ロードランナー日記・
月明かり
1
その時わたしは高校生だった。
厳格なカトリックの女子高の二年生。ジャンバースカートにボレロのついた、紺
色の制服を着ていた。
学校の近くには自衛隊の演習場があって、上空にはヘリコプターが爆音響かせて
飛んでいた。あれがひとつ墜落してくれれば、学校なんて燃えてしまえるのに。
授業中にそんなことばかり考えてる生徒だった。
「ひとりの男の方を一生涯愛しなさい。結婚はそのための儀式です。子孫を増や
すための性行為は神様に祝福されます。結婚前に快楽のために交わることなど、け
っして許されません」
シスターは「作法」の授業で、真顔でそう喋る。これがわたしたちの受けた性教
育だ。シスターたちは使命に燃えて、いつも大事なことを教えようとしていた。だ
けど、教えられることはいつも、自分の気持ちのサイズには合っていなかった。
かみ殺した笑い声があちこちで聞こえる。
今更、そんなこと言われても困るよね、わたしたちには。
そう言って笑うグループは、それなりの優越感も持っていたが。わたしは、べつ
にそちらのグループの一員だったわけではなかった。
いまのわたしは処女でも非処女でもない。
ちょうどその中間のあたりにいる。だからどちらのグループにも属していない。
こわくなって逃げたわけではない。物理的に不可能だっただけだ。
わたしも男もその気だったし、そこのそこまで及んだ。だけど、一度も通過した
ことのないものは、狭くて乾いたわたしの中には、けっして入れなかった。男の中
指がゆっくりと道をかきわける。だけど、それすらも苦痛になり、顔が歪んでしま
う。ここが開かれることなんて、あるのだろうか。それを乗り越えようとしてあせ
るけれど、身体はわたしの思い通りにはなってくれなかった。
いいよ、もう、無理することなんてない。
男はすべてをあきらめてわたしを抱き寄せた。だけど、優しくされるとよけいに、
それが屈辱になってしまう。
その頃わたしは制服のスカートのポケットに、メタリックピンクのポケベルを忍
ばせていた。
退屈な毎日をラジカルに変えてくれる、わたしの大切なオモチャだ。もちろん学
校では、そんなもの禁止されてる。けど鞄の検査はあっても、スカートのポケット
にまで手を入れる先生はいない。
まだ、ケイタイを使う子はごく少数だったし。ベルは友人同士の連絡には欠かせ
ないものだった。
こうして友達を増やしていくのよ。
そう言われて、適当な番号を入れてメッセージを待つことを覚えた。女同士の友
人もできた。みんなで、マックで男子高生と待ち合わせたこともあった。知らない
友達が増えてゆくことは純粋に楽しかった。
だけど。 ティーシャツ一枚の少年の背中には、ブラジャーの跡が透けて見えな
い。いや、こんな広い背中にブラジャーなんて不可能だ。
その異質な感じが、不思議でもあり、恐ろしくもあった。ひとつボタンを解除す
れば、あとは何のためらいもなく突っ走れるようなノリは。まだまだ遠い世界のも
ののようで、わたしはそこまでは踏み込むことはなかった。
台風が近づいたある日。
ピンク色に染まった夕焼けを眺めているときに。わたしのベルにメッセージが入
った。
ソラヲ ミヨ、ユウヤケガ スゴイ。
わたしが見てるのと同じ空がそこにあった。知らない場所にいるその人は、わた
しと同じ夕焼けを見ていた。
空を眺めて人恋しくなったり、圧倒的のものを前にして自分があやふやになって
しまうような感覚を。なんだか見透かされて、共感されてるような気がしたから。
それからしばらくして、わたしはその人に会った。
「会社の呼び出しだと思ったら、へんなメッセージで最初はびっくりしたんだ」
会ったわたしもびっくりした。
今時ポケベル持ってるなんて高校生だけだと思ってたから。三十に手の届きそう
なスーツの男がやってくるなんて想像もしてなかった。
へんな遊びが流行ってるのは知っていた。だから適当に相手してた。でも、ちょ
っと、会ってみたくなった。男はそう言って照れ笑いをした。
私服のわたしをイタリアンレストランに連れていき、ごちそうしてくれて、帰り
に少しだけ肩を抱かれた。
その指が迷っていた。
どこかへ強引に導くわけではなく、とまどいながら肩に触れ、頬のあたりを行っ
たり来たりさまよい歩いていた。
その迷いをどこへ持っていくのか。できれば教えてほしい。
そう思ったから、されるままに味わった。大人は何も迷いはしない、大人の真理
は決まっていて、それを実践してるだけだ。
わたしはそう信じてた。なのに、どう扱おう、どうもっていこうと、壊れものを
静かに指の中に転がすようなとまどい。
だから、見てみたかった。
この人はその迷いをどこへ持っていくのか。指の柔らかな感触の行き先を。
何度か会って、わたしたちはゆっくりと進み、ゆっくりとセックスに近づいてい
く。
男のアパートの、月明かりが透けて見えそうな部屋で、学校の授業よりもゆっく
りした速度で、わたしは唇に触れられ、首筋に舌を這わされたり胸に指を入れられ
たりしながら、このまま、わたしたちはセックスするんだろうなと、ゆっくりと覚
悟していく。だけど、それはけっきょく叶わないままそのままだ。
わたしはそうしてもよかったのに。身体がついていかない。幾人かの友人が経験
していることなのに、わたしは、なぜか、それができない。
「あせることない。ぜんぜんたいしたことじゃないよ。今はきっとまだ、そこまで
いろんなものができあがってないだけなんだ」
「でも。やりたくならない? 」
「そういう時もあるけど。でも、君と同年代の男の子ほど、せっぱつまってはない
んだろうな」
男はいつも優しい。きちんとした会社に勤め、こざっぱりとした場所で食事をご
ちそうし、罪悪感に少し躊躇するように、わたしを自分のアパートに誘う。だけど
それでも相性がいいのか、わたしたちはそれを繰り返す。
今ではもう、男に婚約者がいることも知っている。盗み見たシステム手帳の予定
表には、彼女の名前が定期的に登場してくる。でもそれは、わたしの知らない世界
のこと。月あかりの届かない、闇の世界の出来事。
わたしは、カーテンを閉じない窓からもれてくる、月あかりとも街灯ともつかな
い薄明かりが好きで。夜にゆっくりと蠢く男の指先が、マクドナルドの放課後とは
違うわたしを見せてくれる瞬間が好きなだけだ。
わたしはまだ、そこにいる、違うわたしの正体をよくは知らなくて。
男の腕の中で、いつかそれをゆっくりとつかまえてみたいと思っている。
わたしの裸の胸の丸みを、男の手の平がすっぽりと包んでいる。
乳首がきれいに上を向いてる。まるで空を指さしてるみたいだ。男はそう言って、
その先端を、下から上へと指で転がしていく。ちょうどいい大きさなんだ。片手に
余りもしない。あふれることもない。まるでぴったりと合わさるみたいに、手の中
にすっぽりと収まっていく。
男はわたしの胸のかたちを愛している。いつまでもいつまでも、指先や掌で感触
を味わったり、それを眺めたりしている。ときに、その素肌の胸の上にそのままに
制服のジャンバースカートを着せてみせたりもする。
いいバランスだ。一枚羽織ると、そのかたちのよさがよけいに引き立つ。
そう言うともう一度服を脱がせ、男は胸の先端を、吐息をかけるように口に含み、
舌の先で転がしてゆく。それはあたたかく、少し気持ちをとろけさせていく。
子供の頃のわたしは、あきることなく、何時間もバービー人形の髪を梳っていた。
キュッとくびれたウェストやスラリと伸びた足をいとおしむように、裸にしたバー
ビーをいつまでも掌で転がした。
男のゆっくりとした指や唇は、わたしはあの時のバービー人形にしてくれる。
2
その日、部屋の壁には黒いネクタイが、死に絶えたもののようにぶら下がってい
た。わたしはぼんやりと男の腕の中で、それを眺めていた。
「会社の部長が死んで、昨日が葬式だったんだ」
わたしの視線に気づくと、男はそう言った。
「可愛がってくれてた。入社した頃からよく飲みに連れていってくれて。説教も
するけど、ズレてるところがなかった。それが肝臓ガンで、具合が悪いと入院して、
そのまま死んでしまったんだ」
男はわたしの胸に置いた手を休め、煙草に火をつけた。
「最後に見舞いに行ったときは、もう相当に弱っていた。そういう人間を目の前
にしたら、なんて言っていいかわからなくて。それで自分でもおかしいくらいに、
やたら元気よく喋ってしまった。そしたら部長は、弱々しく笑いながらこう言った。
わたしが今、君くらいの若さに戻れるんだったら、片腕くらいなくしても惜しくは
ないだろう、って。それが部長から聞いた最後の言葉だった」
男はそれで煙草を消して、もう一度わたしを抱きしめる。
「その時は何も思わなかったけれど。死んでしまった後に、その言葉だけが妙に残
ってしまった。たしかに、くだらないものばかりかもしれないけれど、年を取るご
とに人間は、何かしら失っていく。そうして僕もまた、いくつかの取り返しのつか
ないものを失ったような気がしてる。たとえば。たとえば、君は、あと五十年生き
ることだってできるだろう。だけど、君のピンとはりつめた上向きの胸や、無敵に
も見える若さは、あと数年しかこの形をとどめないだろう。そういうふうに、人間
は、意外に早い時期に、いろんなものを失っていくんだ。今、もし、自分が、君く
らいの若さに戻れるんだったらどうだろうか。腕一本なくしたら惜しいだろうけど、
それでも指の二本くらいなくしても惜しいとは思わないかもしれない」
わたしはそんな無敵ではない。男はもう、若さの不自由さを忘れてしまってるん
だ。
現国の教科書に出てくる評論は高尚すぎて遠いものでしかない。微積分は難解な
クイズを解くための公式でしかない。教えられることはいつも、自分からずれてい
る。本当のことなんて誰も教えちゃくれない。わたしたちは、自分を抱えきれなく
ってさまよい歩いている。
ここには何もないんだよ。わたしは半分だけ処女で、どっちのグループにも入っ
てゆけない。放課後の無意味な馬鹿騒ぎは無意味でしかない。わたしたちは意味が
欲しいのに。それは生きるための意味なのに。シスターの言う愛や純愛や博愛は、
乾いた地面の上を、ふわりと飛び去っていって、わたしを包み込みはしない。
むしろ大人には。お金やら時間やら経験やらが、たくさんあって。わたしたちよ
りももっと、解決するすべを持っているように見えるのに。
それでも男は、戻りたいと思うのか。
こんな所に戻りたくなるくらいに、大人も迷ったりするのか。
わたしよりもいろんなものを持っていたりしていても、それでも指の二本くらい
なくてもいいくらいに、若さをかけがえのないものと思ってしまえるのか。
どこまでも自分に勝っていると思っていた男がはじめて見せる弱さが。ぴんと張
り詰めた気持ちを震わせたような気がしたが。
こういう気持ちのときに何をすればいいのかさえ、わたしは知らなかった。
わたしの指は何をすればいいかわからずに宙を泳いでいて。
いつしかそれは、男の股間にたどり着いて、ジーンズのあいだを柔らかく触れて
いた。
ふわりとした弱々しい感触のものが、どくんどくんと硬くなっていくのが、時計
が時を刻んでいるようにわかった。
きつくなったジーンズとトランクスを慌ただしく男が脱ぎ捨てる。滑稽にも見え
る、が、もっとせっぱ詰まった気持ちがわたしの中に流れていく。
そこにあるものに目をやり、少しだけ恐ろしく感じ、おそるおそるそこに手を触
れた。
はじめて触れた熱い感触。
ゆっくりと握りしめ、ゆっくりと動かしてみた。わたしの性器の一番感じるボタ
ンに男が触れるときみたいに、ゆっくりと。柔らかく動かしてみた。
もっと強く動かしてくれ。
男は自分の手をわたしの指に重ねる。こうするんだと教えるように、重ねた手を
もっと激しく動かしてゆく。
動かしてゆく。きつく握り締めて、激しく、動かしてゆく。
いつか男は息づかいが荒くなり、わたしの胸を後ろから押しつぶすように、両腕
で抱きしめていく。
続けて。と、言われるままに、わたしは激しく指を動かし続ける。
切り立った崖の上に立っているように、荒々しい突風が吹いている。
男の息づかい。全力疾走して、その激しさに弱さを垣間見せるような、荒くて切
ない息づかい。
わたしは、男のこのような激しい吐息を聞いたことがなく、少しだけ恐ろしくな
りながら、それを続ける。すべてを投げ出されたとき、それを抱え込むだけの度量
がないくせに、戻りようがなくて、必死になって続けてゆく。
わたしもまたいつか、こういうふうに男にすべてを投げ出すのだろう。
多分。そういうふうにするんだろう。
男の息はいっそう激しくなり、途切れ途切れに、短い声になって響いていく。
わたしの両胸を激しく探りながら、汗をしたたらせ、二人分の汗が月明かりの中
の大気に混じり込んでいく。
男の息づかいに呼応して、もっと激しく指を動かす。もっと、もっと。男の喘ぎ
声がそう叫んでいる。汗ばむ指。摩擦のなかに熱くなっていくもの。投げ出された、
向こう側の世界。
ああっっ。
男が切ない声を上げると、白い液体が飛び散った。
わたしの指を、生暖かく湿らせて。男が放出したものが真っ白い染みのように、
わたしの胸元を濡らしていった。
呆然とした空白。
それから男は、いとおしむように何度も。何度も何度も、わたしの首筋に静かな
くちづけをしていった。
その日からわたしたちは、会うたびに、そういう行為を繰り返している。
ときおり試みるがまだ、男はわたしの中に入ることができない。
未熟な殻はいつまでも、破られることがない。
わたしは、男の性器を口に含むことを覚え、舌を転がしたり喉の奥まで深く入れ
たりしてみる。
男はわたしの胸を下から上へと、指でいとおしむようになぞり続けている。耳か
ら首にかけてのラインや、湿った性器の入り口など。いくつもの心地よい部分がわ
たしにはあって。いつか、その部分がパキンと割れて、そこからわたしの世界は、
外に流れ出してゆくのかもしれない。
あいかわらずシスターは、作法の時間になると熱っぽく語り続けている。
いつか、ただひとりの男の人を、とてもいとおしく思う瞬間が、みなさんにもあ
るでしょう。その人をかけがえのないものと感じる瞬間、愛が高められるのです。
興味本位で男の人と交わることだってできます。だけど、愛がなければ、それはた
だの機械的な交わりでしかありません。機械的な交わりのために自分の身体を傷つ
けるのは、大変愚かなことなのです。
隣の女の子はそれをノートに取るふりをして、こう書き付ける。
「よっく言うよね、処女のくせにさ!」
わたしは笑ってそれに返す。
シスターの言う「愛」は。いつもおおげさすぎて、だから笑わないではいられな
い。
わたしたちのいる場所はもっと遠い。かたちから入ることでしか、確かめられな
いくらいに、そこから遠い。愚かなのかもしれないけれど、そういうふうにしかで
きないんだ。
シスターの言う愛には、ほど遠いのかもしれないけれど。
わたしたちは、少しずつセックスに近づいていって。
いつか、その言葉のかたちに、触れる日が来るのかもしれない。
こがゆき