて言い出して結局は無駄だったんだけどね……
 わたしたちって、学生の頃は勉強さえしておけばよくて、仕事しはじめたら仕事だけちゃんとしてたらよくて、わたし、世の中にはこんな雑用がやまほどあるなんて想像もしなかったわ。なのに、いつのまにか、わたしだけがお手伝いさんになってしまっていたの。ずっと誰かの世話をする係。わたし、こっちに来てはじめて、行くとこ思いつかなくて、この部屋でひとりでお昼ご飯食べたの。なんて味気ないのって思った。こんなに主婦が味気ないって、どうして誰も教えてくれなかったの? わたし、何も出来ない男たちの手伝いをするためにだけ、こんな田舎まできてしまってたの?」
 ヤグチさんの目は、理不尽なものを責める怒りが溢れていた。
「わたしは、コバヤシさんたちみたいにグループで男の人で遊んでるのってカッコ悪いって思ってた。タナカさんなんかもそう。自分じゃ何ひとつやれないじゃない。なのに誰かが一緒で、おんなじことだったらやれるのよ。ここではみんなそうなの。みんなでやれば、ちっとも悪くないって思ってて、そうして秘密のお祭り騒ぎしているのよ。わたしはそんなかっこ悪いこともしたくなかった。でも、結局、いちばんカッコ悪かったのはわたしだったのかもしれないわね」
 生活は単調だ。生きることは単調ではないけれど、毎日のごはんを作ったりお金を稼いだりするのは単調だ。たぶん子供がいないせいで、わたしはまだその単調さに向き合っていられるだけなのかもしれない。だけどもヤグチさんの言っていることもよくわかるような気がした。
「ご実家の住所、教えてください。ご迷惑でなければ、福岡でいつかお会いしましょう。クァトロカフェに行きましょう。わたしは、ヤグチさんが大好きだったし、ヤグチさんと福岡のこと思い出しながらお話するの楽しかったです、お元気で、今度は福岡でお会いしましょう」
 そう言うと、ギプスを巻いたヤグチさんの表情から一瞬毒々しさが消えたような気がした。ヤグチさんの目が少しだけ潤んだ。それはほんの一瞬。それから表情を隠すようにヤグチさんは台所の方を向いて口を開いた。
「最後にひとつ、告げ口していくわ」とヤグチさんはそう言った。「コバヤシさんの支払いには気をつけておいた方がいいわ。コバヤシさんはお金に困っている。あの、省吾ってどこに行っても自分がお金払うじゃない。でも、そんなに羽振りがいいわけじゃないの。しょっちゅうコバヤシさんがお金を用立てしてる。もう、あの人、自分の貯金はすっからかんで、子供の学資保険もほとんど使いこんでいるの。こっそり打ち明けられたわ。お金があれば男はなびく、ってね。今度のことでよくわかったわ。お金があれば男はなびく。でも、そんなのは、いい関係を作りあげていくのとは全然違うんだって。今更そんなことに気付く自分が、すごくむなしかったけどね」

 次の配達の時間が迫っていたのでおいとました。
 アユミちゃんと話すのは楽しかったわ、ほんとに福岡で今度お会いしましょう、ってヤグチさんは最後に言ってくださった。ちょっと涙が出そうになって、目の縁がゆるく痙攣するのがわかった。
 このマンションには来週も再来週も来るのだろう。だけどもヤグチさんの家には野菜を置かない。ここは単身赴任の男性がひとり暮らしをしているだけの埃っぽい部屋になるのだ。
 それでもヤグチさんがいなくても、コバヤシさんとタナカさんの配達はずっと続いていくのだろう。

 ヤグチさん、いつまでもお元気で。

*   *   *

 なんだか特別に疲れた。
 家に帰って売り上げを計算して、集計表に「ヤグチ様、引っ越しのため来週から配達中止」と書き込んだ。それを折りたたんで売り上げを入れるポーチに入れ込んだら、あとは何にもやりたくなくなってしまった。

 テレビのニュースをつけて、さあ、何か作ろうと思いながらそのままぼんやり座っていたら、タロウが帰ってきていた。気づいたら2時間以上わたしはじっと座ったままだった。
 何してたの? ごはん、作ってなかったの?
 スーツをハンガーにかけながらそう言う声が、すごく不機嫌だ。
「ああ、ごめん。なんか疲れてぼーっとしてた。ごはん、どうする?」
「うーん、食べに行くのも面倒。出前かなんか取れる?」
 メシも作れないような仕事はさっさと辞めろよ、と、声に出さないタロウの声が聞こえた。
 自分が取りたい出前を取ればいいじゃん。なんでもわたしに決めさせるつもり? と、やはり声に出さずにそれに答えた。
 今日のわたしたちは険悪だ。
「ピザでいい?」と尋ねるとそれでいいと言ったんで、Mサイズを一枚取って、30分待つあいだのビールを差し出した。少しばかりの妥協。

 ビールをひとくち飲んで、ぷはーと息を吐いてタロウが言った。
「アユミ。オレって、リフジンに対するタイセイがないんだ」
 リフジンのタイセイ? 何だったろう、それって、としばらく考え、それが理不尽に対する耐性だってことに気づいた。
「思い出した。それ、 レイコ女史がよく言ってた!」
「それそれ。レイコ女史の口癖だよ。今日、ひさしぶりに思い出したんだ」
 レイコ女史はわたしたちの課のいわゆる「お局さま」だ。事務処理のチーフで、わたしはレイコ女史の部下だった。仕事が早くてとにかく頭がいい。陰では誰もが彼女のことをレイコ女史と呼ぶ。そんな彼女が、ときどき怒りのあまり給湯室にこもることがあった。原因はいつも田上課長だった。
 伝達を間違えてちがった作業をさせる。A社への企画書を作成して、と言ったものがB社のものだったり、伝えていたものとまったく仕様が違っていたり。
 おまけに「そんなことは言っていない」と頑として田上課長は頑としてそれを認めない。時間がないんだから早く訂正してくれ、などと平気でのたまう。するとレイコ女史は「ぜんぜんわたしのせいじゃないんだけどね」などと、こめかみの切れそうな声でわたしに処理を押しつけて、給湯室にこもるのだった。それでもみんなレイコ女史のことが嫌いじゃなかった。わがままで仕事のできない課長の前であんなにあからさまに不機嫌な顔ができるのはレイコ女史しかいなかったからだ。
 ある日、課長が出張の日にみんなで飲んでいたときにレイコ女史がこう言った。
「わたし、理不尽に対する耐性がないの。それがわたしの欠点。頭の中じゃわかってるの。会社なんて理不尽のかたまりで、それを何とかしてお給料もらってるんだって。一生懸命にやってミスが起こる分は仕方ないわ。でも、課長、ぜんぜん考えないでミスをわたしたちに押しつけるじゃない。それでキレちゃうんだ。昔はカミナリオヤジとかが家にいて、ふつうはそんなので誰もが理不尽なものを頭の中で処理する方法を身につけてたって何かの本で読んだの。幸か不幸かウチの父はきちんと話せばわかるタイプだったし。中学から大学まで一貫の女子校でそんなタイプの人に出会うこともなかった。だから、わたし、理不尽に対する耐性がぜんぜんないの」
 そういうふうに素直に認められるところもレイコ女史の魅力だと誰もが思っていた。あの会社はそういう意味ではみんな仲がよかったし団結していたんだと思う。案外団結の原因は田上課長だったのかもしれない。
 それから「理不尽に対する耐性」はウチの課の流行言葉になったくらいだ。案外わたしたちはみんな「理不尽なんて知らない。そんなものに耐えられる人間じゃなくてもいいんだ」という変なプライドで団結していたのかもしれない。
「今日さ、ウチの所長がまた間違えたんだ」タロウが言った。「ちょっと大きな仕事でさ、所長が同席して2時に相手先と打ち合わせの予定だったんだ。それをすっかり忘れててさ、ケイタイに電話入れたら別のところで商談中だった。せっかく時間とってもらってたから向こうは不機嫌になるし、どうなってるんだって怒るしさ、どうしてもはずせないってわかってたら一本電話くれたらよかったのに」
「結局、どうしたの?」
「夕方帰ったら、所長にもういっかいアポ取ってくれって言われて、また明日だよ。もう、ずっと頭さげっぱなしだった」
「それでレイコ女史を思い出したのね」
「ああ。わかってはいるんだ。明日になれば、所長が来てうまいことあやまってゴルフの約束とかして、それで結果オーライなんだって。あ、この結果オーライが所長の口癖なんだけどね。オレじゃ結果オーライになれないんだ。地元のつきあい同士でなぁなぁで決まるのは簡単、でも福岡から転勤してきたオレだと、どんなに真面目にやっても結果オーライにはなれないんだ。こっちはすごい閉鎖的なところでさ。自分たちの繋がりだったら何だって決められる。でも、よそ者だとどんなにちゃんとやったつもりでも、全然ダメなんだ。福岡の支社はもっとちゃんとしてたよな。誰もアポイント忘れたりしなかった。そこでだったらオレだってちゃんとやれたんだ。でも、こっちに来てからは所長が出てこないと自分の数字すら出せないんだ。そんなのサラリーマンだから仕方ないって頭の中じゃわかってるけど、やっぱ、理不尽に対する耐性がないんだよなあ、オレって」
 タロウに愚痴られても、今日のわたしはそれをうまく慰められない。わたしはヤグチさんの出来事なんかをタロウにうまく説明できない。できるわけないじゃないか。そんなのウチに持ち込むなよ、とか思ってしまって、何も言わずにビールを飲むだけだ。理不尽に対する耐性がないのは、わたしだって同じだ。

「自分だって結婚してちゃんと生活してて、もう8割方おとなになれてた気分だったんだけどなあ。あとの2割くらいだと思ってるんだけどさ、それがダメなんだよ」
「きっとあとの2割が長いんだよね」
 それでもタロウは残り2割をいつか克服してちゃんとした大人になるつもりなんだろう。タロウにはそういうところがある。何事もきちんと片づけたいのだ。嘘もつかず、逃げることもなく、まっすぐな大人になることを、清々しいくらい自分の目標にしている。
 タロウのそういうところに憧れたのだ。
 タロウの頭の中の整頓された居場所に、いつまでも住んでいたいとわたしは思っていたのだ。月に一回、第一土曜日には耳にかからないように短く髪を切って、夜には使い捨てコンタクトをきちんと片づけて次の日の分を用意して、スーツのズボンは毎朝自分でプレスして、毎朝カミソリを顔にあてて、歯磨きのときはじっと鏡の前から動かなくて。その端正な顔立ちを苦労もなく身ぎれいにしている、そういう心の状態に憧れていたのだ。
 もちろん、そうじゃなくても人間は十分に生きていけるんだということを、イヤになるくらいによく知っていたから。だからこそ、タロウの心の中に住んでいたいと、わたしは切実に思っていたのだ。

 チャイムが鳴ってピザが届いた。
 少しタロウのことが嫌いになっている自分に気づいた。
 いや。タロウの心の中とはまったく違う世界に、いつのまにか身を置いてしまっている自分がタロウに距離を置いているのかもしれない。
 今日タロウが早く寝たら、サトウカズキにメールでも送ろうか、と思いながら、わたしはドアを開けてピザの代金を払った。

*   *   *

 ヤグチさんがいなくなった分、時間に余裕ができた。無駄話をする時間がなくなったからだ。
 だけども幸いにも売り上げはあまり減らなかった。
 ハナダさんがいつも多めに取ってくださったおかげだ。
 ケント君は不登校で学校に行っていないから、ハナダさん自身もあまり買い物には出ないのだろう。生協の配達とウチの野菜でだいたい1週間分をまかなってると言われた。今日、もう少し余ってないですか? と言っては残り野菜をいろいろ買ってくださるのが助かった。
「スーパーで買うものは農薬とかがこわくって。でもおたくのは産地もわかるし無農薬だから安心できるんです」
 ちょっと後ろめたくなった。配達で遅くなって夕飯を作るのが面倒なときは、ついスーパーのコロッケに残り物のキャベツをつけあわせたりするからだ。スーパーコバヤシの揚げたてコロッケがタロウのお気に入りだった。ファミーユマンションのコバヤシさんのご主人のスーパーだ。ここのコロッケはほんとにうまい、そう言ってはタロウはウスターソースをじゃぶじゃぶかけてそれを頬ばる。つけあわせがキャベツの千切りと味噌汁だけでも、そんなことには頓着しない。
 そりゃ便利だし安いしおいしいけれど、わたしの作ったどんなものよりもこのコロッケを喜ぶタロウのことが気に入らなかった。簡単に済む男だと片づければいいのに、そんな安っぽいものの方がマシなのかと心の中で毒づいてしまう。彼は雑貨や服にはこだわるくせに、食べものに対するこだわりがなかった、家では煮物中心の食事だったから、たまの休日にデパートのコロッケなどが並んだりすると、すごく嬉しかったのだそうだ。きちんとした食生活にも反動があるのか。もっとも外で買うお総菜を「ごちそう」だと思う感覚だったせいで、わたしは料理がすごくラクだったのだけれど。
 いや。
 タロウのせいばかりではなかった。
 ヤグチさんの忠告どおり、コバヤシさんの支払いが滞るようになってきたのも原因だった。
「お金をおろし忘れちゃって」と言われることもあったし、換気扇がまわっているのに居留守のときもあった。
 一ヶ月も支払いが溜まると経理のイリベさんが、金額をまとめて書いてくれた。一ヶ月分たまると配達が止まります、との注意書きを入れてくれる。
 そうすると、留守が多くてごめんなさいと翌週にはまとめて払ってくれる。
 そして次の週からまた居留守だ。
 いっそ、いらないと言ってくれたらいいのに、と思うが、こっちから切り出すわけにもいかない。マンションのタナカさんに「最近、コバヤシさん留守が多いですね」というと、「PTAが忙しいのかしら」と言うが、その視線は不安定に宙に浮いていた。タナカさんはたぶん知っているのだろう。
 一ヶ月分不払いで滞っても最終的には6−7千円だろう。その金額を手出しにしても辞めてもらいたい、などと思っているから、スーパーコバヤシまで憎くなってしまう。なのに我が家の近くには「コバヤシ」しかないし、タロウはここのミートコロッケを不必要なくらいに愛しているのだ。
 そもそもどんなにお金に困っているとしたって、コバヤシさんは社長夫人だ。今コバヤシさんの手元にお金がないとしたって、それはコバヤシ家としては取るに足らないお金のはずなのだ。この秘密が破綻すればコバヤシ家の財政はなんらかのカタチで補填されるのだろう。だけど、それはわたしが言うべきことじゃない。なのにわたしは、未収金の連続に頭を抱えている。

 いつもわたしが抱えるのはこんな小さな不満だ。
 だけど、この小さな不満が少しずつうっすらと埃のように自分の心の中に積もっていくのがわかった。
 ヤグチさんがいれば、少しは解消できたかもしれない。彼女のあからさまな不満は、わたしの中にすでに芽吹いているものだったのだから。
 隣のカズちゃんはやっと歩くようになった子供の世話に追われているし、一緒にランチできるような状況でもなくなってきた。
 あとは……誰も話すべき相手がいなかくなってしまった。
 そのうち仕事がない日の昼間に、サトウカズキにメールを送ることを覚えた。
 大学の授業のあいまにこまめにメールチェックしているのか、その日のうちに返信がきたりするのも嬉しかった。
 話の合う友達がいないのだと書く。ここの土地は閉鎖的だとか。週に数日だけ仕事をする主婦の生活は単調だとか。それからヤグチさんとかコバヤシさんのことも書いた。彼女たちの話はあまりに微妙で、わたしはタロウにはまったく話していなかったから、存分にそれをぶちまけた。
 サトウカズキは、自分も毎日つまらない、おまえらみんな死んじまえ!って思うくらい教えている学生たちがくだらないんだ。と返信してきた。なついてくる学生がひとりだけいて、その子はゴスロリみたいな服着て授業が終わると質問しにくる。好きでも嫌いでもないが素質はある、と書いてきた。
 世界をくだらないと思える素質? そんなもの、素質でもなんでもないじゃないの、とやり返す。
 大学という世界にもそれなりのしきたりやら決まりがあるのだろうが、それでもサトウカズキは傍若無人むきだしの学生たちを相手にして、そういう世界に生きていられる。そんな中で学生の頃と変わりなく毒を吐けるのは、サトウカズキの素質なんだろう。
 タロウにはなくて、サトウカズキにあるものが確かにあった。だけどもタロウへの不満は書かない。それはルール違反のような気がした。じゃあ、どこからがルール違反というのか?
 メールならいいのか? 会ったらどうなのか? セックスしたらどうなのか?
 ねえ、おいでよ、やろうよ。というふざけた誘い。
 いやよ。そういうのは。と返信しながら、誰かにそう口説かれるのはなんて心地いいんだろうと思ったりもする。そうしてそんな日は、疲れて帰ってきたタロウがどんなに不機嫌であろうと、わたしは不思議なくらいに優しくなれるのだった。仕事がない日はメールのやりとりだけで5往復くらいした。昼休みとか、授業のない時間に当たったら、チャットのようにすぐに返信がくるのも嬉しかった。ときには、迷惑メールなみのいやらしい言い方。何色の下着? とか、いやらしい写真を送ってとか、フェラしてるとこ想像してみて、とか。そうして、ふざけたりはぐらかしたりしながらもそういう会話につきあってしまうのだ。今日の下着のレースの色をことこまかに描写してみたりしながら。それはもちろん、すごくいやらしい気分にわたしをさせてくれた。
 最初タロウに抱かれたときに感じた、包み込まれるような安心感はずっと続いていたけれど。わたしの妄想の中にはそれ以外のものが、洪水のようにあふれ出して、それはもちろん頭だけではなくて身体の中までもしっとりと濡らしていた。
 いつか、気が向いたら遊びにくるわ、退屈でしょうがないから。
 それは(永遠にいつか)かもしれない。(永遠にいつか)だったらどんなにいいだろうと、わたしは本気で思っている。(永遠のいつか)に行われる行為を妄想するだけだったら何の罪もないからだ。
 そうして夕方になる頃には、わたしはその一日分のメールをパソコンから消去した。
 もちろんタロウがわたしのメールを覗くはずなんてないだろうけれど。削除しないことにはわたしは元の日常に戻れないような気がした。それくらい、このメールのやりとりは、わたしにとっては刺激的なものだったのだ。

 いつしかこの昼間のメールのやりとりだけが、わたしの生活のバランスになっていた。
 タロウが嫌いというわけじゃないけれど。
 疲れて帰ってきた日の不機嫌な態度は嫌いだった。
 わたしがタロウの仕事で疲れたときの気持ちを、少しは分担して抱えなければいけないのだとしても。
 少し働くだけの主婦のそれなりの消耗を、彼は理解して抱えられるんだろうか?

*   *   *

 家にいるよりか、仕事がある日の方が楽しいと思った。
 車を運転して身体を動かすと、よけいなことを考えなくてすむからだ。
 いろんな人と話したり、少し文句を言われたり(虫喰いキャベツとかしおれたチンゲンサイとか)、車の窓の外に季節の景色が広がっていたり。冬の到来がカレンダーよりも遅いような気がしていたけれど、それでも木々の葉は少しずつ色づいていた。
 ハナダさんの家の玄関にはミントの葉っぱが生い茂っていた。日当たりがいいのだろう、寒くなってからもなかなか枯れない。
 わたしはチャイムを押す前にかならず鼻を近づけてその匂いを嗅いだ。そんな些細なことだけど、それでも外に出て何かを感じられる日の方が幸せだとわたしは思った。
 ハナダさんのお宅に到着したら、今日はケントくんがでてきた。
「こんにちはー、あれ、お母さんは?」
「……お出かけしてる」
 留守番が心細かったという顔だ。買い物にでも出かけたんだろうか。
「じゃね、ケントくん、これ、置いとくからお母さんにわたしてね、お金は来週いただきますって言っといて」
 そう言って行こうとすると、ケントくんがわたしの背中に、ねえ、と呼びかけた。
「退屈してるんだ、マーチに乗せてくれない?」
「でも、おかあさん、帰ってくると心配すると思うよ」
「大丈夫、今日はしばらく帰ってこないから」
 ちょっと考えてみた。ハナダさんの前で、いつか乗せますって言ったけどダメとは言わなかったな。彼女はケント君の言うことを理不尽じゃないかぎりちゃんと尊重してくれるタイプだ。置き手紙さえしておけばいいんじゃないか。このあとの配達の時間は約1時間半。送り届けてもそんなに遅くはならない。夕方の6時前には戻れるはずだ。
「玄関のカギ、持ってる?」
「うん! 自分の分がある!」
 仕事用のスケジュール帳を一枚やぶって、短い手紙を野菜と一緒に玄関に置いた。6時前には送り届けます。それと自分のケイタイの番号も付け加えた。

「助手席に座っていい?」
 そう言ってケント君が乗り込んできた。彼は計器類が大好きだ。アクセルをあげると回転数がブーンと上がるのを覗いて3千回転、5千回転、とつぶやいてみたり、あ、もうすぐ50キロだ、とメーターを見ながら言ったり。
 うるさいとは思わなかった。高い声でキャーキャー騒ぐタイプでもないし、自分と車の世界に入り込んでいる感じだ。話していない時はじっとエンジンの音を聞いているような気がして、FMラジオの音楽をオフにしてみたら、いっそう黙りこくってしまった。
「車が好きなの?」
「うん、いろんなところに行けるから。でも免許取らなきゃ運転できないんだって言われた。ああ、僕もちょっとでいいから運転したいよなー」
「それは無理!」
「……18才にならないとダメなんだよね」
 それからケントくんはわたしに尋ねた。
「ねえ。いつもひとりで運転してるの?」
「そうね。仕事のときはね。ひとりで運転しながら、今日は何食べようかなとか、ああ夕焼けがきれいだなーとか思うのが好きなの」
「わかるよ。ぼくもひとりで学校から帰るのが好きだったもん。ともだちと別れて、そこからひとりで空き地とか歩いてさ、なんかさ、映画の中にいるみたいな気持ちになるんだ」
 顔が小さくて薄茶色の髪がさらさら。外国の子供のようなくっきりした顔立ちをしている。外で運動することもないだろうから、身体だって小柄なままだ。その美しい横顔を眺めながら、学校、そろそろ行きたいのかな。外に出たいってそういうのの始まりなのかな。ちらりと思った。

「いい? ピンポン押してね、はーいって言われたら、お野菜です! って大きな声で言うんだよ」
 そう言うと、はっきりした声できちんとこなす。まあ、お子さん? とか聞かれてわたしの方が照れてたりすると、今日は配達のお手伝いです! とケント君が言う。その真摯な言い方に、お客さんの顔がほころんだ。
 そうか。子供って、こんなふうに和らげてくれるんだな。育てたことがない分、接し方にも自信がなかったけど、彼は意外なほど最強なパートナーだった。

 配達は時間どおりに終わった。空が薄墨色になる頃にハナダさんのお宅にたどり着く。
 なのに、電気がついていない、でかけたときのままのしんとした状態だ。
 ケント君がカギを不器用にまわして開けている。ずっとうつむいたままだ。
「遅いね、おかあさん、いつくらいに帰るんだろう」
「……わからない」
 庭の方にまわってみた。いつもいっぱいにはためいている洗濯物が今日はないのに気づいた。朝からいないってことなのか? 急に胸がざわざわしてきた。ハナダさんがいなかった日なんてこれまであっただろうか? あ、一度だけあった。買い物のあと意外に道が渋滞しちゃって、よかったわ間に合って、と言って慌てて車から降りてきた日。その日一回きりだ。
「ひとりでおかあさんを待てる?」
 そう尋ねると、よけいにケント君は下を向いた。
 少しだけ一緒に待っていようか? 車の中で待っている? と聞くと、家に入っていいよ、と言う。失礼かと思ったが部屋にあがらせてもらうことにした。
 この不穏な空気の中にこの子ひとりを置き去りにしてはいけないという直感。それが間違いでなかったことは一目瞭然だった。
 リビングにはゴミやら本やらお菓子のくず。テーブルの上にはポテトチップスとチキンラーメン。チキンラーメンはそのまま囓ったような感じだ。ぽろぽろぽろぽろ、その食べ物のかけらが散らばったフローリング。
 勝手口のあたりにはゴミ袋がみっつ、生ゴミの臭いが漂っている。そのうちのひとつを見て、あやうく声をあげそうになった。中に放り込まれていたのは、先週わたしが配達した野菜セットだった。ほとんど手つかずでビニルを開けた形跡さえもない。傷みやすいレタスは外側が赤くただれ、もっと傷みやすいニラもドロドロで、ニラ特有の臭いが、ゴミ袋を発信地にして部屋中にたれこめていた。シンクの中には飲み干した缶ビールとかコップとかそしてラーメンの食べ残しまでがそのままで・・・ああ、玄関のプランターに整然と並んだミントが、この臭いを消してしまってくれたらどんなにいいことか。
「おかあさん、いつからいないの?」
 やっとの思いでそう尋ねると、ケンタ君は声をあげて泣き出してしまった。
 う、う、あーん、あーん、うわあーーん。
 わたしも泣きたくなってしまった。
 世界の果てにふたりっきりで取り残されてしまったみたいに。わたしはケント君を抱きしめて、反響する泣き声を呆然と聞いていた。

*   *   *

 どこに行ったらいいのか、まったく見当がつかない。
 泣き疲れたケント君は助手席で眠ってしまった。涙のあとが鼻水のようにカパカパになって頬に白いラインをふたつ作っていた。

 とりあえずわかったのは、今朝ケント君が起きたらお母さんがいなかったこと。あと、お父さんという人はここには帰ってこないということ。いつからそうなのかはわからないが、とりあえずはそういう生活を続けているということ。お母さんは昨日の夜は泣いていたこと。その前の夜もその前の夜も、ずっと夜が来るたびに泣いていたってことだ。
 それがケント君のついた嘘だったら、ともちらりと考えた。よんどころのない事情で母親が出かけ、さみしくなった末についた嘘だとしたら……
 そうだ、そもそも子供の言うことだけを信じるのはよくない。誰だって自分の都合のいいようにしか話さないじゃないか。お金に困っているはずのコバヤシさんがそのことをちらりとも口に出さないのと同じだ。すべてを鵜呑みにする必要なんてない。
 ケント君の言葉だけを信じて、この子を連れ出して、いったいどうする気なんだ、そう自問するが、答えがわからない。
 住宅地の片隅に駐車して、ハナダさんの自宅に電話を入れてみた。呼び出し音が5回鳴って、かちゃりと音がした。「ただいま、出かけております。またおかけなおしください」くそっ、なんで留守電じゃないんだ。
 ケイタイの番号がわかればとも思ったが、お母さんはケイタイは持ってないとケント君は言う。いまどきケイタイを持ってない主婦なんているんだろうか。

 そうこうするうちに、タロウの帰宅する時間が迫ってきた。この子を家に連れて帰ったら、タロウは何と言うだろう。また不機嫌な顔をするんだろうか?
 疲れてやっと帰ってきたのにって。
 ケント君は泣き疲れて寝たままだ。わたししか決められない。
 いいや、タロウがどう言おうと。ケント君は家に連れて帰るんだ。
 万一間違いでも、わたしのケイタイ番号のメモは置いてるんだから。問題はないはずだ。
 ホカ弁が見えたのでケント君をたたき起こして、夕飯にお弁当を買った。唐揚げが食べたいとケント君がはしゃぐのでみっつとも唐揚げにした。お母さん、お待たせしました、そうお店の人に言われた。
 そうか、子供を連れてるとわたし、お母さんにもなれるんだな。

*   *   *

「やばいよ、勝手に連れてきたら。警察に連絡した方がいいんじゃない?」
 思ったとおりにタロウはそう言った。ケント君は唐揚げ弁当を夢中で食べている。おなかがすいていたんだろう。その脇でわたしたちは声を潜めて会話していた。
「間違いだったら、みんなが傷つくわ」
「間違いって。実際帰ってないんだろう、母親は。アユミはどんな間違いを想定してるの?」
「たとえば・・・」うーん、考えつかない。「たとえば、家族の誰かが危篤で慌てて病院に行ったとか」
「それでも子供には伝えるだろう、もしくは近所の人にお願いしていく」
「とってもいい人なのよ。本当に、どうしようもないことが起こったのかもしれない」
「だったら、よけい警察だ。母親が事件とか事故に巻き込まれているのかもしれないじゃないか」
 ほんとうだ、そういうこともあるのかもしれない。ちょっと怖くなってしまった。
「とにかく、一晩だけウチに泊めてあげようよ。明日になって、どうしようもなくなったらわたしが警察に連絡するから。今日はそうしていたいの、お願い」
「人がいいんだな」
 わたしの中ではハナダさんの方がずっといい人だった。だから、彼女がこんなことをするなんて受け止められないだけかもしれない。
「いいよ、じゃ、一晩だけ。イヤな言い方かもしれないけど、これは僕の仕事上のトラブルじゃない。だから、アユミの言うようにしよう」
 ふわっと身体の力が抜けた。そうか、わたし、こんなふうに何かを押し切ったことがなかったんだ。ちゃんと主張すれば聞いてくれるんだな。
「ケント君、おなかいっぱいになったら僕と一緒にお風呂に入ろう。それから3人で並んでベッドに寝よう」
 タロウがそう言ってくれたので、ケント君は顔をあげて、うん! と言って笑った。

 お風呂ではタロウとケント君がはしゃぎあってる声が聞こえてくる。
「わーっ、わーっ、わーっ」
 シャワーで頭を流しているんだろう。じっとしてないと目にはいるぞー、とタロウの声が叫んでいる。タロウはケント君が気に入ったらしい。いや、そうじゃなくて、もともと子供が好きなのかもしれない。わたしたちは、子供という存在をあいだに置いた関係になったこともなかったし、それを熱烈に望んでもいなかった。だけどタロウにはこういう面もあるんだな。
 なんだか今日はタロウのいろんなところを発見しているような気がした。
 ケント君のおかげだ。

 寝室に入る前にもう一度、ハナダさんのお宅に電話を入れてみた。
 コール音5回。「またおかけなおしください」のメッセージ。変わりない。時間は午後9時40分。
 とりあえずケント君は、今日はウチの子供だ。
 タロウの大きな白いTシャツを着てぶかぶかになったケント君がまんなかに入った。押しくらまんじゅうにするぞー、とタロウが身体を寄せるんで、わたしも反対側から押してみた。くすぐったいよーとケント君が大声で笑った。
「ああー、おかしいー、お父さんがいたときみたい。お父さんてばいつも、こんな感じでふざけてたんだよ」
「いなくなっちゃったんだ、お父さん」
「……うん。お父さんがいなくなったらイヤだから、ぼく学校に行かなかったのに」ケント君がぽつんとそう言った。「いつも、お母さんとケンカして出ていくって言ってたから、ドキドキしてね、学校行ってるウチにいなくなったらイヤだから、学校に行かなかったの。お父さんは会社には行くんだけどね、いないウチに引っ越しちゃうとイヤだなーって思ってたんだ。でもけっきょく、荷物持って出ていっちゃった。ぜったい迎えに来るって言ったけど、ちっとも迎えにきてくれないや」
「もしかして、迎えに来てくれるから、今も学校行かないで待ってるの?」
「ううん。もう、ほんとは学校に行きたいの。でも、お母さんが行かないでって泣くんだ。僕がいないあいだひとりになっちゃうからこわいって。それにね、行ったら学校の帰りに誘拐されちゃうって。お父さんとかお父さんの女の人がぼくを誘拐しちゃうから、ここから出ちゃだめだって」
「先生とか来てくれなかった?」
「来たけど、おかあさんが会わせてくれなかった。ゲームはいっぱい買ってくれたから退屈しなかったけどね。でもゲームの主人公って喋ってくれないんだよね。がんばれ、とか、もう少しだ、とか言ってくれるけど、ぜんぶ画面に出てくる文字なんだもの。文字で言われたって、ちっとも嬉しくないんだよね。文字って触れないんだもの。でも、ともだちだと、触れるんだよね、キックしたり、ランドセルの上にのっかられたりして痛かったりもするけど、それでも触れるんだよね。お母さんはね、触れなくなっちゃったよ。いつも泣いたりビール飲んだりしてるから。」
 話ながらケント君はだんだん眠たくなってきたらしい。話が途切れたり、目をこすったりしながら、それでもずっと話を続けていた。彼の頭の中にはきっと、誰かに話さなければいけないことがいっぱい溜まっていたにちがいない。
「おかあさんは病気で入院してたから、もう赤ちゃんができないんだって。でも、弟ほしいだろ? っておとうさんが言ったから、うん、って答えたの。そしたら、おとうさんが、もうすぐ生まれるから楽しみにしてろって言ったんだ。でもおかあさんの赤ちゃんじゃないから、その子は別の家で生まれるんだって。いいよ、別の家でも。それでもときどき遊べる? って言ったら、おかあさんがすごく大きな声で泣いちゃったんだ。そんなこと、なんでケントに言うのって、すごくびっくりするくらい大きな声で。それからテーブルの上のお茶碗とかみんな投げて。みんな割ってしまった の。泣きながらガンガンお皿割って、 おとうさんが止めたけど、 すごーく おっきな声で泣いて、おかあさん、手ケガして、血がいっぱい流れたんだ。おとうさん、止めたけどぶんぶん手をまわしたから、 血がいっぱいでてて、 こわかった。 その子は おとうさんの子だけど、おかあさんの子供じゃないから。だから泣いちゃったんだ。だから、おかあさんがイヤなら、もう会わなくていいと 思った の。 だって、会ったことない子だもん イヤな子かもしれないし。  おかあさんがそんなに泣くんだったら  そのまま 会えなくても  よかった…  でも   その子が 生まれたら おとうさん    帰ってこなくな   った……」
 話しながら、だんだん意識が途切れるようにしてケント君は寝てしまった。
 そのあとにはすーすーすーと安らかな寝息だけが聞こえた。
「思い出した。ハナダさん、子宮に腫瘍があって入院して取っちゃったんだって。前に話してもらったことがあった」
 だからわたし、生理もないし子供ももうできないんです。だからせめてこれから食べ物には気をつけようと思って。ハナダさんがあまりにも淡々とそう言うので、それがこんなに重大なことだなんて思いもしなかった。30代のなかばで子宮を取るのはどんなにつらいことだろうとそのときは思ったけれど、それすらも他人事のように淡々と話すものだから、わたしはそれ以上の痛みを感じることができなかった。
「そっか。でも、ひどいよな、そのダンナ。よく子供の前でそんなこと言えるよな」
 主婦の浮気、夫の不義理、そんなものが身近にごろごろ転がっている。タロウはたまたまそういう人を知らないだけだ。
 仕事をしてるわたしはいい人で、お客としてのハナダさんもとてもいい人だった。わたしは仕事上のいい人ではあったけれど、それでもハナダさんもケント君も大好きだった。
 いま、そういう仕事の関係を脱いだわたしたちは、まったく違う顔をしていた。ハナダさんはわたしよりもずっと分厚い仮面をかぶってそれを演じていたのだ。仮面には思えなかった。それが本来のハナダさんのようにしっくりとしていた。きっと本来のハナダさんはそういう人なのだ。だけどもそういうふうでいられなくなったハナダさん。その分厚い仮面に少しでもほころびがあったのなら、わたしはそれを見抜けたかもしれない。そうして共感することができなくても友達みたいに慰めることだってできたかもしれない、そう思ってしまうのはわたしの傲慢なのだろうか?

 喋り疲れたケント君がそのまま寝てしまったので、起きあがってふたりで缶ビールを開けた。
「いいな、子供って……」タロウがぽつんと言った。「ほんとは苦手だと思ってたんだけどな」
「苦手だったわりには馴染んでたね、子供欲しくなった?」
 タロウが小さく笑った。欲しくなったんだろう。
「余裕がなかったんだ。自分のことで精一杯で。こっちに来てから仕事にも馴れなかったし。だから、これ以上誰かに手をかけたり養ったりする自信がなかったんだ。こんなにかわいいんだな。手もかかるかもしんないけど、その分、いろんなものがもらえるような気もしたよ。でも……」そう言って、言葉が途切れ、それからタロウは自分の両手で口そ押さえた。「でも。おれ……子供できないのかもしれない」
「え?」
 どういうこと? そう聞こうとしたら、天井を見上げていたタロウの目が潤んでいるかのように見えた。
「黙ってるつもりもなかったし。隠してたわけでもなかったんだ。そんなに大変なことだとも思ってなかったんだ。ていうか。今の今まで、自分でも忘れていたんだ」
 タロウはポツポツとそのことを語りはじめた。
 大学時代のテニスサークルに医学部の先輩がいたのだと言う。彼は環境ホルモンについての調査を担当教授に依頼されていた。成人男性の精子の数の調査をしているので協力してくれないかとタロウたちが頼まれた。断る理由もなかった。頼まれた数人で、大学病院のトイレで精液を採取し、「検査っていっても、なんかなさけねー」などと笑って、そのままそのことは忘れていた。
 卒業前にその先輩を含めたみんなで飲んだ日のことだった。帰り道が一緒の方向で、二人で歩いていたときだ。そのときに先輩が言ったのだ。
「おまえ、精子の数、少なかったよ」
 テニスで鍛えたがっしりした身体をした先輩は国家試験も終わり、よほどの失敗がなければそのまま大学病院の研修医となることが決まっていた。
「あれは20代全般のデータを出すための検査だったから、こんなこと個人的に言うのもアレなんだけどさ、いちおう言っておこうと今ふっと思ったんだ。まず、今の20代の精子の数が以前よりも 少なくなってるのは間違いない。そして、おまえのは……特に少なかった。いや、そういっても、子供ができないとか、そういうレベルじゃないんだ。でも比較的できにくいかもしれない。これから状況は変わるのかもしれない。それにおまえが特別ってわけでもないんだ。ばらつきはあるけど、10%前後、精子の少ない男性がいる、その10人のウチのひとりだってことだ」
 先輩が話すたびに、しんとした空気に白い息が蒸気のように吐き出されていた。
 タロウはそれが自分にとってマイナスなのかどうかピンと来なかった。とりあえず、何かの間違いで女の子を妊娠させたりする確率は低そうだと思ったくらいで、実際にそのような感想を率直に先輩に言ったように記憶している。先輩は、たしかにそうだな、と言って笑った。
「たぶん結婚してから子供がほしくなっても、それほど困るほどの問題じゃないと思う。けれど、心のかたすみにでも覚えてくれてれば、何かのトラブルを避けることができるかもしれない。ふっとそう思っただけだから気にしないでくれ。人間の身体なんてみんな違うんだし、体調やそのときの状態で変わることもあるんだから、特別なマイナスなんて思わないことが大切なんだと思う」
 信頼している先輩はきっといい医者になるだろう。タロウはそれを誇らしく思った。だけども、自分に関することは今日の今日までまったく失念していた。

「今頃になって、それがすごい大変なことに思えてきた」
「大変なことっていうほどじゃないわ。その先輩の言うとおりのニュアンスなんだと思う。たまたま出来づらいだけなんだよね」
「ごめん……許してくれるか」
「許すもなにも。それはタロウのせいでもないし。子供ができないってわけでもなんでもないんだから。いっぱいセックスすればいいのよ。じきに出来るよ。子供くらい」
 そう言ったら、タロウがくしゃくしゃな顔して、そりゃそうだよなって言いながら笑った。まぶしいくらいの笑い顔だった。久しぶりにこんなタロウの笑い顔を見たような気がした。
そうだ。はじめてふたりっきりの夕食に誘われたとき、オッケーしたらタロウはこんな顔して笑ったんだ。なんて嬉しそうに笑うんだろう。そう思ってわたしはこの人のことが好きになったのだった。
 タロウにはこんな素直なところがある。改めてそう感じた。
 自分の弱みもまっすぐに晒せる素直さ。
 上手に晒せない自分が申し訳なくなるくらいの、まっすぐな素直さ。

*   *   *

 翌日の朝から何度もハナダさんの家に電話をしたが応答がなかった。
 タロウが会社に行く時間になったので、わたしが切り出す。
「もう一日、一緒にいちゃダメ? 電話だけはこまめに入れるけど。もう一日待っていたいの。明日は野菜の配達でまわるから。水曜日はハナダさんの配達はないけど、近くまで行くし。野菜を積んでいる日の方が近所の人に不審に思われない」
 警察に連絡するのも避けたかった。そして何よりも、もう少しケント君と一緒にいる時間が欲しかった。
「いいよ。もう一日だけ待とう。ちゃんと連絡先は書いてるんだろ? でも、電話だけはこまめに入れろよ」
 そう言ってタロウは会社に行った。

 起きあがって不安そうにしているケント君にそのことを伝えると顔がほころんだ。でも、学校があってる時間に外には出れないから、家でゲームをしていられる? そう尋ねると、タロウの本棚にあるロールプレイングゲームを指さした。ずっとこれをやってみたかったんだと言う。
 ゲーム機のコードをテレビに接続して、画面を出して、わたしはそのまま台所のテーブルでコーヒーを飲みながらそれを眺めた。
 手際よくいろんなルールを理解していく。わたしもタロウと一緒になって一通りクリアしていたけれど、これじゃ出る幕はなさそうだ。
 それにしても。ひとりの母親とひとりの子供が、自分の家から姿を消しているのに何の騒ぎになることもならないというのはいったいどういうことなのだろう? もちろん誰かが心配してハナダさんに電話くらいはしたのかもしれない。だけども深刻な大騒ぎにはならなかった。そのことを考えるとせつない気持ちにもなった。
 そういうふうに世間と関わらずに、この親子はある意味おだやかに暮らしていたのだ。二人の生活ではそれが可能だったのだ。
 世の中にはそういう人たちが、もしかしたらたくさんいるのだろうか?

 もともとケント君はこんなふうに家にじっとしているのにも馴れていた。ゲームに関しては口を出したいところは各所にあったが、横から見ながらじっと待っていた。考えて考えて考えて、最後に「アユミさん、助けてー」とケントが叫ぶのがかわいくって、その声が聞きたくてしかたなかったのだ。

 片づけものを終えるとわたしは特別にすることもなくなったので、パソコンの前に座った。
 サトウカズキにメールする気分でもない。インターネットを繋げると、最初にYAHOOのページが現れた。思いついて、検索をしてみた。キーワードは「精子 少ない」。40万件ほどのサイトがヒットした。そうか、やはり珍しいことじゃないんだ。
 最初に「精子欠乏症」という医学サイトの説明を読んで、タロウの先輩の説明があながち嘘ではないことを確認した。手術の事例、漢方薬で治るという話、それから、検査時の体調やストレスなどで減っている場合もあることを読んで少しばかり安堵した。健康食品のサイトにも何度か繋がった。男性も大変だ。こういうことで悩んだりする人がけっこう多いくらいだから。
 だけど。
 だけど、これがタロウ側の問題ではない可能性だってあるのをわたしは感じていた。
 大学時代に一度堕胎したことがあった。同じゼミで仲よくなった恋人と失敗してしまったのだ。お互いに就職も決まっていたし、産むという選択肢はなかった。困り果ててゼミの仲のいい友だちに病院を紹介してもらった。
「上手なところじゃないとね、一度おろして子供ができなくなったってこともあるんだって。ここ。サークルの先輩から紹介してもらったんだけど、女医さんだし、けっこう利用した人いるって」
 けっこう利用した人いる、という言葉に安堵して、手術を受けた。手術室はとても簡素で、麻酔を打って数を数えたことだけ覚えている。気がついたら痛みも何もなかった。ペパーミントグリーンのペンキを塗った病室の壁のことくらいしか記憶がないくらいだ。その後の不正出血のために何度か通院したけれど、卒業、就職、のことで頭がいっぱいでわたしは悲しむことすら忘れてしまっていた。同じ年代の女の子が同じ日に手術を受け、彼女は2回目だと言っていたので、それで罪悪感が薄れたせいもある。そうだ。卒業旅行にそれで行けなくなったんだ。スキーはしばらく無理、というよりも出費の方が痛かった。
 恋人はきっちり半分負担してくれたけれど、それでも旅行のために溜めたバイト代はなくなってしまった。恋人の方はスキー旅行に行った。二人で休むとあやしまれるし、と彼は言い訳がましく言って、わたしはそれを承諾した。大学時代なんてそうだ。今楽しまなければならないことばかりが溢れかえっていたのだ。
 いくら腕がいいと言ったって、それが原因で妊娠できない可能性だってあるんじゃないか?
 だけども、わたしは多分、このことをタロウには言えない。
 タロウがふり絞るようにして告白したにも関わらず、わたしはそのことを告白できないでいる。それがわたしの狡さだ。

 不思議だ。
 いつかは結婚して子供を育てると漠然と思っていたのに、それはずっと先のことのような感覚がいまだにわたしの中にはあった。奥さんになること、これからお母さんになること。それはまったく別の場所のできごとのような感じがずっとそのままなのだ。
 まったく別の世界のできごと。
 案外みんなそう思い続けて、その場所になじめないままで母親をやっているんじゃないのか?
 中学受験のことを話すヤグチさんも。不倫にいそしむコバヤシさんも。そしてケント君のお母さんも。
 もしかしたら、みんなみんな、あの頃のわたしとおなじ感覚で、立場だけが変わってしまって。その立場を一生懸命演じようとしているだけなんじゃないのか?
 それとも、これはわたしだけの感覚なのか?

 そんなことを考えてぼんやりしていたら、あゆみさ?ん、死んじゃったよ?、とケント君がしおしおの声で言っていた。
 死んでしまったのは、もちろんゲームの主人公だ。
 ケント君でもケント君のおかあさんでもなければ、あのとき堕胎したわたしの赤ん坊でもない。ああ、ヴァーチャルでよかったと思いながら、わたしはやっと現実に引き戻された。
「じゃあ、スパゲッティでも食べようか」
 そう言うと、ケント君は、はーいと返事をしてからゲームの電源を切った。

 家で茹でたスパゲティをふたりで食べて、夕方になるのを待って車で郊外のショッピングセンターに出かけた。ショッピングセンターで子供向きの漫画を選んだりゲームセンターのコインゲームをしたりマクドナルドでシェイクを飲んだり、そうして夕食を買い物をしたり。そんなことをしているわたしたちは本物の親子のように見えたのかもしれない。

 家に帰って、お魚が大好物というケント君に煮魚をこしらえ、もう一度ハナダさんに電話を入れてみた。
 相変わらず「またおかけなおしください」のメッセージだ。わたしは昨日から何度この機械的な女性の声を聞いただろう。それでもこのメッセージに切り替わるとどこかでほっとしていた。ハナダさんがいきなり出たらなんて言えばいいのか、わからなかったから。

 タロウは残業もそこそこの家に帰ってきた。
「電話がまだ繋がらない」というメールしていたから、ケント君がいるのを見越してのことだった。
 3人で夕食を食べ、またもタロウが風呂に入れ、それからロールプレイングゲームの続きをやった。
「一日でこんなとこまで進めるなんて、ケント、すごいな」と言われ、ケント君はすごく誇らしそうな顔をした。ちょっとゲームさせすぎたかもしれない。でも、外出もままならなかったので仕方ない。
 ロールプレイング。不思議な言葉だ。ケント君は実生活でも、わたしたちと親子というロールプレイングをしているのかもしれない。それはゲームで開花した才能なのか? それとも実生活で身につけた知恵なのだろうか?
 それからゲームを片づけないままで寝ようとしたケント君をタロウは柔らかく注意した。自分の感情をピアノの音に変えるような声だった。ショパンの「雨だれ」のようだと思った。
 その声はもちろん、わたしにすごい幸福感をもたらしてくれた。

 ケント君が寝入ると、それでもタロウは、明日のことをわたしに約束させた。
 配達のとちゅうで、ケント君の家に寄ること。それでも誰もいなかったら警察に連絡すること。
「明日は会議だから、メール読めないけど、ひとりで大丈夫? 帰りも遅くなるかもしれないし、出来れば昼間のうちに連絡した方がいいと思うんだ。明日で三日だし。これ以上伸ばしたらいけないと思う」
「大丈夫。ひとりでできる。それに、ケント君もしっかりしてるから。何とかなると思う」
 下を向いてそう答える。
 ほんとはそんなことしたくなかった。警察にケント君を置いて帰ってくるなんて。どんなに心細いことだろう。そういうことで会社を休むわけにもいけないタロウもまた、ほんとに心細そうだ。
 でも、仕方ないんだ。そうするしかないんだ。
 わたしたちはそのときの会話の中で、仕方ないんだ、と、そうするしかないんだ、を100回くらい頭の中で繰り返して、そうやって自分たちを納得させたような気がする。

*   *   *

 わたしの車の後部座席には黒いスモークが貼ってある。ケイタイのゲーム機を持っていけばラクショーだよ、と言って、その日はその言葉どおりケントは後部座席でずっとじっとしていた。
 配達は事務所に近い市内の東部から始めた。ケント君の家は町の中心部を抜けて南の方になるんで、到着するのは4時すぎの予定だ。
「自分の家には入っていいよね? 持ってきたいものがいっぱいあるんだ。ぼくのゲームもタロウさんにさせてあげるんだ。それから、あ、枕も自分のを持ってきたいな。大好きなテレビのヒーローがついてるヤツ。お母さんが買ってくれたの……あ、でも、お母さん……帰ってきてるかな?」
 帰ってきてたら電話くれるはずだよ。だからまだだよね、たぶん。とりあえずそう答えた。
 本当に、帰ってきたら連絡があるはずだ。玄関にケイタイの番号を書いた紙を置いていたんだもの。しないはずがない。もしかしたら、事故とかもっと深刻な事態が起こっているのか?
 いずれにしろ、いつまでもこのままではいられないんだろう。だけども、ケント君が自分の枕と自分のゲームを持って我が家に戻ってくることはあり得ない。ほんとうにハナダさんがいないとしたら警察に連絡するとわたしはタロウと約束したのだから。とりあえず、家の様子を見て、それから考えてみよう、そう自分に言い聞かせた。

 なのに。
 ようやく到着して、玄関にカギを入れようとしたら、カギがかかってなかった。
 するりと、ケント君の家のドアが開いた。
 部屋の中はうす暗かった。
 夕方の早い時間で、目を凝らせば、中の様子がわかるくらいの暗さだ。
 だけども中の様子は、明らかにおとといとは変わっていた。
 玄関にはいくつもの大きな紙袋が散乱している。黒光りのする紙袋に白い文字。高級ブティックの買い物袋だ。黒だけではない。鮮やかなピンクのもの、きれいな花柄の紙袋、どれも袋だけでそこのブランドかわかるほど有名なショップのものだ。
 わたしが置いたメモなんて、これじゃ、どこにあるかなんてわかりゃしない。
 それくらい、玄関には色とりどりの紙袋が山積みになっていた。
 いくつかの紙袋の中には、うす紙に包まれた洋服らしきものが顔をのぞかせていた。バッグが入っているのもあった。金色に光る持ち手が見えていたのだ。うわ、すごく高そうだ。でも、どれもこれも、袋から出された形跡さえもなく、ただ玄関に山積みになっているだけだった。

 そうして中を見てみると。
 リビングのまんなかの床に「くの字」に折れ曲がっている枯れ木のようなものが見えた。
 それがハナダさんだった。痩せぎすの棒のような身体で、こたつに半身を入れたまま寝ている。
 まるで入学式にでも着ていくようなツィードのくすんだピンクのスーツを着ていた。そうして、すえた匂いに目を凝らしてみると、吐瀉物が顔のあたりから飛び出してカーペットを汚していた。
 もしかして。死んでるんじゃないだろうか?
 寝たまま吐いてしまって窒息死したって話を聞いたことがあったし。カーペットの上の乾いた吐瀉物から見ると、かなり時間はたっているようだ。
 おそるおそる反対側にまわって、ハナダさんの顔をのぞき込んだ。
 大丈夫、寝息が聞こえた。どうやら死んではないらしい。だけども今度は身体中に染みついたアルコールの匂いが鼻についた。
「いたの? おかあさん、帰ってきてるんだね!」
 そう言って、ケント君が靴を脱いで上がってきていた。
 見せちゃいけない! こんな姿を見せちゃ、どんなに悲しむことか……
 思わず、ケント君の身体を抱きしめてかばった。
 ところがその声を聞いて、ハナダさんが目覚めてしまった。
「あ。ケント……帰ってきたの……どこに行ったのかと思った……」
 そうは言ったが、立ち上がりはしない。首だけこっちを見たまんまだ。まるで、テレビの画面に話しかけてるみたいな声だ。
 こっちを向いたハナダさんの顔は、その服装とは驚くほどアンバランスだった。化粧をしていないのだろうか。顔は真っ黒にくすんでいる。あるいはマスカラをつけたまま泣いたのかもしれない。目のまわりが真っ黒で、ドクロのようにくぼんでいる。生気のない顔。
 こわくなって後ずさった。後ろにいるケントを片手でかばう。
 ハナダさんがケント君に気づいた。
 渡しちゃいけない。今のハナダさんは正常じゃない。今、ケント君を渡しちゃいけない。渡したってずっとこのままだ。ケント君はまたこの場所から出られなくなってしまう。この、生気のない人形のようなハナダさんといっしょに、部屋から一歩も出られない生活に戻ってしまうだけだ。
 頭の中に赤信号がはげしく点滅した。

 ぜったい渡しちゃいけない!

 気がつくとわたしはケント君の腕を強く引っ張って引きずるようにして外に向かっていた。抱きかかえて、暴れるケント君を無理矢理後部座席に押し込めて、ロックをしてエンジンをかけた。ケントーというハナダさんの、のんびりとしたかぼそい声が遠くから背中に迫っていた。ケント君は何が何だかわからず、え? という感じで振り返っている。
 渡しちゃいけない。あんな場所にケント君を戻しちゃいけない。彼女はケント君を守れないじゃないか、いや、自分すら守れない。そんな人間にケント君を渡しちゃいけないんだ。
「ねえ、お母さん、いたよね? 今、お母さんいたよね? ぼく、帰らなくちゃ!」
 そうケント君が叫んだ。車だから外には聞こえないだろう。どんどんスピードを上げた、どこに行けばいい? どうすればいい? とにかくスピードを上げた。
 後ろの席でケント君がずっとしゃくりあげている。帰りたい、帰りたいって言いながらしゃくりあげている。
「お母さんは、病気なんだよ、ケント君。わたしが一緒にいるから。治ってから帰ろうよ」
「病気だったら、よけいぼくがいなきゃダメなんだ。アユミさんにはタロウさんがいるじゃないか。でも、お母さんにはぼくしかいないんだよー」
 今のハナダさんがケント君と一緒にいられるとは思えない。ごはん食べさせたり、笑わせたり、いい気分にさせたり、そんなこと何ひとつできないじゃないか。どこにも出られない自分の寂しい場所に、一緒に閉じこめているだけしかできないじゃないか。
 本当に、ケント君は帰るべきなのか?
 今の状態で、まともな生活ができるわけがない。
 そんなとこに置いて帰るなんて、わたしにはとてもできない。

 ずっと運転しているあいだに何度かケイタイに電話の着信が入った。
 知らないケイタイ番号から、どんどん電話が入ってくる。ああ、着信音の「カノン」がうるさい。いったい誰なんだ。ていうか、答えはもうわかっている。わたしは配達の連絡用にケイタイの番号をお客さん全員に渡しているから。これはハナダさんからの電話に違いないのだ。ハナダさんはケイタイの番号を教えていないから、名前が出ないだけなのだ。
 けっきょく、何も考えられずわたしは電源をオフにしてしまった。

 1時間近くぐるぐると市内を回った。ケント君は泣き疲れて眠っていたけれど、また起きて、今度はおなかがすいたよって言いだした。
「アユミさん、おうちに帰ろう。アユミさんのおうちに行きたい。タロウさんに会いたい。お風呂、はいりたいよ。タロウさんとお風呂、はいりたい。それから、それからもう一度、タロウさんと一緒にお母さんのところに連れて帰って。おねがい……」
 まだタロウが帰る時間じゃない。今日は遅くなるって言ってた。
 だけどもわたしはタロウと約束したのだ。ハナダさんにケント君を返せない状態だったらちゃんと警察に行くって。でもこんな状態で警察に保護を求めてどうなる。あのハナダさんのところに帰されるだけだ。そうして学校にも行かずに、ケント君はずっと、あのままの状態の家にいなければいけないのか?

 そうだ。失踪しよう。

 とっさにその言葉が浮かんだ。
 このまま家に帰ったってタロウが警察に連れていくだけだ。そんなもんで、何ひとつ解決するわけがない。
 そうだ。サトウカズキだって、あのとき失踪したじゃないか。今、このままではどうしようもないんだ。失踪くらいしたっていいはずだ。
 サトウカズキの家に行けばいい。彼はトラブルメーカーだから、他人のトラブルにも寛大なはずだ。事情を言えば何とかかくまってくれるだろう。かくまってくれなかったら、ホテルに泊まればいい。そうだ。福岡まで行けばホテルくらいいくらでもある。とにかく福岡に行こう。
 もうそれ以外の方法は何もないような気がした。
 とりあえず家に帰って、サトウカズキに、よんどころのない事情でかくまって欲しいとメールしよう。お金は? 引き出しに入れてた分が5万円ほど、それとクレジットカードを持ち出す。たぶんそれで十分なはずだ。

 家に着いて、いっしょに上がろうとするケント君を無理矢理車の中で待たせた。いっしょにごはんを食べに行こう、用意したらすぐ来るから。そうして、ごはんを食べてからここに帰って来ようって。
「タロウは今日は遅くなるから、おいしいものを今日は食べよう。ステーキがいいかな? お金を忘れたから、ちょっと取ってくるね」
 そう言って部屋にあがる。
 急いでパソコンをつけた。気がはやっているせいか、起動にかかる時間がとてつもなく長く感じた。
メールを開いてサトウカズキのアドレスを開いた。事情があってかくまって欲しいと書いた。子供が一緒だということは……まあ、いい。会ってからでも説明すればいい。
 あたふたとメールを送信してパソコンをクローズして、お金とクレジットカードを持ち出した。ちょっと考えてから、電源を切ったままのケイタイは部屋に残した。ケイタイなんていらない。こんなもの持ってたら、どこに行ったって失踪できやしない。

 急いで階段を下りた。
 呼吸が乱れているのがわかった。
「高速道路に乗ろうか。パーキングエリアのレストランでステーキ食べよう」
「……遠くに行くの?」
「ううん。ドライブするだけ。高速をびゅーんと飛ばすと気持ちいいでしょ。ケント君とふたりでがんがんスピード出して遊んで、それから帰ってくるの」
「だったらいいよ。高速道路、ぼく好きだし」
 たくさん嘘をついている。そのことに胸が痛くなった。
 だけどもハナダさんが重ねてきた嘘に比べたら、こんな嘘、ぜんぜん罪じゃない、と自分に言い聞かせた。

 高速道路を入ってすぐのパーキングでステーキを注文した。
 室内の明るい照明だけでほっとした。それくらい緊張していたのだ。
「おかあさん、大丈夫かな?」
「病気で具合が悪いみたい。ゆっくり休ませて、明日帰ればいいよ。今日は今日。今日まで一緒にいよう」
「帰ったら、今度こそ学校に行きたいな」ケント君がぽつりとそう言った。「おかさんの具合が悪いから、おかあさんがあんなふうだから、学校行っちゃいけないって思ってたんだ。でも、こうして、アユミさんとかタロウさんといても楽しいし、学校も行ったらもっと楽しいよね? 一緒にいなきゃいけないって思ってたんだけど、退屈だしほんとはイヤだったんだ。帰ってきたらおかあさんと一緒にいてあげるけど、昼間、ぼくは学校に行こう。いいよね?」
 アユミさん、いっしょにおかあさんに頼んでくれる? ケント君がそう言ったので、約束すると言って指切りをした。約束する。何を約束できるのかわからないけれど、ケント君をぜったいに幸せにする。それだけは約束する。
 そう心の中でつぶやいた。
 ステーキの肉は硬かったけれど、それでもケント君はとても喜んだ。
 こんなの食べるの久しぶりと言ってくれた。

 タロウはもう帰ってきただろうか? 会議の日は遅くなるからまだのはずだ。
 帰ってきたら、何か気づくだろうか?
 遅かれ早かれ気づくだろう。電源を切ったままのケイタイ。それだけで彼は何かを予感するに違いない。
 だけども、どうすることもできないだろう、そう思う胸がずきんと痛んだ。だけども仕方ない、よくはわからないけれど、失踪とはおそらくそういうものなのだ。
 これからどうなるんだろう。
 先のことがまったくわからない。

「さあ、もう少しドライブしよう」
 ケント君の食事が終わるのを待って、すぐに立ち上がった。わたしの肉は半分以上残ってしまった。とても消化できそうにない。
「がんがんスピードあげてみようね」
「アユミさんてば、スピード違反はダメだよ」
 車の中でケント君が退屈しないのがとても助かった。カーブを喜び、遅い車を追い抜いては喜び、メーターを見ては喜んだ。だけど、本当に喜んでいるのかどうかはわたしにはわからない。彼は喜んでいるふりをしているのかもしれない。それは、今までの生活で身につけてきた知恵なのかもしれない。あるいは。自分自身が今の状況を深く考えないよういにするための知恵なのかも……

 太宰府インターから黄色く塗られた道路に車線を変え、福岡都市高速道路へと移動した。都市高速はゆるやかなアップダウンがあるにもかかわらず、どの車もすごいスピードを出している、緊張する道だ。
 ゆるやかな坂を上っていくと、右手に福岡空港の灯りがひらけた。煌々とした灯りの群れの中をゆったりと離陸を待つ飛行機が移動している。ラスベガスのような灯りの洪水を指さすとケント君はびっくりして興奮した。
「すごい! おっきいよ! こんな大きい飛行機、はじめて見たよ。それにいっぱいいるよ。あ、見て見て、あっちからも飛行機が飛んできた、あれ、もうすぐここに着陸するんだよね!」
 そう言ってはしゃぐが、運転だけで手いっぱいで目をそらすわけにもいかない。ケント君はシートベルトを自分ではずし、助手席からリアシートに小さな身体を移動させて、飛行場が見える窓際の方に張り付いた。
 ケント君が飛行場を後方に眺めているうちに都市高速のインターをいくつか過ぎて、博多駅、呉服町、いまだに都市高速の降り口がよくわからないけれど、ここを過ぎると左右に分かれる分岐点があるはずだ。右の車線に寄っていた方がいい。そうして右に曲がっていくつめかのところで降りれば、サトウカズキのアパートまで着くだろう。どこで降りればいいんだっけ? ずっと来ていないから名前が思い出せない。そうだ、埠頭の方を見ていけばわかる。量販店の倉庫の看板がちょうど左手に見えるくらいのところだったはずだ。
 そこさえ行けばなんとかなる。そこさえ行けば、わたしは……わたしは?
 そうだ。とっくに自分では気づいているじゃないか。ケント君のために、なんていう詭弁はいつまでも通用しない。あの場所からいなくなってしまいたかったのは、わたし自身の方だ。でも、なぜ? なぜ、いなくなってしまいたかったんだ? サトウカズキに会いたいから? タロウとずっとふたりきりでいるのがイヤだから? 福岡に帰りたかったから?
 どれもこれも当たっているようで当たってないような気がした。
 ずっとずっとこのまま知らない土地で、おだやかに年を取ってゆくことが怖かった。このままタロウと子供を作って育てていくことを想像すると、世界から切り離されると宣告されたような気持ちだった。それがどんなに正しいことだとしても、わたしにはそんな覚悟なんてひとつもできてなかった。
 演じるように、自分でないものに変わっていって、いいお母さんになっていくのが怖かった。ほんとうの自分は、遊んだり音楽を聴いたり食事をしたり恋をしたり、そんなことで精一杯だったはずなのに、そうじゃない立場になりきろうとして、なりきる覚悟なんてまったくない自分、それを認めるのが怖かったのだ。
 ほんとうに、わたしはそんなふうに生きていけるのか? わたし自身の身体が深い根を這って、そこから動けなくなる感触。そのまま子供とか家族とかのためだけに自分の身体を使う毎日。それが怖くて仕方なかった。そうやって破綻していく人びとをたくさん見てきた。だから破綻しまいと思うほどの覚悟もなかった。このまま、誰かに決められたような結婚生活をなぞるうちにわたしもまた、いつか破綻するにちがいない。彼女たちに同情する気持ちもなかったが、わたしはきっと、同じことをやってしまうに違いない。
 タロウと別れる気持ちはさらさらないくせに、わたしには、その先に用意されているものを受け入れる覚悟がなかった。

 いや、それすらも、理由なんかじゃない。
 わたしはただ、失踪したかったのだ。失踪に理由なんていらない。衝動的に何もかもリセットしたい衝動。ただ。それだけだ。
 それが、その後どんな結果になろうとしても。わたしはいつか、失踪しなければいけなかったのかもしれない。
 サトウカズキという人間をなぞるために。
 あるいは、サトウカズキという人間を断ち切るために。
 あるいは……?

 時間は9時をちょっと少し回っていた。
 サトウカズキが帰ってメールを読んでいれば、わたしたちの到着を待ってくれてるだろう。
 万一帰ってなくても、平日だから遅くまで飲んだりすることもないだろう。そのまま車の中で待っておけばいい。
 どんな顔をするだろうか?
 驚くだろうか?
 それでもサトウカズキならなんとかしてくれるはずだ。彼ならきっと、どうにかしてくれる。
 そう自分に言い聞かせた。

 見慣れた埠頭の看板をみつけ、そこで都市高速を降りた。
 スピードをぐっと落として、そのまま大きな国道に合流した。まだまだ交通量が多いし、大型トラックがひしめいている。車線変更に手間取る。ああ、やっぱり、馴れてないと福岡の運転は大変だ。それでも、きらめくヘッドライトがゆるやかに動いている様子が懐かしくて、ああ、やっとここまで来れたと妙な感慨を覚えた。
 この国道沿いにしばらく走って信号から右折、それからいくつか角を曲がったつきあたりのアパート。見慣れない大きなビルがたくさん立っていて何度も位置がわからなくなったけれど、それでも断片的なおもかげを繋ぎながら運転していった。大丈夫、この道で間違いないはずだ。
  大通りの右折はなんなく出来た。この次に曲がるところは? そうだ、喫茶店があった。「ブルージュ」だ。今は違う名前かもしれない。でも、あの白壁の喫茶店さえ見えれば、次の左折を間違えることはないはずだ。
 そう思いながら探していると、「ブルージュ」という看板が見えてきた。まだ灯りがついていて、窓際に座る人々の姿がちらりと見えた。まだあの女店主は今も忙しく店を切り盛りしているのだろうか。
 ブルージュの向かいの道を左折した。左、右、左、そうしてつきあたり。
 もうすぐだ。
 もうすぐで、サトウカズキのところにたどり着ける。
 後部座席を振り返ると、ケント君は、がんがんに暖房を効かせた車内でいつのまにかまた眠っていた。
 この細い路地の行き止まりが、サトウカズキのアパートだ。
 そう思って徐行し、行き止まりになるあたりで車を止めた。
 だけどもそこにはアパートはなくって。
 ただの空き地がだだっ広く広がっていた。

 空き地?

 そこはただの空き地だった。あの、何度も通ったおなじみの木造の古くさいアパートはそこにはすでになかった。茶色い土が剥き出しの、整地したままの空き地だった。
 とりあえず車を降りてみる。この一角には同じような木造アパートが3軒あったはずだ。同じ大家さんの持ちものだとサトウカズキが言ってたのを覚えている。その3軒がすべてなくなっていて、空き地の向こうは裏側の大通りに繋がっていた。
 マンション建設予定地。ランドマークマンション。それから、着工予定、完成予定と日付が書かれた看板がぽつんと立っていた。
 引っ越したんだ・・・
 膝の力が抜けた。
 なんて想定外。
 思えば、メールだけの繋がりで住所のことなんて話すこともなかった。メールアドレスが変わってなかったから、住所が変わったって何の問題もなかったのだ。
 ケイタイは家に置いてきた。
 いや。ケイタイがあったとしても無駄だった。わたしはサトウカズキのケイタイ番号さえも知らないのだ。昔の番号は結婚するときにメモリーから抹消した。それに抹消してなかったとしても、番号が変わっているかもしれないし。どんなに記憶を呼び覚まそうとしても、何年も前の11ケタの番号なんて記憶の片隅にも残っていやしない。この立て札のどこを見たって、住人の移転先なんて書いてあるはずもなかった。
 メールアドレスだけの繋がりなんて、なんて曖昧なものなんだろう。
 あんなにいろんなことを話したのに。わたしはケイタイ番号も家さえもわかっていなかったのだ。
 おとぎの国での甘い会話は。現実の世界では何の役にも立ちやしなかった。

 車に戻って放心した。
 寒いからエンジンを切るわけにもいかない。
 だからといって、いつまでもこうしているわけにもいかない。
 タロウはもう帰ってきてるだろうか? 帰ってきてるとしたら今頃大騒ぎだ。
 戻れるわけがない・・・
 とりあえず、ホテルを探そう。博多駅? 渡辺通り? 天神? どこだっていい。高くても安くても。ビジネスでもなんでも。
 車を止められるところならどこでもいいと思った。大通りのホテルだと目の前に駐車する自信がなかった。やはりケイタイは持ってくるべきだった。予約も何もできやしない。
 とりあえず車を出そう。ホテルを探すのが先だ。
 そうは思ったけれど、疲れて放心したせいか、すぐには発進できない。
 それでエンジンをかけたままぐずぐずしていたら、後ろから福岡ナンバーの白いバンが走って来て、わたしのマーチの後ろに止まった。
 中から誰かが降りてきた。
 男だ。サトウカズキか?
 迎えにきてくれたのか?
 降りてきた男がこっちに走ってきた。運転席を開けようと手をかけた。
 アユミ!
 そう叫びながらドアを開けようとしている音がガチャガチャ聞こえる。
 タロウだった。
 心配そうな顔をしたタロウがロックのかかった車のドアを力ずくて引っ張ろうとしている。
 どうして? そう思ったら緊張していた身体の力が急に抜けていった。
 内側からロックを解除して、わたしは車の外に出た。
「よかった、見つかって!」
 そう言ったタロウがわたしをぎゅっと抱きしめた。
 身体を取り囲んでいた白壁がぼろぼろと音をたてて崩れていった。
 わたしはタロウの腕の中でわんわんと声を上げて泣いた。

*   *   *

 諭されて、タロウの社用車とマーチと連れだって町に戻り、ハナダさんのお宅にケント君を送り届けた。
 辿りついたときはもう、深夜をまわっていた。
 わたしの頭は完璧にショートしていた。
 何が悪かったのか。何がどうなったのか。何を言わなければいけないのか。
 そもそもどういうふうに謝らなければいけないのかさえわからない。
 ただ、神妙に頭をさげるタロウの横で、わたしは何も言えずにうなだれていた。
 それはハナダさんも同じだったのかもしれない。
 ぼろぼろになって混乱して、吐瀉物も腐ったニラの匂いもそのままの乱雑な部屋の中に座ったままで、彼女はわたしを責めもせずにぼんやりと放心していた。
 そうして最後に、「でも、戻ってきたから、もういいです……わたしも悪かったんだし」とハナダさんは言った。
 わたしたちの中で、冷静なのはタロウだけだった。
 今は布団に入りすうすうと寝息をたてているケント君を見ながらタロウはこう言った。
「こんなにご迷惑をかけてしまって申し訳ないです。あやまって済むことでないこともわかっています。ですが、わたしも家内もケント君のことが大好きでした。今後困ったことがあれば、お力になりたいと思っています。ケント君が望むなら遊びに来てくれるように言ってください。また遊びにきてくれたらいいとな思っています。ご心配をかけて、こういうのも何ですがケント君とは楽しい日々をすごさせていただきました」
 ハナダさんはそれには何も答えなかった。
 かわりに、とても静かに目をつむり、一筋の涙を流した。

 ぼんやりとそれを見ながら、わたしは自分がケントと同じくらいの年の頃のことを思い出していた。
 その頃のわたしはよくこわい夢にうなされていた。怪獣や強盗から追いかけられる夢だった。わたしは逃げまどい、ビルの隙間や押し入れの中に隠れた。でも、そのうちどうにもならないところまで追いつめられて、ああ、もう終わりだと思ってしまう夢。
 そうして朝目を覚まして、ああ夢でよかった。ほんとにこんな事が起こるはずがないもの、とわたしは思う。それから母の焼いたトーストを食べて、ほっとして学校に出かける。
 そう。ほんとに、こんなこと起こるはずないもの。
 もう一度、あの頃に戻って、そうつぶやきたかった。

 起こしてしまったのは、ほかでもない、わたし自身だったくせに。

*   *   *

 それからあとの記憶はいまだにあいまいだ。
 家に帰るとタロウはシャワーを浴びてそのまま会社に出かけ、わたしにはゆっくりとお風呂に入って寝るように命じた。
 とにかく寝るといい。寝るとイヤなことは忘れられる。身体を休めて。ずっと寝ていればいいんだ。
 その言葉の暗示にかかるようにして、タロウがお湯を溜めてくれたお風呂に入って、もうそのあとは頭が朦朧として、髪の毛も乾かないままにベッドに倒れ込んでそのまま眠りに落ちた。
 一度だけ電話があって、それは野菜の事務所からだった。
「無事に帰ってきたのね、それならいいわ。あとの話はあとからね」
 オバタさんに言われた。
 電話を切ってもまだ眠たくてもう一度ベッドに入った。
 ほどなく、タロウがベッドに入ってきた。
「所長から、今日は帰れって追い返された。ひどい顔してて仕事になんないんて。このまま寝るよ」
 あたたかいタロウのカラダを傍らに感じながら、そのまま眠り続けた。
 またあのときの小さいときのこわい夢のことを思い出したが、それでも夢を見ることもなくて、そのまま泥水かスライムにでもなったかのように眠り続けた。
 何時間も何時間も。わたしは眠り続けた。

 気がつくと夜になっていた。
 タロウがひとりでどこからか買ってきたお弁当を食べていた。
「食べる? おなかすいてない?」
そう言ってタロウが笑った。起きあがるとふらついた。ベッドの中に何もかも置いてきたみたいに、わたしの身体はからっぽのままでふらついた。
 スーパーコバヤシのおろしハンバーグ弁当だ。冷えたごはんが意外なほど喉にひんやりとして気持ちよかった。
「……ごめんなさい」
 そのひんやりした感触に、言わなければいけない言葉がやっと出た。
 もっと早く、そう言わなければいけなかったのに。そのときまで、わたしはなにひとつタロウに謝っていなかったのだ。
 タロウが口をへの字に曲げる。
 何かを言おうとして逡巡してるのか、少し唇を震わせる。
 そうしてタロウはやっと口を開いた。
「結果オーライなんだ」
 タロウがそう言った。ほんとはもっと言いたいことがあったのかもしれない。けれど、声を震わせたタロウがやっと言ったのは、そんな言葉だった。
「所長の口癖だって言ったろ? 結果オーライなんだって。おれはずっとその言葉が大嫌いだった。でも。今日、所長の顔見ながら思ったんだ。ほんとにそれでいいんじゃないかって」

 それからタロウはお茶を煎れてくれた。おろしハンバーグ弁当は半分も食べれなかったけれど、お茶はあたたかくておいしくって、固まったカラダが少しずつ柔らかくなっていくような感触だった。

 それからタロウはあの日のことをぽつぽつと話しだした。
 あの日、帰ってきたタロウが最初に見つけたのは、台所のテーブルに放っておいた電源が切れたままのわたしのケイタイ電話だった。
 ケイタイだけがあるのを不審に思い、電源を入れるとすぐにハナダさんからの電話がかかってきて、それで事態がわかったのだという。
「パソコンをスリープにしてたろ?」
「あ……」
 電源を切ったつもりだった。慌てて間違えてスリープにしてたんだ。
 それから、悪いとは思いつつ、わたしのメールをチェックしたら、未読の受信メールを見つけたんだという。サトウカズキからのメールだった。
 こっちに来る分はかまわないけど、住所が変わっている、とそのメールには書かれていた。旧住所と新しい住所。昔のアパートからそこに行くまでの簡単な説明もついていたんだという。その道沿いにわたしがいると思い、社用車で福岡まで飛ばしてわたしを見つけたんだそうだ。そうか。社用車だから、支社のある福岡のナンバーだったんだと、ようやくわたしも納得した。
「ごめんなさい・・・」
 何もかも明らかになってしまった。弁解のしようがない。
「会議だから連絡つかないって、アユミに任せっぱなしにしていた。ていうか。もっと、いろんなことを、二人で話せばよかったんだって思った。でも、アユミとタロウがあのままいなくなったらどうしようって思って、どうしようもなくドキドキしてたから。見つかったら、もう、それだけでよかったんだ」
 結果オーライとは言えなかった。わたしには反省すべき点がいっぱいあったから。代わりに、ありがとうと言って、タロウの手を握った。
 堪えきれなかったようにタロウの唇がまたも歪んだ。
 泣きそうな顔のタロウの代わりにわたしが泣いた。

 結果オーライ。
 申し訳なさでいっぱいだったけれど、心の中だけでそうつぶやいた。

*   *   *

 その後、ハナダさんに会うことはなかった。
 彼女は次の週に事務所に電話を入れて、野菜の配達はしばらくいらないと言ってきたのだという。しばらくして落ち着いたらまたお願いしますとのことだった。

 事件は野菜の事務局の知るところとなっていた。
 あの日、ケントを連れて逃げ出したわたしは、そのあとの3軒のお客さんに野菜を届けるのをすっかり忘れてしまっていたのだ。そのうえ事務局にもハナダさんからの電話が何度も入ったんだという。オバタさんも大変だったらしい。なにしろわたしはケイタイの電源を切っていたのだから。
 お客さんにハナダさんの知り合いも多いし、事件を知ってる人もいるかもしれないから、しばらく配達は無理だね、辞めてもらうのはほんと残念なんだけど。とオバタさんは言った。
「でも、アユミが間違っているって、わたしは思わない。わたしだってそうしてたかもしれない。そんなときって誰だって放っておけないと思うよ。ただ、やりかたがちょっとまずかっただけなんだ。でもそれだって仕方ないこと。人間ってさ、どうしていいかわからないときって、だいたいやり方を間違えるもんなんだよね」
 オバタさんはそう言ってわたしを慰めてくれた。
 ちゃんとケント君は学校に行っただろうかとか、ハナダさんはやっぱりわたしを許してないだろうとか、配達を断られたときの失望とか、納得のいかないものをいっぱい抱えていたけれど、もう考えないようにしようと思った。タロウのために。ケント君のために。そして、ケント君の母親であるハナダさんのために。納得のいかないものは、みんな捨てようと思った。
 タロウとわたしは一緒にたくさんのものを失ってしまった。いかにタロウが結果オーライって言ってくれようとも、それがすぐに修復されるとは思えなかった。だけど、時間をかけて修復しようと思った。
 そうだ。わたしたちはこれからもずっと一緒にいるんだから。修復にかけられる時間はいっぱいあるに違いない。

「ユミコとわたしと半分ずつの担当にしたから」
 と、オバタさんは言った。もうひとりの配達のユミコさんはもういっぱいいっぱいだ、すまない。でも、わたしのお客さんにも行ってもらわないといけない。
 今日、わたしたちは事務局に集まって、配達の順番決めをした。オバタさんの家のガレージを片づけて改装したすきま風だらけの事務局だ。経理の人たちも寒いとこで大変だなーと思いながら、わたしは電気ストーブに手をかざした。
「とにかく地図と、いらない野菜とかあったら教えて」
 配達の顧客リストにはもちろん、ハナダさんのお宅は入ってなかった。
 サカタさんは水菜が嫌いだけど、あとはなんでもいい。ナカノさんは葉もの野菜は2束ずつ入れる、家族が多くて足りないからだ。アナイさんはお漬け物以外で、とにかくたくさん。ご主人の食事制限のせいで野菜が主食になっているからだ。それから、コバヤシさんのことを伝える。相変わらず居留守が多くて未収金が溜まりがちだけど、野菜を辞める気はないらしいってこと。
「うーん、ドアばんばん叩いて、おっきい声で呼んでみたら、出てきてくれるかもしれないねえ」
 そういう強引な言い方がユミコさんらしくて笑った。
「ねえー、あのさ」
 ユミコさんが煙草を煙を吐きながら切り出した。
「ときどきさ、野菜、配達しながら、この人、もしかしてウチの野菜なんていらないんじゃないかって思うことってない?」
「それって、どんな感じ?」
 オバタさんが尋ねる。
「ほら、もちろんほんとに無農薬の野菜を食べようと思ってみんな取ってくれるんだけどね、そんなにこだわってないけど、つきあいで取ってる人とかもいるんだよね。そのハナダさんて人は、人が来てくれるのが嬉しいから取ってくれてれてたんだ、たぶん。わたしも何人か年配のお客さんいるからわかるの。年配で夫婦だけとかひとり暮らしだとそんなにいっぱいの量はいらないじゃない。でも、誰かが自分がこのウチにいることを忘れないで、ちゃんと来てくれるのが嬉しいんだよ」
「いいのよ、それで。宅配ってさ、青空市場みたいにみんなが来て買ってくれるとこに比べたら効率悪いよね。でも、そんなふうにして誰かに来てほしい人って、たしかにいるんだ。わたしもね、青空市場に行く前、ちっちゃい子供とふたりで家にずーっといててさ、なんかもう煮詰まっちゃってさ、そういうときって宅配便のお兄ちゃんでも来てくれたら嬉しかったもん」
 えーっ、それって何百年前の話よ?、とユミコさんが言ってそれでみんなで大笑いをした。

 ハナダさんだってきっとそうだ。ケントと二人でずっと家の中にいて、彼女にはもう野菜を使って調理するエネルギーさえなかったのだから。ドロドロに溶けてしまって台所に放置されたレタスも、そう思えば、無駄ではなかったように思えた。
 そうして、わたしが野菜を配達してたことも、きっと無駄ではなかったんだ。
 そう思うことにした。今はハナダさんはわたしを恨んでいるかもしれないけれど、少なくともそのときは、わたしが来るのを待っていてくれたのだ。

 話がすべて終わって、外に出たら、冬の西空に低く一番星が輝いていた。
 とちゅうの信号待ちで車を止めて、ふっと新築のマンションの部屋のあかりを数えてみた。
 1、2、3、4……あかりがついている部屋は全部で8世帯だ。
 ファミリータイプの6階建てで、1フロアが4世帯だから全部で24世帯。
 夕刻の6時という時間に、3分の1の家族がこのマンションにいて、残りの3分の2は仕事してたり遊びに出かけたり子供が塾に行ってたりどこかで買い物したりしている。いや、マンションは買ったものの、何らかの事情でここには住んでいない人だっているのかもしれない。あるいはこの薄暗がりの中、あかりもつけずに部屋の中にいる人だっているのかもしれない。
 その数字にどんな意味があるのかなんてわたしにはわからない。

 電気のついている家のあかりは、いつだってとても暖かそうに見える。
 遠くから見えるあかりは暖かい。
 でも、それは、雪をかぶった極寒の山の風景がきれいに見えるようなものかもしれない。

 タロウが会社から帰ってくるとき、電気のついたわたしたちの家は、やはりあたたかそうに見えるんだろうか? そうあればいいなと思う。ほんとうに、そうあればいいなと思う。そうだ。今日はタロウの大好きな肉ジャガを作ろう。

 そんなことを考えてるうちに信号が青に変わった。
 わたしは渋滞している道路をゆっくりと車を発進させた。

                          (了)
.kogayuki.

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