ロードランナー日記・
トマト・スパゲティ
はじめてあなたのマンションに行った。
そこは3DKくらいのこぎれいなマンションで、日当たりのいいリビング
は、とてもきれいに片付いていた。白い壁がまぶしくて、日光を反射する
みたいにきらりと光っていた。
写真立ての中のあなたの横には、三才くらいの女の子と、肩までのスト
レートヘアーのおなかの大きな女の人がいた。その人は化粧も薄くてこぎ
れいで、写真で見ると、女学生といっても不思議じゃないくらいだった。
もっとも、妊娠してる女学生なんているわけないんだけど。少なくとも、
白っぽい短い靴下は、それくらいの若さに見せてくれていた。
写真立てを手にとって、あなたに尋ねた。
「今日は、ふたりとも、留守?」
「ふたりめの子供が生まれるんで、実家に帰ってるんだよ。ソファに座
って、テレビでも見ててよ」
子供を妊娠してるときって、浮気のチャンスなんだって、と、誰か言っ
てたっけ。
それを聞いたときは、ああ、わたしには関係ないわ、妊娠しづらい身体
だって病院で言われたばっかりだし、夫は少々落胆したけれど、それでも
このまま一緒にいようって言ってくれたから、って思った。
だから妊娠中の浮気なんて、他人の戯言くらいにしか思ってなかった。
あ、でも、それって、逆の立場で体験することもあるんだなって、その時
はじめてきづいた。
あなたはひとりで台所に立っていた。
手伝おうか、と言ったら、テレビでも見てて、と追い返された。
ホールトマトの缶詰めをあけて。真剣な顔をしてたまねぎを、半透明の
小さな積み木のようにきちんとみじん切りにして。
そこまで見てから、「VERY」ってファッション雑誌を見つけて読んだ。
そういうのって覗き見みたいで、ちょっと後ろめたかったけど。
会社から駅までの道すがらに、古びた小さな映画館があった。
いつも、聞いたことのないような外国の映画をやってて、入れ替わりの
時間には、パンフレットを持った人たちが出てくることもあった。
その日帰り道に看板を見てみると、「ベニスに死す」をやっていた。
レイトショーになら間に合う時間だった。
ちょうど夫は出張に出ていて、帰ってひとりで家にいるのももったいな
くって、どうしようかな、とぼんやり見てたら、「入るんだったら一緒に
入ろう」って、あなたがひっぱっていった。
若いバイトの女の子と無駄話するしか能がないと評判の課長と、こんな
とこ連れだったらヤバいんじゃないかと思ったけど、きっとわたしは、暇
で暇で誰かに誘ってほしいオーラをばんばんに発していたんだろうと思う。
結局わたしには断る理由はなくて、あなたと並んで映画を見た。
「ベニスに死す」は、悲劇の涙とかじゃない、内側から震えるみたいな
涙が最後には止まんなくなってしまって、わたしたちは、地下の映画館か
ら上る細い階段で、なぜか、なぜか、長いキスをしてしまっていた。
夫とふたりの、ふたりで辿り着いた、誠実でとても静かな生活の。
こどもができないって知ってから、少しずつ積み上げていった、この人
と二人だけで、どっちかが死ぬまで一緒にいるんだっていう覚悟とか。み
そ汁のだしの好みとか、これを越えたら部屋の整理をしなきゃいけない臨
界点とか。
そんな、ひとつひとつ積み上げていったものとは別に。
積み上げられないガラクタが、わたしの中にはまだまだいろいろあった
んだなと、わたしは思った。
「ねえ、もっと、脚を広げてみろよ」
あなたはあいかわらず仕事ができない課長らしく飄々と会社を漂ってい
て、女性社員はみんな無視しててもちろんわたしもそうしてて。
それでも夫の出張の日に気分が向くと、わたしはあなたのケイタイにメ
ールを入れた。それからわたしたちは、ディズニーランドみたいにキラキ
ラしたホテル街に部屋をひとつ選び、遊園地のチケットを買うみたいにし
て、ご休憩をするようになっていった。
わたしは脚を広げながら、
「それじゃ、ここを、舐めてね」
って、言って。
天井の大きな鏡にわたしたちが映ってるのを、じっと見てた。
わたしはうっすらと目をつむり、身体を弓のように反らせていた。
わたしの根元にあるものにやさしく舌を転がすあなたに、もっと、もっと
って言った。もっと刺激して、もっと奥まで入って、もっと激しくつき動
かして。わたしは、たくさんの言葉であなたを急かさないではいられなか
った。
あなたといると、身体の中に怒りが潜んでいるのに気がついた。
あったのを、ずいぶん長いあいだ忘れていたけれど。
怒りの方はわたしを忘れないらしく、偏頭痛のようにわたしを襲ったき
た。
出がけに夫と交わした些細な口論。子供ができないと知ったときの夫の
落胆した顔。
自分のイメージした手順どおりにはけっして行かない仕事。
もっと昔に理不尽にわたしを傷つけた人のこと。いつかあの人も傷つけ
てやりたいって思っていたこと。
そんなことを、次から次に思い出して。
一度きっかけを掴むと、なぜ自分はここに生まれてきたんだろうとか、
右のものを左にやるだけみたいな仕事をいつまで続ければすむのかとか、
料理を作ることや夫とテレビを見ることとかの日常の何もかもに対してや
る方のない怒りが溢れてきて。
身体中が、何かに対する憎しみでいっぱいになって。
そういうときわたしは、必ず、あなたとセックスをしたくてたまらない
ようになった。
憎いわけじゃなかった。あなたがなぐさめてくれるわけでもなかった。
生まれる前から知っていたような、怒りが剥き出しになったときに。
夫には言えないようなことを要求したり、鏡の前でふたりでいやらしい
格好で繋がってみたり、言葉でいろんなことを言ってみたりして。
そんなふうにしてずっと昔からわたしの中に住んでいた獣は、あなたと
一緒にいるときだけ、身体の中で静かに猛り狂うのだった。
あなたがスパゲティをテーブルに運んできた。
きれいに片付いた部屋には。テレビにも棚の上にも塵ひとつなくて、少
し居心地が悪かった。
夫が休日出勤なのだと言うとあなたは、「自分のスパゲティをいつか食
べてほしかった」と言ったけれど、なるほどそれは、食べるに価する素晴
らしい味だった。
潰したホールトマトの鮮やかな赤い色の中に、ベーコンと、透き通った
タマネギがきらきら光っていた。
マンションの二階にあるこの部屋のベランダは、満開の桜の枝に手が届
きそうだった。
マンションが建つ以前からあった桜を、そのまま残したものだとあなた
は説明した。
「根元には死体が埋まっているのかな」
「そうだな、誰かが埋めてるかもしれない」
そっけなく答えるあなたが、案外奥さんと子供を埋めていたりして。
スパゲティは血の匂いがした。少し甘くて酸味のある血の匂い。バルサ
ミコ酢だよ、と言われればそれまでだけど、食べているあいだ中、血の感
触が頭から離れなかった。
だから尚更おいしかった。そういうものかもしれない。
向こうの部屋にあなたの本棚が見えた。本棚の本はきれいなグラデーシ
ョンを作っていた。よくよく目を凝らしてみるとそれは、色別に配列した
ものだとわかった。
自分の机もろくに整理できないずぼらな課長がこんなことするわけがな
い。
時間をかけて本の背表紙をながめながら、自分の城を作りあげてゆく人
がここにはいて。他人の入り込む隙間も許さないくらいに、その人は、こ
の場所や、家族や、あなたを愛しているのだ。
見せつけにキスをしてみると、本棚は怒りにうち震えた。
開け放した窓から桜の花びらが舞い込み、部屋中が振動した。
「シャワーを浴びてくるよ。出しっぱなしにしておくから、後で浴びる
といい」
あなたは、部屋がわたしたちの行為に反発してゆくのに気づかない。
ひとつのキスが次の場面に移行するように、あなたはバスルームへと入
っていった。
ひとり残された部屋は。いつまでも不穏な気配に支配されていた。
あなたもこの部屋で、どこにもいけない怒りを抱えていたのだろうか。
あなたは、いつも投げやりで。わたしの怒りはいつも、そこにリンクし
ていって。
きれいさっぱりたいらげたスパゲティの皿を、赤いトマトソースが汚し
てた。
血の匂い。
いままで積み上げていったものを、ふっと、踏みはずしてしまうような、
不穏な匂い。
そのトマトソースを手でなぞって。汚れたわたしの手を、まっ白い壁で
ひと掃きしてみた。
しみひとつなかった壁が、赤い傷を負った。
でも、鮮やかな赤い染みはとても似合っている、とも思った。
それでそのあとは。何だか用事はみんな終わったような気になって。
とりたててセックスもしたくてたまらないわけじゃなかったんで。
わたしは、シャワーを浴びてるあなたを残して、部屋から帰ることにし
た。
こがゆき