かんきつ
お盆になると死者が家に帰ってくるみたいにして。
別れた男も少しのあいだだけ、この家に戻ってこないものだろうか。
会社が盆休みになったので、そんなことを考えた。
天気がよくって、たまっていた洗濯物を全部洗って干した。シーツも夏物のタオル
ケットも、一人分だとすぐ終わる。
男がいた頃は、洗濯する前のシーツの匂いを嗅ぐのが好きだった。汗の混じりあう
匂い。あれが好きだった。日なたの枯れ草のあいだにひと粒の露みたいに染みこんで
いる、汗がぷうんと鼻を撫でたものだ。
わたしはシーツの乾くあいだ、ひんやりしたフローリングの床にうつ伏せになって
いて、どうやらそのまま眠ってしまったらしい。
外はうっすら暗くなって、きれいに乾いたシーツが、風にぱたぱた音をたててい
た。
それから暗い部屋の中では、つけた覚えのないテレビの青い光がチラチラしてい
て、テレビの前には無名の死体のようにゴロリンと、男が横になっていた。
「やあ。勝手に入ってくつろいでるよ」
我が目を疑った。けれどそれは、別れて出ていったはずのトシだった。
いつも短かめに刈り込んでいた茶髪が、少し伸び過ぎている、そのせいか、いつも
の精悍さがなくって、トシの輪郭はどこかしらぼやけていた。
「ひさしぶりね」
あれだけわたしを罵倒しておきながらどういう了見でここに戻ってこれたのか、不
思議でしょうがないのだが、いきなりそういう話を持ち出すほど狭量ではない。何よ
り、会いたいと思ったタイミングで来てくれたのだから、あとの些末はとりあえず考
えないことにした。
トシは、片肘で頭を支えて、テレビをじっと見ていた。
ナイナイの岡村がテレビの中で叫んでいて、トシはそれを見てふふふっと笑った。
けれどわたしにはなぜだか現実のようには思えなくて、テレビの画面は微生物の運
動みたいにチラチラうごめいているだけだった。
「おなか、すいてない? 何か作ろうか」
「いや、それほどでもない」
「お茶漬けでも食べる?」
「いいねえ、そんな軽い感じのなら食べたい」
あつあつのお茶漬けに、丹念に梅干しをほぐして、ズズッと口に運んでゆく。それ
を見て、ああ、いるんだなあと安心してお茶を入れにゆくと、その間に、トシは跡形
もなくなっていた。お茶漬けだけはきれいさっぱりなくなっていて、箸もきちんと揃
えてあった。
一緒にいた頃のトシは、お茶漬けよりも焼肉が好きだった。
テレビを見ていて番組のつまらないと、テレビに向かって怒って喋り出した。外に
ごはんを食べに行くと、店員の態度に腹をたてて、テーブルをガシンと叩いたりもし
た。だけどその不敵な態度は強烈にわたしを惹きつけた。ふたりで歩くとわたし自
身、こわいものなんて何もないような気分にさえなった。
一緒にいたいってわたしの家に転がりこんできたくせに、しだいにここにいる時間
を憎んでいった。
人間誰だって何もしないような時間があってもいいんだとわたしは思っていた。だ
けど二人でぼんやりしていると、こんなふうにしてると自分が溶けてしまいそうだと
言って、トシは飲みかけのコーヒーを白い壁に投げつけた。わたしの部屋の壁には、
コーヒーの染みが打ち上げ花火のようないくつも模様を作っていった.。
夜にわたしが目覚めると、トシはよく布団の傍らにじっと座りこんでいた。
座り込んで考え込んでいるトシは、心の底からわたしと安らぐことを拒否してるよ
うに見えた。トシの背中と外気のあいだには、けっして混じり合わない強烈なバリア
ーがあるような気がした。
トシは地方のテレビコマーシャルの音楽を製作していた。たった30秒のために、い
つも感覚を研ぎすましていたいと思っていた。
一度小さなキーボードを広げて曲を作っているところを聞いたことがある。簡単な
メロディラインを、少し変えてみたり、テンポをずらしたりしているうちに、音楽が
何かしらの力を手に入れていくのがわかった。目の前で変遷してゆくトシのメロディ
は、わたしの心にあった薄い防壁をぽろぽろとはがしてゆくように響いた。
追い詰められた狂気だけが、かくも美しいものを生み出すのだ。
わたしはとてもそんなふうには生きられなかった。
わたしはトシを磨耗させることしかできなかった。
いつか、わたしが与えられなかったものを、だれかがトシに与えるのだろうか。
そう思うと胸が締めつけられた。かなえられない無力さが、夜には波のように押し
寄せてきた。たがその間隔は、時間がたつにつれて長くなっていって。そういうふう
にしてずいぶん長いこと忘れていたのに、また何事もなかったようにふらりと戻って
くる。
二度と会えないと思うよりかはいいのか。それよりもっと悪いのか。ただのきまぐ
れに、そこまで深く考えるのもなんだか割りが合わないような気もした。
あくる日もトシはやって来た。
わたしは夕食を終えてから、パソコンに向かってインターネットをしていた。
ひとりの夜が長くなりすぎた結果である。ボーナス払いで買ったパソコンは、私の
いい友だちになった。名前を登録したページを見たり、メールを貰ったり返事を書い
たりしているうちに時間はあっという間に過ぎていく。わたしは部屋に背を向けて、
ただディスプレイだけに熱中していた。
冷蔵庫のミネラルウォーターを求めて立ち上がった。すると、二メートルほど後ろ
から、トシがぼんやりと画面を見ていた。体操座りをしてじっとこっちを見ているト
シは、ふたまわりほど小さく丸まって見えた。
「あー、びっくりした。いるならいるって言ってくれればいいのに」
まだわたしの合鍵を持っていたのか。そう思って感慨した。だが、それもまた、夢
の中で感慨にふけってるような、遠くて実感のない感慨だった。
わたしたちはふたりでミネラルウォーターを入れたコップを持って、ディスプレイ
の前に並んだ。水をひと口飲むとからだの細胞が少しだけうるおった。
何度かメール交換した男性からのメールを無意識にクローズした。
ごまかすように画面をYAHOOにした。
「こんなことやってるなんて思わなかった、意外だったな」
「トシは? 仕事じゃいろいろ使ってるんでしょ」
「いや、書いて、保存して、クライアントにメールで送っての繰り返しだよ。イン
ターネットなんてゆっくり見ようとも思わなかった」
「見たいページある? 音楽のページとか、検索してみようか」
うーん、トシは考えてるのか興味がないのかわからないように、あいまいな声を出
した。
「ねえ、何が見たい?」
そう言いながらわたしが「お気に入り」に入れたGLAYのページにマウスを合わせ
ようとしてると、トシはぽつりとこう言った。
「おまえの、はだか」
トシは冗談を言わない。顔がこわくて冗談が冗談に聞こえないからだ。ついでだが
下手なジョークも言わない。そういうわけで、こういうのは、一番トシが言いそうも
ない台詞のはずだった。
マウスを持つ手を、大きな手が包み込むようにして、わたしの手をマウスから遠ざ
けた。
機械の感触が離れていって、人肌の感触に代わった。ひんやりとしていた。
その手がわたしの身体をいとおしんでいった。ひとつひとつ、丹念に、こわれもの
の陶磁器を手のひらに転がすようにいとおしんでいった。
こんな感触だったのか。
トシの指は。トシの唇は。
まだ一度も触れたことのないもののように、はじめてのように注意深かった。
それは、わたしが今まで一度も抱かれたことのない、男の感触だった。
もちろん、ここにいるのは間違いなくトシである。トシの顔をして、もう何度も見
慣れたトシの身体つきで、トシの声で喋っている。
だが、セックスをするときにあらわになる、何もかもを脱ぎ捨てた心の状態が。何
ていうか、トシとは全然違うのである。
目をつむると、凪いだ風の気配だけが身体の上にあった。すべての力を抜いて、身
をまかせても傷つけられないような安心感が、逆にとてつもなくわたしを不安にさせ
た。
あの頃、トシのやり場のない怒りや、溢れてゆく感情は、いつも行き場を失ってい
た。だからトシはわたしにそれをぶつけた。
乾ききった喉を癒すように、現実世界で征服できなかったものの身替わりにわたし
を征服するように、どうにもならない苛立ちを投げつけるように。トシがわたしを抱
き締めると、渾沌とした渦の中にわたしは投げこめられるのである。
けっして自分の中に存在しない場所を、わたしは見てしまう。
わたしの五感が、その渾沌に反応する。
そこは怒りや憎しみの渦の中であって。だがその場所にいることで、わたしはトシ
の傍らにいることを感じられるのだった。
「あなたは、まぼろしなのね」
わたしは、今、傍らにいるトシに言った。
それはきっと、わたしが作りあげたもの。
お盆に死者が帰ってくるように。
わたしはもう一度だけ、トシに会ってみたかったのだ、おそらく。
何を馬鹿なことを、と笑いとばすようにトシの唇が歪んだ。そのままの顔で言葉を
捜し、それがとてつもなく長い時間に感じられたが、それでもトシは、笑うような声
で言った。
「まぼろしじゃないよ。影だよ」
「影?」
「そう、影。人間はみんな影を持っている。おれはトシの影。トシが心の中に隠し
ている部分は、みんなおれが持っているんだ」
「影のトシは、なぜわたしのところに来たの?」
「ずっと気になってた。あんな別れ方をしたから、ずっと気がかりだったんだ」
トシの形をした「影」から、そう言われるには悪いものではなかった。おくびにも
出さなくても、微塵でもそう思っていたのか。
「トシは、影の部分ではおまえのことが好きだった。おまえといると安らいだ。だ
けどあいつは、安らぐことに慣れてなかった。昔からそうなんだ。何かに熱中して追
っかけていないと落ち着かなくって。安らぐと、何もかもがダメになると思いこんで
いた。それでおまえと別れた。でも、それであいつは、自分の影のことも、きれいさ
っぱり忘れてしまったんだ」
わかるような気がした。トシなら。それくらいのことはやりかねない。それぐらい
の矛盾くらいはごりごりに押し通してしまうのがトシなのである。
トシの影は、タバコに火をつけてふうっと煙を吐き出した。
その仕種は、本物のトシと一寸たがわぬままのもので、案外手のこんだ芝居をして
るだけなんじゃないかとも思ったくらいなのだが、残念ながらヤツは、わたしのため
に手のこんだ芝居など考えるような男ではなかった。
「なあ、おれが言うのも何だけど、あいつのことはもう、忘れろよ」
「ほんとは忘れてないの知ってたから、ここに来たのね」
「それもある。だけど。やっぱりおれは、もう一度、会ってみたかった」
思う人には思われず、である。
同じ顔をしてるこの男は、こんなに甘い言葉でわたしを喜ばせてくれるのに。それ
でもこの男はトシではないのだ。
複雑きわまりない。同じ顔をしようが、甘い言葉を言おうが、この男が持っている
ところ以外のトシを、わたしは欲しいのだ。二等賞もスカも、いつも当たりくじには
程遠い。
「影を持たなくなって、トシは、もう、ずっとあのままだよ。絶対に変わらない、
絶対に歩み寄らない、どこかでふっと甘い考えがよぎって、人が変わったように優し
くなったりは絶対にしない」
「なんで。影がないと、人間は変われないの?」
そんなこともわからないのか、とでも言うように影はふふふと笑った。
「人間のはたから見えない部分てのは、みんな影が吸収しているんだ。人に見せら
れないくらいに弱いとことか、言葉にだせない感情とか、ほんとは矛盾してるのにそ
のままになってるものとか。そういったものは、みんな影が引き受けている。だけ
ど、あいつにはもうそれがない。
あいつの狂気は、ずっとあのままだ。それが柔らかくなったり深くなったりはしな
い。今のままの子供みたいにストレートな衝動を、後生大事に抱えていくだけだ。お
まえが自分にとって何だったかなんて、けっして考えない。
昔と変わらず、酒を飲み歩いて、時には行きずりの女とよろしくやって。それで
も、けっして癒されないことを、望んでいて。あいつは。ずっとそれを続けていくだ
けなんだ。もう、二度とここへは戻ってこない。おまえのことをなつかしく思った
り、戻ってみたいと思うこともない」
わたしの思い出の中にいるトシと寸分もたがわないままで、トシはこれからも生き
ていくわけだ。
あるいはそれは、才能と呼ばれるものかもしれない。
だけどももう、絶対に戻って来ないんだと思うと、知らないうちにひとすじ涙がつ
つっと溢れた。
忘れていた。ずっと泣くことさえも忘れていた。わたしはその時、わたしの影はず
っとわたしと一緒にいたんだと思った。泣けなかったわたしを吸収したり、補完した
りして、影は、わたしが表に出せなかったものをずっと抱えていたんだなと思った。
こうして影と話しているとそれがわかりすぎるくらいにわかるのに。
トシは。もう、それを知ることもないのだろう。
「でもさ、それはそれで、悪いもんじゃないんだ。あいつが影の存在なんて忘れて
しまってるから。おれはあいつと一緒にいる必要なんてない。だからおれはこんなふ
うにして、ひとりで好きな場所にいけるんだよ」
そう言って、かすかに笑って、それからトシの影は、そのまま消えていった。
空気に溶けてなくなるように、ふわりと大気に分解されて。
そのあとには、小さな青い、みかんがひとつだけ残った。
名前は忘れたけれど、その柑橘のことを、わたしはよく覚えていた。
昔、トシと買い物に出かけた時に、トシが手に取ったものだ。
生まれた町でよく食べていたという、とてつものなくすっぱい柑橘類。
それがこの地では、こんな値段になるのかと、トシはなつかしげに顔をほころばせ
た。
これをさ、焼きたての魚にジュジュッとかけると、すっごくうまいんだ。
サンマとか、そういうやつでさ、ああ、たまんないよなあ。
これ買ってってさ、焼きたてのサンマ、食べたくてたまんなくなっちゃったよ。
昔の記憶である。
影のないトシはもう、そんなことは言わないのだろう。
こがゆき