短編フラッシュ9
深い泉の奥底の、声のあるところ
わたしのからだの奥には、深い泉がある。
そこから毎日のように、静かな水が溢れている。だが、わたしはそれを気にとめ
ない。水はただ溢れるだけで、何の言葉も発しないからだ。泉は、ただの沈黙する
臓器でしかない。
わたしは毎日仕事をして、毎日いろんな人と話している。わたしの唇からは当た
り前のようにいろんな言葉が溢れてゆく。言葉はその人の求めるものを見い出して
必要な言葉を差し出す。言葉は雄弁だ。言葉はわたしの武器であり、とても有能な
味方だ。
わたしは言葉を可愛がっていた。
ひとりの夜に掌に転がしてみる。言葉はころころころころと鈴のように鳴いた。
言葉はいつも、わたしを正確に変換して人に伝えてくれる。
いとおしい。とても、いとおしかった。
ある日、わたしは、惑いとまどう自分を知りたくて、言葉にその事を尋ねてみた。
言葉は言った。
恋しているんだよ。いや、ほんとは好きとかそんなんじゃないんだよ。抱かれたい
って言ってるよ。もう傷つくのはごめんだよ。さみしいだけなんだよ。好きなんて妄
想さ。でもその人を好きになってみたいんだ。
言葉の言ってることは、まるでバラバラだった。
言葉は、いろんな人に向き合って、さまざまな言葉を発するのには慣れていたけれ
ど、わたしが欲しがっているたったひとつのものを知らなかったのだ。
夜毎夜毎の掌で、わたしは言葉をジグソーパズルのように並べ変えてみる。
だけどもどんなに整理してみても、そこには、欲しかった答えはなかった。
わたしは、言葉を投げ捨てた。言葉は、割れたガラスのように、身体の土壌に散ら
ばった。突き刺さるだけ。けっして消えはしない。それでも言葉は。わたしのための
言葉を知らなかったのだ。
わたしは耳を塞いだ。人の言葉にも、自分の言葉にも耳を塞いで。
静かな世界に潜って。
夕日が落ちて、三日月の薄明かりが光った。星はひとつとして見えなかった。
その静けさの中に、水の溢れ出る音が聞こえた。
どこからか、わからない。
とくとくと、水が溢れてゆく音。
耳をすますとそれは、自分の身体から発する、言葉にならない「音」だった。
身体の深い奥底の泉のあるところから聞こえる。水が溢れる音だった。
その音は、わたしが、のぞむものを、身体の中から発していた。
ああ、こんなとこにあったのか。
誰のためでもない、わたしのためだけの「声」が。
それをわたしが見つけると、言葉はいっせいに、軽やかに騒ぎだした。
そこにあるものを。からだの中にある、泉の水の溢れる音を。
言葉にさせてよ、変換させてよ、って。
言葉は、泉のまわりを踊り狂った。
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まぶた
まぶたは 夜を待っている
閉じきって 世界が終わるのを 待っている
嘘も うたかたも 日々の疲れも
みんな 消えてくれるのを待っている
まぶたは
マスカラをつけてないわたしを 待っている
ぼんやりした目つきの 虚勢を張ってない わたしを待っている
いちにちがおわって
わたしは まぶたを 押さえる
消えてしまえ 消えてしまえ
いやなことは みんな
消えてしまえ
まぶたは 電話や 声や メールの文字などは 待ちはしない
まぶたは くちづける あたたかな感触も 待ちはしない
まぶたは 夜を待っている
今日のいちにちが
闇に 閉じられるのだけを ただじっと 待っている
この世界の中で
わたしが記憶する たしかな感触
それを わたしが 見てゆける
閉じた まぶたの 裏の世界に
夜の闇が はやく 降りて来ることだけを
まぶたは ただじっと 待っている
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排せつ
アパートの隣の部屋に住んでるキミちゃんは、子供を育てるのがうまい。何がどう
というわけではないけれど、いつも落ち着いている。もうすぐ二歳になる勇太はいつ
もニコニコしている。キミちゃんは独身の頃保母さんをやっていたそうだ。なるほど
なあ、と思う。わたしが男だったら、保母さんと結婚したい、そう思えるくらい、彼
女はいいお母さんだ。
そのキミちゃんが、ある日、わたしにこう言った。
「結婚指輪が見つからないのよねえ」
話を聞いてみると、どうも勇太が飲み込んでしまったらしい。
病院に行ったのかと、尋ねてみると、どうせ出てくるだろうから、待っているのだ
と言う。
これもまた大胆だ、と思いながらも、結局その日は指輪は見つからなかった。
次の次の日。指輪が見つかったよ、とキミちゃんが言った。
「毎日毎日、出てくるウンチを割り箸で割ってね、でもね、見つかってほっとした
よ」
きれいに消毒されたプラチナの指輪は、キミちゃんの薬指にキラキラと光ってい
た。
これはもう、何年も前の話なのだけれど、なぜか、わたしは時々このことを思い出
す。
仲良しだったキミちゃんがなつかしい、ってこともある。それでも、キミちゃんを
思い出すたびにこの結婚指輪のことを思い出すのだ。
からだは、ただの筒状の容れ物なのかもしれない、と思うことがある。口から入っ
たものは、排せつされてゆくだけだ。
プラチナの指輪とて、身体にとってはしょせん異物。いつかは外に排せつされるだ
けのものなのだろう。
わたしの中に入ったあなたも。
あなたの中に入ったわたしも。
ただ、入り込んで、そして出てゆくだけのものなのかもしれない。
わたしは、あなたの身体の中にあるプラチナの指輪だ。
悦べども、笑いあえども、けして同化できない。
同化できないまま、そのまま落下していって。
そうしてわたしは、あなたの身体から出ていってしまうのだろう。
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ろっ骨
さみしいときは、肋骨がうずく。
なんでだろう。
肋骨のいちばん下あたりが、きゅんとなる。
頭でも心臓でも胃でもない。
骨がきりきり痛むんだ。
ずっと昔、男が自分の肋骨を一本ぽきっと折って、わたしを作ってくれた。
傷だらけで、骨がカスカスになった肋骨だったけど、さすがに折るときは痛かった
らしい。
なくなった肋骨はいつまでも、まるでそこにあるかのように痛んだそうだ。
わたしは痛みもなく、そんなことなど、ずっと忘れていて、それなりに悲しんだり
悩んだりしながら、生活を繰っていた。
年月がたって、男と会ったとき、男はずっと昔のそのことを思い出した。
そうして、わたしの朧げな記憶も、いつのまにかそこに辿りついた。
からだの中には些細な記憶が眠っていた。
だけども、眠っている記憶を遡りながら生きていくことなんてできやしない。
ふたたび会えたことを悦びあって、そしてわたしたちは別れた。
わたしのからだは今も、あなたのいない世界で、軋んだ歯車のように動き続けてい
る。
ときどき、肋骨が痛むようになった。
雨が降る朝とか。
黄色い砂に埋もれた太陽がかすむ夕暮れに。
戻りたいのか。
ただ、記憶が痛いのか。
ときどき肋骨が痛むようになった。
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不夜城
眠っているあいだも、細胞は死に続け、そして生まれかわる。
わたしは抱かれる夢を見ていた。
夢の中のわたしは、相手のことなど構わずに、とても自由に動く。
待つのも嫌いだし。被害者顔するのも嫌いだ。
わたしが寝ているあいだも、世界は動き続けていた。
被害者の顔をした加害者と。
加害者の顔をした被害者と。
そして、何もなかったような朝と。
不夜城では、誰もが被害者になれるのかもしれない。
今日もまた眠たい。
眠っているあいだも生き続ける細胞は、短い死の中に、奇妙な記憶を植えつける。
わたしは、誰にも傷つけられたくないので、
夢の中で、今日もあなたを弄びたいと思い。
部屋のデンキを暗くした。
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本能と欲望と頭と心
ひとつの身体に住んでいるのに、みんなバラバラのことばかり考えている。
本能は、よりよい遺伝子を残すため、才能ある男のDNAを欲しがっている。これは
たぶん、太古の昔から、人として生きるわたしに組み込まれたもの。
欲望は遺伝子のことなんて考えない。
そのとき、目の前にいる男に、ざわざわと胸騒ぎを覚え、微熱のように身体が熱く
なる。
ただの指やただのクチビルまでが、特別なキーワードになって、あとさき考えずに
何もかも欲しくなってしまうのが、欲望。
頭はもう少し、まともなことを考えてる。
無謀か、まともか。危険を察知する能力だってある。頭はいつも無意味な計算ばか
りしている。
心は、わたしにはわからない。
心は、いくつもの疑問やいくつもの不可解を抱えていて。時には、意味もなく悲し
くなるし、同じような一日なのに、平穏でいられたりもする。
心の中にある泉は、すぐに溢れ出して、乾いた平原はそのたびに、雨に濡れたよう
に泥だらけになる。
同じわたしの身体なのに。
バラバラなことばかり。
わたしは、わたしの身体のほんとにのぞんでいるものを知らない。
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クチビル
クチビルは案外、感じづらい場所ではないか。ふと、そう、思った。
「そりゃそうよ、クチビルとかお尻の穴とか、日頃いろんなモノが出入りするよう
な場所が感じやすかったら、モノ食べるのも大変じゃない。だから、感じづらくでき
てんのよ」
友だちがそう言った。
わたしはなんだか、損したような気分になってしまった。
男のクチビルが、わたしの身体を這ってゆく。
車の運転席に座って、エンジンのかかり具合をたしかめるみたいに。
新しいパソコンの前に座って、ひとつひとつその機能をたしかめるみたいに。
わたしの身体にいくつも隠されている鍵穴をひとつずつはずしてゆく。
わたしはいくつも、こんなにも簡単に見つけられてしまうのに。
男のクチビルは、それほど感じてはいないのだろう。
そう思うと、哀れなような。
自分だけ、得をした、ような。
そんな気分になってしまった。
クチビルも、もっと、感じてくれればいいのに。
そうすれば、きつねうどんを食べながらでも、わたしを思い出せるのに。
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身体を愛したい
空気が乾いた日には目尻に皺ができる。
たくさん泣いたけど、小さな愉しみにも笑った。
そのバランスが作り上げた皺だ。
わたしのクチビルは丸くて厚い。
言いたいことをたくさん言ってきたクチビルだ。
なのに時々生きづらいと思ってしまう。
そんな不条理が、このクチビルのカタチになった。
若い頃には、ピンと上を向いた乳房が自慢だった。
今は、砂の舞う日の夕日のように、その輪郭はぼやけている。
若かったわたしは、空虚を埋めてほしかっただけで。
自慢の乳房すらも愛してなかった。
下腹には柔らかい肉がついた。
おいしいものを、たくさん歓んだあかしだ。
腰まわりが広がっている。
時の流れにまかせて、子供を産んだあかしだ。
わたしの脚は。
わたしの歩いた道のりだ。
歩きづらい大地を踏みしめ、コンクリートにヒールを叩きつけ。
その道のりが、このような脚を作り上げた。
誕生日の夜には、折り返す人生に、ひとりで泣いた。
身体が衰え、少しずつ、死に近づいてゆくのが、悲しくって泣いた。
なのに身体は、男に愛されると歓んだ。
細胞のひとつひとつに染み入るようにして。
愛し愛された感触が、わたしの身体を作り上げていった。
身体は衰えてゆく。
だけども、わたしの意思や愛された記憶は。
年月を経て身体に宿り、わたしの身体のかたちを変えてきた。
わたしという身体は、そういうふうにしてできあがってゆく。
そう思うとなんだか。
自分の身体が好きになれてきた。
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味わう
さみしいんじゃない。
さみしいって感触を味わってみたいだけなんだ、きっと。
ときどき、そう思う。
家族は今日もにぎやかだし、友だちだっていっぱいいるし、これでさみしかった
ら、バチが当たる。
でも、さみしくないばかりの人生も、無味な気がして。
きっと、さみしいって感触を味わってみたいだけなんだ、きっと。
楽しいときだって。
笑うのは笑うけれど、それとは別に、楽しいって感触を味わっているんだし。
それと同じくらい。
みんながいても、さみしいって、思ってみたいときもあるんだ、きっと。
悲しい、は、嫌いだけど。
さみしい、は、そんなに嫌いじゃない。
月夜にカーテンを閉めるときみたいに。
散歩のとちゅうに、遥かな死を思いおこすみたいに。
しん、となる、ひとりの感触は。
まったく、悪くない。
さみしい、は、身もだえしない。
さみしい、は、舌の先で転がすもんだ。
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足
わたしは、泥だらけのまま裸足で歩いている。
ごつごつした岩が、わたしの足を傷つける。
「バカなことはやめろよ」
男がそう言う。父親に諭されてるみたいだ。
そんなことを言っていいのは、もうすでに死んでしまったわたしの父親だけだ
よ、そう言い返してやりたくなる。
わたしは棘の絡まった深い森を見るといつも、行ってはならない所まで行ってし
まう。関わりあうべきでないものに関わり。目をつむればすむはずのものに怒って
しまう。
怒りのエネルギーってのは、すごく疲れさせる。怒ってる自分はつまらない人間
だ。すごく心が荒んでゆく。
わたしはやわらかくまどろんでいたいだけなのに。いつもボロ布のように人や世
界に傷ついて、男につまらない愚痴ばかりを言う。
「もう、バカなことはやめろよ」
男は無駄と知りつつ繰り返し言う。なのにわたしは目をつむることができない、
泥だらけの足に靴を履かせることもできない、いつまでたっても鬱屈した水面から
離れられない。
そういう女なんだから仕方ない。
泥だらけの沼に足を汚すことも。
けっしてわかりあえない人と向かいあうことも。
制御のできない恋にのめり込んでゆくのも。
みんなみんなわたしの愚かさだ。
汚れたわたしの足を、男がやわらかいタオルで拭きあげる。その舌でゆっくり
と、わたしの傷を舐めてゆく。そんなところを想像してみる。
するとわたしは。どこまでも、どこまでも、深いところまでいって、ぼろぼろに
汚れて傷だらけになってみるのも、案外悪くないのかもしれないな、って思ってし
まうんだ。
こがゆき