ロードランナー日記・
電話
電話で話すのが好き。
面と向かって話すときよりも。
受話器の向こうにはいつも、深い闇が横たわってる。闇の向こうにあの人がいる。
わたしたちは闇に通じ合って。目には見えない言葉の世界に生きていく。
「ねえ、キスしよう」
「キス?」
ふふふと笑ってみる。三日月が窓越しに見ている。三日月の見てるわたしは、ひ
とり芝居をしてるだけ。男はその向こう側にしかいない。
「首筋に。ほら」
「ア、ン」
声が漏れる。声に意識が集中している。男はわたしの声を愛してる。クリアに響
くわたしの声は、眠たくなるくらいの時間になると枯れ葉の擦り合うように囁きだ
す。それはおそらく、誰も知らないわたしの声だ。
「どこが感じる? 言ってみて」
「耳タブ。耳タブに、キスして」
じゃあ、耳タブだ。そう言った男の舌が耳タブに集中していく。外耳をゆっくり
と刺激して、耳の穴の中まで、すぼめた舌が動いてゆく。
耳の中にとろりとした音が溶けて、波のざわめく音がする。そのまま眠ってしま
いそうになるくらい、わたしが音に溶けてゆく。
「ふっ、ふふふふふ。駄目、くすぐったいよ」
溶けて、なくなってしまいそうな自分を破るように、もうひとりの自分が大声で
笑う。それで静寂が壊れる。踏み込んでしまいそうな自分を、もうひとりの自分が
笑ってる。つられて男もまた笑う。
わたしたちの情事はまだ三分間コントのようで、日常から少し離れて、そして戻
るだけのものでしかない。
会った頃は、口数の少ない男だった。
一年前、わたしたちのグループのパーティ顔を出したのが最初だった。
転勤でこの町に来ていて、グループの誰かの知り合いだった。自分から喋るタイ
プではなかったが、映画のことを尋ねられると、適格な批評をしてみんなを驚かせ
た。
だが男は、その次の月には辞令が出て、また別の町へと異動していくことになる。
だからわたしたちは、その一度しか知らない。もう顔もおぼろげだ。声は親しい
ものなのに、グレイのスーツをまとった口数の少ない男は、今度会ってもわからな
いくらいにあやふやな影だ。
その後の消息を聞いて新しい部屋の番号に電話してみた。挨拶くらいの意味で、
他意はなかった。男はゆっくりとしたテンポで、新しい仕事のことを話していたが、
会話がとぎれることはなかった。わたしたちのスピードとは違う、水が流れるよう
な世界がゆっくりと広がった。
それで、月イチくらいにどちらかが電話するようになった。それが今では一年続
いていて、わたしたちは、少しずつ、別の場所へと移り変わっていった。
「ねえ、どんな下着?」
「それじゃあまるで、セクハラ親父だよ」
「セクハラ親父だよ、おれ。そんなことばっかり考えている」
電話の中では沈黙は何も生まない。触れる指先もない。かわりに男の言葉だけが、
つたない指の動きのように、わたしの身体に触れてゆく。言葉はリアルで露骨で、
だけどもその露骨さが、わたしを際立たせる。
「紫のレース。ティーバックみたいに後ろが小さくて、お尻が丸見えなのよ」
「脱がせてやるよ。指をかけてみて。それが俺の指だ」
紫なんて嘘だ。グレイのシンプルなデザイン。だけどもわたしは紫のレースを脱
ぎ捨てる。
「脱いだよ」
「足を広げてみせて」
電話の前に足を広げると、秋の冷気がそこに吸い込まれていった。
「寒いよ。足のあいだが冷たい」
「なめてやるよ」
男がわたしの中心にキスをする。そこが泉になり、湧き水が溢れ出すのがわかる。
男はそれに気づいてピチャピチャと音を立ててみせる。その音が泉の静寂をかき
乱す。そうしてそれから先端の突起した部分を、男の舌が責め立てる。
「ここはどう? どんな感じになる」
「駄目。そこは。そこが………いちばん、気持ちいいの」
「じゃあ、もっと、だ。気持ちいいのなら、もっと、色っぽい声を出してくれ」
その言葉に誘われるように、今まで知らずに堪えていた吐息が漏れてゆく。いつ
もは、そんなふうに出さないはずの声が、心地よさの果てに漏れてゆく。
「マユ、きれいだよ、マユ、すごく色っぽい、広げた足のあいだが、濡れてキラキ
ラ光ってるよ」
男はそう言いながら、わたしの中で果てていった。
ここにいるわたしと、男の前にいるわたしは、微妙にズレてる。
目には見えないわたしが、男の中で作り上げられている。それは、現実にいるわ
たしとは、別物だ。
それはちょっと変な感じではあるが、それはそれで構わない。
男の中にいるわたしは、しなやかな身体をしていて感度のいい声を上げる。
それは、わたしが別のわたしになるのとは違う。
二人のあいだの、電話線の中で、新たなわたしが生まれ、そのわたしが熟成して
ゆくのだ。
冬になると部屋の中までも寒い。
寒い夜は似合わない。だからわたしはベッドを選ぶ。
わたしが育っている。言葉と言葉のあいだにわたしは生まれ、説明不可能なわた
しがうごめいている。
わたしが知らないことを、本能に任せてやっている彼女を、わたしは知らない。
彼女はわたしのものではない。ただただ、言葉のあいだを飛んでいるだけだ。
「声がいつもと違う。なんだかすごくけだるい」
「ふふふっ。ベッドの中にいるの。部屋が寒くて仕方ないのよ」
「ベッドの中はあったかい?」
「あったかいよ、裸になれるくらいに」
「何をしたい」
「あなたのを。咥えさせて」
男のが、わたしの口の中で大きくなる。その感触が軽い渇きになり、その渇きを
癒すように、より激しく男を求める。
「もっと、激しくして」
こすれ合う音が響く。その音にわたしは、自分を見せてゆく。
「触って。わたしに触って」
「指を入れてみて。一本じゃない、二本だ。俺の指だ」
サラサラとした粘液が、気づかぬうちにわたしの内側を覆っていて。指がスルリ
とわたしの中に入ってゆく。粘液に柔らかくなっていたわたしの内部が、予想以上
にその指に答える。
「あっ、あーっ、ダ、メ」
男の指がひとまわり、わたしをかき回しただけで身体に電流が走った。わたしは
敏感になりすぎて、その指で墜落してゆく。
「駄目だよ、自分だけでイッちゃ。ほら、中に入れるよ」
男の性器が激しく打ち付けられる。後ろから、わたしの腰が揺さぶられる。揺れ
続ける胸を、男の手がまさぐる。揺れる胸の先端の、乳首が固くなる。男は身体の
向きを変えて、その胸にくちづけをする。
そこにはもう、すべての快感が集中している。
わたしの内部はそれに深く反応して、また、極限の声をあげ、その声に男もまた、
極限を極める。
そのわたしはおかしい。
夜に成長するトカゲのように、そのわたしは、どんどん知らないものになってゆ
く。
逢いたい、と、つぶやいてみる。だが、その言葉は少しズレているようで、あま
り居心地がよくない。
もっと、もっと。
もっと完全体になりたいだけ。
完全なわたしたちの完全なセックス。わたしたちが望んでいるのはそれだけだ。
気持ちがすべて、そのままの言葉になり、その言葉が完全な行為を生み出す。
わたしたちはいつも、そんな完全なセックスを求め。
そうして少しずつ、それに近づいてゆく。
男とわたしはいつも、同時に快感に達する。ベッドから転げ落ちて、ふたりで闇
の深遠までいってしまうような快感だ。
荒くなった吐息が、電話線ごしにクロスしてゆく。
わたしたちが完全になれる瞬間だ。
男は果てた後でも、わたしの中を離れない。
とろけるような眠気が、快楽を覆いつくしてゆく。
「このままで」
「このままで?」
「中に入ったままで、眠ってしまいたいよ」
わたしもまた、それを望む。
しらけた後始末も、身体を離す必要も、わたしたちにはない。
わたしたちは、身体をくっつけたまま心中してゆく文芸小説の主人公のように、
終わった後もぴったりと身体を寄せ合う。
おとぎばなしのような完璧なセックス。
雑事はすべて、忘れ去られたままだ。
言葉だけが紡いだものでわたしたちが、作られている。
二人で作り上げたものは、二人だけのもので、それは誰にも理解できない。
だけどそれでも、わたしたちは完全体だ。
男は、手近に何かオイルはあるか、ベビーオイルとか、そのようなものは、と尋
ねる。
ドレッサーの周辺を捜し、保湿用のバージンオイルを見つける。
多分それで十分だ、と男は言う。
「そのオイルで、マユを触るんだ。ゆっくりと可愛がってあげよう」
ヌルヌルとしたオイルがわたしの身体を触ってゆく。溶けていくように柔らかで
いて、ほのかな熱を感じる。
「なんだか、変な感じ。身体が熱くなっていくみたい」
「気持ちいい?」
「気持ちいいよ、ねえ、指を中まで入れて」
オイルにまみれた指は、すっぽりと奥まで入ってゆく。ふわりと中まで届くもの
が、くるくるとかき回し、一番奥の、眠っていた感覚を呼び覚ます。いつもとは違
う、熱い爆発。だけども、いつまでも触れていて欲しい吐息は、かけひきの中でじ
らされる。
それから男は、わたしの両足をベッドに縛りつける。大判のスカーフを両の足首
に巻き付けて、そのスカーフの端をベッドの脚に結びつける。
足が大きく広げられる。
わたしの身体中にオイルが塗られ、ギラギラと光に反射する。首筋や胸元や、下
腹の茂みの部分やらが、言葉に嬲られてゆく。期待する部分を一度そらされて、足
の指を一本ずつ男の舌が転がしてゆく。
それから男は、身動きの取れないわたしの口を押し開き、自分自身をその中に入
れる。根元まで入れて、呼吸の苦しくなったわたしの喘ぎを味わい、懇願の果てに、
また新たな快楽が求められる。
快楽の芽はひとつではない。いろんな影に潜んでいて、光の角度でそれは快楽の
形に変わってゆく。
だから。もっと、もっと。わたしに触って。
わたしにくちづけて、わたしの中に入れて、激しく動かして、わたしの名前を呼
んで、わたしの中にある快楽のドアをノックして、わたしの知らないドアを、すべ
てすべて開いて。
わたしでないわたしは熟成し、その場所だけで生きていく。
それはけっして孤独ではない。たとえば、目の前に男がいて交わっている時より
も、もっと孤独ではない。
わたしたちは、柔らかい白い繭の中にいる。
居心地のよい完全は、その場所を満たしてゆく。
だけども、いつか全ての場所に光が当たるだろう。
全てが味わい尽くされた後、満たされたものは、行き場所をなくすだろう。
わたしたちは、それを知っているのかもしれない。
だけどもそれでも。
わたしたちは、満たされることだけを、望んでゆくのだ。
こがゆき