ビリリの声・
第5話〜第8話
5
僕のおかあさんはやさしい。
幼稚園の頃は、僕と隣のかっちゃんを公園に連れてって、毎日のように遊んでく
れてた。寝る前には、いろんな本を読んでくれた。僕は恐竜が好きだったから、図
書館で恐竜の本を借りてきて、その本には、なんで恐竜が絶滅したかなんて難しい
事が書いてあるんだけど、それでもていねいに説明しながら読んでくれるんだ。
ちょっとむつかしいよね、でもね、知らない事がわかるってすっごく楽しい事な
のよ、とおかあさんは言った。そんな時僕は、おかあさんてちょっとかっこいいな
あ、思ってた。
今、僕は小学校三年生で。学校ではのび太って言われてる。
あだ名をつけたのは隣のかっちゃんだ。僕はかけっこも遅いし、勉強も苦手だか
ら。それで馬鹿にしてのび太って言うんだ。
幼稚園の時はあんなに遊んだけど。今のかっちゃんは嫌いだ。けんかが強くて、
みんなが言う事を聞くから、僕だけわざと仲間はずれにする。退屈するとうちに遊
びに来て、ファミコンばっかりするくせにさ。
かっちゃんのお母さんは働いてて昼間家にいないから、仲良く遊んであげなさいっ
てお母さんは言うけど。僕にも好きな子と嫌いな子がいるんだ。誰とでも仲良くな
んて、出来るわけないじゃん。
ある日かっちゃんは僕のファミカセを貸してって言った。借りるとなかなか返さ
ないから嫌だって言うと。次の日学校で、僕がケチだってみんなに言いふらした。
他の子と遊ぼうとすると、その子にまで「あいつ、ケチだから遊ぶんじゃねーよ」っ
て言って、僕だけを仲間はずれにした。学校から帰る時もだ。友達とみんなで、
「ケーチ、ケーチ、ケーチ」って大きい声で歌いながら、僕の後ろから歩いて来た
んだ。
僕は悔しかった。おうちに帰っても悔しくて悔しくて、おやつを食べても全然味
がしなかった。
だから次の日、もう学校なんか行きたくないって言ったら。
お母さん、本当にびっくりしたみたい。
「でもね、がんばって行ってみたら」
そう言ったお母さんのまゆは、八の字に下がってた。おかあさんは困ると、まゆ
が八の字になる。ああ、悪いなあって思ったけど、ここで引き下がっても、またい
じわるされるだけだ。
「かっちゃんがいじめるから行かない」って僕は言ったら、それで昨日の事思い
だして、涙が止まらなくなってしまった。
「ちゃんといじめないでって言えばいいのよ、かっちゃんだっていい子なんだも
の、きっとわかってくれるわ」
お母さんは、すっごく優しく言った。でも。わかってないなあ。かっちゃんはど
うしようもないやつで、そんな事言ったって一緒なんだ。僕たちの世界ってそんな
に甘くないんだよ。
結局その日は絶対に行かないって言ったから、お母さんが学校に電話してくれた。
先生は、お話ししたいから、放課後にお母さんと一緒に来てねって言った。なんか
大変そう。
その日はホットケーキなんか食べて、のんびり過ごしたんだけど。問題は放課後
だ。
学校に行くと、教室ではかっちゃんと先生が待っていた。
先生はむやみやたらニコニコしてて、かっちゃんはその隣でむすっとしてた。
「事情はだいたい聞きました。つらかったけど、よく話してくれたね」って先生
は言った。「かっちゃんも、いつもは仲良しなんだけど、ちょっといじわるだった
ね、さあ、ごめんねって言って、これから仲良くしようね」
お母さんも言った。
「そう。いつもは仲良くしてくれてるから。またうちの子と遊んでね」
二人の大人に優しく言われるもんだからしょうがなくって、かっちゃんは小さな
声で、ごめんねって言った。
これで終わり?
えー、そんなのないよ。
それから先生は、僕の事を話した。ちょっとマイペースでのんびりしてるとか。
時々みんなに笑われてるとか。
「いじめられる子の方にも、問題がある事が多いんです。そこのところもご理解
いただかないと.....」
お母さんは、まゆを八の字にして笑った。
僕は、なんだかむっとした。いじめられて、それでこっちが悪いなんてさ、それ
じゃあ立場ないよなあ。
心を強くするとか、根気をつけなきゃいけないとか、そんな話を聞いているうち
にお母さんのまゆはどんどん下がってきた。顔は笑っているのに。お母さん、まゆ
だけで泣いているんだ。
何も言えずに笑っているお母さんを見ていると、僕も何も言えなくて。情けなくっ
て、悔しくてたまらなかった。
そしたら、お母さん、先生が話してるのに。
「あれ、どこかでパレードをやってるわ、まあ、なんてにぎやか」
なんて言い出したんだ。
席立って、窓まで開けてさ。
そんな音、聞こえないよ。僕は、お母さんがおかしくなってしまったと思った。
母さんは、どこにも見えなかったわって言って、席に着いた。
お母さん、じっと黙りこんでいたんだけど。そのうちだんだんと顔つきが変わっ
てきた。眉がどんどんつり上がっていって。それから今まで見た事もないくらいに
こわい顔になってしまったんだ。
「冗談じゃないわ、うちの子はいじめられたのに、こっちが悪いなんて、よく言
えるわね。だいたいがわがままな子なのに、一緒に遊んでやってたこっちが馬鹿だっ
たわ。そんなに薄っぺらなあやまり方で、納得するもんですか。いいわね、かっちゃ
ん。今度うちの子いじめたら、おうちに火をつけて、まる焼けにしてやるからね、
わかったわね」
すごい形相だった。
先生もかっちゃんも、そして僕もあぜんとしてしまった。
もう、誰も何も言えなかった。
お母さんは僕の手を引いて、おうちへ帰った。
お母さんはもう、今までの優しいだけのお母さんじゃなかった。
まゆも八の字じゃなくて、ぴんと張って。別人みたいにさっそうとしていた。お
母さんは僕と手を繋いで、こう言った。
「ああ、すっきりした。思ったままの事が言えたから、すっごく気持ち良かった
わ! ごめんね。今まであなたにも我慢させてたみたいで。でも、もう、やめよう。
人間は嫌な事、我慢したりしちゃいけないのよ」
お母さんは僕の手を、ぎゅっと握った。
その時僕は、お母さんが僕のお母さんでいてくれて、本当によかったなって、思っ
たんだ。
6
やっと卒論が終わった。
上出来とは言えないまでも苦労の賜物だ。教授もきっと納得してくれるはずだ。
おれは卒論の左端を閉じて、茶封筒に入れて煙草に火をつけた。
学生最後の仕事を終えてほっとして、おれは今までの事をいろいろと思い出して
みた。勉強なんかやった事なかったけど、それなりに楽しい大学生活だったと思う。
入学したての頃は友達もいなくて一人でいたのに。吉田とつるむようになってか
ら、おれは女に不自由しなくなった。親友の吉田は口がうまくて、上手に女の子を
調達してくれる。二人でいれば、ともかく最強だったんだ。
吉田は女の子をリラックスさせるのがうまい。
「ねえ、ビリリの声って、今流行ってるじゃん。あれ、実はおれが電波送ってる
の。知らなかった? おれって念力使えるんだよ。だからさ、おれと一緒にいると、
ビリリの声が聞こえてくるんだ。うん、あれはいいよー。なんか身体がスッーとす
るような感じでさあ」
もちろんそんな馬鹿な話、信じるやつはいない。
それは吉田だってわかってるけど、問題はそれで向こうの気が緩むかどうかだ。
大抵は、ヤダー、ウソーで済んじゃう。けど少なくとも警戒心は取れる。それだけ
で成功だ。あとは吉田がうまい事話を繋げてくれて。それからおれは自分のターゲッ
トに話しかける。
こっちが二人だと、向こうも二人以上ってパターンが多いし。吉田とおれの女の
趣味はまったく違うから。おれはけっこう、自分好みの女を思いのままにしていた。
クールな顔してる女が足元から崩れていっちゃうって感覚が、おれは好きなんだ。
そういう時って、男に生まれてよかったなあと思う。だけどその後はまったく興味
が失せてしまう。だから罵倒されたりもした。だけどそんな事どうでもいいんだ。
おれはできるだけたくさんの女をゲットしたい。ただそれだけだったんだ。
そんなおれも四年になって、就職が決まった。
だれもが名前を知ってるような一流企業だ。本当はマスコミに行きたかったんだ
けど、あそこは採用人数の割には競争率もすごいし。成績も悪いしコネもなかった
おれにしてみれば、これでも上出来だった。親も、もちろん喜んだ。
マスコミへの執着が消えた今では、おれは自分の就職先に満足している。潰れる
心配もなくて、給料もよくて。景気の悪い時期にこれ以上の所はないと思う。
おれはうまくやった。もう心残りなど何もなかった。
さあ、もう卒業までは自由だ。
吉田と遊びたいけれど、あいつは卒論、苦労してるみたいだから、まだ終わって
ないだろう。
おれは、パソコン通信で加入している文芸ボードをのぞいてみる事にした。もと
もと詩や小説を読むのが好きで、それでマスコミを志望したくらいだ。らしくない
趣味だって友達は笑うけど。昔っからの趣味で、これは変わりようがない。
ここもずいぶん久しぶりだ。一人の夜は、けっこうここで作品を読んだり、ネッ
トの友人といろんな話をしてたけど。卒論にかまけてて、ずっとアクセスしてなかっ
た。そう言えば、卒論が忙しくてしばらくお休みしますって書いてたから、ちゃん
と報告しておかないと。
そんな事を考えながら交信先を指定した。
ファックスの繋がるときみたいなピーヒャラヒャラって音がして、それで接続だ。
おれはあのピーヒャラヒャラって音が好きだ。あれが流れてきて、それから文字
がずらずらって出てくる瞬間。にぎやかな人の家にぽんと入っていったような気が
して。なんだかうきうきしてくる。
さあ、聞こえてきた。
ピーヒャラヒャラ、ピーヒャラヒャラ、ピーヒャラヒャラ。
おや、三回も。どっかおかしいのかな。
もう一度やり直してみようと思って、回線を切ってみると、変な事に気付いた。
回線切っても、あの音だけがずっと鳴ってるんだ。
パソコンも電源をオフにする。それでも。ずっと音だけが鳴っている。
それから女の泣き声が聞こえた。
一緒にマスコミゼミに入ろうって言ったじゅない、嘘だったの?
ああ、思い出した。同じマスコミ志望だった女だ。あいつ、就職決まったのかな?
いや、そんな事じゃなくって。
おれ、何か大事な事を忘れているって思った。
大事な事? 何だっけ?
その大事な事が、この音の渦の中にあるような気がして。
おれは、じいっと、その音に耳をすました。
そうそう。おれ。出版社に入りたかったんだ。
大学に入った頃、友達いなくて本ばかり読んでたけど。でも本に熱中すると全然
寂しくなかった。自分のいる世界がわからなくて不安だったりする事もあったけど。
本の中にはいろんなやつがいて。すごい事言ってくれたり、ほっとさせてくれたり
して。おれの意識をいろんな場所に連れてってくれた。それでおれ、編集者になろ
うって思ったんだ。あんなふうにすごいものを感じさせてくれる作家を、今度は自
分の手で見つけだして。その人に文章書いてもらって。それを伝える手助けをする
んだって。そう思っていたのに。だんだん友達と遊ぶ方が楽しくなって、本も読ま
なくなってきて。
そう、ずっと忘れてた。おれ、最初は出版社に行きたかったんだ。
気がついたら、おれは卒論を取り出して、全部めちゃめちゃにやぶいてた。
百枚以上もある原稿が、白い紙吹雪になって、部屋中に散乱していた。
うそだろー。なんて事をしたんだという思いと。
これで卒業しないですむ、もう一回就職活動するんだという気持ちが交錯した。
いや、これからが大変だ。第一、親になんて言うんだよ。
もしかして。これがビリリの声ってやつか?
何がすーっとするだよ。
おれ、大変な事しでかしてしまったよ。
7
その頃私は歌を歌っていた。
小さなクラブのステージで。私はひとりで歌を歌ってい
た。
あの日、女は私を罵った。
その女の夫と逢っていた時に、いきなりアパートに乗り込んで来て。何度も私を
拳で殴り、髪の毛を引きちぎれるほどに引っぱって、馬乗りになってバスローブを
引き裂いて。女は狂ったように私を罵った。
いつかは終わるはずの恋だったし、やってはいけない事だともわかっていた。だ
けど私はもう少しだけ、男と一緒にいたかった。
だけど男は狼狽しておたおたするばかりで。止めに入るものの、取り繕う事しか
頭になくて。笑いたくなるくらい、いつもとは違っていた。二人は何かを必死に守
ろうとしていたから。私が守るものは、もう、何もなく。ただぼんやりと、自分を
罵倒する言葉を身体で受けとめるしかなかった。
誇りを失った人間を傷つける事なんて出来はしない。
他人が幕を引いて終わる陳腐な結末のみが、ただ私には苦しいだけだった。
それで私は仕事を辞めて、今のお店に入った。
客あしらいが下手で、苦労も多かったけれど。ある日リクエストされるままに歌
を歌って。それから私は短い時間、ステージで歌を歌うようになっていった。
私はお客と一緒になって騒ぐよりか、自分の中にいられるその時間の方が、ずっ
と楽だった。
私はひとりで。
かろうじて歌だけが、友達だった。
ぼろぼろになって行き場のなくなった気持ちを、私は歌に込めた。
歌は、けっして裏切らない。
だから、人前に晒す事のなくなった感情を、私はいくらでも込められたのだ。
ある日、演奏をしていたピアニストが言った。
君の歌を聞いているとじんとなる、なんだか自分の一番深いところに触れられたっ
て感じがする、と。
自分のためにだけ歌っていたものが、人の心に触れるなんて。それまで私は思い
もしなかった。
人は自分の手に負えないものを持っているから、それに重なりあうものを求める
のかもしれない。それに触れたかと思うと、なんだか不思議だった。喜びでもあり、
衝撃でもあり、畏れでもあった。
だがその事を知ったからには、精一杯歌おう。そう思うと、ほろ酔い気分で聞い
ている人たちへの憎しみが消えた。あんたたちになんかわかりっこない、という気
持ちが消え、その人の深いところに触れたいと思うようになり、いろんな歌がなめ
らかに心から滑り出していった。
それから私はピアニストの子供を産んだ。
臨月までステージに立って、そして休暇を取った。
ちょっとだけ休んで、それでまた戻るつもりだったのだ。
なのに私は歌えなくなってしまった。
ピアニストは子供を愛した。君が家庭にいる分は構わない。家族くらいは養える
からと彼は言った。愛するって、こうすればいいんだと思い。その時はじめて自分
の家族をいとおしく感じた。
だけど、命の尊さは、はかなさの裏返しなのかもしれない。
いつか私は、死を恐れるようになっていった。
私か彼か、どちらかが先に死に、どちらかがひとり取り残されていく。その事を
思うと油汗が出るくらいに恐ろしかった。生まれたばかりの造り物のような子供さ
えも、いつか、呼吸をしなくなるのではないかと思い、私は毎晩のように寝息を確
かめた。
私が歌おうとすると、死への恐怖が飛び出しそうで。それをひとたび口ずさむと、
死が現実に変わりそうな気がして。
私は、けっして、歌を歌う事ができなくなってしまったのだ。
歌う事もなかったが、洗濯物や子供の相手をする時間に追われていたから、強く
歌いたいという気持ちも湧かなかった。慌ただしい日々の中には、夫と子供のやわ
らかな笑顔があったから。私はただそれだけを見つめていられた。
だけど、眠る瞬間になるといつも。私は押しつぶされそうな不安を感じないでは
いられなかった。
私がいなくなった後も続く、永遠の時間。
そして、この地球の外に続く、果てしない空間の広がり。
そういったものの中で、ただの一瞬だけを生きるのは。一体どんなものなのだろ
う。
この場所は果てしなく存在しているのに、私は一瞬のうちに消えていくのだ。
その事を考えると恐ろしくなった。
今、考えてみると、歌っている時の私は、気付かないうちにそういったものを、
すべて歌に込めていたのだと思う。おそらく。私にとって、歌う事はそういう事だっ
たのだ。
私が表現していたのは、生きている自分のささやかな感情であったけれど。ささ
やかな感情の中にも、そこには表現される確かな世界があったのだ。
だけども私は歌えなくなってしまった。
だから私は。世界に押し潰されそうな不安を感じたのかもしれない。
子供はたいした病気もせずに二歳になった。
毎日は平穏に過ぎ。昼間は不安を感じる事も少なく、私はよく子供を連れて散歩
に出かけた。
近所に八景水谷(はけのみや)公園というところがあって、私たちは毎日のように
そこに通った。
ある夏の日、子供は他の子をまねて、公園の川で水遊びをした。子供はたにしの
ような貝を拾って来ては、「カワニナ」と言って手渡す。一緒に遊んでいた子に教
えてもらったらしい。やっと片言が喋れるようになった子供の声に、私は胸が締め
付けられるようだった。このまま子供が溺れてしまい、これがこの子の最後の言葉
になりはしないかと。私は不吉な死の影に怯えながら、子供を見つめるばかりだっ
た。
はじめての川遊びで興奮したせいか、子供はなかなか帰ろうとしない。水遊びを
終えた後も、「アッチ、アッチ」と言いながら、奥の方まで行ってみようと手を引
いて行く。そのうちに私たちは、今まで行ったことのなかった池に辿りついた。
子供は池のまわりを飛んでいるとんぼを追いかけて遊び始めた。私は疲れたので、
腰をおろしてぼんやりと水面を眺めていた。
池は浅く透き通っていた。そして水底からはまるで温泉でも湧いているように、
何かが噴き出していた。
ああ、水が湧いているのだなとしばらくして気付く。八景水谷公園には湧き水が
あると、以前聞いた事があったからだ。
私は吸い込まれるように、湧き水を眺めた。
すると、あぶくがたつ際に少し、ぽこぽこと音がするような気がして。耳をすま
すとその音はだんだん大きくなり、やがてはっきりと聞こえるようになってきた。
まるでパーカッションのように。水の湧く音が心に響いてきた。
その音を聞くとなぜか。あれほどまで私を縛りつけていたものが、どんどんと溶
けてなくなっていくようだった。
恐れる事などあるものか。
死は、時が満ちるだけの事。
時は、私の知らないところで満ちるだけ。
だけど生はここにあって。そこにあるかけがえのないものを私は知っている。
ただ、それだけの事なのだ。
私や家族が生きながらえるのなら、私は喜んでその人生をかみしめればいい。そ
れがかなわないのなら、その自然の摂理を、そのまま受け入れればいい。
それがあぶくのようにすぐに消え失せるものであっても、そこにある確かなもの
は今、私の中にあって。
私の意識の中にあるものを奪い去る事なんて、なにものにもできないのだから。
なぜかそんな気持ちになって。不安は風にさらわれたように消えてなくなっていっ
た。
気がつくと私は、歌を歌っていた。
歌詞もおぼつかないその歌が、知らないうちに口元から小さく流れ出て。
ひとたび口にすると、心が溢れて、私の声は確かなものになっていった。
気がつくと私は、奏でるように歌を歌っていた。
歌は世界と溶けあうように、夕日の傾いた公園に響きわたっていった。
8
ふうっ。
いつのまにか夕方になってた。
そろそろ仕事に行かなくちゃ。
早起きが苦手で。それで夜のお仕事してるんだけど。
こんな時間から出かけるのも、それはそれでけだるい。
みんな一日が終わるって顔してるのに。私の一日はこれから始まるんだから。
昨日、ママが言ってたっけ。
そろそろ自分のお店を持つ気はないの? って。
私もいい年だし、今のお店も長いから。心配してくれてるのかもしれない。でも
ね。集金に頭痛めたり、一人でお客に気を遣ったりしているママを見ていると、そ
れも面倒なんだ。
せっかく持って生まれた身体なんだもの。いろんな人から褒めてもらいたかった。
でも、そろそろ身体を褒められる年でもないから。他の方法を考えなきゃいけない
のかもしれない。
人生って。残酷。私は、このままでいいのにね。
窓から西日が入ってきた。
部屋も蒸してくるし、そろそろ出かけなきゃ。
そう思っていると。
ああ、まただ。
どこからか変な音が聞こえてきたの。
ここんところ毎日。出かけようとすると、よその国の音楽みたいなのがいっつも
聞こえる。
うるさい。頭、痛い。
これ聞くとなんか行きたくなくなっちゃうんだよね。
ああ、仕事、面倒だなあ。もう、どうでもよくなっちゃった。
ええと。あれ? 何だっけ。
そうそう、私、仕事に出かけるところだったんだ。
了