ロードランナー日記・
スタート
ある年の五月、ロードレースに出る友人の応援に行ってみた。
ゴールの近くに陣取り、帰ってくるランナーたちに拍手しながら、わたしは友人
の帰りを待っていた。
河川敷きは風が心地よかった。それに、汗をかきながら完走する人々を目の前で
応援するのは、テレビで見るより何倍も楽しかった。
意外に年齢層は広く、中年の女性や老人たちも大勢いた。よろよろになりながら
走りこんで来る人もいた。足を痛めて引きずる人もいたし、片腕のないランナーも
いた。
それは本当に応援したくなる光景だったし、実際に、心ゆさぶられるものが確か
にそこにはあった。
走りはじめて間もない友人は、先頭ランナーからずいぶん遅れてゴールした。年
配のグループにまじってのゴールだった。
想像していたほど、格好いいものではなかった。友人の膝は、素人が見てもわか
るくらいにガクガクしていたし、消耗しきった呼吸は、心配になるくらいに荒々し
かった。
それでも見知らぬ観客たちは、そんな友人にも温かい拍手を送っていた。
その時に、わたしは思った。
自分はなぜ、向こう側にいなかったのだろう、と。
それだけの理由で、走りはじめた。
バス停ひとつ分で息が途切れた。だがそれが往復になった。
少しずつ距離をのばし、それでもタイムは伸びないままだったが、いつしかレー
スに出たいと思うようになった。
レースはいつも、未到の距離を選んだ。
あと一歩で及ばないものが及ぶ瞬間が。その場所に行くと、あるような気がした
から。
走ることは、はために見るほどの苦行ではなかった。
それに、できないことに手を出すことは、ちょっとした快感でもあった。
今日は熊本県三加和町。はじめての10キロレースだった。
国道から山道を抜けたところに広がる、小さな城下町だ。
湧水とみかんと大きめの公民館らしき会場しか目につかない町だが。町民すべて
が外に出て応援するような、手作りの良さが魅力的な大会である。
田舎のレースは時間制限がなくてやりやすい。沿道からの歓声は、やはり魂をゆ
るがしてくる。ときおり杉木立の陰りが汗をひんやりとさせてくれ、ゆるやかな上
り坂も苦になるほどではなかった。
ある時間を過ぎると、嘘のように身体が軽くなってきた。
後続のランナーがリタイアしていたため、ほとんど最終ランナーだったのが。
折り返し地点を過ぎると、何人かのランナーを抜くことができた。
エリートランナーと市民の間の差は大きく。年齢によるハンディも、もちろんあ
る。レースの結果は、あらかじめ決められている部分が多いのかもしれない。
自分との戦いとも思うが、人を追うこともまた、レースの大きな目標である。
そしてタイムは、一時間をオーバーしてしまい、かすかなため息をつくのだが。
それでもまた、次のレースのことを思い巡らせてゆく。
いつまでか、わたしはそれを繰り返すのだろう。
どんなに素晴しいレースも、緻密な映像も、気持ちを入れ込める文章も。
見ているときはいつも、すべてが心を揺さぶり、心を揺さぶられるときはいつも、
生の重さが、軽やかな羽毛のような心地よさに変えられる。
だが、ときに、何ものにも代え難い心地よさの中に、微妙なすき間が生まれる時
がある。
完結した作品でも、自分とのすき間は埋められないのだ。
それはわたしではないのだから。
ぎこちなく、つたない、わたしをどこへ連れて行こうとも、
それはわたしではないのだから。
だから、ふっと向こう側に行ってみたくなる。
向こう側に行っても、そこには、人を揺さぶる完成したわたしは、どこにもいな
いのかもしれないが。
それでも行ってみたくなる。
そういうふうに言葉を紡いだり、走ってみたりすることが。
すき間を埋めて、自分をまとうための、ひとつの方法のような気がしてるから。
こがゆき