.kogayuki. |
短編フラッシュ32
(04年12月)
ある朝サンタはいなくなる
花織は、朝目覚めてベッドでぼんやりしていてふっと思った。
そっか、サンタクロースって、やっぱりいないんだ・・・。
それはクリスマスを10日後に控えた朝で、前日に特に何があったというわけではない。いつもどおり、テレビを見ながら好きなマンガの絵を描いて、父親 や母親と他愛もない話をしてから自分の部屋に戻っただけだ。
暖冬とはいえ、朝の空気はひんやりしていた。母親はトーストが焼けるあいだに、もうじきわたしを起こしに来るだろう。
そのわずかな時間に、ふっと思ったこと。だけどそれは間違いようのない真実のように思えた。
ほんとは、サンタクロースなんていないんだ。
去年のクリスマスの前、花織はカエデと二人でサンタクロースについて話したことを思い出した。
「ねえ、カエデ。みんなサンタクロースなんていないって言うんだよ。太郎のウチなんか、プレゼントがベッドにないんだって」
「それはきっと太郎がサンタクロースを信じてないからだよ。サンタさんは、信じている子供のところしかやってこないんだって」
「ユリカはね、ほんとのサンタはお父さんやお母さんなんだって言うよ」
「ねえ・・・花織も、そう思ってるの」
「まさか! サンタさんはぜったいいるよ。今年もきっと、朝起きたらベッドにプレゼントがあるはずだよ」
そうして予想どおり花織のベッドにはクリスマスの朝、ずっと欲しかった子供用のミシンが置かれていた。カエデのベッドにはエンジェルブルーのバッグが あったという。
近所に住むカエデとそれを見せ合って喜んだ。
みんなが信じてなくても、わたしたちだけはサンタクロースを信じていよう。サンタさんは信じていない子供のウチには来てくれないんだから。カエデと二 人でひっそりと約束した。
花織のまわりでサンタクロースを信じているのは、もうカエデしかいなかったのだ。
1学年上のカエデは今年は中学生になって、部活動で忙しい毎日を送っている。
花織は6年生になって背が10センチ伸びて生理がはじまった。母親にあまり目立たないデザインのスポーツブラを買ってもらった。エンジェルブルーはそ ろそろサイズが合わなくなってきて、ヒップホップ系の大人用のトレーナーがお気に入りだ。
だけどもそれで何が変わったというわけではない。クラスのみんなとはときどきケンカはするけれど、みんなでオレンジレンジの「花」を歌ったりして、悪 い子なんてひとりもいない。
だけど。やっぱりサンタクロースはいない。
それは、少しずつクリアに見えるようになった世界の中の、小さな確信だった。
不思議に怒りも絶望もなかった、ただ、それがわかるようになっただけだった。
そういうものなんだ。と、思った。
「花織、プリティリトル、朝よ」
母親がそう言ってカーテンを開ける。もう、大きくなってプリティリトルでもないのにね、と言いながらも、母親は花織をそう呼ぶことを止めない。それが けっしてイヤではない。
今年もきっと、クリスマスの朝には枕元にプレゼントがあるにちがいない、と花織は思う。
それはきっと、わたしがびっくりして、それから喜ぶようなプレゼントにちがいない。
だけども、お礼のクッキーを玄関に置くのはもうやめようと思った。
そのプレゼントは、お父さんとお母さんがわたしのために一生懸命に考えて、わたしが寝ているうちに置いたものに違いない。
それで十分だ。
だから、サンタクロースなんてほんとはいないって思ったことは、ずっとお父さんとお母さんには黙っていよう。
花織はそう心に決めて、ベッドから起き上がった。
世界の果てからメリークリスマス
「もう、話したくもないし、抱きたくもない、だけど君とは別れない。花織がかわいそうだからだ。花織にだけはさみしい思いをさせたくはない」
その日、夫は口の中に溜まった気持ちの悪い感情を吐き捨てるようにそう言った。
わたしはうなづかなかった。了解しようがしまいが夫が決めたこと。それを覆す権利をわたしは持ちあわせていなかった。
2000年の秋。花織は小学校の2年生だった。入学当時大きすぎたランドセルが背中にちょうど収まるようになった頃だ。
何もかもがうまく収まるようになって、わたしは何か収まりきれないものが欲しくなっていたのかもしれない。パソコンのサイトで知り合った男性に、その 年一度だけ抱かれた。メールのやりとりのあと、近隣の都市で出会い、その日のうちのことだった。どうしてだかわからない、ただ、そうしてみたかった。す べてがすっぽりと収まるあたたかい家庭の、外側のものを欲していたのかもしれない。
そういうことができた自分が不思議で、そういう特異な場所にいる男は特別だった。わたしたちはその後、幾人もの人が行き交うBBSに顔を出すこともな く、ただひたすらメールのやりとりをした。
「もう一度会いたい」という言葉をお互いが繰り返す送受信。だけども、ふつうに勤めているサラリーマンと家庭にいる主婦とでは、接点となる時間がなかな か取れない。そうしてメールばかりが溜まっていくうちに、それを夫に見られてしまった。
こっそりとメールを見た夫を非難する気にもなれなかった。罪の意識は、いつかすべてばれてしまいたいという気持ちの裏返し。そんなわたしの揺れが、夫 にメールボックスを見せたのだと思った。
あれから4年。わたしたちは表面ではおだやかな夫婦だ。
少なくとも花織と3人で食卓を囲む日はそうだ。休日のわたしは時間をかけて料理を作る。花織は楽しそうに夫を話す、わたしは無言でうなづく。
だけども花織は知っている。自分を介してしかわたしたちが会話していないことを。
あの日を境に、夫は自分の書斎で眠るようになった。最初は小さなソファで、数日のうちに簡易な折りたたみベッドが配達されてきて。わたしたちの寝室 は、わたしだけの部屋になってしまった。
その男とは、夫にばれたことをメールして以来、何の連絡もしていない。メールは着信拒否にした。もしも、なんのトラブルもなくそのまま連絡しあってい たら今頃どうなっているだろう・・・ときおりそう考える。きっと別れるタイミングを逸してしまっていたに違いない。
少しの興味と少しの好意にいつまでもしがみついて、わたしは別のしがらみに囚われていたに違いない。今になって、やっとそう思えるようになった。
平日の夜は緊張する。花織が寝たあとに夫が帰る日はとくにそうだ。
夫はまず風呂に入る、そのあいだに夕食の支度をして、夫が出てこないうちに自分の部屋に入る。それから、長い長いドラマや本を相手に、わたしはひと りっきりの夜を過ごすのだ。
別の男に抱かれることで、男の愛情はたやすく嫌悪に変わるものなのだということを知った。わたしはその嫌悪を味わったことがないのでわからなかった。
わからないことなら何でもやってみる価値があると思うのは傲慢だ。わからないならば想像すればよかったのだ。そういうふうに人の気持ちを思いやること ができなかった。一番身近な人なのに。わたしはそうしなかった。だから、その罰を受けなければならないと思った。
表面上は、何もない家庭なのに。ここは世界の果ての極寒の地だ。
花織がいるからこそ、ここにいられる。
いや。ほんとはそうではない。わたしは夫を愛しているのだと思う。いつまでもいつまでも夫の罰を受けていたいのだと思う。憎しみの対象となるためにわ たしが傍らにいるのなら。わたしはいつまでも憎しみの対象としてここにいたいと思っている。
クリスマス休暇の初日に、花織はニットの帽子が欲しいと言い出した。
6年生になった花織は、子供っぽい服を嫌がるようになってきた。ちょっとヒップホップな感じのニット帽、ねえ、お父さん買ってよ、っておねだりしてい る。
夫と花織は日曜のたびに二人ででかける。ショッピングセンターでゲームをしたり、ちょっとした小物を買ったり、そういうふうにして二人で過ごす。わた しは家で時間をかけて料理を作ったり掃除をしたりしている。
だけどもその日は違った。夫が、じゃあ、出かけよう、と言うと、お母さんも一緒がいいと花織が言う。わたしは夕飯の準備をするからと言うと「ダメ、お 母さんにも選んでほしいの」と頑として譲らない。4年間、こういうわがままを言ったことなんてなかったのに。
それでわたしは花織にひっぱられるようにして、渋々夫との外出をすることになった。
電車に乗って天神まで出かける。もちろん夫は花織としか喋らない。わたしは無言で車窓を見つめる。ひとことも喋らないままのわたしは、鎖を繋いで連れ られたペットの犬みたいだ。それでも少しだけ気分が華やいでいた。そうだ、もうすぐクリスマスだ、イチゴがいっぱいのケーキを焼いてあげよう。
夫は、花織にいくつもの帽子をかぶせては、これは似合うとかあまり似合わないとかアドバイスした。そうしてスポーツショップや子供向けのショップや量 販店の帽子コーナーまで丹念にまわる。いつも休日にちょっとした買い物をしてくる二人は、こんなふうにひとつのものを熱心に選んでいたのだ。
それは、家に帰って気詰まりな休日を過ごさないための知恵だったのかもしれない。だけども、それくらい夫は花織のことを可愛がってくれているのだとわ たしは思った。
大きなショッピングモールでは気に入ったものが見つからず、結局、最初に駅ビルで見たショップの帽子がいいと花織が言ったので、エスカレーターに乗っ て下に降りようとしたところだった。
吹き抜けの1階のフロアから音楽が流れてきた。
オーケストラが奏でている「ホワイトクリスマス」だ。
「お父さん、お母さん、すごいよ、サンタの格好をした人がいる!」
2階から階下を覗いてみると、オーケストラの半分はタキシードのような正装で、あとは、サンタクロースの格好だったり、キャラクターの着ぐるみを着た りしている。華やかなコスチュームの女性もまじっていた。
流れるようなヴァイオリン。それに重なる管楽器。
生演奏なんて聴いたのは久しぶりだったからかもしれない、それに愉快なコスチュームに気分が華やいだのかもしれない。なによりもその「ホワイトクリス マス」はとても弾んだ音を奏でていた。
何年ぶりだろう、こんな音楽聞いたのは。
なんだかとてもたのしい気分になってきて。気がつくとわたしの指はわずかだけど、夫の掌に触れていた。すると夫は、わたしの手をぎゅっと握りかえして きた。びっくりしてカラダが反射的に固くなる。それに気づくと、夫はもっとしっかりとわたしの手を握りしめた。
ああ。夫の掌のあたたかさだ。何年も触れたことのない夫の心のあたたかさだ。
ずっとずっと、こんなふうにして、楽しいことがあると夫と一緒に喜びたかった。そう、一緒になったのは、この人の感じ方が好きだったから。いろんなも のをこの人と感じていたかったからだ。
わたしたちがこの4年間に共有できたのは、憎しみと冷たさでしかなかったけれど。わたしはそんな感情でさえ夫とだけ共有していたかったのかもしれない。
だけども今、冷徹なものではない、夫のあたたかさをわたしは感じている。そう思うとポロポロと大粒の涙が溢れてきた。こんなところで泣いておかしい、 なんて思うのに涙が止まらない。それに気づいたのか、夫は今度はわたしの肩を抱いてくれた。
「やっと帰ってきたね」夫が言った。「同じ家にいるのに君はひとりで極寒の地にいるようだった。シベリアよりももっと遠くの流刑の地にでもいるみたいに して、いつもひとりでいた。何度も何度も、戻ってきてほしかったよ。すごく長かったけれど。やっと、戻ってきてくれたね」
わからないからそのままの状況に甘んじるわたしは、やはり傲慢だ。わからないなら想像してみればよかったのだ。
大きな憎しみがふたりの中で、年月を経てどんなふうに変化してゆくかを。
想像して感じて。それを小さな鉢植えのように、心の中に育んで、そのカタチを見せてゆけばよかったのだ。
涙はもっと溢れてきて、わたしは夫の肩に身をゆだねた。
それからわたしたちは3人で「ホワイトクリスマス」に最後まで耳を傾けた。
|
| .kogayuki. |