ロードランナー日記・
別離
男と一緒にいた最後の頃、わたしはどんどん衰弱していった。
おなかの中に鉛の塊があるので重苦しくって、まったく起きあがれない。
居間の隣りの部屋に敷きっぱなしにした布団の中で、男はときどきわたしを抱き上
げ、スプーンで「命の水」を飲ませてくれた。
「ねえ、大丈夫かなあ、どんどん悪くなっていくよ」
男の傍らでは、新しい女がわたしを覗きこんでいた。
「あんたのせいだよ、あんたがいるから、わたしはこうなってしまったんだ。お願
いだから、わたしの顔を見ないで。あっちの部屋にいてよ」
わたしはそう言いたかったが、もう、声などまったく出ない。
若くて華奢なこの女は、わたしの具合が悪くなった頃に、この部屋に上がり込み、
それから男と暮らしているのだった。
女はときどき、男が外出してる最中に、この部屋に来て、わたしの髪を撫でた。
「早く、よくなるといいね。わたし、あなたといっぱい話したいの。あの人のこと、
知ってるの、わたしとあなただけだもの。だから、それを分かちたいの」
分かちたくなんかない。そんな仲間なんか欲しくなかった。
わたしと男は、深い迷路に迷いこんで、そこで鉛の塊を飲みこんだのだ。
その場で、一緒に鉛を飲み込んだ男は、すぐに女に見つけられて、口をこじ開けて、
それを取り出された。
処置が遅れたわたしだけが、こうして寝たきりになったのだ。
ある日、男が、出かけよう、と言って、わたしをおぶって外に出た。
薄桃色の桜がはらはらと舞っていた。視力すらおぼつかないわたしは、桃色に輝く
光の中にいた。
男の背中は広くて、体温がしみじみと伝わり、わたしはゆらゆら揺れながら、まど
ろみ、そして、また揺れた。
女も一緒に歩いていた。
男も女も、ひとことも喋らなかった。
ここだよ。
そう言って、男は、わたしを桜の木の元に下ろした。
澄んだ水のある泉のほとりで、泉からは「命の水」が湧き出ていた。
ここで おわかれだ おまえがいて たのしかったよ
男はそう言って、半開きになったわたしの唇に口づけた。
女は傍らですすり泣いていた。
わたしは、喋ることもできなくて。
男の唇の感触を感じても、何の反応をすることもできずに。
その場にひとり、残された。
*****
女が、わたしの身体に、裏フリースのついた重たいコートがかけていった。
雨風を防げるように、という配慮のつもりか。
どっちみち動けやしないまま朽ち果ててゆくのだから、そんなものは無用なのに……
わたしは、身体を横たえたまま、息を大きく吸った。
部屋の中では感じられなかった冷たい大気が肺に入り込み、わたしは大気の厳しさ
に大きく咳き込んだ。
何日もその場所に横たわっていた。雨が降り、湿った桜の花びらが、まとわりつい
た。
腐ったような匂いが漂った。これは、死臭というものなのだろう。
五感はまだ、かろうじてわたしの中に息づいているのに、身体はもう死の入り口ま
で来ているのだろう。
それならそれでいい、と思った。
なのに、少しだけ、手が動いた。
手は泉に触れた。
濡れた手をチカラを込めて引き上げて、カサカサになった唇を湿らせた。「命の水」
が唇に、命の息吹を送り込んだ。
ああ、そうだ。自分で「命の水」を飲めばいい。スプーンで男に飲ませてもらって
も、何の益にもならなかった。だけども、自分の手で飲めば、わたしは、生き返るの
かもしれない。
ふと、そう思った。そう思わせるものが、「命の水」なのだろう。
日に何度かそうして水を含み、二、三日のうちに、わたしは、身体を起き上げ、七
日がたつと、筋力の落ちた足で、何とか立ち上がれるようになった。
泉のまわりを、歩いてみた。
桜から若葉が出てきた。若葉もまた、「命の大気」を送りこんでくるようにも見え
た。
泉のまわりをぐるりと歩いてみると、わたしは、胃が押し上げるような吐き気を感
じた。
座り込み、引っ張られるように口を開けると、吐瀉物の中に、鉛の塊があった。
あのとき、男とふたりで飲み込んだ、絶望の鉛だった。
わたしはそれを、泉できれいに洗い、コートのポケットに大切にしまいこんだ。
*****
わたしは、泉のほとりでひとりで暮らすようになった。
男の中で、わたしはすでに死んだのだろう。
だから、わたしの中でも、わたしは男を殺した。
死んでしまえば、それでおしまいだ。生きている者に対する未練など、もうそれで
消えてしまえる。
わたしは、泉で水を飲み、まわりの木々の実を食べた。ときには泉で身体を清めた
りもした。
それで、満ち足りた。
あるとき、重たい荷物を担いだ見知らぬ男がやってきて、泉の水を汲み上げた。
男は、そこで暮らしているわたしに、軽く会釈をして水を持ち帰った。
何日かに一度、男は水を汲みにやってくる。
自分には、この水がなくてはならないのだと言った。
わたしと同じ「命の水」を必要とする男に、深い共感を覚えた。
わたしたちは、泉のほとりで、おのおのの手で水を掬い上げた。
二人の中に、同じ命が満ちあふれると、そのヨロコビを確かめるように抱き合った。
ときには、口移しに、その水を分け合った。
そうすると、また、ちがう命が、溢れていった。
ときおり、男は、自分の家にわたしを招き入れた。
あたたかい風呂に入るといい、ときには、そうしなさい、と男は言った。
なみなみとバスタブにお湯を注ぎ込み、わたしひとりを、ゆっくりとつからせてく
れる。
そのあたたかさもまた、わたしに命を注ぎこんだ。
着替えにと、自分の真新しいTシャツを、わたしに与えて、男は、わたしの残り湯
に、身体を沈めた。
その、残り湯もまた、自分に命を与えてくれるのだ、と、男は言った。
わたしは、そのあいだ、バスタオルでゆっくりと髪を乾かした。
雨と風でぐしゃぐしゃになったコートは、初夏にはもう不要だった。
帰り道に捨てようと、コートを折り畳み、そのポケットに入れていた鉛の塊を思い
出して、ジーンズの尻ポケットに移した。
なぜだろう。鉛の塊だけは、捨てられなかった。
汗ばむ夏になっても、男は、週に一度はわたしを、自分の家の風呂につからせてく
れた。
それは、命を注ぎ込むヨロコビでもあり、ときには、命以外の欲望をも、わたしに
もたらした。
このままここに一緒にいたいとか。
もう、泉のほとりに戻らなくてもいいとか。
そんなことを思い浮かべるたびに、わたしは、鉛の塊を、取りだしては眺めた。
そのたびに、衝動的に、鉛の塊を飲み込みたくなった。
これを飲み込んで、また、動けなくなれば、このままここにいられる。
そう思うと、本当に、それを飲み込みそうになった。
おそらく。わたしの身体には、鉛の塊を引き寄せる何かが、存在しているのだろう。
進み行き、流れ、溢れる命を拒否するほどの、鉛の塊を。
引き寄せるものが、わたしの身体にはあるのだ。
それを飲めば、男はわたしをまた、背負ってどこかに捨てるだろうに。
わたしの身体は、それを、求めていた。
もう、ここには来るまい。
男と、泉のほとりで、水を酌み交わせれば、いつまでも、それでいい。
わたしは、鉛の塊をポケットにしまい、湯船につかる男には、何も言わずに、その
家を後にしていった。
こがゆき