短編フラッシュ15
失速
スパゲティのトマトソースを作っていたら、白ワインのコルクが開かなかった。
いつもなら、なんどかコルクを傷つけるうちにポンと開くものなのだが、今日は
どうしても開かない。
仕方がないのでワインビネガーを使ったら、入れすぎたらしく、すっぱすぎて仕
方なかった。
もともと、さいさきが悪かった。
スパゲティのために取っておいたシメジは冷蔵庫の中でかびているし、タマネギ
すら、家になかった。
それでも、どうしてもスパゲティが食べたくて。
だけどビネガーの味のききすぎたトマトソースは食べられるものではなかった。
仕方なしに、わたしは鍋をひっくり返した。
夕飯にスパゲティが食べられなかったことはたいした問題ではなった。
なのにわたしは、その瞬間、ふわっと失速してしまった。
なんとか、こなしていたことが、ある日突然、続けられなくなる。
そうしてわたしは床に座り込む。
手の中をさらさらと砂がこぼれていった。
届かなかった気持ちやら
わからなかった人のことやら
この次にしなければならなかったことが
さらさらとこぼれていった。
こぼれていった砂は、けっして拾いあげられないくせに。
わたしはなんども砂を集めようとした。
そのことを悔やんで、もとの速度に戻れない自分を、何度も味わったくせに。
わたしは、こぼれた砂のことしか考えられなくなってしまった。
ぎゅっと目をつむり、何も考えないようにした。
床の上には、たくさんの砂が散らばっていた。
ここを忘れて、日常に戻れ。
はやく、はやく、日常に戻れ。
そんな声が聞こえるのに、わたしはそこを動けない。
こぼれた砂が、風に吹かれ、飛んでゆくまで。
床の上。
わたしは、世界の外側にたたずんでいた。
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テロリストが壊すもの
テロリストが壊してゆく
ビルや 人の命を 破壊する
それは まだ 一次災害
それから わたしたちは 心が 壊される
修復しようのない 二次災害
信じていた日常が かくも 簡単に壊れることに
心のまんなかにあるものが ぐらりと揺らぐ
なにごともなかった日常に 刃を向けられることによって
立ち向かっても 立ち向かっても
荒んでゆく 気持ちが 元に戻れない
いちばん大事なものでさえ
こんなふうに 簡単に 壊れてしまうのだと
テロリストは 高笑いをして 見せつける
世界に 雲が たれこめている
そういって 大事な人が 泣いた
おまえら みんな テロリストだ
集う人々を 蹴散らす 刃よ
散弾銃を ぶっ放し
怒りをすべて 弾にこめ
発砲させろ 発砲させろ
解き放て 怒りを
憎むたびに 荒んでゆく心を
壊されて 修復できない心を
そのたびに わたしが 抱えてゆくのを
じっと 見つめたいがために
おまえは まだ そこに いるのか
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先生、今日は
先生、今日は、風邪ひいて仕事休みました。
おクスリくださいね、眠くてぼーっとするやつがいいな。
わたしは、駆けめぐる日常から降りるのがこわくって。
必死でそこにしがみついてるんです。
だから、病気をすると嬉しいの。
有無を言わずに、そこから振り落とされるのが嬉しいの。
振り落とされたまんま、地面にぼんやり座ってて。
そんな場所にいるのが好きなの。
先生。
ひとが狂ってゆくのを、この前見ました。
ちょっと性格がきついだけのその人が、だんだんに被害妄想みたくなってきて。
ほんとに狂っていったのを。
わたしはずっと眺めてたんです。
「インターネットってこわいね。その人はネットに熱中しなきゃ、狂わずにすん
だのに」
先生、わたしはそうは思いません。
彼女には「狂う」要素がたぶんあって。
ネットはただのきっかけだったのです。
「狂う要素なんて、だれでも持っているんだよ。
みんな、そんなボーダーに上で生きていて、きっかけがなきゃ、そのまま生きてい
けるんだ。
ネットに関わらなきゃ、彼女もきっとそんなふうに生きていけたんだろう」
そうですか?
先生。
そうですね。
わたしもきっと境界線の上にいるんでしょうね。
だけど、わたしは壊れない、わたしは今日、日常から降りれたんです。
それにインターネットには。
ともだちもたくさんいるんですよ。
「ともだちじゃなくって、知り合いでしょう?」
いいえ、先生。ともだちよ。
会ったことも話したこともないけれど。
みんな、大好きなともだちよ。
ありがとう、先生、さようなら。
先生が言うことと、わたしが言うことと。
どっちが本当でも、たぶん、どっちでもいいのね。
わたしが本当じゃなくても構わないの。
ほら。本当じゃなくても、日々はすぎてゆくのだし。
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自分に近くなる
ここにいる、自分のかたちならわかるから。
せめて、そこに近づきたい。
言葉をいじっていじって、
それで、遠くなると、さみしいから。
どんな言葉でもいい。
自分に近くなりたい。
そんなふうに思っている。
思っているのに、遠くなる。
そんな言葉が、もどかしい。
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今日のわたしを無為にする
今日もまた
今日のわたしを 無為にした
きれいにつけたマスカラを
筆で塗りつけた口紅を
はたいたシャネルのパウダーを
今日のあなたが 無為にした
朝の涼やかな 目覚めのとき
あなたに
伝えようと思った
今日のわたしの その言葉を
今日のわたしが 無為にした
すぎる日々
そのひとつひとつに
宿るもの
色づいてゆく 公園の木々
少しずつ 満ちてゆく月
生まれてきて 鳴きさけぶ 猫の子供
わたしの いらだち
わたしの 小さな笑い声
わたしの 日常
今日にしか 感じられない
今日の わたし
今日の ことば
それは 明日には 褪せてしまうほど
些細で ひそやかなものなのに
今日のわたしは そこにしかいない
それは とどまらない
時間の流れに 消えてゆく
今日の わたしの 感じるものを
今日の わたしが 無為にする
繋がらなかった あなたの今日が
今日のわたしを無為にした
こがゆき