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.kogayuki.  「PAST」


 買い物の帰りに、繁華街の脇の路地を抜けて近道をした。

 ときどき違う道を歩くのが好きだ。小さく入りくんだ道だと、だんだんと距離感がわからなくなる。その心許なさがいい。
 昼間の繁華街には、ひからびたアルコールと吐瀉物の匂い。わたしはその中を、飲み屋の看板を読みながら歩いてゆく。
 エトワール、ブラザー、シャノワール、カイエ・・・
 意味を考えるわけでない。ただ、そこにある文字を無意識に読むだけだ。

 歩いているうちに「アルバイト募集」という小さな張り紙を、ドアに見つける。
 この街の夜の経済不況のことは聞いてたから、めずらしいものだと立ち止まり。古くて頑丈で、それでいてなんの変哲もない、その店の木のドアをじっと見つめる。
 すると、この店の中は一体どうなっているんだろう、と、急速に、また別の興味が沸き上がった。
 ためしにドアを押してみる。すると準備中だったらしく、髪をひとつにまとめた大きな目の女がカウンターに立っていた。

 「いらっしゃい」
 「いや、そうじゃなくて、あの・・・」
 「ああ、表の張り紙ね。いいわ、あなたなら、大丈夫よ、お願いするわ」

 女は、まとめた髪の先の方だけが金色で。大柄で、色褪せた小花柄のシャツを着ている。目鼻だちのよさで外人のようにも見えるが、見かけよりも案外年輩のような気もする。

 大丈夫とは?
 こんなに簡単に決めてしまっていいものなのか?
 そもそもわたしに、働く気なんてあるんだろうか?
 などと逡巡していると、女は。
 「明日から。いや、出来るなら、今日からどう?」
 と、大きな目を見開いて、たたみかける。

 とりあえずは、明日から、とだけ答え。
 時間を約束してから、外に出て。
 改めてその店の看板を見上げた。

 看板は横書きで。「PAST」という文字が、なぐり書きのように描かれていた。


写真をクリック! 


 **********


 家に帰ってその成り行きを伝えると、夫の広志も、最初はちょっと驚いた。
 仕事を探したいって言ってたけれど、まさか夜とはね、と苦笑いをする。だが反対はしない。
 7時から12時までの勤務なら、夕飯さえ準備しててくれれば、あとは自分でやれるし。まあ、日曜日くらい一緒にいればいいんだから、と彼は言う。

 優しいことは無関心にも似ている。
 好きなようにしていい、は、自分には関係ないの裏返しでもある。

 だからと言って、そんな夫がイヤなわけではない。
 子供のいない夫婦の3年目は、それくらい、おのおのの生活を押し通したって、波風も立たないってことだ。

 ビールを飲みながら夕飯を食べる時間に、わたしたちはいろんなことを話す。だが、それが済んだら、あとはお互いのパソコンに向かいあい、別々のことをする毎日だ。
 リビングに並んだ2台のパソコン。何の繋がりも持たない、わたしの箱と広志の箱。わたしたちは、お互いの箱に潜り込む。いったん入り込むと、周りの物音さえ気にならない。同じ部屋にいるはずなのに。その時わたしたちは、別の場所にいる。

 広志の箱の中には、広志の恋人がいる。
 チャットをするキーボードの音でなんとなくわかるのだが。彼女が箱の中に住んでいるので、それほどわたしは気にかけない。

 だけど以前に一度だけ、悪いと知りつつ、彼女のメールを盗み見た。
 「ピーチ」というハンドルネームの女性が。メールは証拠が残るからチャットにしましょう、と、書いていた。あなたと話すと楽しい。でも、会いたいとは思わない。そもそも会えるほどの距離ではないのだけれど。それでもあなたの言葉をとても信頼していると。

 だが、「箱の中」はしょせん「箱の中」だ。
 実像を見た途端に違和感に変わるくらいに、それがあやふやなものだということを、何人かの友人から聞いて知ってたし。
 わたしの「箱の中」にだって、気の合う男友だちくらいはいるのだから。

 義務感のように、同じ場所にいようとすると。
 二人で選んだ家具が煙草の煙で黄ばんでいくように、関係が汚れていく気がして。
 明日から、さっそく、と言うと夫は。
 「一度決めたら、何を言ったってやるつもりだろ?」
 と言って笑った。
 

 **********


 「来たわね」
 そう言って、大柄な女は口の端を上げて笑った。
 よくよく見ると、「PAST」は壁もカウンターもしっくりした木でできている。どこもきちんと磨きあげられ。木張りの床は、歩いてみると森の中のような音をカツカツと響かせた。
 おおげさな飾りもない、古びているが、掃除の行き届いた店だった。

 「珠子って言うの、よろしくね」
 女はそう言って握手を求める。陽に焼けていてごつごつした手で、握力の強さに侮れないものを感じる。
 「わたしは、この隣りの店にいるの、いつもは。ここは、女の子に任せてたんだけど、結婚して辞めちゃてね。別にそのまま閉めてもよかったんだけど・・」
 再開発ビルの予定地になっているのだという。とりあえず、カタチだけでも営業しておかなければ休業補償が貰えない。だから、ダメもとで張り紙をしていたのだという。
 「だから。お客が来なければ、早く閉めたっていいし、用事があるなら休んだって構わない。あなたに全部任せるわ。でも、ある程度常連だっているしね、余所であぶれた客が入ってくることもけっこうあるものなのよ」

 「わたしひとりで大丈夫なのかしら? ほんと言うと、お酒もあまり飲めないし。学生時代、友だちのピンチヒッターでスナックで何日かバイトしたことがあるだけで・・・」
 「そんなことは関係ないわ」
 珠子は、ケラケラと笑いながら、そう言った。
 「客はあんたに、酒を飲んで欲しいとか、楽しい話をして欲しいなんて思ってないもの」
 いい? ここは、そんな場所じゃないのよ。
 珠子は、冷蔵庫から、ミネラルウォーターを2杯ついで、そのうちのひとつをわたしに差し出した。
 みんな、自分の中に溜まったものを、どっかに捨てていきたいだけ。日常で積み重なったイヤなコトとか、忘れてしまいたいコトとかを。どっかに置いていってしまいたいだけ。あんたは、その受け皿になればいいのよ。

 わたしはミネラルウォーターをひとくち飲んだ。
 水がカラダに行き渡り。珠子の言うこともまた、その水のように染みこんでいった。

 「名前は何がいい?」
 そう聞かれて、「アヤ」と答える。本名であるが。この名前以外には思いつかない。
 「本名か。嘘がなくていいかもしれないね」
 そう言って今度は、珠子が一気にミネラルウォーターを飲み干した。
 

 **********


 わからないことがあったら、電話して、でも、てきとーでいいわよ、と言い残して。珠子は隣接する自分の店に戻っていった。

 ビアグラスやお皿の場所を確認してから、カウンターの丸椅子に座り、ぐるりと店内を見回してみる。
 木の壁は、まだ木として息づいているようだ。その匂い嗅ぐと、雨の降る森の木陰にひとりでいるような気持ちになった。
 古いビル・エヴァンスのレコードを見つけて、かけてみようかと思うが、とりあえずは客が来るまでは無音でいようと思う。
 ここもまた箱の中だ。
 無音の店内にいると、時間の感覚が少しずつズレていく。

 8時すぎまで、ひとりでぽつんと座っていて。ここはやはり流行らない店なのだと思っていた矢先に、男性のグループが小走りに入ってきた。
 いきなり雨が降ってきたのだと言う。
 とりあえずドアを開けてみたけれど、10人グループである、入れるだろうか、と、一人目の男が尋ね。
 大丈夫ですよ(たぶん)、と答えると、スーツ姿の男がぞろぞろと入ってきた。
 乾いたタオルを差し出すと、一様にスーツの肩のあたりを拭い、カウンターに一列に並んだ。
 それで、このカウンターはちょうど10席なのに気づいた。

 グレイの地味なスーツから見ると事務職なのだろう。頭の薄い課長が注文をまとめ、瓶ビールが行き渡る。
 乾杯をするグループを眺めていると、その中の痩せて背の高い男の風貌に見覚えがあり。
 しばらく眺めているウチに彼が、大学時代につきあっていた「初めての男」史郎だったことに気づいた。

 にぎやかにビールを酌み交わす男たちは、固有名詞を飛び交わせ、いない人間のことを冗談まじりに笑い、最初からテンションが高い。
 当の史郎は、大学時代の汚いジーンズ姿とはほど遠い、ぱりっとしたスーツ姿で、その中で声をあげて笑っている。
 それは、当時彼がやっていた演劇のひと幕のようにも思えた。劇の中で自分の役割を演じる。それは、演劇部の部長をしていた史郎にとっては、苦痛でも何でもないのかもしれない。

 ビールの注文だけが続き、わたしは冷蔵庫と栓抜きと新しい灰皿のあいだを行き来する。
 そのうちに、明日も仕事だから、と、課長が勘定を言いつけ、それを史郎がまとめて手渡した。

 「ありがとうございました」
 そう言って史郎の目を見つめると、彼はしばらく考えるふうにわたしを見つめ返す。
 「アヤ、ちゃん?」
 「おひさしぶりです」
 そう言うと、史郎は目を丸くした。

 何の曇りもなく再会に驚き、彼はわたしの近況を尋ねる。
 結婚しているというと素直に喜び、自分の子供の年まで教えてくれた。
 まわりの仲間がはやし立てると、ちょっと自慢気に照れ笑いをする。その笑顔は、まるで生まれつき持っていたもののように自然に、彼の内側から臆面もなく滲みでていた。

 それで、わたしは理解した。
 彼は、演技をしていたのではない。
 彼は、こういう場所で生きていける人間になったのだ。
 

 **********


 次の日には、わたしの2番目の男がやってきた。
 史郎と別れてしばらくして知り合った、5才年上の男だ。
 仕事帰りに寄るコーヒーショップで知り合い、いつしか夕食を共にするようになった男で。品のいいレストランやホテルを予約する手際の良さが、とても大人っぽく見えた。彼は当時めずらしかったケイタイ電話を持ち、ロレックスの時計をとても大事にしていた。
 今、その頃の男の年になり、そんな持ち物が、大人の証明のように見えていた自分がおかしくなってしまう。
 はじめての男と同様、彼も年を取り、わたしはその男の何に魅力を感じていたのか、今となっては思い出せなくなっている。
 そもそも名前すらも思い出せないのだ。
  
 その頃、若さ特有の無敵さで避妊を怠ったわたしは、中絶手術を受ける羽目になってしまった。
お詫びにに高価な時計を買ってくれ、わたしは当然のようにそれを受け取ったが、ほどなくして別れた。
 時計では埋められないものが、わたしの中に残ったのかもしれない。

 今、男は、わたしにも気づかず、隣の男を相変わらず仕事と不景気の話をしている。自慢のロレックスも、もうその腕にはない。男はケイタイ電話で時間を見ている。古い型落ちのケイタイ電話だ。

 そうだ。貰ったあの時計はどうしたんだろう。
 妹が、いい時計ね、って言ったもんだから、その場ではずして妹にあげたんだった。
 

 **********


 「PAST」にいると、昔、画集で見た「サルバドール・ダリ」の絵が頭に浮かんだ。 
 どこか平坦になったり歪んだりする空間が、自分のカラダのカタチをあやふやにする感触。
 
「思ったとおりだわ、だんだん売り上げが増えてる」
 珠子がそう言ったけれど、わたしには実感がわかない。
 お客が増えてきているという感じでもない。ただ、いつもどおりにこの場所にいるべき人たちが、ただいるだけだ。
 わたしは、ビールを開けたりバーボンをついだりする。それすらも忘れてしまい、客に催促されたりもする。ときどきリクエストされて、有線のスィッチを入れることもあった。そのチャンネルは、珠子が設定した古いジャズの番組のままだが。つけ忘れて無音のままでも誰も何も言わない日には、いつまでもしんとしたままだった。
 
 まるで歴史を追うように順番に、昔つきあった男たちが、この店にやってきた。
 それは、酔って関係を結んだ一夜だけの男だったり、何度かつきあって自然消滅した男だったりした。
 
 だけども、どんなふうにして別れたかも今となっては思い出せない。
 ほとんどの男がわたしに気づかない。わたしも同じようなもんだ。
 どこかで見たような・・・と思ったりもするが、大体勘定を済ませて、外に出たあとに気づくくらいだ。
 追いかけて、声をかけたくなることすらなかった。
 
 わたしの過去には、無謀な恥ずかしさや、赤面するほどの思いこみも含まれていて。その糸をほどいてゆく糸口をたぐり寄せる気にもなれない。
 おそらく、すべてはもう「過去」になってしまったのだ。
 

 **********


 「ねえ。触ってもいい?」
 そう言って珠子はときどき、エプロンの上からわたしのあばら骨に触れてみた。

 「ああ、ここよ、アヤのここにすごく大きな空洞があるの」
 左のあばら骨の一番下のあたりに、珠子の指が触れる。触られると、ちょっとキュンとなるような甘い感触が残る。それを知ってか知らずか、珠子の指はゆっくりとそのあたりを行き来するのだ。

 「何の感情もないのね、ここには。あなた自身が感情のない人には思えないんだけど。少なくともここだけはがらんとした空洞だわ。ねえ、どんなふうにして、こんな場所を自分の中に作ってゆけたの?」
 わからない、と、わたしは答える。
 でも、触られると、服の上からでも何だかわからない、せつないような痛みを感じる、と、わたしは言った。
 ゆったりと動く珠子の指が、あばら骨をひとつ、静かにはずしてゆくような感触はあったものの、痛みは伴わない。わたしの中が、甘やかな心地よさによって、こじ開けられてゆく。

 「ここが、あなたの一番の魅力よ。前にも言ったでしょ。こんな何もない場所に、人はいろんなものを置いてゆきたくなるのよ」
 「でも、誰もそんなことは話さないわ。わたしは、話すのもヘタだけど、聞くのもヘタだし・・・」
 「言葉でそれを表せる人ばかりじゃないわ。とくに男はそう。弱いとことか、見せるのがヘタなのよ。だから何も言えないの。女だと、失恋したって友だちと慰め合ってそれで終わるけれど。男同士って、そんなこともあまりしないから。言葉にすることもないくせに、いつまでも、ウジウジ心の中に残しておくの。きっと、みんな色んなものをあなたの中に置いていってるはずよ」
 
 でも、それも気づかないくらい、ここは空洞になってるのね。
 そう言って珠子は、わたしの肋骨に頬を寄せた。
 頬ずりしながら、わたしを置いていった男はね・・・と、言葉少なに彼女は喋りだした。

 お店をやっていた珠子を部屋で待つのに飽きると、男はこの店のカウンターで時間を潰すようになった。仕事は、よくはわからないが、多分していなかったんだと思う。映画を見ながら、物語の構成や整合性を批判するのが好きな男で。その考え方がすごく自分に似てると思い、一緒に暮らしはじめた。だが自分のカラダを動かすこともなく批判ばかりする男は、どこか嘘くさいように思えてきて、すると相づちを打つのも億劫になってきた。
 そのうち、他のお客とのやりとりに機嫌を損ねて、ぷいっと出ていってしまい。忘れたように戻ってきては古い映画の話を延々と喋り。別の客の話題に相づちを打つと、またぷいっとどこかに消えてしまう。
 それを繰り返しているうちに、本当に戻ってこなくなってしまい。もう2年がたつという。

 どうしてあんなに口論ばかりしていたのに、恋しくなってしまうのかしら、もう、ダメだと思っていたのに、いつも自分からそう言えなくて、男が出ていくと、ほっとしたりもしたのに・・・
 ねえ・・・わたしは・・・まだ、あの人のことを好きなのかしら?

 残像、という言葉がふいに浮かんだ。
 肋骨に頬を寄せた珠子がそれに反応して、残像、と繰り返した。

 残像だけでも、愛してるってことかな? クダラナイよね。
 そんなもん、捨てていかせてよ。

 そう言って珠子は、わたしの空洞の中に「残像」と言う言葉を放り投げた。
 言葉となった残像は、わたしの中で、痩せて頬のこけた神経質そうな男の影となり、それは幽霊のようにゆらゆら揺れた。

 「珠子さん、ここはあなたが思ってるような空洞じゃないよ。その証拠にほら、男の影が揺れてるよ」
 と、叫びそうになったが。

 男の影は、電源が切れたみたいにして、そのままぷつっと途切れて消えた。
 

 **********


 家に帰ると、広志はパソコンに向かってチャットをしていた。
 
 あ、じゃ、またねー
 と言う、チャットのピンク文字(太字)が目に入り、そのまま夫は画面をクローズする。
 きっとわたしが戻ってきたことを、ピーチさんに素早く報告したんだろう。
 
 「仕事、うまくやってる?」
 と、広志が顔を上げて尋ねた。
 「まあまあかなあ。うまくはやってないかもしれないけど、お客はちゃんといるよ、広志も来てみる?」
 広志は、画面を向いたまま、マルボーロのメンソールに火をつけ、いや、遠慮しとくよ、と言った。
 「アヤとは言え、人にお酌してもらうのはイヤなんだ。ひとりで注ぐ方が好きだって、前も言ったろ」

 そうだ。広志のこんなところが好きだったんだ、人をあてにしない距離感。
 ピーチさんも、そんなところが気に入ってるのかもしれない。妙な共感を彼女には感じてしまう。

 そもそも出会い系で相手を捜すなら、近距離の人間を選ぶはずだ。1000キロ以上も離れた土地の人間を捜すなんて、ほんとに話し相手だけを求めていたにちがいない。
 ちゃんとした家庭の奥さん、子供はふたり、転勤族できちんとやってるものの、心を割って話せる友だちがいない。頭はよさそうだが、それが災いして、言葉が通じるという感触に少々懐疑的。盗み見たメールの内容から見た彼女の印象は、そんな感じだ。
 そんな彼女だからこそ、一度信頼した相手に、大きく寄りかかるだろうということも容易に想像できた。
 そういうところは、広志にもあるから。
 たぶん、二人は信頼しあっているのだろう。

 でも、もし二人がセックスでもしたら、わたしはどう思うのだろうか。
 そう思って、広志がピーチさんと抱き合うところを何度も想像してみたが、どうも実感が沸かない。
 やはり、実際にそうならないとわからない、ということなのか。

 冷蔵庫に冷えた恵比寿ビールを見つけて、広志に手渡す。
 「お、気が利くねー」
 そう言って広志が、ビールの上から、わたしの手をぎゅっと握る。大きくて滑らかな指の感触のあたたかさに、じんわりときてしまう。
 狂おしいほどの愛してるに、泣きそうになることもなく。
 3年も一緒に居続けた。

 そんなふうに穏やかに一緒に居るために、何かを捨ててきたような気もするが。
 捨ててきたものが何なのか、わたしはまだ思い出せない。
 

 **********


 カウンターで客を待っていると、最近はよく、天神ビルの前に立つ占い師のことを思い出すようになった。
 いつも長い行列ができていた、有名な占い師だ。

その日、わたしは男と地下鉄の駅で別れ、その足で手相を見てもらった。
 男は、遠方に決まった仕事先に、翌日旅立つことになっていた。

 わたしたちは、とても疲れきっていた。
 それは、わたしがいつも、無茶苦茶なことばかり要求してたからだ。
 たとえば、平日の10時すぎ。残業が終わったわたしはほとほとに疲れて家に帰る。疲れていると、男の声が聞きたくなる。そして電話で話しているとむしょうに会いたくなり、これから会いにきてと要求するのだ。
 わたしが会いたくなるのはいつも、自分に余裕のないときばかりだった。
 なのに、男は草を食べている最中の羊のように、ゆったりと言う。
 こんな時間からは無理だよ、明日も仕事があるし、と。
 そうして、もっとゆっくりした日に会おうという男に傷つき、反撃するかのようにまたも無茶な要求をしてしまうのが、その頃の常だった。

 最後のその日も、そうだった。
 「帰りたくない。部屋に泊めて」と言ったのに、荷物がいっぱいで泊められるようなスペースはないから、と、男は言った。
 困る、とも、そんなつもりはない、とも言わずに。ただ、そんなスペースはないのだ、と男は言った。
 それは、サイアクなわたしへの決別のようにも聞こえた。
 わたしは、怒りにまかせて男のボストンバッグを蹴り上げ、そのまま踵を返し去る。
 ウォークマンか何かが入っていたのだろう。足先に、固い電子機器の感触が残る。そしてつま先が、とても痛んだ。
 あの電子機器は、壊れたりはしなかったのだろうか。

 「ああ、ダメだね、その男は。あきらめなさい」と、占い師は言った。
 「そもそもあんたはね、男とつきあって壊れるタイプ。いや、壊れていって、それで別れるって言った方がいいかな。そういう意味では、あんまり男運には恵まれないね」
 そんな星の下にいるあんたが、幸せになるにはどうしたらいいと思う?
 占い師がそう言って笑った。
 わたしは、わからない、と答えた。
 「一生離れない男を捜しなさい、結婚すればいいんだよ。そんな単純なもんじゃないと思うかもしれないけど。案外それでうまく行くもんだよ。おまけに今年は、そのチャンスもある」
 
 そんな話は信じていなかったが。
 その年のウチに広志と結婚した。
 一刻も早く一緒にいたかったわけでもないのだが。たまたま広志の両親が移転することになり、マンションを譲ってくれた。それでとんとん拍子で一緒に住むようになったのだ。
 

 **********


 PASTの暇な時間に、いろんな男との別れの際を思い出すようになった、

 あの男とはどういうふうに・・・と、まるで古いファイルを整理するかのように、ひとつひとつを思い出す。
 振り返ってみれば、ずっと似たようなことばかりをやってきた。
 わたしはどの男に対しても、まるでサンドバッグを叩き続けるように、過剰すぎるものを求め続ける。もうダメだとわかるまで、自分のプライドさえボロボロになってしまうまで、わたしは中毒のようにそれを続けていた。

 あるとき、お客のひとりがこう言った。
 ここに来ると、ときどき昔の女のことを思い出すと。
 「構ってくれないって、いつも寂しそうだったんだよね。忙しくって会えなくなったって言うと、泣いたりもした。でも、その頃は自分も若くて余裕がなくて、本当に忙しかったから。それが面倒だったりもして・・・でも、今ならもう少し優しい言葉をかけてあげられたのかもしれない」
 まるで自分のことみたいだ、と心の中で笑い、わたしは返答する。
 「でも、もっと優しい言葉をかけられたとしても、彼女はそれ以上のものを求めてしまっていたと思いますよ。優しさを求める気持ちって、どこまでもエスカレートしてしまうものだから。多分、今まで続いていたとしても、その気持ちは埋められないと思うわ」

 「アヤちゃんもそうなんだ?」
 そう問われ、何と言っていいものかわからず、またも笑ってごまかす。
 
 もう、いい。
 わたしは、すべての男を過去というファイルにしまい込んだのだ。
 過去の男が順番にこの店にやってきて。それで、わたしにはそれがはっきりとわかった。
 一度しまい込まれた男に、ふたたび愛情を感じることなんてない。
 転がり続けてゆく坂道も、終わってしまえば、もう、これ以上落下することもないのだ。
 あの頃、そんな愛し方しかできなくってすまなかったという気持ちはあっても。
 過去というファイルに行ってしまった以上、それはもう、書き換え不能のものになってしまっているのだ。
 

 **********


 そうして、数日してから。
 一番新しい過去の男が「PAST」にやってきた。

 ボストンバッグを蹴り上げて、別れた男。
 天神ビルの占い師が、もうダメだと言った男だ。

 考えてみれば、容易にわかることだ。
 過去から順を追って、男たちはわたしの元へやってきたのだから、その男がやってきても、まったく不思議ではない。
 ただ、その男は遠い街に行ったので、彼だけはやって来ないのだと、どこかでタカをくくっていたのかもしれない。
 
 どしゃぶりの雨の日に、男はたたんだ傘の滴を落としてから、カウンターに座る。
 少し癖にある髪が伸びかけている。メガネについていた水滴をハンカチで拭き取り。ビール、ありますか、と言ってわたしを見る。
 大柄なカラダのチェックのシャツの肩の部分が、雨に濡れていた。
 それを拭いてもらおうと、暖かいおしぼりを差し出した瞬間。
 男はわたしに気づき、その目を丸くした。
 
 「アヤ」
 直人の声が、驚きまじりにわたしの名を呼ぶ。
 その昔、名前を呼ばれるあいだ中、カラダの力が抜けて、宙を彷徨うように心地よかったことを思い出し。
 わたしをなだめる度に、アヤ、と静かに名前を呼ばれるのが好きで。
 その声が聞きたいがために、なおさら彼を責めていたことを思い出した。

 「こんなところで会うなんて、意外だな。結婚したとこまでは聞いたけど」
 「まだ、結婚したままよ。バイトしてるの」
 「ダンナは元気なの?」

 少し老けただろうか、だけどブラックウォッチのチェックのシャツは昔のままである。
 おだやかな話し方も。
 その声を聞くと、チカラが抜けてゆくのも。

 「大阪に行ったんじゃなかったの。里帰り?」
 「いや、仕事は辞めた。今は独立して自宅でやってる」
 コンピューターのソフトを作っている会社だという。 

 直人の好んでいたクアーズをビアグラスに注ぐと、またひとり客が来た。ひどいどしゃぶりを嘆きながら、またおしぼりでカラダを拭い、直人の席からひとつ離れて座った。
 それから、団体の客が入り、フライドポテトを揚げたりして、喋る間もなくなる。

 直人は、自分でクアーズを何度も注ぎ、ときにおかわりし。
 彼がとてつもなく酒に強かったことを思い出した。

それでも、団体客に忙しく、わたしはゆっくりと話す暇もない。
そのうちに直人は、またゆっくり来るよ、と言って、勘定を済ませた。

 そうなのだ。
 直人とわたしは、いつもタイミングが合わない。

 しょせん、相性の悪い男なのだ。
 

 **********


 数日して直人は、遅い時間にまたやってきた。
 仕事のつきあいで、このあたりで飲んだ帰りなのだと言う。
すべての客が引けてしまうまで、直人はそこに座り、わたしは洗い物をして、カウンターを拭きあげた。

 「幸せ?」
 直人がそう尋ねる。
 「幸せよ、何の問題もないわ、子供はいないけど、ケンカもしないし、静かないい家庭よ」
 直人もまた結婚しており、2才の子がいるのだという。
 「戻ってきたときに連絡しようと思ったけど、アドレス帳をなくしてしまった。でも、狭い町だから、会うような予感はしてた」
 「年を取ると、昔が懐かしくなるもんだし・・・」
 と言って、わたしが笑う。
 
 ほんとうは違う。過去が懐かしくなるのは、多分「PAST」という空間のせいだ。ここでわたしは、過去というファイルをしまい続けている。
 書き換えたい過去もあるのだが、けっしてそれはできない。
 直人という過去を、わたしはどのようにファイルしたのだろうか?

 それからわたしたちは、どちらからともなく狭い椅子から立ち上がり、木の香のする壁にもたれかかって、静かに抱き合った。
 直人の手を、わたしの中に導き、片足を上げたまま、直人を中に引き寄せる。そこはすでに、柔らかに何ものをも飲み込める宇宙に変わっていて、直人をどこまでも吸い込んでゆく。
 激しく揺さぶられるたびに、木の壁にわたしは震動を預ける。
 壁から、過去の匂いが、花火の煙のように充満していった。
 

 **********


 直人は、頻繁に来ることはなかったが。
 それでも、思い出したように現れ、やって来ると必ず閉店を待って、わたしたちはそこで抱き合った。

 連絡先を聞いてないので、わたしから連絡を入れることはない。
 ただ、ここで待つだけだ。
 そういう足枷が、今のところ、うまく作用しているように思える。
 空から雨が降ってくるみたいに、直人がやってくるだけだ。
 わたしは雨を待ちはしない。
 そうして、雨に、何かを要求したりはしない。
 
 かわりにわたしは、何度も何度も直人の行為を、頭の中で反芻する。耳朶に這う舌の心地よさとか、だんだんと感触が高まってゆくときのカラダの感触とか。床に倒れ込み、木の床がひんやりと熱を帯びてくる感触とか。
 ちょっとぼんやりしていると、隙間から暖かい風が吹いてくるみたいな感覚に、わたしは幾度となくとまどう。だが、シャットアウトしようという気もない。
 それは、時間を忘れるほど長いこと何度も繰り返し、わたしの頭を占有するのだ。
 それではいけないと、むやみやたらと客に話しかけてみたり、嬌声をあげたりして。それをあとで後悔してしまったり。
 
 わたしは既に気づいている。
 直人は過去ではない。
 わたしは彼を過去というファイルにしまいきれてなかったのだ。
 

 **********


 「最近、あんたの空洞が、小さくなっている」
 閉店後、珠子が、わたしの胸に手を当てて、そう言った。
 「お客が減っているわけじゃない、むしろ売り上げは増えている。でも、空洞が小さいの。なぜ? 客の誰かに惚れたわけ?」
 珠子の鋭い指摘は、軋むように胸に突き刺さった。

 「誰かを好きになると、空洞はなくなるの?」
 「それは、あんたじゃないからわからないわ。もともと、あんたの考えてることなんて、わたし、何もわからないもの。もっとも、それがおもしろくって雇ったんだけどね」
 「お客に惚れたりなんかしないわ。でも、やるからにはもう少し、来る人たちのことを覚えてみようと思ってるの。常連さんの名前とか、ビールの銘柄とか。そんなんだけど。いつも、あんまり覚えたりする方じゃないから、頭の中が忙しいのかもしれない」
 とっさに嘘をついた。
 そうだといいんだけど、と珠子は言って、それからいつものようにエプロンの上から、わたしのあばら骨に頬をくっつけた。

 「ねえ」
 珠子は、この姿勢がいちばん落ち着くという。わたしの胸の柔らかさを指で確かめたり、脇から背中に指を回したりしながら、彼女はまどろんでゆく。
 それは多分、性行為とか愛情とかではなくて。一種の回帰のようなモノなのだと思う。
 自分にわからない、自分の状態の流れ。
 それを、珠子はわたしによって確かめる。わたしは空洞を開け放つ。珠子のための空洞は、ちゃんとわたしの中に残っている。
 「別れた男は、いつまで、自分のものなのかしら」
 珠子が別れた男のことを言うときに、必ず男はわたしの胸の中にぼんやりと像を造った。痩せて神経質そうな顔、そして、少しさみしそうに珠子を思う状態。
 彼は、今も、もう一度ここに戻ってきたいのかもしれない。
 「たぶん、永遠に」
 わたしはそう答える。
 「珠子さんが忘れられないかぎり永遠に。記憶に残っているかぎり、あなたのものよ」

 嘘・・・
 珠子は、そう言ってわたしを突き放した。
 「帰って来やしない人なのよ。そんな慰めを言わないで。あんた、やっぱり好きな男ができたのね。あんたのココロは、その男に占められていて。それでわたしを慰めようとする」

 そうかもしれない。
 でも、それは珠子には関係ないことだ。

 その勢いに押されて、珠子があばら骨に頬を寄せると必ず現れる、その男のことについては、今日も何も言えなかった。
 

 **********


 「PAST」はそんなに遅くまで営業しないから、帰る時間には夜更かしの広志は概ね起きている。パソコンにいつも向かっている、丹精な横顔が、おかえり、と言う。
 その言葉を聞いて、戻ってきたよ、と言う。

 わたしがお風呂から上がり、ドライヤーで髪を乾かすと、広志はパソコンを消す。広志も箱の中から戻ってくる。
 大きなダブルベッドは、そういう意味では、わたしたちの巣箱だ。
 後ろから手をまわしてみたり、離れたまま寝てみたりするのだけれど。ただただシンプルに、この場所は巣箱だ。
 広志の寝息は、静かに鳴り響くオルゴールみたいだ。眠れない夜でさえも、その寝息はとても心地よく響く。
 広志という人間がこの地球上に生きている。今、この闇の中で、すべて消滅してしまったとしても。少なくとも、わたしはこの世にひとり残されたわけではない、広志の寝息を聞くと、わたしはそんなことを思って安堵した。

 休みの前日には、静かに抱きあったりもした。そのときには、直人の残像は現れない。ピーチさんの残像も現れない。
 ここは、どんな場所からも遮断されているのだ。
 
 なのに、そこを外れた場所では。
 風向きが変わり、草が伸びゆき、そうして枯れてゆくように、いろんなものが変わってゆく。
 そんな場所を当然のように歩きわたりながら。
 それが喜びなのか、それとも不安や不穏が渦巻いている世界がイヤなのか、わたしにはわからなくなってゆく。
 巣箱の中にいるときのわたしにとっては。
 あとの世界は、ただ。ただ。流れているだけのもののようにしか思えないのだから。
 

 **********


 最初、メールは証拠が残るのでチャットの方がよい、と言っていたピーチさんだが。昼間、家族がいない間にメールを送ることも多くなってきたようだ。
 そうして、わたしもまた、広志のいない昼間にそれをチェックしては「未開封」の状態に戻すのが習慣になってしまっていた。

 内容は概ね、彼女の悩み相談のようなものだった。
 ピーチさんは、この4月に夫の転勤でこの土地に越してきたばかりだった。幼稚園と小学校の子供は、転校先ですぐに仲の良い友だちを作った。夫は新しい仕事に忙殺され深夜まで帰ってこない。自分も早く慣れなければと、彼女は小学校のバザー委員に加わった。ところが、地元の人間の多い土地で、転勤族はめずらしい目で見られる。会社が社宅代わりに用意したマンションは、近所でも価格帯の高いもので、あからさまに収入について尋ねられたりもしたという。
 スーパーで野菜を買ってたら、「そんなのウチの庭にあるから取りにおいでよ」と言われたけど。お返しのことなんか考えたら億劫で、スーパーに行くのさえ、苦痛になってしまった。
 それで最近は、あまり家から出ないのだと言う。

 返信メッセージを表示してみる。広志はそれにたいして、広志らしくていねいに励ましていた。
 だが、熱心に励ませば励ますほど、彼女は、でもできない、を繰り返すのだった。
 いっそ、ふらっと、ひとりで会いに行きたい。でも、子供が小さいのでそれもできない。もっとも、そんなことされちゃ、迷惑でしょうね。

 迷惑なんかじゃないよ、僕もピーチさんに会いたい、チャットでじゃなくて、本当に抱いてみたい。こんなに会いたいのに会えないのは、僕も同じだけど。でも、チャットしてるだけで楽しいって、思うようにしている。
 会ってしまったら、どんな気持ちになるか、こわいからかもしれない。

 チャットの内容については、メールには書かないでくださいね。
 あんなことばかり話してる自分がすごく恥ずかしいから。ほんとに。あんないやらしい事が言える自分に、びっくりしてます。告白すると、フェラなんて、夫にもしたことありません。言葉を知ってただけなのに、バーチャルな場所でそれをやってしまう自分にびっくり。
 このメールはすぐに削除してください。
 わたしも、ヒロさんのメール、読んだらすぐに削除しています。ほんとは何度も何度も繰り返し読んでいたいのだけれど。証拠が残ったマズいから。一生懸命読んで、頭に焼き付けてから、削除してます。

 そのメールのやりとりを読みながら、ふうぅっと煙草の煙を吐いた。
 人の好い広志は、あぶなっかしい人間にめっぽう弱い。彼は、そういう人間に無意識に惹かれる磁力を持っているのだ。だからわたしと、うまくいってるのかもしれないが。
 ピーチさんのことは嫌いではないと思った。計算高いところがなくて、好感のもてる人だと思う。

 だけど、メールに書かれていた「フェラ」というピーチさんの言葉を読んだときには、何だかわからない、気後れしたような気持ちになってしまった。
 ピーチさんが恥ずかしそうにいやらしい言葉を口にするとき、その恥ずかし気な様子が誇らしいモノのようにも思えて、気後れしてしまうのだ。
 広志の熱心な励ましを読んでいるときも、劣等感のような気分に苛まれることがあった。わたしには、こういうふうに励まされる資格がない、というような劣等感だ。
 
 直人の奥さんが、子供を胸に抱いて微笑んでいる姿を想像してみる。
 すると、やはり、気後れした気分になった。
 嫉妬というものは、劣等感と似たような感情なのかもしれない。
 これをもう少し攻撃的な感情に変えてみたら、わたしは、嫉妬することもできるのかもしれない。
 だけども、そういう感情を持つことは、自分に有益であるようには到底思えなかった。
 だったら。このままでいよう。
 越えてはいけないラインはどこにでもある。

 ダブルベッドの巣箱を守るために。
 

 **********


 梅雨が明けた頃から、またお客が増えた。

 直人の訪れる回数は、月に一度くらいだ。
 何度もその逢瀬を反芻するのは止められなかったが、お客が多いときは、考えなければいけない手順が多すぎて、頭の中はそれだけでいっぱいになった。
 そういう意味ではわたしは、お客がいっぱいの店で忙しく立ち回る時間が嫌いではなかった。
 
 そうしてPASTは、そんな、ちょっとしたわたしのココロの動きで、お客の入りが変わってくる。折れ線グラフにでもしたら楽しいだろう。エクセルに入力したら、案外おもしろいグラフができるかもしれない。

 もっとも珠子はそんなことしない。売り上げだけで、結果を見て喜んでくれる。
彼女はこのところ近所にある自分の店が早仕舞いする日は、レジを締めに、この店にやってくるのようになっていた。
その方が、売上の計算がしやすい、というのもあったが。何よりも二人でちょっとした会話をするのが楽しかったのである。
お互いの店で起こったちょっとした笑い話や、今日のお客の愚痴などを喋りながら、わたしたちはふたりで売上の計算をする。珠子はお金をよく数え間違うので、二人でやった方が効率がいい。それに、こうして誰かと一緒にやると、学生時代に戻ったみたい、と珠子が喜んだのである。

そのころはこちらも、人が少なくなってるし。誰かいても、そろそろ閉店なので、と珠子がクールに言ってくれる。
 だいたいそのパターンを知り尽くした常連たちが多いので、あ、珠子さんの時間だね、と言って、きり良く帰り支度をしてくれるので、ありがたい。

 問題は。お客が引けたのに、珠子が来ない時間だった。
 わたしの店の客が引かずにお店を閉められない日は、勝手に帰っていいわよ、と珠子は言うのだが。わたしも、どこかで珠子を待っていたいと思っていた。

 客が引けたあとの店にひとりでいると、むしょうに直人に抱かれたくなった。
 木の香のする壁から、むせかえるようなオーラがたちこめてくる。
 そのオーラに、くらくらきて、わたしはふらふらと、その壁に寄りかかる。壁の中から直人の残像が現れる。わたしは、夢中になってその壁にしがみつく。思い出し、自分を濡らし、壁にもたれかかる。
 いま、ここに直人がいてくればいいのに、と思いながら。
 わたしは何度も行為を、頭の中で反芻した。

 「なにしてるの、そんなところで」
 珠子がそう言ってドアを開けた。
いたずらを見つけられた子供みたいに、急速に身体の熱がしぼんでいった。

 「酔ったみたいで・・・ここの壁、ひんやりしてて気持ちよかったの」
 そう言うと、珠子はふふふと笑った。

 わかるわ。その感じ。
「たぶん、この壁のせいよ。この壁には、いろんな過去が吸い込まれているのよ、きっと。昔、男がワックスを塗ってくれたの。少し傷んできたから修理しようって。いろいろワックスを探して、オレンジのオイルのやつを買ってきてくれた。たいした仕事もしていなかったから、彼が昼間の間に梯子を立てて塗りこめてくれたわ。わたしは、彼が作業しているのを見てるだけで、なんだかすごい、いい気分になって。傍でビールを飲みながら、それを見てたの」

 あ、なんだかビールが飲みたくなっちゃったわ、アヤもつきあって、と、珠子が言うので、わたしはふたり分のバドの缶を冷蔵庫からとり出した。

 「忘れてしまいたい過去はあるか? と、彼が聞いたの。いっぱいあるって答えた。だってそうでしょ。好きな男がそんなふうに傍にいるときって、どんなに過去でも、すごくくだらない思い出でしかないんだもの。わたし、子供の頃から、両親が再婚したりして、けっこう苦労してたし。実際、本当に思い出したくないくだらないことばかりだった。似たようなもんだな、おれも思い出したくないものばかりだ。だから、みんな、この壁に塗り込んでしまおう、って言って、彼は熱心にワックスを塗ってくれた。そのときは本当に。もう、過去なんかなくなってしまって、これで幸せになれるような気がした。オレンジのほのかな香りが壁から溢れてくるのを感じながら、この壁さえば、もう大丈夫って、わたし、思ったくらいだもの」

 ビールをひとくち飲んだ。バドはなんだかいつもの倍くらいに苦いような気がした。

 「きっと、塗り方がよくなかったのね。なんでも完璧にできそうで、いつもポカしちゃうような人だったから。今でも、ワックスのあのオレンジの匂いのすきまから、過去がどんどん溢れてくるような気になってくるの。すごく嫌だった子供の頃のこととか、その男のこととか」 
 珠子の話を聞くまでもなくよくわかる。この壁は、ずっとわたしを、そんな気分にさせていたのだ。

 「ねえ、その人は、痩せてる? 彫りが深くて、大きな目が窪んでいるように見える? すこし神経質そうな感じの人?」
 わたしがそう尋ねてみると、珠子は大きく目を開いて、口に手を当てた。
 バドの缶が床に落ちて、泡を立てながら流れていった。
 「会ったの? あの人がやってきたの?」
 珠子は、いつもらしくない大きな声で、そう叫んだ。

 「違うよ、珠子さん。その人はここにいるんだよ」
 そう言って、珠子の頬を、わたしの胸に押しつけた。
 すると、当たり前のようにくっきりと、頬のこけた男が現れた。
 「珠子さんが胸を寄せると、その人が現れるのよ。帰ってきたいのかもしれない、さみしそうな顔をしてる」
 「アヤには見えるの? わたしには見えないのに」
 「いつも。はっきりと」
 そう言うと、珠子は、ひどい、と言った。
 わたしの前には現れないのに、アヤの中にいるなんて・・・ひどい話だ、と珠子は言う。
 でも、それはたぶん、自分の姿を自分で見ることができないようなもんじゃないかと、わたしは思う。
 でも、それでもひどい、と、珠子はつぶやいた。

 「帰ってきたいとかじゃないと思う。それはきっと残像よ。あなたが以前言ったように。わたしの中の、過去にずっとその男の影が映しだされているの。その男だけが映しだされている。忘れたくない、とかじゃない。ただ、囚われているの。アヤの空洞にそれを置いてゆきたいって思っているのに。きっとわたしは、置いてゆけないのね」

 「さあ、じゃ、自分はどうなの? 見てご覧なさい」
 そう言って珠子は、わたしの顔を、自分のあばら骨に寄せた。珠子のふくよかな胸の下のあたり。薄いブラウスごしの、贅肉のない固いあばら骨に、わたしの頬が吸い込まれていった。
 わたしと直人が抱き合っていた。
 珠子の胸の中で、わたしたちは転げまわるようにして、反復を繰り返し。わたしの喉のあたりから、声にならない吐息が漏れていた。

 「どう? わたしにはアヤほどの空洞がないし。それを見る能力もない。でも、あなたには見えるはずよ。過去の、ごく最近の過去の。あなたを捉えているものが。隠しているつもりでも、わたしにもそれくらいはわかるわ」

 気がつくと、わたしの涙が、珠子の白いシャツを濡らしていた。
 わたしの中にあるものなのに、それはわたしの手には届かない
 その、けっして解決されることのない欲望に・・・わたしは泣いていた
 珠子は、ブラウスが濡れてゆくのも厭わず、そんなわたしの髪を撫でたが。それでも彼女は、何ひとつわたしに尋ねたりはしなかった。
 
 過去はどうしてこう、何度もストップモーションで再生されるのだろう。
 そうしてわたしは。もう、そういうことから降りたはずなのに。
 未来まで続く坂道を、いつまで転がっていかなければならないのだろうか。

 何度こんな過ちを繰り返し、何度、こんな自分を嫌いになったことだろう。
 そうして、求めるだけならまだしも、代償として、直人にも同様に、わたしを求めて欲しいと思ってしまうのだ。
 自分が繰り返し望む、行き場のないものを。直人にも感じてほしくなってしまう。
 同じ病、同じ微熱を。加速度的に要求することは、どんな結果を招くかわかっているつもりなのに。それが止められない。
 その結果がわかっているのなら、ここで直人を。わたしの心から切り捨てるのが、おそらく一番正しいことのはずなのに。

 直人を切り捨てることを想像するだけで、混乱して涙が溢れる。
 それならいっそ、呆れ果てられ、捨てられてしまいたいと思い。
 なのに、本当にそうなることを想像すると、またしても、混乱して涙する。
 
 広志と暮らしはじめてから、それを終わらせたつもりなのに。
 広志に何の不満もないままに、わたしはまた、別の道を転がってゆくのだ。

 欲望はなぜ、ひとつの場所に留まれないのだろう。

 「それならそれでいいよ。でも、ここだけ、別にしよう。そうだね。結界を張ればいいんだ」

 そんな広志の言葉が、よぎった。
 結界?
 あれは一体何だったんだろうか?
 

 **********


 家に帰ると広志はパソコンを消していた。
 めずらしいことだ。テレビのナイター情報を見ながら、煙草をふかしている。野球になんか興味がないはずなのに。

 あれ、めずらしいね、と言うと、ちょっと疲れた顔をして、広志がこっちを見た。
 じっと、わたしの顔を見る。
 そして、アヤ・・・と言って、それから放心する。

 「ごめん・・・僕が悪かった」
 と、広志が言った。
 「浮気をしてた。もっとも、パソコンの中だけど。でも、今日、辞めた。メールもチャットのIDも消した。何もかも終わった。ごめん。相手の人も傷つけた。でも、アヤに黙っておくなんて卑怯だから。みんな、話そうと思ったんだ」

 「どういうこと?」
 ピーチさんと別れたんだ。彼女はあれだけ広志を頼っていたのに。一体どうしたんだろう。
 
 「パソコンでチャットする仲のいい女友だちのつもりだったんだ、最初は。でも、何となく惹かれていって。でも、会わないかぎりは大丈夫、くらいのつもりだった。でも、彼女はどんどん僕のこと頼りししてきて。子供を実家に預けて、こっちに来るって言った」
 「ちょっと会いたかったんじゃない? そんな気持ちになることもあるよ、女って」
 ピーチさんが、どれだけ広志のことを頼りにしていたかは、盗み見たメールでよくわかっている。むしろ、広志はこんなに不実な男だったのか、と、思ったくらいだ。

 「違うんだ」
 広志は憔悴しきって、俯いていた。まるで、カラダの中の大切な部分をいきなり、引き剥がされたような顔だった。
 「ちょっと来るわけじゃない。ずっと一緒にいたい、って言ったんだ。奥さんがいるのはわかっている、だけど、この町でアパートでも借りて、何もかも捨ててきたい、って彼女は言ったんだ。いろんな環境の変化についてゆけない人で。苦しんでいるのも知っていたから、慰めてはいたんだけど。がんばって欲しいと思っていた。だけども。こっちに来て何になる? 一度も働いたこともない人が、ひとり暮らしをしようなんて、彼女は狂ってる。会ったこともない人間を、まるごと引き受けられるほどの度量なんて僕にはないし。何か、わからない波に飲み込まれそうな恐ろしさしか、感じられなかった。それで、もう、終わりにしようって、言って。彼女の知っているアドレスをみんな消してしまった」

 もともと狂っていたわけじゃない。
 転がってゆくうちに膨らんでゆく球体のようにして、彼女は狂っていったんだ。わたしが、直人に対してそうであったように。
 自分のイメージから抜けられず、人はそういうふうにして狂ってゆくのだ。

 今、ピーチさんはどうやって、そのことを受けとめているのだろう。踏み外してしまった階段から、どうやって、立ち上がっていけるというのだろう? 

 「かわいそうだと思う。広志のこと頼りにしてたんだね。でも・・・冷たいようだけど。こうするしかなかったのよ、それは仕方のないこと」
 いつでも踏みはずせるくらいに危うかったのは、わたしも同じだ。
 だから、どっかで踏みはずす人がいることくらい、わかりすぎるくらいによくわかっている。
 そういうわたしでさえ、つい、さっきまで、珠子の胸の中で、ぎりぎりの境界線に佇んでいたのだから。

 広志のように何もかも告白してしまえば、わたしも胸に巣食うものを吐き出せるのかもしれない。
 それは、どんなにか甘やかなことだろう。わたしは、カタルシスを感じ、柔らかなものに包まれることだってできるのかもしれない。 
 実はわたしも・・・と言ってしまいたい衝動にかられた。
 だけど、広志にすべてを告白して許しあえたとしても。おそらくわたしは、何ひとつ終わらせることはできない。
 そんな人間には、告白する資格なんてあるはずもない。そう思いなおして、自分を中にしまい込んだ。

 「頼られるのは嫌いじゃなかったんだ。頼られる分くらいは、チカラになってあげたいと思っていた。なのに、どうして受け止められないくらいに、僕を頼らなければならなかったんだろう。こっちでラインを決めれば、彼女はそれを越えようとして、壊れてゆく。壊れたまんまの自分を、余計にぶつけてくる。泣いたり、絶望したりしながら、僕を責めてゆく。責められると、僕は傷つく。なんでそういう目にあわなければならないのか、って、すごく傷ついてゆく。彼女は。自分が僕を傷つけることなんて考えてないんだ。どこまでも、どこまでも、受け止めてくれるものだけを望んでいるけれど。もちろん、それは、僕じゃない。そう、僕じゃない、ただの神様のような、万能の対象物が欲しかっただけなんだ」
 「そんな人はきっと、相手が誰であっても、そういうふうにしかできないものなのよ。そうして、誰が相手であっても、彼女は救われない」

 ああ。それは、多分わたしのことだ。
 理不尽な欲望が相手を傷つけることも知らずに。
 アクセルを踏みしめることだけしかできないのは、今、ここにいるわたし自身だ。

 「ねえ、広志」
 わたしは、広志の肩に手を置いた。久し振りに、静かに触れた広志の肩は、秋風のように小さく震えていた。
 「結界、って何だった? 結界を昔、張ってくれたんだよね。ベッドのまわりに。それで、すごく落ち着いたことは覚えているけれど。あれは、一体何だったの?」

 「ああ、結界。そうだね」
 そう言って、広志が顔を上げた。
 「思い出した。ぼくたちは、結界を張ったんだ」

 それは、まだ、わたしたちが一緒の暮らしはじめてまもなくのことだった。

 「アヤが、とてもこわがったんだ。僕たちが、別れなければいけないことを。結婚して、一緒に暮らして、ぼくは離婚なんて考えたこともなかったし。お互いが嫌いになることなんて想像すらしなかったから。いつかは、別れなければならないなんて考えたこともなかった。なのに、僕の父親が死んでから。アヤは、僕の母親のことを心配しながら、それを自分に置き換えていった。どちらかが、先に死ぬ。そういうふうにして、わたしたちは、いつか別れなければいけない日がくるって。こうして一緒にいるのが楽しい分だけ、別れなければいけない日がこわいって。だから、あのとき結界を張ったんだ。少なくとも一緒にいるあいだは。死に別れることなんて考えなくて済むように」

 「ああ、そうだったね。そう・・・わたしは、広志と死に別れるばかり、ずっと考えていた。広志の帰りを待つ時間とか、そのことを考えるだけで、カラダから冷たい汗が吹き出てきたよ。忘れてたよ、あれからずっと今まで。わたしは、死ぬことのこわさを忘れられた。でも、ほんとは結界って、何だったの?」
 「実は僕もよくは知らない」そう言って広志は笑った。
 「多分、マンガかなんか読んでて、出てきた言葉だったと思う。魔障が入ってこないように、一定の地域に結界を張って区切るんだ。そうすると、その中にはどんな魔物も入れなくなる。だから、僕たちの家に結界を張ろうって言って。ふたりで、いいかげんな呪文を唱えた」

 「あれからずっと、ここは結界で守られた場所だったんだね、きっと。だから、それ以外の場所で、どんなことがあったって。この場所だけは守られている。彼女は傷ついたかもしれないけど。どんなに追いつめられようと、この結界の中には入ってくることはできない」
 「ああ、そうだね」
 そう言って、ほっと息を吐いた広志を抱きしめた。肩に回した指のあいだから、今度は広志の体温が溢れてきて。それで、わたし自身があたたかくなるのを感じていった。

 世の中にはふたとおりの人間がいるんだと、思った。

 好きになった気持ちを、だんだん地ならしするように平たくしていって、カラダの一部にしていける人間と。
 好きになればなるほど、そこに欠けている部分を病的に補おうとしてゆく人間の、ふたとおりだ。
 そうしてもちろん、わたしは、後者でしかない。そういう自分が好きかと問われれば、もちろん、とても嫌いなのだが。それでも、わたしはそういう人間でしかない。

 少しばかりの疲労と安堵の入り混じった広志の横顔には。
 そんな邪悪なものは、微塵も感じられないのに・・・

 ピーチさん。
 あなたと一緒だよ。

 わたしも、そういうふうな人間でしかないんなんだよ。
 

 **********


 「PAST」での時間は、いつもゆっくりと流れてゆく。
 毎日が同じ繰り返しのようであり、アルコールの溢れる場所にしてはやや静かすぎる空気が、日々同じように漂っている。

 わたしは、少しずつ手慣れた仕草でビールを注ぐようになり。
 売り上げは、それ以上増えもしないが、減ることもない。
 「コンスタントにこれだけ上げれば、たいしたものだわ」
 と、珠子は言う。満席に近い状態のはずよ、と言われ、ああ、そういえば、そうだな、と思う。それでも、ひとつひとつこなして行けば、忙しくて追いつけないというほどではない。もっとも、手順が悪くて客を待たせることがあっても、彼等はけっして催促したりはしないのだ。

 常連同士でさえも口数の少ないPASTの客たちが、そんな時間に何をしているのか、今のわたしには手に取るようにわかる。
 彼等は、過去を反芻したり、置いていったり、言葉にならないものを言葉に変えてみようとしたり、それをあきらめて、ここに捨てていったり、そんな作業を繰り返しているのだ。

 わたしは、そんなことを、女友だちに相談したり、男を責めたりしてやり過ごしてきて。おそらく、多くの女たちが、古代からの習わしのように、そうして来たのだろうが。
 彼等は、それに対抗する言葉を持てなかった男たちだ。持てないまま、受け止めようとして受け止められなくなり。女たちはそれを責め。責めることに夢中で、それが彼等に手痛い傷を負わせたことにさえ気づかない。
 そうして、「捨てられた」気持ちのまま、男の前を去っていき。
 彼等は、女たちの言葉を、いつまでも持て余し続けている。

 言葉少なに、過去を語る男がいれば、わたしは、相づちを打ちながら、静かに胸の空洞を開いてゆく。
 すると、その場所に引き込まれるようにして、何かがそこに放り込まれる。それは言葉になる前の異物のような塊だ。
 それが、珠子の男のように鮮明な像を造ることはめったにない。
 そうして、わたし自身が、その塊によって損なわれることもない。
 たまに、捨てられたものが、空洞に溜まるような感触があると、わたしは、壁にそれを吸収してもらう。
 珠子の男が塗り込めた壁だ。
 壁もまた、わたしの異物を少しずつ吸収してゆく。案外、珠子の昔の男にも、そういう能力が備わっていたのかもしれない。あの神経質そうな顔だちは、何もかもを吸収する存在であった自分への苦渋の現れなのかもしれない。

 そういう意味では、珠子の昔の男もこの場所に居着いている。
 わたしたちは、なかなかのコンビネーションで、過去を吸収し続けているのだ。
 

 **********


 ある日、久し振りに直人がやってきた。
 夜遅くに、ふらっと入ってきて、打ち合わせの帰りに寄ったのだと言う。
 
 それでも、広志とピーチさんの一件以来、少しは冷静になれていたのかもしれない。わたしは、ぼんやりともせずに、仕事に集中することも覚えていたし、直人という存在が、過去のものになる予感めいたものでさえ自分の中にはあったくらいだから。

 髪の毛が少し伸びている、だが、それ以外の変化は見られない。
 当たり前のように、わたしを見つめる目つき。
 その目つきに、不敵なほどに笑いたくなる。言葉にならないものの流れに、わたしたちは、同時に呼び戻されてゆく。
 折良く、客足が早く遠のき、わたしは、片づけもそこそこにカウンターから飛び出した。
 珠子が来る時間までは、まだ間があった。おりしも今日は週末。週末に珠子が早仕舞いするなんてことはめったにない。

 時間を確かめて、わたしはスツールに片足を乗せてみる。ふわふわのワンピースの裾をめくり上げ、直人が、いくつもの口づけを繰り返しながら、中心へと舌を這わせていった。下着を剥ぎ取るのももどかしく、わたしたちは床へ転げ落ち、決まり事のように、反復を繰り返し、転げまわる。
 薄いワンピースには僅かな泥の染みがつくのだが、それすらも気にはならない。
 こうしたかったのだ。
 たまらなく。
 こういうふうにしたかったのだ。
 結界の外側にいるわたしは。
 こういうふうにしか、出来はしないのだ。
 なぜに、こういう行為に、これほどの快感が伴うのかもわからず。
 だが。こうすることしか出来ないのだ。

 直人、直人。
 と、彼の名を呼ぶ。
 直人、というのが、この男の名前であることを確認し。
 その名前が、快感の対象であることを、繰り返し刻み込む。
 理由などあろうか。
 そこに、他の感情など、あろうものか。

 そうしているうちに、ぱたんとドアが開き。
 珠子が、わたしの、のけぞった頭部の上に仁王立ちになっていた。
 「なにしてるの、こんなところで」
 そう言う珠子の震える声が怒気を含んでいた。

 ああ、失敗した。鍵をかけておくべきだった、と。
 慌てて、カラダを離しながら、わたしはふらふらと立ち上がった。

 「バカなことやってんじゃないよ」
 という、珠子の言葉に、ああ、ほんとうにバカなことだ・・・と、慌てて下着をつけ直した。
 間の抜けたぼんやりした照明の中で、間抜けなわたしたちは、どう繕おうとも、枯れた松の木のように立っていることしかできなくて。
 直人は、すみません、とか言いながら必死になってジーンズをおし上げているが。その動作は、スローモーションのようにもどかしく、そのためわたしたちは、いつまでも、この場所から脱出できなかった。
 「直人、また今度・・・」
 と、直人をあたふたとドアから外に追いやり、その際に軽く直人の指を握った。
 その指は、汗をかいているのに、ひんやりと冷たく、動揺のせいか、わたしを握り返そうともしなかった。

 転がり続けることしかできなかったものが、せき止められたような気がした。
 続くかもしれない。だが、これで終わるのかもしれない。
 あるいは、珠子にせき止めてもらった、というべきなのか?
 ワンピースの胸のボタンを留めながら、そんなことを考えていると、絶望と安堵が同時にやってきて。
 視聴率の悪いドラマが、突然打ち切られて。
 それは、残念だが誰も悲しまない、いたって仕方のないことなのだ、というような感触が、ふわふわと胸のあたりに漂った。

 珠子は、冷蔵庫からビールを、2缶出してきて。
 そのうちのひとつを開けて飲み干して、それから、煙草の煙をふーっと吐いた。
 「あんたも、飲んだら」
 と言われ、その隣りに座り、わたしは、すみませんでした、と小さく頭を下げて、ビールをひとくち飲んだ。
 苦みのある、あと口が、みょうに舌先に残った。

 「あの男だったのね・・・」
 珠子が、そう言った。
 「あいつ、もう一回、ここに来れると思う?」

 その言葉は侮蔑や怒りも含んでおらず、単なる賭け事のように、簡単なもののように思えた。
 だったら、どっちに賭ければよいか、なんて、わかるはずもなく。
 「来ないような気がする」
 と、言ったから、多分、単純な賭け事としては、来ないとわたしは思ったのだろう。

 「来ないと、悲しくないの?」
 「悲しい、泣くかもしれない。でもね。うまく言えないけれど、それはあの人には関係のないことなのよ。どれだけのものを与えられても、喉の乾きが止まらない。だから、水分を与え続けられることを望んでいるのだけど。どれだけ与えられても、わたしは止まることができない。だから、これはこれで、いい機会だったのかもしれない」

 「クールなのね」
 でも、と、珠子は続けた。
 「そんな感じ、わかるような気がする」
 だって、わたしも、そんな女なんだから、と言って、珠子は声を上げて笑った。

 「わたしは、クビ、ですか?」
 と、おそるおそる尋ねると、珠子はもっと大きな声を上げて、けらけらと笑った。
 「クビにして欲しいの?」
 「そういう訳じゃないけど。クビになっても仕方ないかなって思った」
 
 「クビになんてしないわ。辞めたいって言っても、絶対に辞めさせない。あの男が過去のものになっても、あなたは決して片づけることができない。とりあえず、何年ものあいだ、アヤは、こんな中途半端なものを片づけることはできないはずよ。そんな女は、ここにいるしかないわ」
 それでも、一縷の望みがあるかぎり、わたしはやはり、この場所を捨てることもできないだろうし。
 坂道の行き止まりに佇むのは、わたしには相応しいもののようにも思えた。

 「あんたの空洞の意味が、なんとなくわかったような気がするの」
 珠子は煙草をふかしながら言った。
 「迷い込んだら、けっして出られない場所があるって知ってたから、きっちりと、その前で自分をせき止めていたのね」
 そう、それが、わたしの結界だったのだ。
 「でも、そこの扉を外したあんたの方がずっと、この店に相応しいように、今は思えてる。区切りのつかない過去を、いつまでも抱え続けるといいわ。いつまでも、いつまでも。わたしみたいにして」

 わたしは、自分の前に置かれた缶ビールを飲んだ。
 「乾杯」
 と言って、珠子が缶ビールをかちんと合わせた。
 
 オレンジのワックスの壁が匂いたった。
 わたしたちの過去が、吸収されたり、滞留したりを繰り返す。
 わたしは「PAST」にいるかぎり、これからも、その中を漂い続けるのだろう。
 
 だけど、珠子は違う。
 珠子の男はもうじき帰ってくる。
 肋骨を寄せることもなく、匂い立つ壁から、わたしは、そんな予感を感じている。
 そう。
 まもなく、珠子の男がやってきて。
 わたしは、この感触のまま、ここにひとり残されるのだ。

 さあ、そろそろレジを締めて、帰ろうか。
 と言って、珠子が席を立ったとき。
 PASTのドアノブが、ゆくりと回転した。

 ここ「PAST」の中にいるときは。
 いろんな予兆が、画面のない映画のように、わたしの中に流れ続けていて。
 
 それは、とってもよく当たるものなのだ。

                  (終わり)
.kogayuki.

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