ロードランナー日記・
四月怪談「花見」
川の向こう岸に、花見の宴がありました。
河原には、何千年もここに居るような立派な桜の老木が立っていて。
その枝は複雑に絡まり迷路のように四方八方に手を伸ばし、薄桃色の花び
らは幾百幾千と重なりあっておりました。
枝の隙間から差し込むピンク色の太陽の光りを浴びながら。人々はそこで
宴に興じていました。
わたしはいつのまにか、浅い川を渡って、その宴の席にいました。
「おお、来たか、来たか。まあ、そこに座って、飲みなっせ」
「ビールがいいかい? それとも、飲みやすい冷酒もあるよ」
「いやいや、お嬢さんにはワインがよかろう。これを飲みなっせ、さくら
のワインだよ」
えびす顔のほろ酔いの老人が、コップになみなみとワインをついでくれま
した。
透明なピンク色のワインは、さくら餅のような薫りがかすかにして。
ひと口飲んでみると、あっさりした中に甘味も辛味も含まれていて、澄み
切った豊穣が、頭の中まで広がってゆくようでした。
いったいどういう集まりなのでしょうか。
老若男女、みなそれぞれに旧知のように大声で笑っております。酒を酌み
交わし、つまみも何も食わず、ただ酒を酌み交わし。他愛もない話に大騒ぎ
をしています。
わたしもまた、旧知のように扱われ。当たり前のようにそこで笑い。
なぜか多勢の花見の遠い席には。昔見た、父の顔まで見えるような、不思
議な懐かしささえもがありました。
「そう、思いだすよねえ。ときどきさ、ふっと、夢から醒めたみたいに、
昔のことをさ」
「わかるわかる。ああ、毎日、こんなことしてんだなって。そんなこと、
ふらっと思いうかべてしまうんだよ」
「わたしはね、満員電車に乗って、揺られながら眠ってるとこばっかり思
い出すんですよ。ブレーキがかかってふっと目の覚める、あの感覚。起きる
と、あれ、ここも電車か、なんて思ったりしてね」
「そうだねえ、わたしゃ、きれいな夕焼け雲を見るとねえ、夕飯何にしよ
う、なんて考えてしまうんだよ。夕焼けに夕飯。こりゃ、もう、ひと括りな
んだよねえ」
「わたしはですね、手が覚えてるっていうか、気がついたら、手がチャー
ハン炒めてるんですよ。ねぎ入れたりハム入れたり残りごはんを炒めている
感覚。これはね、手が覚えてるんですよ」
「ああ、おれも。手がさ、いつも探してんだな、胸ポケットの携帯電話。
時計持ってなくって、時計がわりに携帯見てたからさ、ここでもつい、胸の
あたりをまさぐっちゃうんだよね」
「あなたは。何か覚えてます?」
上品な白髪のおばあさんが、わたしの顔をのぞき込みました。
「人間はみな、何か覚えているもんですよ。手やからだや頭が。無意識に
でも何かひとつくらい、身につけた自分の生活を記憶しているもんなんです
よ」
わたしは何を記憶してるんだろう。そう思うと、ふと、家族の顔が頭に浮
かびました。
「子供の顔、今は、どれくらい大きくなったんだろうか。それと夫のこ
と。元気でやってるんだろうか。そんなことばかり思いだして。いつまでも
思いだして。思いだすとまた、せつなくなりますね」
わたしがそう言うと、まわりの人は凍りつきました。
笑い声が止んで、仕種も何も止まって、人々の顔は固まったままで。
さくらだけが風にざわざわと吹かれて、花吹雪が激しく舞いました。
「かわいそうに」
やっとのことで、ひとりの老人が口を開きました。
「あんたは間違ってここに来てしまったんだね」
それから別の人が言いました。
「そうだ、何かの間違いに違いない、ここは、そういうことをみんな超え
てしまった人たちが、来るところなんだよ」
「向こうからこっちに来ることはできるけど、こちらから向こうにはけっ
して戻れない。その、ことわりを、全部わかってしまって、その後の世界が
見えてから、それではじめて、ここで花見ができるのさ」
「あんたはまだ、何もわかっちゃいない。きっと、間違えて来てしまった
んだよ」
「そうだ、まだ間に合うかもしれない。早く、お帰りなさい」
口々にそう言って、人々はわたしの背中を急いで押しました。
向こうで手を振る人がありました。
あれは。父。去年死んでしまった父。
手を振りながら、ニコニコと笑って、父は、追い返されるわたしを、遠く
からずっと見送っておりました。
気がつくとわたしは、近所の小学校のさくらを眺めていました。
光にすける満開の花びらの天井を、じっと見上げていて。
手には、セブンイレブンの小さな買い物袋。中には今日のおやつが入って
いました。
もうじきすると、二年生になったばかりの娘が、校門から、はじけるよう
に飛び出してくる頃です。
待っていてみようか。
いや、今日はやめよう。
また、さくらに、変な夢を見せられてしまったから。
いとおしいもの。せつなくなるもの。
それをまどわす、不可思議なさくら。
彼岸の花見はきっと、どこまでも続き。
わたしもまた、いつかは、その場所へとゆくのでしょう。
でも、もうしばらくは。
わたしは、この場所生き続けてゆく。
なんだかそんな気がいたしました。
こがゆき