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ご近所散歩道シリーズ・
百年の孤独
老人は食堂の入り口でひとりで留守番をしている。椅子に腰かけて机に足を投げ
出し、日がな文庫本を読んでいる。
汚れてくしゃくしゃになったダイエーホークスのキャップはまるで体の一部分の
ようだ。この地ではホークスのキャップもめずらしいものではないが、ここまで年
期が入ったものは、そうめったにはお目にかかれない。
朝に歩道で火を焚き、縄とびをして、するめのような体を揺らす。
声をかけると、張りのある声で答え返す。誰かが声をかけるのを待っていたよう
な、期待にはずんだ声だ。
だが、日中、店の中にいるときはほとんどひとり。客はほとんどいない。
奥には味の染み込みすぎたおでんと、あやしげなうどん玉が、あるはずなのだが、
それを食する人を見たことはない。
それでも老人は、店番をして、文庫本を読んでいる。
向かいの工場に食堂がなかった頃は、相当に繁盛していたらしい。12時のサイレ
ンと同時に店は工員で溢れていたという。朝にはできたてのコロッケが揚がり、あ
れはうまかったと、今でも近所の語り草だ。
もう、コロッケは作ってないのですか。
そう尋ねたことがあった。
ああ。あれは家内が作っていたんでね。あいつのコロッケは本当にうまかった。
あれが死んでからは、手のこんだものは置いていない。自分にはそんな芸当はでき
ないんでね。うどんくらいなら誰でも作れるから。それで商売を続けてるんだ。
老人はそう言って、笑った。
老人は昔、向かいの工場に勤めていた。
独身で、暇を持て余す休日には山に登った。登山仲間がいたわけではない。むし
ろひとりで無心に登山する方が性にあっていた。
ある日、吹雪が強くて歩くこともできずにテントの中に待機した事があった。方
向がわからないほどの吹雪で道に迷うよりか、ここで待とうと決めた。やまないの
なら、明日までいればいい。食料も余裕があり、一日くらい仕事を休むことにも抵
抗はなかった。もちろん、休めば現場は困るのだが、なんとかやりくり出来るくら
いの体制ではある。零細というほどではない工場には、それくらいの余裕はあった
のだ。
夜に道に迷った女がひとりテントに迷いこんだ。
雪は身体に降り積もり、その身体は氷のように冷たくなっていた。方向感覚を失っ
た恐怖に震える女の身体を抱いてあたためると、生気のように体温が戻っていった。
凍りついていた髪の毛を、タオルで少しずつていねいに解かしていくと、女は、あ
あ、生き帰ってゆく、とつぶやいた。
それから女は共に帰り、一緒に暮らすようになった。
料理のうまい女は、食堂をやりたいと言い、工場を辞めて目の前に店を出すと、
その店は次第に繁盛していった。
最初はものめずらしさから来る同僚たちばかりだった。だが、味の評判は伝え広
がり、お昼のサイレンと同時に、急ぎ足で押しかける人でごった返すようになった。
女はよく働き、老人もまだ若くて、忙しく身体を動かした。
午後の始業のサイレンが鳴り、人々が工場に戻ると、女はいつも、がらんとした
店を見回してため息をついた。
ああ、寂しい。たくさんの人がいたときは紛れるものを。この時間になると、ま
た、寂しくなる。人がいなくなるのは寂しい、今までいた人がいなくなるのは、と
ても寂しい。
まだ、洗い物が溜まっていて、そんな事言う暇もないのだが、その声は、雪原に
ひとりとり残されたような孤独を感じさせた。
それで、そのたびに女を抱きしめた。
少しでも人のあたたかさに触れればと抱きしめると、女はいつも、氷のように冷
たくなっていた。
夜や、夕刻にも。女は気を抜くとひとり、冷たく孤独になっていった。
そのたびに抱きしめた。
体温が戻るように丹念に、髪をさすり、胸を胸に押し付け、背中に腕を回し。
そうしてあたたかくなると女は、ありがとう、と言って微笑むのだが、女はまた、
冷たい孤独に沈んでゆくのだった。
そうして、女はある日、工場の煙突から身を投げた。
煙突についていた金属の梯子をよじ登り、ふわりと身体が舞い、地面に血の染み
をはりつけた。
瀕死の女は、抱きしめるとすでに凍りついたように冷たく、どれだけさすっても
体温が戻ることはなかった。
年月が過ぎ、今、老人は、ひとりで店番をしている。
この年になると、あの時の女の事を少しだけ冷静に考えられるようになった。
おそらくあの日、決定的な何かがあった。そして彷徨い、方向を失った吹雪の中
で、女は得もしれぬ孤独にとりつかれたのだろう。
体温が戻っても、けっして消えることのなかった孤独。
どれだけあたためても、身体の芯に染み着いてしまっていた孤独。
こうして店番をしているとわかる。「あれ」は波のように襲ってくるのだ。波の
ように襲ってきて、飲み込まれてしまうと、生があやふやになってゆくのだ。
どこにいようとも、ひとりきりになってしまい、生きてゆく芯が、がたがたになっ
て、死んでもこの世に存在した事から逃れられず、その後も続いてゆく世界に耐え
られず、どこまでいっても無心になれない自分が、けっして打ち負かすことのでき
ない、普遍の孤独。
いくつもの本を読み、いくつもの哲学を貪ったけれど、言葉で乗り越えようとも、
けっして越えられない孤独が、たしかにここにはあるのだ。
いつまでか、生きてゆくだろう。
一番別れたくない人を失ったけれど、これからも、誰かを失ってゆくだろう。
そういうふうに生きて、孤独は傍らで、自分を飲み込もうと、病の発作のように、
じっと身体の中でなりを潜めているだけだ。
何十年もそれとの戦いに耐えてきた。
私はまだ、それの本当の恐ろしさを知らないのかもしれない、知らないから、こ
こまで生きてこられたのかもしれない。
乗り越えられるだけで、なんとか、ここまで生きてきた。
雪原の孤独は、こんなものではなかったか。
それはそれで仕方あるまい。
私は、とりあえず、それと戦って、ここでこうして生きてゆくだけだ。
その後に何があるかさえも知りはしないが。
こうしてここで店番をして。
ひとりでそれと戦って、こうして生きてゆくだけだ。
こがゆき