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モモ・クロニクル
君のことを忘れないようにちゃんと書き留めておきたいと思うのに、思い出すのがつらくて先へ先へと延ばしてしまうよ。
だけども、あまり伸ばしすぎるわけにもいかない。わたしの記憶力にはかぎりがあって、大切なことやかけがえのないまでもどんどん色あせてしまうからだ。
たくさんのことを、君はわたしたちにくれたはずなのに。
上の男の子が小学校の2年生のときに君は我が家にやってきた。公園をうろついていた捨て犬だった。
5月のあたたかい雨に濡れる君はダンボールをひとつ与えられた。それは男の子が近所のマンションから君のために拾ってきたものだった。
それ以来、なんど公園に送り返しても、君は我が家の玄関に座るようになる。そうだ。その頃から君は、玄関から庭を眺めるのが好きだったんだね。
家族のやりとりのすえに、君は家族の一員となった。
モモと名付けられ、予防接種を打ち、生後4ヶ月ほどであることを知った。「雑種だろうけど、柴犬と言ってもいい」と獣医さんが言った。
君の飼い主は男の子で、父親と母親は餌を与える人だった。下の女の子はまだ小さくて、散歩をしていても、よく引っ張られては転んだ。
君がやってきてから近所に知り合いが増えた。ルーク、しょうちゃん、リキ、ラッキー。その飼い主たちとも散歩で会話をするようになった。
おむかいの駐車場に車を止める人たちも声をかけてくれたりする。ときには犬用のおやつをくれる人もいた。頭のいい君はおやつをくれた人のことを忘れることはなかった。それが何年前のことであれ、君はその人に出会うとおやつをねだるのだった。
特技は人間に可愛がられること。それは捨て犬から生き延びた君の処世術だったのかもしれない。そして苦手なのは電車と雷と花火。ガードレールの向こうの町に行くのが大の苦手で、花火大会の夜にはしっぽをまるめてうずくまった。
数年後に君は子どもを産んだ。小さな4匹のブチ犬。男の子は小学4年生になってただろうか。毎日のように友達がやってきては抱っこするのに文句は言わない。やせ細って母乳を与え、みかねた保育園の先生がいろんな食べ物をくれた。
新聞の「差し上げます」の欄に掲載して、生後3週間ほどで4匹はみんなもらわれていった。男の子も女の子も泣いた。君はさみしくて鼻を地面にこすりつけて、鼻が真っ黒になった。
そして、もう一度翌々年に子どもを産んで、みんなみんないい人にもらわれていった。
中学生になって反抗期になった男の子は君を散歩に連れていってくれなくなった。
朝晩の散歩は父親と手分けしていくようになった。男の子は家族ともひとことも話さず、学校以外の場所に行くこともできず、でも、君はあのとき彼の孤独をたぶんなぐさめてくれたんだろうね。
反抗期が終わって成長した男の子は、大学に入学して遠い町へと引っ越した。
君はとても不思議な感触だったのだろう。飼い主である彼がこの家にいないのはどういうわけだろうと。帰省のたびに大きな荷物を抱えて帰ってくる男の子を喜び、また大きな荷物を抱えて出て行く日はさみしそうな目で見つめた。
高校生になった下の女の子は、自転車を出し入れするたびに、君と話していた。帰ってくると、ちゃんとドアの前からどいてくれるおりこうさん。なのに時々意地悪して、どいてくれないときもあるの。
今年の夏はほんとに暑かったね。
13歳を越して、すこしばかり年をとった君は暑さで呼吸が荒かった。心配だったけれど、なすすべもなく保冷剤で冷やしてあげたり。
「ウチの犬もそうなのよ」と近所の犬に言われると、そういうものかと思うけれど、それでも君はなんだかつらそうで、ある日血を吐いてしまった。
洗濯物をいれる大きなかごに入れて病院に連れていったけど、熱中症とのことで注射を打ってくれた。
その日は少しよくなった。
だけども次の日もコーヒー色の血を吐いて、ただならぬ様子なので病院に行くと、急性膵炎で助からないとのこと。
集中治療をすることもできるかもしれないと言われたけれど、もう、わたしと女の子は答えを決めていた。
もし、このまま死んでしまうのなら、君の大好きな庭で見送りたいと。
ちょうどその日は、夏休みを利用して海外に出かけていた男の子が帰ってくる日だった。
猛暑の昼間を玄関の中で過ごしながらも、君はぐったりとしている。
「モモ、もう少しがんばって、にいにいが帰ってくるよ」君はにいにいを思って少し顔をあげた。
天神の駅から電話をしてきた男の子にそのことを伝えた。電車から降りてきた男の子の目は真っ赤だった。スーツケースごと車に乗った男の子は、声をあげて泣いた。こらえきれなくて、声をあげて泣いた。
意識がふらっと消えたり、そしてまた痛みに目覚めたりしながら、君はにいにいにやっと会えた。
「モモ、モモ」名前を呼びながらにいにいが背中をなでる、泣きながら何度も。
会えてよかったよ。ぼくのご主人さま。君は痛みに耐えながらも幸せそうだった。
西向きで夕日の差し込む庭の風景。
この場所に戻ってくる家族たち。
君の最後の一日が、そんな幸せな一日になりますように。
夜になると父親も帰ってきて。犬小屋の前に横たわった君をみんなで撫でた。
「ありがとうね」「ありがとうね」
意識がだんだんなくなる君のことを撫でながら、みんなで何度もお礼を言った。
そういうふうにして、君は、夏の一番最後の暑い日に、別の場所へと旅立っていった。
わたしは、線分図のことを考える。
永遠に続く時間の中で、おなじ線分図の上に存在するという奇跡を。
当たり前のようにそれを受け入れてたのだけど、それはきっと奇跡だったんだね。
おなじ時間を13年も生きてきた奇跡。
大好きだった庭に今、君は眠っていて。ずっと君の気配はそこにあったけれど、少しずつそれが薄れていくのがわかる。
ドアを開けるときに、無意識に君が走っていかないように気をつけていたのに。
月夜に煙草を吸うときは、ちょっと離れてじっとわたしを見つめていたのに。
洗濯物を干す朝も、はやく散歩に連れてってよ、とわたしに寄ってきてたのに。
カラダが覚えていた君の記憶は、さみしさと一緒に、悲しいけれど少しずつ薄れていくよ。
それでも。どこかに別の世界があるような気がするんだ。
わたしはその場所で、また君に会えるだろう。
それは、わたしの記憶のどこかかもしれないし、まったく別の世界なのかもしれない。
だけども。どこか別の場所で、わたしたちはまた会えるのだろう。
目に見える世界の向こう側の世界がずっとずっと繋がっている。
大好きだった家族も。君のボーイフレンドだったルークも。
線分図のない、時間のない、どこか別の世界で。
わたしたちはずっと繋がっているのだろう。
いつかまた会おう。
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