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短編フラッシュ22
(02年9月~10月)
自虐的日常生活
「小説の中の自分はいつも、こういうふうにありたい自分だ」と、モノカキの友人が言った。
この意味はよくわかる。わたしもまた、こういうスタンスで文章を書いているからだ。
恥やみっともなさの垢を、文章にする過程で洗い流す。そうすることで、文章の世界は、日常から乖離する。ある種の距離があれば、冷静に俯瞰して自分を見つめられる。
そういう作業の中で、わたしの文章は生まれてくる。
だが、すべての文章がそういうふうに書かれているわけではない。
ありのままに自分の負の部分を書き晒すような私小説も世の中にはあるわけで、ときにわたしはその潔さに脱帽してしまう。
自分はそういうものを書けるだろうか。
書くとしたら、今のわたしはどういうふうに描かれるのか。
そう思って、つらつらと自意識の枠を取り外してみたのだが、どうもうまくはいかなかった。
取り外しても取り外しても、まだ、わたしの枠は、鉄格子のように固く、心の芯をとり囲んでいた。
まあ、それはそれで仕方ないか。
というわけで、不完全ながらも枠を外すことを意識した文章を、いくつかここに書いてみました。
1 スーパーマーケット
買い物が苦手である。
とりわけスーパーマーケットが大の苦手である。
タイムサービスを待って夕方の買い物に行く人や。1円でも安いものを求めてチラシを見ながら遠出する人も世の中にはいるらしい。
信じられないことである。
そういう人はスーパーマーケットをうまく活用しているのだろう。非常に羨ましい。
私はスーパーに行くと、翻弄され、迷いまくり、そして消耗して、もう二度と行くか、と、後悔するばかりである。
いつもは生協の配達と近所の商店での買い物ですませているのが、週末に買い物がたまっていたので、一番近いスーパーに行くことにした。
家庭用品売り場でまず、椅子の滑り止めを買う。
思いのほか高かったので、88円コーナーも見てみたが、見つからなかった。
それから、髪の色を変えてみようかと、カラーリング剤を探してみた。ひとつひとつ見てみて20分ほど時間を費やしたが、結局決められなかった。
食材を探す。
あらかた買うものは決まっている。
しかし、見つけられない。
コーヒーフィルターひとつ、場所を覚えられないので、わたしは端から端まで歩きまわるのである。
カレー粉。これもまた、端から端まで。
シチューのソースはあるのに、カレーは見つからない。
あ。ハウスのやつが特売で積まれている。しかし常用しているヱスビーはどこにもない。また、端から歩きまわる。
どの棚も同じにしか見えないし。
商品の区分は、お店によって微妙に違う。
パスタとか。種類が多すぎて、毎回ラベルをみんな読んでしまう。いかん。いくら活字中毒とは言え、そんなものをすべて読んではいけない。
そんなこんなで、なんとかレジに並ぶのだが。
勘定をすませたあとに、必ず買い忘れに気づく。
そうだ、生理用ナプキンを買わなければならなかったのだ。
あれは、二階の家庭用品売り場なのか。
それとも一階の食料品売り場の横にある、ティッシュペーパーのあたりなのか。
そう思って、両方のフロアをまた、すべて歩きまわったが。
結局ナプキン売り場は見つからなかった。
わたしはもう、泣きたくなってしまって。ああ、しょうがない。帰りに近所の薬局に寄って帰るしかない、と思いながら、スーパーから出ていった。
そういうわけで、わたしは今日も、スーパーには敗北であった。
2 恥ずかしいコト
恥ずかしいコトを書こうと決めたのだから、正直に恥ずかしいコトを告白しなければならない。
だが、自分の自意識の枠を外していくことは、とてつもない作業であることに、すでに気づいている。
まだまだわたしには、言葉にする前に片づけてしまっている、負の部分が多いようである。
恥ずかしいコトと言えば、やはり性行為であろう。
セックスは、冷静に考えれば非常に恥ずかしい行為だ。自分で直視することのできない空洞が、男によって開かれる。認識できないものを他人に明け渡すには、自分の自意識を一部崩壊させなければならない。
それでも、繰り返すうちにその行為には快感が伴ってくる。
それを経験上知っているし、概ねセックスは好きだと言ってもいいと思う。
しかし、自意識を崩壊させるとき、お互いのベクトルが違う方向に向いているときがある。そこにあるのは、快感を伴わない恥ずかしさだけだ。
セックスの最中に我知らず声が漏れる。気持ちがいいのだから、それは当然のことだと思っていた。
となりの住人が棟続きに住んでいる安アパートで、わたしたちは思いを遂げたのだが。男は、わたしの声が非常に気になったらしい。
行為の最中に、わたしの口に白いタオルが押し込まれた。
自意識を崩壊させることだけを考えていたわたしは、頭が真っ白になって、そのあとはまったく集中することができなかった。
一通りのコトが終わり、男はそれなりの満足を得たようにも見えたが。わたしには、何も残らなかった。
それが原因かは知らぬが、その後は一度も身体を重ねないままで、わたしたちは別れた。
聞けるものなら、今でも聞いてみたい。
あれは一種のサディズムの表現だったのか。それとも、わたしの声に対する純粋なる侮蔑だったのか。
もう多分一生会うこともないだろうし、万一偶然に会っても、わたしはそんなことはけっして聞かないだろう。
いずれにしろ、わたしたちのセックスは、同じベクトルを向くことができなかった。崩壊して解放されるはずの自意識は、男の身体の前で、ハンマーでかち割られた煉瓦のように転がったままだった。
恥ずかしい性行為、と思うときに、真っ先にそのことを思い浮かべる。
崩壊されなかった自意識が、恥ずかしい。
快感を伴わない羞恥は、いつまでも恥ずかしい。
それを、セックスの相性が悪いという言葉で、人々は片づけるのだが。
わたしはいつまでも片づけられなかったので、今まで黙っていたわけだ。
3 スケジューラ
昔から手帳をとても大事にしていた。
出張の多い仕事だったので、スケジュールの書ける手帳がなくては、飲み会ひとつ決められなかったのだ。
仕事を辞めた時期でさえ、手帳にコマゴマといろんなコトを書き込んできた。
書評を読んで買いたくなった本のリスト。夕食のメニュー。友だちと約束した時間と食事をしたレストランの名前。
その頃の手帳を、今も思い出しては広げてみる。
仕事にも家事にも追われてなかった、秋の空のような時代。今日は何をしようかと、ゆったりと考えられる朝。
日々がそのように過ぎてゆくヨロコビが手帳には散りばめられていた。
いつからか手帳を持たなくなった。
友だちと呼ぶ価値もないような人からの誘いが増え、つきあいで出席しなければならない会合ばかりが、そこに書き込まれていくようになったからだ。
手帳を見ると、その消耗がすべて記帳されているようでココロが重くなった。
わたしは、年頭には必ずお気に入りの手帳を選んでいたから。そんなもので、愛すべき手帳を汚したくなかった。
今、手帳の代わりになっているのは、携帯電話のスケジューラだ。
「**日は開いてる?」
と聞かれるたびに、それを開く。
概ね、わからない、と答えて、スケジューラに予定を入力するふりをする。ふりをするが、けっして入力しない。
行きたい予定ならば書かずとも覚えていられるし。大方は、出向かないままでやり過ごす。
年をとるごとに増えてきた雑事に、わたしはいつまでも馴染めない。
今日の消耗も、明日の消耗も、できれば書かないままで、消してしまいたい。
当然人づきあいは悪くなるばかりだが。
そっちの方が随分精神的には健康なように思う。
もう一度、ブランクを喜べるような日々を獲得できるのならば、わたしは惜しまずに、高価な手帳を買うだろう。
それまでは、手帳を持たない。
目覚めと同時に、大きく息を吸い、深い水の中を息継ぎもせずに遠泳する日々は。
どれもこれも、忘れてもいいくらいに、同じ曇天の海の色をしている。
4 別れ方
別れ方の下手な女は、それだけで女の価値を下げる。
そうしてわたしは、そんな種類の女である。
もう、絶対に修復できないと思う境界線がある。その境界線を越えたら、別れなければならないのだ。そんなことはわかっているのに、それができない。
愛される対象でなくてもいい、それでも男の存在自体を自分の中から消してしまいたくない。そんな悪あがきを私はいつもしてしまう。
別れ際のみっともなさに、男はあきれ果てる。あきれ果てるがどうにもならない。
そうして二度と会えないはずのわたしは。どうしようもない、くだらない女として、男の記憶に刻み込まれてゆくだけだ。
そんな愚行を、もう何度も繰り返した。
別れた男と、一年間暮らし続けたことがあった。
当時、二階建ての一軒家にわたしたちは住んでいた。
二階の私の部屋に泊まりにきていた男は、ルームシェアしていた一階の彼女とくっついてしまった。
どういう経緯だったのか今でもわからない。三日間の出張を終えて帰ってきたときには、すでに状況が一変していたのだ。
あやまりながら、すべてを告白する二人を許したわけではないが。彼女は大切な友人で。そして、何よりも、男と離れたくなかったから。わたしは、その家を出ていくことはなかった。
男が部屋で彼女と話しているときは、胸が痛んだけれど。それでも少しはわくわくしたように思う。とりあえず、男の存在はわたしの前から消えはしなかった。
それだけで。ただ、それだけで、別れの痛みは少しばかり和らいだのだ。
わたしたちは三人とも、そのような甘やかさの中に住んでいたのだと思う。
若かったわたしたちは、死という決定的な別れの喪失感を、誰ひとり実感していなかったし。失うということに対する覚悟も持ち合わせていなかった。
もちろんそれはそれでよかったのだろうけれど。
それに伴う、地表のズレは、もちろんそこかしこに現れた。
一階にはキッチンとバスルームがあり、わたしたちはそこで三人で食事を取った。
わたしが二階に上がると、ふたりはいっしょに風呂に入り、それからセックスをした。
そうして寝る前にトイレに行くたびに、わたしはその気配を感じなければならなかった。
彼女も出張の多い仕事をしていたのだが。彼女がいない日も男はこの家に帰ってきた。
わたしは一階でひとりで食事をしていた。ありあわせの材料をホットプレートに並べてお好み焼きを焼いていると、男が入ってきた。
「食べる?」
そう尋ねると、いや、いい、と言って男はコンビニの弁当を広げた。
片付けて風呂に入った。
パジャマに着替えて髪を乾かしている間中、男は雑誌を広げて、下を向いていた。
彼女がいなくても、もう、わたしたちはそういう関係にはなれないのだ。
存在していればいい、と思っていたのではなかった。
未練がましく、わたしは繋がっていたかったのだ。
別れるならば、二度と会わない方がいい。
どんなにめくるめく快感を、身体とかココロに、男がもたらしてくれたとしても。
それは、けっして未来永劫保証されたものではないのだ。
そもそも。
永遠に一緒にいられることなんてことは、願ってもけして叶えられない。
どんなにそれを願っても、いつかは死がそれを分断してゆくことを。
幾人かの大切な人々との別れから、わたしはすでに学んできた。
5 出来ないことが多くなる
年月を経てゆくにつれて、出来ないことが多くなってきたように思う。
成人してから喘息を発症し、発作を起こす恐ろしさが身に染みた。風邪を引いたら人より長引く。咳がいつまでも止まらず、そこからまた発作を起こす。前もって薬を飲むのに、夜になるのがこわくて。わたしは電気を消して眠れない。
身体はゆるやかに下降線を辿っているのだろう。ウェストから下腹にかけてのラインがそれを物語っていた。頬の張り、首筋のしなやかさ。仕事が立て込んだときの疲れ方。そんな些細なものが、肉体の無力さを知らしめるようになった。
固有名詞を覚えられないようになってきた。わかっているはずのものの、名前がなかなか出てこない。悔しがっても記憶を辿っても時間を費やしても。大切な言葉が出てこない。
何の苦痛もなく続けていた仕事が、ある日突然イヤになってしまう。皆が平然と行っていることが、どんどん日常から抜け落ちてゆき。わたしはすぐにパニックになって泣いてしまうようになった。
そもそも人間は。そんなに何もかもができるようには創られてないのかもしれない。
それでも、若いというだけで、できないことも何となくこなしてきていたのに。わたしはもう、そういうふうに自分を駆り立ててゆくことができなくなってしまった。
出来ないという無力感は。すでに苦痛ではなくなりつつある。
出来ない、ということを認めてしまえれば、それは屈辱にもなり得ないことを、すでに体得していたのかもしれない。
秋の晴れわたった空の下を、子供たちが踊り回っている。
わたしには想像もつかないほど惜しみなく、生のエネルギーを飛び散らせて。すべてのものを手中にしているかのように、激しく踊っている。
小さな風船がどんどんと膨らんでゆくように、彼等は、何もかもを吸収してゆくのだろう。
そうして、わたしが見るよりも、もっと先のものを。彼等は見てゆくのだろう。
わたしは、ぱんぱんに膨らんだ風船だ。
これ以上に膨らませるものを、わたしはなかなか選べない。捨てること、あきらめることで、伸びきった風船が、もっと柔らかくなれることばかりを夢見てる。
当たり前のように生まれてきたので。
生きている自分を実感できるまでに、ずいぶんと時間を費やしてきた。
ならば。
いつか死にゆく自分というものを、時間をかけて受け入れてゆこう。
少しずつ、少しずつ、時間を費やして。
死んでゆく自分を、これから、受け入れてゆこう。
限りなく澄み渡る秋の空は。
そのような決意をするのに、まったくふさわしいように思えて。
白雲すらもまぶしい空を、わたしは、目を細めて見上げていた。
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