ロードランナー日記・
着たい服を着ればいい
サトシが灯油を配達してくれることになった。
ありがたい。
エレベーターなしのマンションだとふつうは三階までしか配達してくれなくて。四階だと大
抵断られる。かと言って自分で持ち上がるファイトもない。
ストーブが恋しくて恋しくてたまらなくなってる時に、軽トラックから灯油を運び出してい
るサトシを見かけた。
さっそくかけ寄って、「ねえ、わたしが頼んでも、その灯油、配達してくれる?」と尋ねて
みた。
「いいよ」とサトシ。
「でも、うち、四階だよ。それでも?」
わたしの目はすでに、うるうるのお願いモードになっていたんで。
「うーん、つらいけど、いいよ。どうせ配達するのっておれだけだから、奥さんにはおれか
ら言っとくよ」とサトシは言ってくれた。
その日のうちに、と言ったら、夕方ふうふう言って、上がってきてくれた。
「ちわー、酒屋でーす」
と言ったサトシの挨拶に飛び上がるほど驚いた。
そうか、サトシは酒屋の店員なんだ。こんなまっとうなことを言うんだ、と思った。
灯油のケースにゴボゴボと灯油を移してもらいながら、玄関に座り込んでサトシを眺めた。
「もう、水商売じゃなくなったんだ」
「いや、酒屋だから、これも水商売かな。昼間働きたいなあ、って思ってたら、ここの旦那
がうちの店の客で、自分とこで働かないかって言ってくれたの。もう三年も続いてるから、い
い成績かな」
サトシと、以前ちょっとだけつきあってたことがあった。その頃からサトシは、真っ赤なと
てもきれいな色の髪をしていた。
わたしはまだふつうの会社勤めだったんで、日曜の夕方に二人で散歩したりパチンコした
り、そんな感じでデートしてた。
サトシの赤い髪は、夕日に透けると明るいオレンジ色に見えてとてもきれいだった。
「おい、兄ちゃん、この髪はほんとに自分の髪なんか?」
知らないこわい男の人に、そう言われて髪を掴まれたりもした。
わたしなんか、そうなるとびびりまくるのだが、サトシは慣れたふうにていねいに説明して
いく。サトシって、外見に似合わず、すごく物腰が柔らかいんだ。
男はちょっとひょうし抜けしたみたいにして、まあ、がんばれや、とか言って去っていっ
た。サトシは昔っから、そんな感じの男だった。
赤い髪をしてると仕事には恵まれない。
伝言ダイヤルのティッシュ配りには雇ってくれたが、あとは大体敬遠された。
サトシはどちらかというと温厚な性格で、何でもきちんとやる方なのだが、それでもたいが
いの所は断られた。理由はわかっている。なのにサトシは髪の色を変えようとしない。彼はあ
いかわらず、電話番号の入ったティッシュばっかり配っていた。
それを拾ってくれたのが、ヒロさんだった。
サトシの性格の良さを知って、うちで働かないかと言ってくれた。
わたしも何度かスナックに顔を出したことがあるが、それはもうとんでもなく変な店で、毒
気に当てられてクラクラ来てしまった。わたしたちよりももっと年上の、ロックが大好きとい
う人とか、演劇やってる人とか、大人なのにハードな革ジャン着てバイクに乗ってる人とかが
集まってきて、毎晩泡を飛ばして大騒ぎしてるのだ。文字どおり、口の端から今飲んだばかり
のビールの泡が空中に舞っている。どっかで聞いたことのあるようなロックをシャウトしなが
ら、椅子の上で踊り出してしまう。下手するとしょっちゅうモノが壊れている。
そして床の上は毎日ビールだらけになっていて、それをサトシは文句も言わず閉店後にきれ
いに拭き上げるのだった。
毎日すごい騒ぎだったが、それでもいろんな話が聞けた。音楽とかバイクとか自分の趣味の
ことを。自分の宝物をここに持ってきて広げるみたいにして、わたしたちに話してくれた。サ
トシはニコニコ笑って聞いていた。
話を割って口を挟むような性格ではない。だがサトシの心の中のさらさらの砂に、水が音を
たてて染み込んでゆくのがわたしにはわかった。
ここはサトシがいるべき場所なのかもしれない、と、わたしは思った。
サトシの影響があってか知らずか、そのころにわたしは会社を辞めた。
いっつもおんなじようなひざ丈スカートばっかり着てるOL生活に嫌気が差したんだ。
わたしはもっといろんな服が着たかった。派手な色あいのパッチワークのシャツ。ミニスカ
ートに厚底のブーツ。フェイクファーの鳥の羽みたいなフワフワしたコート。それで、憧れて
いたショップが販売員を募集していることを知り、そちらに転職した。
小さい頃、母が言っていた言葉を、わたしはそれまでずっと守ってきた。
「みんなと同じようにしなさい」だ。
わたしはいつも突飛なことを言っては、先生や友だちを困らせていた。それから友だちの不
誠実さが許せなくってしょっちゅう怒ってた。あとから考えるとそれはその年令特有のきまぐ
れなのだが、わたしにはそれが許せない。わたしは怒り、叫び、そんなわたしのために授業も
幾度となく中断された。
母は学校での実情を聞き、嘆きながら言った。
「お願いだから、何も考えずにぽーんとやってしまうのだけはやめてちょうだい。まわりの
子をまず、見てみなさい。それでどんなふうにやってるか真似するといいの。あなたが、自分
だけで考えてやってみると、たいがいとんでもないことになってしまうんだから」
しょうがなしに、母の言葉を守った。嘆かれるのもつらかったから。
おかげで、ふつうに事務をやる商社のOLにだってなれた。だけどもそこまで時間がたって
やっと気づいた。わたしの人生って、言いたいこともやりたいこともやってなくって、面白く
もなんともなかったんだ。
仕事を変わると言うと母は、その職業を侮蔑するような言葉を投げつけたが、それでも今の
方がずっと楽しい。服のディスプレイなんて任されると、店中の服をとっかえひっかえマネキ
ンに着せてあげた。色のコーディネートを考えると時間も忘れて、夜遅くまで何度も何度も、
服を合わせた。
サトシのスナックに行く機会も少なくなった。
わたしのいる店にはわたしの好きな空気が充満していたから。
わざわざサトシのいるスナックまで、空気を感じに行く必要がなかったんだ。
そんなふうにして疎遠になっていって、それでサトシとは自然消滅した。
けっきょくそれくらいの思い入れしかなかったんだろう。
「ねえ、どうしてあの店、辞めたの? すんごくあってるみたいだったのに」
灯油を入れ終えたサトシに聞いたら、少し考えてた。
「うーん、何でだろ、酔っぱらいのたわごと聞くのが嫌になったからかなあ」
「楽しかったじゃないの?? みんな、おもしろい話してくれてさ」
「そうだね。刺激的だったよなあ。どきどきしたよ。すっごく激しくってさ、けんかしてる
みたいに話しててさ。おれがバンドやってるって言うと、みんなで応援してくれたし。ヒロさ
んが若い頃ロックやってた話なんかしょっちゅう聞かされてた。
いいか、サトシ、今、目の前にあるものを信じるな、それを全部壊すことから始めるんだっ
て。ヒロさんはいつもおれにそう言った。
それを聞くと、身体の中から力が湧いてきて、その日のうちは何だか無敵でいられるんだけ
ど、次の日の朝になると、憑き物が落ちたみたいに静かな気分になるんだよなあ。店の中の世
界が遠くなったり近くなったりして。ほんとはおれはヒロさんの言ってるようにしたかったん
だけど、いつまでもそれが身体に染み着かなくって、掴んでもふわりと逃げるみたいになって
いって。
強いて言えば、それが嫌だったのかなあ。
たしかに、ヒロさんはすごいし、あそこにいる人たちもすごい。
でも、そこにあった言葉や考え方は、おれの中には入ってゆかなかったんだよ。
すごくても、欲しいなと思っても、おれの中にはそういうものが入ってゆく場所がなかった
んだ。違う時代の人間が持ってるものって、どんなに欲しがっても、手に入れられないのかも
しれない。
でもさ、それって、自分がダメだって思ったわけじゃないんだよ。その逆でさ、いいや、自
分には自分の持ってるもんがあるって、なんかへんな自信がついてしまってさ。
このごろはさ、ふわっと自分の中にも揺れているものがあって、時々、それがうまいこと音
楽になるんだ。バンドの練習の時間とれない時とか、道ばたでふらっとひとりでギター弾いて
歌ってるとさ、おれの気に入ってるフレーズんとこで、人が立ち止まったりするんだ。
もう、これでいいじゃん、って思ったよ。
おれの中には、何かを壊さなくても、そこにだけあるものがあるような気がした。
まあ、でも、やめたら、何だかほっとしたよ」
わたしはお店に服を見に来る若い女の子のことを思い出していた。
いつもとても派手な服を着ていた。大柄のチェックにギャザーのたっぷり入ったミニスカー
ト。あまりに素敵だったんで尋ねてみたら、自分で作ったんだと言った。
よく見るとギャザーは均一ではないし、ファスナーなんて無理矢理張り付けたみたいな手縫
いだった。
なのに、将来わたしがインディーズブランドを作って、そこでどんな服を作っていこうとも
彼女にはかなわないかもしれないと思った。
だけど、かなわないならかなわないでも構わない。
わたしは彼女の時代を生きたいわけじゃない。
わたしは自分の着たい服を着るんだ。理由とか主張とか、そんなのなくったって、わたしは
着たい服を着るんだ。
「きれいな金髪ね。前の赤い髪もよかったけど、その金色も似合ってるよ」
「そだろ。今一緒に住んでる女が美容師やってて、染めてもらったんだよ。おれ、赤が一番
自分らしくて似合うって思ってたけど、金髪もけっこういいんだよな。それに今は、へんな髪
の色してるやつ多いから、配達に行って変な目で見られることもないし。おれ、昔っから、お
んなじ事しかやってないんだけど、まわりがそんなんなってきて、だんだん生きやすくなって
きたな、って感じ、かな」
そうだね、だんだん楽になっていった。
わたしたちは、そのつもりはなかったんだけど、けっこう余計なものをいっぱい抱えていた
んだね。
ビニールの手袋をはずしたサトシにお金を払うと、ちょうど、玄関の前の小さな階段にだけ
夕日が当たっていた。
サトシの金髪は天使の羽みたいにふわっと、風になびいた。
あなたの頭の中には金色の天使が住んでいる。余計なことは考えなくとも、いつも天使は風
に踊っている。
「また、灯油切れたら電話しろよ、いつでも配達すっからさ、あ、ビールも、バラで持って
来ていいからさ」
「ありがと、あ、これ、少ないけどお礼ね」
そう言って、キスをした。
長い長いキス。
これだって、昔だったら理由が必要だったのに。
でも、そんなもの、なくったって、どうってことないんだよ。
こがゆき