絵理ちゃん
3
そういうことがあって、しばらく絵里ちゃんの店から足が遠のいた。
彼女に嫌気がさした、というのもあるけど。
絵里ちゃんといると、どうして矢崎と別れなければならなかったのだろう、と思っ
てしまう自分がイヤでたまらなかった。
いくつもの夜をひとりで過ごした。少しずつ夜の空気は冷気を帯びていき、カベチョ
ロはもう二度と姿を見せなくなっていった。コンビニのお弁当を買ってみたり、長い
長いミステリー小説に熱中しながら夜を過ごしたり。テレビを見ながら、マニキュア
の手入れをしたり。
そんな日常をひとりでやり過ごすだけなのに、わたしの身体は少しだけ緊張してい
た。
ひとりでいることと対峙する緊張。
そんな自分を保つための緊張。
これからだって、わたしはひとりの夜をいくつも過ごすのだろう。
誰かと出会い、一緒になることだってあるのかもしれないが。とりあえず今は、死
んでしまった自分を再生するように。矢崎のいない日常を過ごせるようにならなけれ
ばならないのだ。
そう思いながら、矢崎もカベチョロもいない、ひとりの状態を維持していった。
家でごはんを作ってみたり、残ったシチューを冷凍してみたり。
ボーナスで買ったパソコンで、ときには出会い系サイトを覗いてみたり。
そんなふうにして、とてつもなく長く感じる秋の夜を、わたしは部屋の模様替えで
もするかのようにていねいに刷毛で塗りつぶしていった。
***
そんな夜に、自宅のパソコンへ、絵里ちゃんのケイタイからメールが入った。
「ヒロトが出張中なので、よかったら、自宅へ電話して」
お店はまだ営業中の時間だ。不審に思いながら、電話をしてみると、妙に明るい絵
里ちゃんの声が返ってきた。
「ひさしぶりー。居てよかったあ、退屈で、誰かと話したかったのよー」
絵里ちゃんは、体調を崩して店を休んでいると言った。
「ほんとは、ちょっと風邪こじらせただけなんだけどね。いいきっかけだから、も
う、このまま誰か別の人を雇ってもらおうと思っているのよ」
そう言って絵里ちゃんは、これまでのことを話してくれた。
まず、最初にミサキちゃんが壊れた。
彼女は、店長の気持ちがわからないと言っては、しょっちゅう絵里ちゃんの自宅に
電話をしていた。店長ともだいぶん喧嘩してたらしい。だが店長はミサキちゃんと別
れるつもりは毛頭ないし、絵里ちゃんも切り捨てることができなかった。
そんな状況の中で、ミサキちゃんは全部自分で抱えてしまい、彼女の外壁は壊れて
いった。
体調を崩して病院通いの毎日だと言う。幼稚園も休職中だそうだ。
うんざりだと思いながら、店長も絵里ちゃんもミサキちゃんをなだめすかす。彼女
は、どうしていいのか自分がわからない、これからのことが不安なんだと言いながら、
ぽろぽろと涙を流す。だけど、証拠も何もない二人に別れてくれとも言う勇気もない。
そこまで追いつめられているのに、彼女はなにひとつ断ち切れず、絵里ちゃんと店
長にしがみつくことしかできなかったのだ。
これはどうにもならない、ほんとうにこのままじゃいけないと反省した。だから、
風邪をこじらせたことをきっかけに少し距離を置いてみるつもりだ、と絵里ちゃんは
言った。
「ヒロトも喜んでる?」
「うん、喜んでるね。だって、店が遅くてほとんど話してなかったんだもの。それ
に、ミサキちゃんからはしょっちゅう電話かかってきてたし。いろいろ怪しんでいた
みたいだから。でも、今はちゃんと家庭サービスしてるよ」
「そいで出張したら、とたんに退屈になったわけ」
「そうねー。お店を休んでもう10日くらいなるの、ちょっと退屈だねえ」
それから絵里ちゃんは、いろんな話をした。
店長と別れるつもりだってこと。まだミサキちゃんがときどき電話してくるけど、
店を辞めようかと言ってみると、少しほっとしていたこと。そんなことを絵里ちゃん
は明るく話してくれた。
さすがの絵里ちゃんも、痛い目に遭うと少しは学習するらしい。そう思うとちょっ
と安心した。
そうして、しばらく話していると突然、絵里ちゃんは、こっちから電話をかけ直す
よ、と言った。
「別にいいよ、市内だし、そんなに電話代かからないし」
「ううん、いい。かけ直す。そのかわり、今日は一晩中電話につきあって。あいつ
からかかって来ても、ずっと話し中にしておきたいから。でないと。また会ってしま
うから」
絵里ちゃんは低い声で、きっぱりとそう言った。
***
電話を切って、冷蔵庫のミネラルウォーターをコップに入れているとすぐに、絵里
ちゃんからの電話がかかってきた。
「早かったね」
「うん。電話かかってくるとイヤだから」
でも、どうして、ヒロトが出張してることを知ってるんだろう。それを問いただす
と、メールが入ってて、それでうっかり言ってしまったのだと、絵里ちゃんは言った。
絵里ちゃんって、そういうとこが甘い。切れる、と言いながら、メールに返信する
なんて相当甘い。
「ねえ、絵里ちゃん。ほんとに別れるつもりなら、もっと、毅然としなくっちゃ」
「そうだね。だから……。今日は絶対電話に出ないようにしたの。今、ケイタイの
電源だって切ってるし……」
別れに必要なのは、絶対的な憎しみなのかもしれない。
誰かが、誰かを真剣に憎む。相手の立場なんて考えずに、自分の存在をかけて憎む
んだ。
矢崎の奥さんはそうしてわたしたちの関係を断ち切った。わたしは、すまないと思
うばかりで憎めなかった。だから、苦しかった。
そしておそらく、絵里ちゃんもけっして憎んだりはしない。すべてを自分の世界に
組み入れてしまう。それが絵里ちゃんなのだから。
「わたしね。今まで誰かを嫌いになったことなんてないんだ」
絵里ちゃんが言った。
「そりゃね、イヤなことされたって覚えはあるよ。でもね、うちの家族って、みん
な人がいいんだ。普通なら、そういうのって、成長するうちにどっかで反抗するって
みんな言うんだけど。たまたま、うまくやって来れたのよ。お父さんもお母さんも、
人の悪口なんて言ったことなかったし。でも、それで困ったことなんてなかった。店
長もミサキちゃんもいい人なんだよ。だから、二人ともずっと一緒にいたいなって思っ
てた。でも、ゆきのの言う通り、それじゃダメなんだよね。ああ、でも、ミサキちゃ
んには悪いことしたなあ」
絵里ちゃんはいい子だ。彼女の奔放さは育ちの良さの裏返しかもしれない。それで
も彼女は人を憎めない。悪いことしたって思っている。
でもそれは、嫌われたくない、いい子の絵里ちゃんの言葉にとしかわたしには聞こ
えない。
そんなふうにして、何もかも赦してしまうから、絵里ちゃんの世界は軋んでいくん
だ。
「でもね。ほんと、思うんだ。どんなに憎んだり別れたりしても、みんな生きてい
て繋がってるから。また、きっとどっかで会うんだろうし。そのときまでに。自分の
中の軋みが消えていればいいなって」
絵里ちゃん。生きて繋がってなんかいないよ。
だって。矢崎の中ではわたしなんか、もう、死んでしまっているんだもの。
そんな言葉を飲み込んだ。
悲観的な妄想なんて、絵里ちゃんには通用しないような気がした。
それからわたしたちは、昔の友達の噂話とかして時間を潰した。
絵里ちゃんは、もともとの基本がわたしと違うんで、全部をわかってくれてるとは
思えなかったけれど。彼女の決意が崩れないようにと祈りながら、他愛もない話をた
くさん続けた。
これ以上巻き込まれないように祈りながら。ずっと話を続けた。
たぶん、わたしは、こんな絵里ちゃんが好きなんだと思う。
だから、これ以上馬鹿な目に遭って欲しくなかったんだと思う。
夜中の二時をすぎて、さすがにこれ以上はつきあえなくなってしまって、それでわ
たしは電話を切った。
ひさしぶりに絵里ちゃんときちんと話せて嬉しくて。わたしは柔らかい世界にくる
まれるようにして深い眠りについた。
なのに。
その日の夜のうちに、絵里ちゃんはいなくなってしまった。
***
翌日、会社の昼休みにヒロトから電話が入った。
出張から今日帰るんで電話を入れたら、絵里ちゃんがいない。ケイタイにも通じな
い。何か心当たりはないか、と言う。
店長のことをヒロトがどこまで知ってるかわからなかったので、心当たりについて
は何も言えなかった。
帰りに寄ってみる、風邪で寝てるのかもしれない、と言って電話を切ろうとすると、
「いや、そうじゃないと思う。すごい、イヤな予感がするんだ」
と、ヒロトが言った。
とにかく、帰りに行ってみる、それ以上は言えなくて、わたしは無理矢理電話を切っ
た。
会社が終わるとすぐに、絵里ちゃんに電話をしてみた。だがケイタイの電源が入っ
ていない。
とりあえず、仕事場から近い、絵里ちゃんのお店の方に行ってみた。すると二階に
上がるシャッターは降りたままで、その前には、目を真っ赤にしたミサキちゃんが立っ
ていた。
ああ、やってくれたな。あれだけ夜遅くまでつきあったのに。
わたしは一体何だったんだろう。
そう思うと、膝からがっくりと力が抜けた。
店長もずっと連絡が取れないままなんだと言う。心配で来てみたら、こんな状態だっ
たと、ミサキちゃんは言った。
「絵里さんは、今、どこにいるんですか」
そう訴えるミサキちゃんの髪が、風にほつれていた。
「あの人もいないの。どうして二人ともいないんですか? ゆきのさん、あの人た
ち、やっぱり一緒なんですか?」
そういうことになるんだろうね、そう言うと、彼女は、どうして、どうして、と叫
びながら頭を振って泣きわめいた。
いつもふわりと髪をカールさせたミサキちゃんだって、きれいなままじゃいられな
い場面に遭遇する、大事なことにいつまでも目をつむったままでなんていられないん
だ。それは、わたしにはどうにもできないこと。
こんな時なのに、わたしはそんなことをぼんやりと考えていた。
とにかく、行き先なんて何も知らない。本当に一緒なのかさえ、わたしにはわから
ない。
わかったら連絡するから、そう言って、わたしのケイタイを教えてミサキちゃんと
は別れた。
ミサキちゃんは、それじゃあね、というわたしの言葉も聞こえないくらいに、声を
上げて店の前で泣き続けた。置き去ってきたその声は、ずっと遠く離れても、耳の奥
にこびりついたままだった。
***
そのまま絵里ちゃんのマンションに行って、何度もオートロックのボタンを押して
みる。だけど返答はない。
通いの管理人は、5時で帰っているので、誰かに開けてもらうわけにも行かない。
それで、マンションの前で途方に暮れていたら、向こうから、ボストンバッグを抱
えたヒロトが走ってくるのが見えた。
「どうだった? やっぱりいない?」
ヒロトはよほど急いで帰ったんだろう、肩で息しながら、そう尋ねた。
「わかんないよ、まだ。案外部屋にいるのかもしれない」
「一緒に入ってみてくれないか? ひとりで入るのが、こわいんだ」
部屋の中は、つい、さっきまで、絵里ちゃんがいたような生活の匂いが漂っていた。
テーブルの上には、電話の子機と、飲みかけのビールがそのままになっていて。そ
れに、脱ぎちらかしたパジャマ。
ちょっと近くのコンビニにでも行って?ぐに帰ってくるような有り様だ。
だけど、使いつけのバッグとケイタイだけがなくなっている。
預金通帳も着替えもそのままで、ビールの缶も流し台のコーヒーカップもそのまま
なのに。
それでも絵里ちゃんは、ここにはいない。
用意周到なんて言葉が似合わない絵里ちゃんは。
わたしとの電話を切ったあと、今までしがみついていたものを、放り投げるように
どこかへ消えてしまったんだろう。
「ずっと。変な男の影みたいなのは感じてたんだ。夜中にケイタイが鳴ったり、台
所でメールを打ってたりするし。でも、聞くといつも、ゆきのに書いてた、って言う
んだ。それ以上は聞けなかった。聞くのがこわかったのかもしれない。聞いて、もし
ほんとに男がいるんなら。どうすればいいのか、なんて、わからなかったから」
聞くのがこわかった?
ああ、そうだ、ミサキちゃんもそう言ってた。
そうだ。わたしだってそうだ。わたしも、何ひとつ聞けなかった。矢崎にほんとは
聞きたいことがたくさんあったのに、いつだってそれを飲み込んで、愛の言葉のひと
つも確かめられなかった。帰ってほしくない、のひとことだって、冗談にだって口に
できなかった。
ヒロトもミサキちゃんもわたしも。無作為に流れている地球の磁力を、ただ受け入
れることしかできない人間なのだ。
自分の力で磁力を作りあげられるのは、けっきょく絵里ちゃんだけ。
だからわたしたちはみんな。絵里ちゃんにしがみついていたんだ。
お店に行ってみたこと、店長もいなくてお店が閉まっていたことをヒロトに話した。
「ああ。そうか」
そういうことなんだ。と、ヒロトは何度も自分の中で繰り返した。
何も喋らずに、何度も何度も、今まで聞き出せなかった事実を受け入れようとして、
ヒロトは、そのことを反芻していた。
案外、しばらくしたら戻ってくるかもしれないよ、何かわかったら連絡するから。
そう言うしかなくって、わたしはそのまま部屋を出ていった。
帰り道すがらの空は、だんだんと群青を帯びてきていた。
明るい世界でまわりつづけていたものがすべて、闇に紛れていくような気がした。
絵里ちゃん。
行かないって言ったのに。なんで、行ってしまったの?
絶対ダメなんだって言ってたじゃない。
そのために、お店だって辞めるって言ったし、あの日だって、夜遅くまで電話につ
きあったじゃない。
わたしは、どんなことでも赦してくれる絵里ちゃんが、好きだったし。
矛盾もなにもかも放り込んで、ミサキちゃんのことまで心配する絵里ちゃんも、嫌
いじゃなかった。
何もかも自分の中で赦してしまって、そのまま、ここにいたって。
絵里ちゃんだったら、それでよかったのに。
どうして、行ってしまわなきゃいけなかったの?
わたしたちの地球がまわるための磁力がなくなってしまったような気がした。
わたしは、見上げる空に、ただ、自分が漂っているような、そんな無力さに襲われ
ていった。
***
それ以来、絵里ちゃんのお店には「臨時休業」の札が貼られたままになっている。
この事件は、ヒロトの両親も交えて、その後大変な騒ぎになってしまったらしい。
ミサキちゃんは、あれ以来心の状態がおかしくなって、ずっと病院に通いの毎日だっ
た。
一度、会社帰りのアーケイドでミサキちゃんとばったり出くわした。頬がこけて、
げっそりと痩せていた。トレードマークだったゆるやかなカールは伸びっぱなしで、
一気に十年分くらい老けたような気がした。
正直言って、しょっちゅう電話をしてくる彼女に辟易していたので、「もう、あき
らめなさい」って言ってやった。
ミサキちゃんは、堪えていたものが切れてしまったように、その場でポロポロと涙
をこぼした。
でも、しょうがない。わたしには彼女を癒せるものなんて、何ひとつない。
彼女は彼女で、そういう自分と対峙するしかないのだと思った。
***
会社の帰りに何度か、絵里ちゃんのことを聞きたくてヒロトのマンションを訪れた。
灯りがついているとわたしは、ヒロトのマンションのチャイムを鳴らす。すると必
ず彼は、オートロックの鍵を開けるのだった。
週に一、二度くらい、わたしたちはふたりでビールを飲みながら、今日にでも帰っ
てくる絵里ちゃんを待つかのように、ぼんやりとテレビを眺めて過ごした。
それもまた変なんじゃないかと思った。
だが、とりあえずわたしたちは、そんなふうにして絵里ちゃんを待っていたかった
んだろうと思う。
ヒロトは冷凍庫からアイスクリームを出してきた。
「絵里が、いっぱい作ってたやつ。ときどき食べたくなるんだよな」
そう言って、チーズのアイスクリームをつぎ分けてくれた。
なつかしい味。
甘ったるくないチーズのひんやりした感触が口の中に広がった。
それでわたしは泣きたくなった。
悲しいとかじゃなくて。叶えられないものも。けっして赦されないことも。全部を
そのままに詰め込んだ、絵里ちゃんの感触を思い出して。
チーズのアイスクリームの味が、そんな絵里ちゃんの宇宙の味みたいに思えて、わ
たしはなんだか泣きたいような気持ちになってしまった。
絵里ちゃんがいなくなって、いろんな事を考えた。
それで、ひとつだけわかったことがあった。
わたしは今まで、相手が受け入れてくれるとわかってからしか、その人を愛したこ
とがなかったのだ。
ヒロトと最初つきあい始めたときもそうだったし、矢崎のときもそうだった。
わたしはいつも、男の心の動きを敏感に察知してゆく。そうして受け入れてくれるっ
てわかってる分までしか、愛せないんだ。
そうして、それ以上の気持ちはみんな、自分の中にためこんでしまう。
多すぎる愛がうざいとわかっているから。
けっしてそれを見せようとしないで。そこにあるドロドロも泣き言も、みんな、な
かったことにして。そいで自分が苦しくなってしまうんだ。
わたしは、受け入れられないのがこわくって。
受け入れられる分だけの愛を自分から切り取っていた。
残りの方に、ほんとうの感情がいっぱい詰まっているのに。
わたしはそれに目をつむっていたんだ。
わたしだけじゃない。ヒロトも、ミサキちゃんも、みんなそうだ。
だから、なかば暴力的な愛情でそれを凌駕してゆく絵里ちゃんに寄りかかっていた
んだと思う。
ときには、呆れたり軽蔑したりするくせに。それでも絵里ちゃんから離れられなくっ
て寄りかかっていたのは、わたしたちの方だった。
絵里ちゃんは、そんなわたしたちを。どういうふうに見ていたんだろうか。
アイスクリーム食べ終えたヒロトの唇を、じっと見つめてみた。
激しい大気の流れも、惹きつける強力な磁力もない世界で。わたしたちは、凪のよ
うに、アイスクリームの感触を味わうだけなのか。
わたしは。自分の磁力が流れてゆくさまを見てみたかった。受け入れられるかどう
かなんて何も考えずに。心の中にある、暴力的に湧き出るものを。絵里ちゃんみたい
にそのまま放出させたら、どうなるんだろうと思っていた。
突風が吹き出したような感触を感じてわたしは、ヒロトの背中に腕をまわし、唇を
押しつけながら、倒れこんでみた。
絡みついたヒロトの舌がひんやりとしていた。
絵里ちゃんのアイスクリーム。
絵里ちゃんの部屋。絵里ちゃんのヒロト。
人のものなど欲しがったことなどないのに。どうでもいいやと思った。
昔、何度か味わった、この感触ももどかしく。わたしは、ヒロトの上にゆっくりと
腰を沈めてゆく。ヒロトはそれを拒みはしなかった。
地球の磁力が変わる。意思が、磁力を変える。
かつて絵里ちゃんがそうしたように。地球の磁力はいつも。自分の意思によって変
えられるのだと思った。
埋めることによって、世界は軋むのだとしても。
わたしの中をわたしは埋めてゆき、ヒロトの中の不在は、わたしによって埋められ
てゆく。
思うように動き、思うように味わい、一番奥に隠された秘密の場所にヒロトがたど
り着き。
歓喜の波が何度も何度も押し寄せるわたしに、ヒロトが感応していった。
遠くで絵里ちゃんが見てるような気がした。
天井の隅よりも、もっと遠くの場所から。
ふふっ。そんな感じ。ね、わかるでしょ。
そう言って、絵里ちゃんが笑っているような気がした。
***
それからひと月がたったが、絵里ちゃんからは何の連絡もない。
お店の「しばらくのあいだ休業」という張り紙はだんだん色褪せていったし、ミサ
キちゃんは時々泣きながら電話をしてきて、わたしを辟易させていた。
時々泊まってゆくようになったヒロトの部屋で。わたしたちは、ごはんを食べたり、
セックスをしたりして過ごしていた。
だけども、それでどうなるのかなんて、わたしには考えられなかった。
ほんとうにどうでもよくって。それでいて、不思議に満ち足りていた。
手に入れるも手に入れないも、ここにはなかった。ただの過不足ない磁力の流れ。
それだけを、わたしは感じていた。
絵里ちゃんの作り上げた世界がまだここにあって。
そこに身を任せているような感触すら、わたしにはあった。
動き疲れた身体をシャワーで洗い流すと、ヒロトはいつもぼんやりとタバコを吸っ
ている。もう一度片づけられなかったことを思い出すようにして、タバコを吸い、そ
うしてヒロトはこう言うのだった。
「絵里、戻ってくるかな」
「戻ってくるね。たぶん」
そのたびにわたしはそう答えた。
彼女は、みんなが好きなんだ、誰ひとり切り捨てることなんてできない。だから、
きっと戻ってくる。
わたしたちが生きている世界に、二度と会ってはいけないってルールがあったとし
ても。
絵里ちゃんには、そんなことは関係ない。
絵里ちゃんは、誰ひとり見捨てやしないから。会いたくなったらいつでも、彼女は
戻ってくるはずなんだ。
「たぶん。絵里ちゃんは、何もなかったみたいな顔をして、戻ってくるよ」
「そのとき、おれたちが、こんなことしてたら、何て言うのかな」
そうだな。彼女は、びっくりしたように目を丸くして、こう言うに違いない。
「わぁー、一緒にいたのぉ。よかったぁ、心配してたんだぁ」
それから絵里ちゃんの丸い目が、世界を飲み込んでゆく。
軋みも、不在も、矛盾も。なにもかも赦して、世界が絵里ちゃんの色彩を放ってゆ
く。
そうして、わたしとヒロトの作り上げた色彩もまた、絵里ちゃんの世界に織り込ま
れてゆくのだろう。
もちろん、いろんな雑事が山のように襲ってくるだろうし。
いつまでもそんな生活が続けられるわけでもないだろう。
だけど。そんな瞬間を、夢みながら。
わたしとヒロトは。
今日も絵里ちゃんを、待ち続けていた。
*** 了 ***