ロードランナー日記・
世界の結び目
(2003年8月 佐藤正午の誕生日プレゼントの企画物)
その店のカウンターの後ろの棚に、一冊のハードカバーが飾られている。
高そうなお酒とお酒の合間に、裏表紙が見せて立てかけられた本には、見覚えのあ
るデザインとともに「恋を数えて」というタイトルが読みとれる。
薄暗い照明に浮かび上がるタイトルのロゴに、鼻のあたりがつんとなるような懐か
しさを感じる。
わたしの部屋のわたしの本棚には。もう何年も前から、これと同じ本が並んでいる
のだ。
***
家出をしようと思い立ち、それから行き場所がないことに気がついた。
実家に行くには居心地が悪すぎる。仲の良い友だちのところだとすぐに迎えに来ら
れそうだ。なかなかこれといった場所が思い当たらない。
だが、行き場所がないことに、特に絶望したわけではない。わたしは、思い当たる
場所以外の、どこへでも行くことができる。そう思うと、それはたやすく開放感に変
わり、プリズムのようにキラキラしてきた。
西へ行ってみようと思った。
ちょうど、線路の向こう側に、輪郭のぼやけたまんまるな太陽が沈みかけていたの
で。
その方向がふさわしいような気がした。
***
以来、昼間は海にかかる大きな橋を眺めてみたり小高い丘の上に立って点在する小
島を行き来する船を目で追いかけては、時間を潰してきた。
早めにチェックインすると、後は、ベッドに寝ころがって、買った本を読みながら
缶ビールを何本も開ける。
だけど、三日めには、その繰り返しにも飽きてきた。
これじゃあ、夕飯を作りながら、キッチンでビールを飲んでいた以前と全く変わら
ないじゃないか・・・
数種の野菜を切っては、ひとくち。鍋を炒めながら、ふたくち、みくち。わたしの
身体は、マンションの貯水タンク並みにアルコールを受け入れる癖に。どんなに飲ん
でも冷静に、夫の帰る時間までに夕食を作り上げられる。
だけど、そんなふうにして毎日ごはんを作るのが、もうイヤになったのだ。
夫の関わっていないその時間に、もちろん夫の落ち度はない。
だけど、ある日、どんなに考えてもメニューが決まらなくって。
「ごはんを作りたくなかったから」わたしは、家を出ることにした。
***
思い切って夜の街に出てみることにする。
観光地や本屋以外の場所に行ってみたいと思った。
シャワーを浴び、落とした化粧をもう一度やり直し、服を整えて外に出る。
長いアーケードを延々と歩き、思いついた角から横道にそれると、外国人のグルー
プが嬌声をあげていた。その脇には、交番の白い蛍光灯のあかり。
捜索願など出てはしないだろうが、後ろめたさがない訳でもなく。わたしは目につ
いたモノクロの看板の店に、そのままの勢いで飛び込んだ。
「いらっしゃいませ」
シックな調度の店には、女性が二人。中年の女性と、若くてまつげをクリンとカー
ルさせた女の子だ。
高いのかもしれないとちょっと不安になったが、夫のクレジットカードを持ち出し
たことを思い出した。カタカナで書かれたマコトという名前は、女性名に見えなくも
ない。
まだ早い時間で客もおらず、「待ち合わせですか?」と尋ねられ、いいえ、と答え
てカウンターに座らせてもらった。
その店の棚に。その本は、少し場違いな調度品のように、たてかけられていた。
薄い水割りを作ってもらってから、本について尋ねてみる。
「本? ああ、これね」
花柄のワンピースの中年が、その本を手に取ってめくって見せた。作者の名前が、
一ページめに黒マジックで走り書きされている。
「この街に住んでいる小説家でね。酔っぱらってサインして置いていってくれたの
よ」
好きな作家なのだ、と言うと、少し意外そうな顔をされた。そう。作家はこの街に
住んでいるのだ。
それが、ここの駅で降りた理由だったようにも思う。だけどわたしは、小説にたび
たび登場する街の雰囲気を味わってみたかっただけだ。当人の息づかいの聞こえる場
所に、身を置くことなんて望んでもいなかった。
「どんな人かって? そうね、ふつうの人よ、物静かな感じの。だけど、小説の話
なんてあまりしないわね。ふつうに女の人とふつうのことを喋ってる」
ああ、でも、競輪で勝った日は機嫌がいいわね、と中年の花柄つけ加えると。
「そうそう、勝つと、いっぱい奢ってくれる」と、若い方が相づちを打った。
「陽気になるんですか?」
「少しだけね。でも、声が小さいし、大声で笑わない。年齢よりもずっと若く見え
る。アレはね、年を取り損なったんだと思うね。結婚したり、上司に怒鳴られたり、
給料とか年金の計算をしながら人間って、少しずつ老成してゆくもんなの。小説を書
くってのも、どっかで老成するってことなんだろうけど、普通の年の取り方を経験し
てないんじゃないかな」
そう、わたしはキッチンで。夫は会社で老成してる。まとわりつく湿った空気のよ
うに、わたしはそれを知っていて。ときどき、ふりほどきたくなってしまうんだ。
「そう言えば、最近見かけないわね。景気悪いのかしら」
「わたし、最近会いましたよー。スーパーで。ヤクルトミルミルと林檎を買ってた。
最近来ないですね、って言ったら、小説が終わらないからって言ってた」
中年の方がカラカラと笑った。花柄のワンピースと同じような種類の笑い方だった。
「曜日の数と同じだけ愛人がいるんだって、いつか言ってたけど、あれも嘘だろう
ね。自分で林檎なんて。真面目な顔して嘘つくのよ、あの人。もっとも嘘を作るのが
商売なんだろうけど」
「あのね。美津子ちゃんとこに行ってみたらいいよ」
と、若い方が言った。
「ああ、そうねえ、美津子ちゃんだったら詳しいわ。昔、ここにいた女の子で、今
は任されて別の店をやってるの。あの人のことなら、あの子の方がよく知ってるのか
もしれない」
そう言ってお店の地図を書いてくれた。
親切な人たちだ。そういうふうにして成り立っている街なのだろう。
ひとつの糸を別の場所に繋げて。透明な糸が、この街には幾重にも張り巡らされて
いる。なのにさらっとしていて肌にまとわりつかない。それはこの街の人たちの人柄
のせいなのかもしれない。
「しばらくいるつもりなら、行ってみるといいよ。ここに来る人たちって、それほ
ど本好きってわけじゃないの。知り合いだから読む人もいるだろうけど。ファンなん
て人にははじめて会ったくらいだもの。美津子ちゃんも、いろいろ教えてくれるんじ
ゃないかな」
たくさんの水割りを飲んで、とちゅうでお客も増えて、わたしは、サイン本のペー
ジをぱらぱらめくってから、おいとました。
外にでると、満月の光が薄くなるくらいに、交番の白い電灯がまぶしかった。
***
次の日はどしゃぶりだった。
行くところがないので、昼間はデパートのフロアを上から下まで眺め、試着したノ
ースリーブのワンピースをクレジットカードで買った。来月一括引き落とし。夫はび
っくりするに違いない。
ホテルでそのワンピースに着替え、姿見に映してみる。
いつもは選ばないような鮮やかなプリント柄だ。街の空気がわたしに、違った服を
選ばせる。いつもは着ないような服を着ると、なんだか街の人間になれたような気持
ちになれた。
美津子さんの店は、小さな路地を何度か曲がった所にあり、見つけるのに少々時間
がかかった。
少し早い時間だが、看板には灯りがともっている。重たいドアを押してみると、奥
から、意外なほど大きなドアベルの音がして、少し気持ちがすくんだ。
「いらっしゃい」
カウンターの椅子に座ったままの、ストレートの黒髪の女性が振り向いた。
「ああ、マユミちゃんが電話で教えてくれた人ね。作家のファンだって言う」
「どうして、すぐにわかるんですか?」
「女ひとりでこんな店に来る人なんて、そういないもの。おまけにこのどしゃぶり。
週末でもないから、今日来るとしたら、あなたくらいなもんよねって思ってた」
何がいい? と聞かれ、ビールと答ると、お腹は空いてない? と尋ねられる。
そう言えば、マックでお昼を食べたきりだ。そう答えると、美津子さんは、スパゲ
ッティを作ってくれた。ガーリックの効いた、辛目のスパゲッティだった。
「家出人ぽいって、マユミが言ってたけど。ほんとに家出してきたの?」
否定しようもなくうなずくと、どうして? と畳みかけられる。
「ごはんが作りたくなくなったから」
と言うと、美津子さんは、声をたてて笑った。
「よくわかる。うん、よくわかるわ。普通の毎日って、そんなもんなのよねー」
「毎日って、そんなもん。わたしもそうなんだ。お店開けて、氷を入れて、料理作
って。営業の電話して、集金の算段して。余計な事考えてる暇なんて、ありゃしない。
次から次に、しなきゃいけないことばかりで。本を読んだり、考え事したりできるの
は、休みの日くらいなもんよ。若い頃は、色恋のことばかり考えてたけど、今になっ
て思うと、どうしてあんなに時間があったのか、不思議なくらいよ」
そういうふうには見えない、と思った。年はそれほど変わらないはずなのに、美津
子さんは、身体にぴっちりとした黒いミニのワンピースを着て、嫌味にならないくら
いにくっきりと、涼しげなアイラインを引いている。
Tシャツにジーンズで毎日部屋を磨きあげているわたしから見れば、華やかなこと
ばかりの人生にしか見えない。
率直にそう言うと、あら、嬉しい、と言って、美津子さんはわたしの隣りにすとん
と座った。
「そういうふうに見せるのが仕事なんだもの、でも、それはそれ。中身は薄っぺら
で単調なもんよ。だけどね、あの人の小説を読んでると違うの。わたしたちがみんな、
別の世界にいるような気分になってくるの」
彼女がメンソールの煙草に火をつける。まるで映画のようにきれいな指で、わたし
はたまらなく煙草を吸いたくなってきた。煙草、置いてますか、と尋ねると、同じヤ
ツでいい?
と一箱取ってくれた。
「どうしようもないヤツも、だらしない男も。それから考える暇もないような女だ
って。小説の中だと、それなりの役割とか考えみたいなもんを持って生きているの。
それで、読んでる人はそれに共感することができる。だけど、本当の毎日はそんなも
んじゃない。世の中共感できないヤツばっかりだし、わたしのことなんて誰もわかり
ゃしない。そもそも、わたしのどこに共感できるかなんて、わたし自身だってわから
ないんだもの。だけど、あの人が書いたら、このつまらない街の風景とか、そこにい
る人たちが、まったく違うものに見えるような気がするの。どんなくだらないことで
も、違ったふうに見えてくる。世界が変わって見えるのよ。みんなみんな、それなり
に共感できるものを持って、物語の中では生きている。だから、わたし、あの人の書
くものが好きなのかもしれない」
半分、わかるような気がした。
美津子さんは、作家の小説の舞台裏みたいなものを知っているのかもしれない。わ
たしは知らない。それでも、その感触は、おぼろげながらわかった。
「わたし、この前、失敗しちゃってね。近くまで行ったから、あの人の家に寄って
みたの。いきなりで図々しいかもしれないけど、いただきものの桃が食べきれないく
らいあったから、差し入れしようと思ったの。ドアを開けると、女の人の靴があった。
それで、あの人も困ったんだと思う。電話しないで来る方が悪い、家に帰って電話し
てから来い、って言われてちゃった。ま、ほんとにいきなり行ったのが悪いんだけど。
頭に来て、すごく惨めだった。それでもどこかで、これって物語にすると、どんな感
じになるんだろう、なんて思ってるのね。そんな自分がおかしかった。惨めなのに、
この惨めさは、きっと物語になったら別のものになるんだ。別のわたしが、別のよう
にその中で振る舞うんだって思ったら。惨めな自分も、なんだか少しだけ、誰かが共
感できる自分なのかもしれないって思ったの」
もっとも、こんなくだらない話って小説にもならないんだろうけどね、と言って美
津子さんは笑った。
わたしは羨ましかった。
作家の実像を知ってることも。
それによって、自分自身の世界を変えて見ることのできる美津子さんも。
わたしには、たまらなく羨ましかった。
こんなふうに思い返すと、とても短い時間に思えるのだが。
誰も来ないままに、日付が変わろうとしていて。どしゃぶりの中ホテルに帰るのも、
これ以上いたら億劫になるような気がして。それで勘定をお願いした。
「話せてよかった、こんな話、誰にもしたことがなかったから」
と、美津子さんは言った。
「世界の結び目みたいだった」
わたしは、思いついた言葉を口にする。
「世界の結び目ね。そうだよね、こんなふうにして知らない人と話せる。小説は世
界の結び目にもなり得る」
「だけど、作家は、自分が世界の結び目であることに気づかない。もしかしたら、
気づいているのかもしれないけれど、それはたいした問題じゃない。作家は自分の見
える、自分だけの世界を書くのをなりわいとしているから。世界の結び目なんだけど、
それは全然別の話でしかない」
美津子さんがそう、つけ加えた。
今まで見えなかった小さな糸が、幾重にも絡まっているのが見えてくる。
毎日の生活だけじゃなくって、本の中とか、そこから辿られた小さな街の中とか。
そこに生活する人たちとか。
そんなものが立体的に絡まった透明な糸が、わたしを繋ぎとめているのが見えてく
る。
それは、けっして意味のないものではない。
意味のないように見えることにも意味はあり。無意識の意味によって、わたしは作
り上げられている。そんな場所に、わたしはいるんだと思った。
そろそろ夫の元に帰ろうか。
そこにもまた、わたしがまだ知らない、別の物語があるのかもしれない。
そんなことを思いながら。
わたしはエナメルのミュールを雨に濡らしながら、ホテルまでの道を歩いていった。
こがゆき