ロードランナー日記・
鳴く電話
わたしの電話は鳴く。
カチリとかバチッとか。短い音をたてて、とにかくよく鳴く。
昔から雑音の多い電話だった。カチッと音がしてからベルが鳴り出す、
癖のある電話器で、おかげでわたしはベルよりも早く電話のかかる気配に
気づくことができた。
そうしてあの頃は。そのカチッという音にも心踊ったものだ。
まだつきあっている男もいて、いつも同じくらいの時間にかかってき
た。カチッという音で気づく。すると、ナンバーディスプレイに男の番号
が浮かびあがった。
いつも同じ時間ね、と言うと、飯喰って、風呂入って、麦茶を持って扇
風機の前に座るとこの時間なんだよ、と男は言った。
ふつかかみっかごとに電話は鳴り、わたしたちは、全部話してしまわな
ぃと一日が終わらないかと思うくらいによく話をした。
あのころ食べた夕飯のメニューなんて、今でもすらすら言えるくらい
だ。ホカ弁でセール期間中だったカラアゲ弁当。たくさん作って三日間食
べた野菜のスープ。そんな些細なことまでわたしたちは、30分も40分も
話していたんだから。
時がたって、男はいなくなった。
いろいろ事情もあったのだろうが、わたしの預かり知らぬところで何か
が起こって、それで連絡がとれなくなった。
そういうのはだいたい女絡みなんだってことくらいは、もちろんわかっ
てたけど。
男の家は留守電になりっぱなしだったので、最初わたしは男の留守電の
メッセージばっかり聞いていた。伝言を入れることはなかった。男の声を
聞きたくて、留守電のメッセージを聞いては電話を切る、そんなことばか
りしてた。
そのうちに別のメッセージが流れるようになった。
お客さまのおかけになった電話番号は現在使われておりません、ってや
つだ。
冷たい機械のようなこのメッセージも、何度も何度も聞いた。
この声しか聞こえないとわかっていても、条件反射みたいに指がかけて
いた。この番号消したら、男について知ってることなんて何ひとつなくな
るから。カクニンするみたいに何度も何度もこれを聞いた。
でも、さすがに馬鹿らしくなって。それも辞めた。
誰とも話さない、静かな夜がやってきた。
男と喋る代わりに本を広げ、電話の前に座る代わりに、カーテンをあけ
て、月あかりを部屋に入れた。手鏡で眉を整えながらテレビドラマを見る
と時間が流れるように過ぎてゆくことも知った。
静かな夜も、慣れてしまえば悪いものではない。
どういうふうにも形を変えれる、ねじれた飴棒のように、夜はわたしを
受け入れた。
だけどその頃から。電話は無意味に鳴くようになった。
カチリと音がする。いつもなら男がかけてきたくらいの時間だった。電
話がかかってくる、そう思って身を固くするが、ベルはならない。
カチリ、カチリ、ただ、そういうふうに鳴くだけである。
もちろんナンバーディスプレイにも何も表示されない。
わたしはため息をついた。
電話の鳴く音は不快と言えば不快だったが、それでも、しばらくすると
慣れた。
カチリ、カチリ、何度電話が鳴こうとも、わたしはそれを無視した。
たまたま鳴くのが多いだけの電話なのだ。それを極端に不便とは思わな
かった。
だが一度だけ。夜中の一時に電話が鳴いたことがあった。
このときはもう、半分まどろみの中で、カチリという音でわたしの身体
は反り返った。
リーンと。一度だけ、ベルが鳴った。
聞き間違いではない。たしかに。一度だけ。電子音が響いた。
それで受話器を取った。だが、ツーーーと、冷たい音が広がるだけで、
もちろんナンバーディスプレイには、誰の番号も表示されていなかった。
なんで。どうして、こんなに不憫な電話と暮らしてるんだろう。
わたしは。悲しかった。無益な自分に怒りがこみあげた。
電話が不憫なのではなかった。あんな非常識な時間に、男かも知れない
とねぼけた頭で考えて身体を固くしてしまう自分が、さすがに情けなくっ
て。あり得ないことなのにかすかに期待している自分が、不憫でならなか
ったのだ。
電話を売り飛ばそう。
翌朝目覚めてすぐにそう決めた。
携帯電話もあるから困ることはない。
電話買いますという店をイエローページで調べて、さっそく連絡を取っ
た。
たまたま選挙を控えていて少し相場が上がっていた。売る気があるのな
ら、今すぐの方がいいですよ、と勧められて即決した。NTTに電話して、
いくつかの書類を揃えて、少々時間はかかったが、それでわたしの電話番
号はこの世から抹殺された。
だが、番号がなくなっただけだった。
電話器はまだ、ぽつんとテーブルにあった。
もうけっして男から電話があることはない。わたしの番号はもうすでに
ないのだから。
そう思うと、脱力するくらいにほっとしたのに。
その夜、電話は一晩中鳴き続けた。
カチリ、カチリ、カチリ、カチリ、
ああ、悲しい、悲しい。
覚えているのは、わたしのせいじゃないのに。
そういうふうに作ってしまった人間のせいなのに。
人間はなんでもけろりと忘れてしまって、あげくの果てにわたしまで始
末しようする。
わたしは布団をかぶって聞こえないふりをした。
カチリ、カチリ、カチリ、カチリ。
わたしたちは。壊れるまで、何ひとつ忘れないように作られているんだ
よ。あの男のことだって。その時間になると身体がきちんと覚えて反応す
るだけなのに。自分はみんな忘れてしまって。電話ばかりを憎んでいる。
あげくの果てには番号まで売り飛ばしてしまうなんて。
カチリ、カチリ、カチリ、カチリ。
それは違う。電話になんかわたしの気持ちはわからない。
人間だって。自然にふわっと消えてなくなるみたいに忘れてしまえるん
じゃないんだ。細胞のひとつひとつにまで染み着いた記憶を、何度も何度
もかさぶたをはがすみたいにして、そうして忘れてゆくんだ。
あんたに一体何がわかると言うんだ。
カチッ。
電話は反論するみたいに短く鳴った。
しょうがないなあ。
わたしは布団の中に電話を入れた。膝のあいだで抱えるようにして、電
話を抱き締めた。
電源が入ったままの電話器は、なんだかほんのり暖かかった。
あの頃男とわたしは、寒い夜には受話器を持って、布団の中で電話をし
てた。布団の中でまどろみながら会話してると、二人していやらしい気分
になったりして。いやらしいこともいっぱい言ったりして。
そんなのもあんたは。忘れずにみんな一言一句覚えてるんだね。
カチリ。
忘れていくしかないわたしのかわりに、覚えてくれてんだね。
カチリ。
それからわたしは夢を見た。
夢の中でわたしと電話器は、電化製品の墓場の中にいた。
大きな冷蔵庫が立ちすくんでいた。
まだ、使えるって? そんなことはわかってるわよ。だけど、離婚した
ときに、だんなさんも奥さんもいらないって言ったの。だんなさんはひと
りだから、こんな大きいのはいらないって。奥さん、再婚が決まってて、
新しくてもっと大きいのを買ったから。電器屋さんに持っていってもらっ
たの。わたしを見るたびに前の旦那を思い出すのが嫌なんだって。
それから、あやまってボヤを起こしそうになったファンヒーターとか。
けんかした時に恋人が蹴り上げて、壊してしまったラジカセとか。
事故で亡くなった子供が乗っていた、電気で動く自動車とかが。
口々に自分の来し方を語った。
何ひとつ忘れずに、おのおのがみんな、悲しみを記憶していた。
人はみんな悲しいことを忘れたがっていて。
わたしたちは電化製品に記憶を押しつけたまま、すべてを忘れ、何事も
なかったみたいに生きていこうとするのだ。
行きたくないならここに居ればいいよ。
あんたを捨ててまで忘れるほどのことじゃないんだから。
夢のまどろみの中で、わたしは電話器に言った。
忘れたいけど、忘れなくてもいい。
あんただけが記憶しているのなら、あんたを見るたびに、ときどき思い
出すのも、いいのかもしれない。
カチリ。
膝の中に抱かれた電話器は、ほのかに光るホタルのように、わたしの肌
にあたたかく触れていた。
こがゆき