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1.カレーライスクロニクル カレーを煮込むのに半日かかったらしく、ショウタからの電話が入ったのは夕方の4時すぎだった。 「ケーキでも買って行こうか」と言ったが断られた。 「駅までバイクで迎えに行くから、ケーキをぶらさげて後ろに乗るのは無理だよ。あ、バイク、平気?」 「はじめてだけど、楽しみにしてる!」 ユミはふわふわのスカートをあわててジーンズに替えた。 はじめて行ったショウタの家で、手作りのカレーを食べた。スパイシーで手の込んだカレーだった。 「カイエンペッパーを入れすぎた、ごめんね、辛すぎるね」 「平気、辛いの大好きだから」 結局二人はそのあとで、炎のようにぴりぴりしたお互いの唇をからめあうことになる。 それが長い時間の始まりだった。 子供のリョウが生まれてからは、ユミが甘いカレーを作った。 ホットガラムマサラをバリバリかけながら食べる。辛口の二人にはもちろん物足りなかった。だが別の鍋にもうひと種類カレーを作る余裕もなく、リョウをお風呂に入れたりするのに手一杯だった。 カレーが中辛になる頃には、三人揃って食べることが少なくなった。 中学に入ったリョウは部活で遅かったし、本社勤務になったショウタは終電ぎりぎりに帰ることが多くなった。 そんなとき、鍋の中にはとりあえずのカレーがあった。各自があたためて各自で食べる。 カレーはバラバラの家族をつなげる基地のようなものだった。 大学が決まってリョウが家を出た。 「はやく家を出たい」とも「まだ独立なんかしたくない」とも言わず、当たり前のように入学式に合わせて引っ越した。ショウタは軽トラをレンタルして引っ越しを手伝った。 「ほっとした」とも「さみしくなるな」とも誰も言わない。男たちは概して無口だ。 子供が大きくなるのなんてあっというまよ。いろんな人にそう言われていたのに、実際の子育ての時間は無限のように長かった。ほっとできない、うっすらとした緊張感がずっとあった。 それがいきなりすとん、と消えた。 このまえ暇を持てあました日曜日に、二人でグリーンカレーを作った。 ショウタがタマネギを飴色にした。ユミがチキンの大きさを整え、ココナッツミルクの缶を開けて丹念に濃さを調整した。 香辛料を入れすぎた。あの日のショウタのカレーみたいにグリーンカレーは辛かった。 「やっぱり辛いカレーはおいしいね」 ふうふう汗をかきながら、ショウタが言った。 「カレーじゃなくても辛いものはなんでも好きだね。私、寒いのが嫌いだから老後は物価の安い暑い国にでも住みたいな」 「おれはイヤだ。辛いものは好きだけど、暑いのは嫌いだ。エアコンがないと生きていけない。どうせおれの方が先に死ぬんだから、そのあとにユミは暑い国に行きなよ」 「わかんないよ。いきなり病気にかかって、わたしの方が先に死んだりして」 「それはないよ。死ぬのはぜったいおれが先だ」 結婚した時、これでずっと一緒にいられると思ったけれど、それが幻想であるとすぐに気づいた。死という別れが来ることが、ずっとユミの頭から離れなかった。 だけどもずっと一緒にいたおかげなのか、今は、薄いベールのようなおたがいの死の影を、少し受け入れられた気がしている。 独りで暑い国に住処を探すユミと、このキッチンで変わらずにカレーを作るショウタ。その両方を想像してみる。避けられないこととはいえ、どちらもさみしいに違いない。 でもこればっかりはどうなるかわからないんだから。 いろいろ考えないでのんきにカレーでも食べているのがいいのかも。 結局は二人でそんなことを話して、 冷たい水をぐぐぐと飲み干した。 * * *
2.メモリーズ オブ パエリア 「ヨシオって弟がいてさ、一回ユミを会わせたいんだ」 ある日ショウタがそう言った。 ヨシオ君は自閉症で、グループホームという所に住んでいて、昼間は軽作業の仕事をしているのだそうだ。 ショウタがヨシオ君を家に連れてきた。 「ユミさん、はじめまして、よろしくお願いします」 短く髪を切りそろえた痩せて色白のヨシオ君は、中学生のように幼くみえた。 ユミはパエリアを用意した。その鍋をテーブルに置いたもののヨシオ君は全く手をつけない。ショウタが気づいて、それを皿につぎわけた。 「てきとーに分けるってことが、ヨシオにはむつかしいんだ。けれど、生活にはそれほど困らない」 ヨシオ君は封筒に冊子を入れる仕事のことや、自分でやれる家事のことを話してくれた。話をしているうちに、ユミはヨシオ君のことが好きになった。ひとつひとつの言葉を自分の引き出しから取り出すように喋る姿が、とてもおだやかだったからだ。 「その印象のとおりだよ」ヨシオ君を送り届けてからショウタは言った。「感じるよりか、自分の引き出しのパターンを使って会話するのがヨシオなんだ。だけど、小さい頃は友達とのやりとりができなくて小学校をドロップアウトした。今でもヨシオは曖昧な指示や考え方を求められると困ってしまうんだ。だけど職場の人はヨシオの特性を理解して、できる仕事をたくさん任せてくれる。自分の居場所を与えられて生き生きしてるヨシオが今は僕の誇りなんだ」とショウタは言った。 その年の冬にヨシオ君は肺炎をこじらせてあっけなくこの世を去った。22歳だった。 ショウタは気づけなかった自分を責めた。両親の落胆も並大抵ではなかった。 春に控えていた結婚式を辞めようとしたが、両親はヨシオ君が楽しみにしていたからと言って列席してくれた。 二年生になった子供のリョウが、食卓のテーブルで宿題をしている。 「新しい」という漢字を三回続けて書いていた。しばらくして「漢字は覚えたかな?」とショウタが尋ね、リョウは当たり前のように「新しい」と鉛筆で書いた。ショウタはちらりと複雑な顔をした。 「漢字を覚えられなかったんだ、おれ。ノートに1ページ書いても覚えられない。集中してないんだって親に怒られたけれど、集中しても覚えられなかった。算数も理科も得意だったのに、漢字だけがどうしてもダメだったんだ」ショウタは言った。「でもきっと、そんなふうに、本当は誰だってバランスが悪いんだよ。それを少しずつ修正しながら社会というサークルの中に入っていけただけなんだ。不幸にもヨシオはたまたまバランスがもう少し悪くて、それでよけいな苦労をしたんだろうな」 遺伝子のことを考えていたんだとショウタは言った。自閉症は遺伝子に関係があるのだそうだ。リョウがヨシオのようだったらと悩んでいたのだという。ヨシオのことを誇りに思っているのに、それでもリョウはどうなんだろう心配してしまう自分がとてもイヤなんだとショウタは告白した。 休日の夜、リョウが寝たあとに二人でビールを飲んでいる時、ショウタはよくヨシオ君の話をする。 忘れたくない記憶をたぐるような些細な話ばかりだ。幼い頃、苛立って冷たくしたことや、苛められるとかばっていたこと、オトナになってからの成長の記憶。小さなエピソードをショウタは光る石のように拾い上げる。 ユミはパエリアの日しか知らなかったのに、どんどん記憶が増えていった。 ヨシオ君をまんなかにしてビールを飲む夜は、ヨシオ君も一緒に笑っているみたいだ。 今ここにいなくても、ヨシオ君はだんだん近しい家族になってきた。 * * *
3.デパチカ・カニクリームコロッケ 休日の北天神のカフェでひさしぶりにナツコと会った。ナツコのストレートの猫っ毛は昔とちっとも変わらない。それから身体のラインのわかる黒のニットのワンピース。これは自分にはとても無理だとユミは思う。 会社の同僚だったナツコは今も独身で、あの頃よりもずっと責任のある仕事をしている。 最近はふたりで会話の小道を歩いていて、うっかり地雷を踏んでしまうことが多くなった。それが何なのか踏んでしまうまでわからない。だから用心のしようもない。 その日ユミは、小学校や地域のボランティア活動のことを喋っていた。ボランティアというのは名ばかりの強制で、バザーや校内の夏休みの清掃に行かされる。おまけに同じ母親なのに言ってることの理屈がまるでわからない。そんなことを延々を話してしまったけれど、それはナツコにしてみれば海の向こうの小さな紛争のようなものだったのだろう。 「それでもユミみたいな扶養家族は税金とか控除がいっぱいあるのよね。税制は独身女にはもっと冷たいものなのよ。国は、あなたたちのことをタダで使える自分の奥さんくらいに思ってるんじゃないの?」とナツコは言った。 それが税制に対する不満なのか、仕事をしないユミのふがいなさへの不満なのか、自分の立場への不満なのかわからなかったけど、紛争の当事者には少々的外れで残酷な手触りのものだったのはたしかだった。 そういえば同期のヒロシがこの前突然メールをくれた。ナツコと三人で毎週末遊び回っていた仲間だった。 「ユミもなかなか外に出れない? ときにはみんなで飲みに行こう」という内容だった。 思い出してヒロシの近況を尋ねてみた。 「二人めがもうすぐ生まれるらしいよ。奥さんは今、子供を連れて実家に里帰りだって。今はさえないおじさんよ」 これまたばっさりやられてしまった。 ずっと友達でずっと同じ場所にいると思ってるのに、本当はすごく離れた場所にいるんだなあとユミは思う。だからわたしたちは、会うとすごくちぐはぐなのだ。わたしもヒロシもいつだって、その場所に戻れるように錯覚してるのに。 家族という仕事は夜になっても終わらない。家族は仕事じゃないけれど、終わらない残業しているような気分になるときだってある。食べたくないのに夕飯を作らなきゃいけない日もあるし、子供は表計算みたいに入力すれば結果が出るってわけにはいかない。自分で産んだ子供なんだから、って言われればそれまでだけど、 そんな言葉でさえも、わたしたちをあっさり檻の中に隔離してしまうのだ。 ねえ、想像力があればわかるなんて嘘だよね。おたがい立場が違うだけでわからないことだっていっぱいある。想像してわかることがあるとすれば、自分の世界の外側には想像してもわからないことがたくさんあるってことだけだよね。 そんなことを心でつぶやきながらユミは、今朝テレビで見た戦争の中継画像を思い出した。 話が盛り上がらないままにナツコは「まだ買い物があるから」と言って、唐突に席を立つ。 ああ、とか思うけれど、また時間がたって一緒にお茶でも飲めればいいなとユミは思う。 そろそろショウタもリョウもおなかをすかせている頃だろう。デパチカでカニクリームを買って帰ろうか。 何度か作ってみたコロッケはどれもパサパサの失敗作だった。どれだけ愛情注いでも手間とか時間をかけても、うまくいかない時もある。 二人はデパチカのコロッケこそがごちそうだと思っている。 主婦だからコロッケくらいは手作りで、とずっと思っていたけれど、作れなくったってそんなに困らないか。 * * *
4.ラーメンランチ こういうのは、やはり引きこもりって言うんだろうか? とユミは思う。 高校に入ってからリョウはまったく外出しなくなった。いや、高校だけは毎日通っている。だが帰宅すると一歩も外に出ない。コンビニにも立ち寄らず、家の二軒隣の自販機までも行かないのだ。長い夏休みでさえもきっぱりと家の中にいる。ユミにジュースや雑誌を頼む日もあったが、部屋に閉じこもるばかりで会話もめっきり減ってしまった。 確実と言われていた志望高校に落ちた。滑り止めの高校には同じ中学のみっちゃんがいたけれど、質実剛健の男子校に馴染めなかった彼は早々に中退してしまった。 思春期だもの、気のすむまで悩めばいいんだよ、とショウタに言われ、見守ろうとは思うものの、家の空気がリョウの分だけ重かった。 日曜のお昼にショウタと二人でラーメンを食べに行く。リョウにはコンビニの弁当を買って与えた。とにかく外食がしたかった。 混んでいる店内で、ショウタが背の高い店員に注文をした。 「えっと。ラーメン大盛りと並みがひとつずつに、ご飯がひとつ、ホルモンひとつですね」 金髪にピアスをした眉毛のない店員がたどたどしく 繰り返す。 「おい。もしかして、みっちゃんじゃないか」 ショウタがそう囁いたので見上げると、みっちゃんが照れくさそうに笑っていた。 はじめてのバイトなんだろう。ずっと手持ちぶさたで立っている。それからテーブルの片づけに呼ばれ、どんぶりを片付け、ていねいに台ふきで拭きあげた。きっとまだ、できることが少ないのだろう。 「お待たせしました」 店主らしき別の男性とみっちゃんがふたりでラーメンを運んできた。 「えっと、大盛りはどちら?」 とか言いながらどんぶりを置いて、それから店主が伝票を確認する。ご飯とホルモンがまだなのに気づいた。 「おい、ご飯とホルモン、持ってきてないよ、これを先に持ってくるんだよ、お客さんすいませんね」 それから別の店員がご飯とホルモンを持ってきた。 みっちゃんはわたしたちの前で怒られたから恥ずかしかっただろうか? 恥ずかしくても傷ついてはいないと思う。みっちゃんが傷つくのは悪意のある言葉だけで、そんなものにたくさん傷ついてきたけど、真面目な忠告はまっすぐに受け止められる子だったからだ。そうだ。中学生活がうなくいかなかったみっちゃんは、いつもウチに寄っては、他愛もない話をしながらリョウとゲームをしていた。 それからもみっちゃんは背筋をピンと伸ばして、自分のできる仕事が見つかるのを、じっと立ったまま待っていた。少し緊張した顔がまぶしかった。 「すいませんね、ごはんとホルモン、遅くなっちゃって」 支払いのときに店主が言った。 「あ、ぜんぜんかまわないです」 と答える。 ホルモンが遅くったってぜんぜん構わないです。その代わり、みっちゃんのことをお願いします。みっちゃんのご両親とかまわりの大人とかが、教えられなかったことをいっぱい教えてやってください。ほんと眉毛ないけど真面目な子なんです、ただ傷つきやすくて回り道が多かっただけだから。彼が自分を誇れるように。どうかよろしくお願いします。 ユミは心の中で深々と店主に頭をさげた。 リョウもいつか……とユミは思う。巣箱の中で守られる時間はそんなに長くはないだろう。リョウもいつか、家族以外の誰かを頼れる日が来ますように。誰かのあたたかい言葉、誰かの親身な言葉に出会えて、いつか、わたしたちの外側に広がる限りない世界と繋がっていけますように。 こがゆき
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