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.kogayuki.  短編フラッシュ28 (03年12月)


どんぐり


 「ハンプティダンプティ」とか、「ドングリ」とか、まるで太ったおんなの代名詞のような言葉で、彼はわたしのことを呼ぶ。
 いや、太ってるってわけじゃなくってね・・・なんだか丸くてちっちゃいから・・・と言いながらも、彼は笑いを噛み殺して「くくく」と笑う。

 そんなふうに呼ばれるのは、けっしてイヤではなかったし。
 もちろんそれが理由で、わたしたちは別れたわけでもなかった。
 とにかく、幸せな日々は長くは続いたけれど、永遠ではなかった。それだけのことだ。

 別れた日のことはよく覚えている。
 クスリを飲み忘れた日だった。
 仕事に行く日は、かならず定時に飲んでから出かけたのが、休日でゆっくり寝ていて、つい忘れてしまったのだ。

 彼との待ち合わせの公園に行くまでの電車の中で、薬のことを思い出して。
 それから、井の頭公園でボートに乗ったカップルは必ず別れるという言い伝えを思い出した。
 わたしたちの待ち合わせの場所は井の頭公園だった。
「近所でおいしいスコーンを買ってくるから、ドングリはコーヒーでも煎れてきて。天気がよければそれを持ってボートにでも乗ろう」と彼は言った。
 次から次に、やりたいことが溢れてくる、そんな彼の頭の中は、淀みのない湧き水のようだと思っていたけれど。
 その日、その艶やかな水は、いっぱいになってしまっていたわたしの身体から零れてしまった。

 待ち合わせの場所に着いてから、コーヒーを煎れたポットを台所に忘れたことに気づいた。
 いいよ、缶コーヒーでも買えば、と彼は言ってくれたけど。自販機には、わたしたちの嫌いな、砂糖とミルクの入ったコーヒーしかなかった。
 甘いコーヒーが、甘いスコーンに合うわけがない。
 わたしたちは、ベンチで甘すぎるランチを食べてから、ボートに乗って。
 わたしは、そのボートの上でずっと泣いていた。

「誰だって、忘れ物くらいはする」彼は言った。「僕だって、会議の日に電車に書類を忘れて大変な目にあったことがあるよ。上司にすごく怒られた。でも、人間だから、忘れることはあるって、上司も言ってくれたし。僕もそういうものなんだって思っている。ましてや、僕たちは、仕事として会ってるわけでもなんでもないんだから。そんなことで、君を責めたりはしないよ」
 責めない、と言われて、わたしはもっと泣いた。
 自分が失敗したからではない。
 予定していたことがうまく行かなかった、ということに対して、心を結んでいた糸がバラバラになってしまったのだ。

 「何もかもそう。こんなふうにしたいって思っても、その通りにできないの。いつも、違う方向に物事が行ってしまって、わたしの思うようには物事は運ばない」
 「違う場所に行ったら、その場所なりのものを楽しめばいいんだよ。そんなことを言うのって、いつものドングリじゃないみたいだよ。いつも、コロコロと笑いとばしてくれるのに。今日は調子が悪いのかな?」
 そう言って、彼は、わたしの顔を覗き込んだ。
 違う。コロコロ笑いとばせるのは、ほんとうのわたしじゃない。それは薬のチカラを借りたわたしだ。抗不安剤がなければ、わたしは、彼が望むままのわたしでいることすらできないのだ。

 仕事のストレスによる不眠から心療内科に通い続け、長い期間薬を常用してその状態を抜け出したことを彼は知らない。
 そのことを説明しようとしたが、どうしてもわたしにはできない。
 それを言ってしまうと、彼の心の中にあるわたしを全部否定するみたいな気がしたのだ。

 わたしは、彼の前ではコロコロと笑うドングリでいたかったのかもしれない。

 ずっと泣いてたんで、さすがに彼は、もう帰ろう、と言った。
 もし、何かイヤなことを言ったのだとしたら、教えて欲しい。でも、僕には何の心当たりもないんだ。
 ちがう、あなたじゃなくって・・・
 悲しいことがあった? 
 わたしは、かぶりを振る。
 わたしの中のコップの水は、もう、いっぱいになってしまっていて、どんな言葉も受け入れられなくなってしまっていた。

「ドングリのことは好きだよ。でも、今日の君のことはよくわからない。しばらく会わない方がいいのかな? 元気になったら、また電話して」
 そう言って、彼はぎゅっとわたしの手を握り、それから去っていった。

      * * *

 帰ってからすぐに薬を飲んだけれど、涙はずっと止まらなかった。
 お風呂に水を入れては泣き、ベッドに入ってからもっと泣いた。
 涙はいつまでも止まらない。

 わたしはもう「ドングリ」ではなくなってしまったのだ。
 そんな自分をすべて告白してしまう、ということも考えたが。
 自分で言葉にできずに身体に変調をきたしたくらいだから、言葉にするともっとわたしの混沌は増えてしまいそうで、そうする勇気さえもなかった。

 その週は、さすがに調子が悪く、心療内科の先生は薬をいつもの倍、処方してくれた。
「調子が悪いときもあるよ」
 という、あいまいな言葉で慰めてくれて。
 ああ、この薬を飲むと、また落ち着くのかなあ、わたしは、薬に頼らないと一生ダメなのかなあ、と、なんだか屈服してしまったような気になってしまった。

 そうして、少しばかりの副作用で、わたしは深い眠りに落ちる。
 眠るしかない、わたしは弱っているのだから、眠って回復するしかない。
 そう思いながら、一週間、ずっと寝ていた。仕事が終わると、本を読みながらまどろみ、そうして、そのまま本を投げ出して眠る。
 眠るしかなかった。
 彼からのメールもなかったし。
 自分からメールする勇気もなかったから。
 メールの着信音をサイレントにして。
 わたしは、何にも邪魔されぬように、長くて深い川の底に沈み込むように眠りを貪った。

 一週間後に、薬の量は、元に戻された。
 長い眠りから覚めた、朦朧とした意識。
 その中を、次の一週間は泳いだ。
 ゆらゆらと泳ぐが、どこへも行けない。
 メールはあいかわらず来なかった。

 一ヶ月後には、ふつうの生活ができた。
 でも、薬を忘れることはなかった。休みの日も、忙しい朝も、お守りのように薬を飲んだ。
 わたしのグッドラックチャーム。そう、つぶやきながら、白い粒を飲み込む。
 いつかは、平気で飲み忘れることだってできるのかもしれない。
 そう思うが、依存しないではいられない。
 あいかわらずメールは来なかった。
 わたしから、とも思ったが、あいかわらず何の言葉も出てこなかった。

      * * *

 三ヶ月後には、クリスマスがやってきた。
 恋人たちのためのプレゼントを、デパートの売り場で見ながら、彼のことを思った。
「クリスマスに買ってあげよう」と、彼が言ってくれたのは、わたしの好きなD&Gのコロン、ライトブルー。
 「ライトブルー」という言葉の響きと、どこまでも透明な海のイメージに憧れた。
だけど、今、デパートのウィンドウを見ながら、それはもう、わたしには似つかわしくないもののように思えた。
一度失ったものは、もう、二度と取り返せないのだ。

 しばらくぼんやりしていると、閉店を知らせるアナウンスがあり、それからクリスマスソングが流れた。
 ジョンレノンの歌う、クリスマスソングだ。
 閉店のアナウンスののちも、プレゼントを選ぶ客たちはなかなか動かない。
 わたしはのろのろとデパートをあとにする。
 わたしには、何ひとつ選ぶものなんてなかったのだ。

 一度失ったものは、二度と取り返せない。
 ジョンレノンはクリスマスを待たずに、この世からいなくなった。
 そんなことを考えながら、外に出ようとすると。
「だけど、一度、失ったものは、もう、二度と失わなくていいものに変わる」
 と、クリスマスソングが言ったような気がした。
もちろん、ジョンレノンのクリスマスソングは、そういう内容ではないのだけれど。
なんだか、そう言われたような気がした。
 
 どういう意味?
その言葉の意味を、わたしは咀嚼できない。
それで、デパートを出てから、ぼんやりと大通りの脇に立ってみた。
 玄関には、ツリーのカタチにイルミネーションが輝いていて。
 わたしは待ち合わせでもしてるかのように、その光をじっと見つめてみた。

ずっと前から。わたしは、ドングリでいられなくなる日がいつか来るのだと思っていた。
 わたしは、その日が来るのがこわかったのだ。
 ドングリでいられなくなる日を怖れ。
 どこまでも続くようにみえた、幸せな日々を怖れ。
 いつか、彼と別れてしまう日が来るのを怖れていた。
 恋という状態は、いつかは終わる。
まるで世界の終焉を予言するかのように、わたしは、その日を怖れ続けていた。

 だけど。
終末は、すでにやってきた。
 一度失ったものは。もう、失うことを怖れなくてもいいものへと、変わっていたのだ。

 閉店アナウンスがもう一度流れる。ジョンレノンのクリスマスソングが最初から繰り返される。

 もう、なくしてしまったものを怖れることはなかった。
ドングリでいることもなく。彼に見返りを望んだり、顔色を伺う必要もなかった。
片恋のようにシンプルに、ただ、彼のことを好きでいられると思った。

 ただの「好き」は、見つめてみるとクリスマスツリーのイルミネーションのように、わたしの中にキラキラしていた。
 柔らかく、この世を照らす光。
 わたしの心を、明るく照らす光。

 わたしは、コートのポケットからケイタイを取りだし、新規メールを作成する。
 宛先には、彼の名前。
 だけども、巡り巡ったわたしの言葉を、そこに書くのはむつかしく。
 「メリークリスマス!」とだけ、書いてみる。
 雑踏にはささやかな祝福が溢れていて。
その祝福を拾い集めて包み込んで、メールで彼に伝えた。

 もう一度、コートのポケットにケイタイをしまい込む。もう少し散策しながら家に帰ろう。そんなことを思いながら、駅のコンコースの方へ歩きはじめる。

 しばらく歩いてゆくと。
 ポケットの中から、着信音が聞こえた。
 メールではなく。通話のための着信音。

 取りだして、画面を覗いてみると。

 そこには、彼の名前が表示されていた。


                          (終わり)

.kogayuki.

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