ロードランナー日記・
あの夜君についた嘘
あの夜ぼくが嘘をついた、と君は言う。
ぼくは嘘をついた覚えなんてない。
あるいはそれは、嘘であることすら気づかないくらい些細なことだったのかもしれ
ない。
もともと集中力のあるほうではない。目の前に君がいるときでさえ、ぼくはまった
く違うことを考えている。銀河系の外側に吹いている風のこととか、窓の外に光り輝
いている満月はどれくらいの温度なのかとか。ごく普通に見えている世界は、いつの
まにかとりとめのない螺旋状のものに変わっている。ぼくの悪い癖だ。
「ねえ、ちゃんと、聞いてるの?」
君はいつも、そう尋ねる。
「聞いてるよ」
ぼくはそう答える。聞いている、という言い方は正確ではない。君の声は淀みのな
い清流のように涼やかで、ぼくは、その声の響きを音楽のように楽しんでいるだけだ。
だから。やはりあの夜、君に間違ったことを言ってしまったのかもしれない。
「ねえ、オムライスとオムレツ、どっちが好き?」
その言葉は少なくともぼくには、それくらい他愛のないものに聞こえた。
ぼくは、オムレツと答える。
答えたあとで、いや、やっぱりオムライスの方が好きだな、と思いなおす。
だが、あえて訂正はしない。オムレツだってオムライスだってそんなに代わりはな
い。そもそもどちらも好きなわけだから、どっちが好きって言ったって、そんなにた
いした問題じゃないのだ。
むしろ、そのときぼくにとって問題だったのは、今、ソファの隣で軽やかに話して
いる君の、少しふっくらとした柔らかい唇に、どういうふうにして触れようか、とい
うことだけだった。
ぼくは集中力はないけれど、けつして嘘つきではない。
だから、君の部屋に上がり込むような状況になったとき、それは酒の勢いというの
もあるにはあったのだけど、自分が結婚していることくらいは正直に告白した。
「じゃあ、わたし、愛人くらいにはなれるかしら」
冗談とも本気とも取れるくらいの微妙なラインで、君はそう答える。
その言葉のおかげで、ぼくは答えの出ない自問を繰り返す必要がなくなった。
そしてぼくたちはその後も、定期的に携帯電話で連絡を取ったり、スケジュールが
合えば、どこかのバーで待ちあわせをするようになっていった。
「ねえ。あなたって、子供、好きでしょ」
ある夜、ベッドで煙草を吸いながら、君はそう言った。ぼくはその質問の意味がよ
くわからない。
「どうして、そう思うんだ?」
「ふふっ。そういうのって、ちょっとしたしぐさでわかるものなの。たとえば、う
ちの猫を抱き寄せるときの感じとか。わたしの髪をなでつけるときの感触とかで。あ
あ、この人って、子供が好きなんだなあって思うの。なのに、子供ができないんだっ
て、あなた、言ってた」
君はメンソールの煙草をとちゅうで消して、こう言った。
「もしもね。多分そんなことないんだろうけど、もしもね。わたしに子供ができた
としたら。わたし、その子をあなたにあげるわ。そんなこと想像してみると、なんだ
か楽しいの。ああ、この人に可愛がられて育てられたら、きっと幸せだろうな、とか
思ってしまって。ああ、でも、ほんとにあげたら、奥さん、びっくりするよね」
「お中元にもらったんだとでも言ってみるかな」
「ふふっ、それはいいかもしんない」
そう言って君は、風鈴が風に揺れるみたいにころころと笑った。
ぼくと君は似ている。考えていることが螺旋状にくるくるまわっていって、それは、
現実の世界からかけ離れたところまで行ってしまう。
君はそういうところを生きづらいと感じているのかもしれない。あるいは、何も構
わずにそういう世界の中で生きているのかもしれない。
だけどぼくたちは、そういうふうに螺旋状に現実から浮遊してゆく感覚が似ていて。
だから惹かれあっていたのかもしれないと思った。
「子供が好きでしょ」と聞かれたおかげで、ぼくは、はじめての夜、君が尋ねたこ
とをやっと思い出した。
それはオムレツのことでもオムライスのことでもなかった
子供はいるのか、と君は尋ねたんだ。
正確に言うとその時点でぼくには子供なんていなかった。臨月を迎えた妻は実家に
帰ったが、まだまだ生まれそうになかった。それでぼくはひとりの開放感で、昔のな
じみの店に久しぶりに出向いたのだった。
ぼくは、子供はいない、と答え、妻は出来づらい体質なんだ、と言ったように思う。
それはけっして嘘ではなかった。今までいろんな人から判で押したように同じ質問を
され、ぼくたち夫婦は何年ものあいだずっとそう答えてきたんだ。
その一週間後に男の子が生まれた。しばらくして妻は戻ってきた。子供というのは、
ただ泣くだけの動物だったのが、だんだんと笑い、あやしたり軽く揺らしてみたりす
ると、反応して眠りについてゆくようになっていった。
可愛くないわけがない。妻とふたりで、赤ん坊がふんわりと目を閉じてゆく瞬間を、
ベビーベッドの脇でずっと眺めていたりした。
でも、それは、あちらの世界での話だ。
君の前にいるときそれは、オムライスの話くらいふんわりしてて、遠くにあるだけ
だ。
妻と抱き合うぼくなんて、君は想像しないだろう。
それと同じだ。子供を抱きあげているぼくなんて、余計に想像してほしくなかった。
その瞬間だけでいいから、ぼくは、おとうさんじゃなくて、ただの君の恋人でいたか
ったのかもしれない。
その後、共通の友人を通じて、ほどなくその嘘はばれた。
「ねえ、どうして、そんなくだらない嘘つくの? べつにあなたに子供がいたって、
わたしぜんぜんかまわなかったのに。ばっかみたい、わたし、子供をあげるなんて、
言ってしまって」
君は、泣いたり責めたりはしない。なのに、その言葉は、いい訳すら許してないよ
うに聞こえる。
「見ててわかるもの。あなたは子供が好きで好きで、たぶん、可愛くてしかたない
のよ。だから、わたしに言えなかった。奥さんの妊娠中って、男がいちばん浮気しや
すいんだって。そんなくだらない図式に自分を当てはめてしまうのって、わたし、な
んだか自分がどこにでもいる普通の女になったみたいだったわ」
君特有の怒りかたをぼくはすでに知っている。まるで空にボールを放るみたいに君
は怒るんだ。ぼくに対する怒りを。空に向け、宇宙に向け、まっすぐにぶつけられな
かったものは、螺旋状にかたちを変えてゆく。
それは、まったく違うものに変わって、海に浮かんでゆくあぶくのように消えてし
まうのかもしれないし。
その怒りは、形を変えながらずっと、君の心にくすぶっていくのかもしれない。
ねえ。いい訳になるかもしれないが。
ぼくのモノの見え方は多分、人とは違っているんだろうと思う。だから、ぼくはず
いぶんそれで損をしたり、あからさまではないにしろ馬鹿にされたりもしてきた。
だから、モノ書きという職業について、そういう軋轢を感じる機会が少なくなった
ことには、感謝している。
問題は、ものごとがどういうふうに見えるかだ。
同じようなことが起こる同じような人生。ぼくにはそんなものしか与えられていな
い。
だけども、ぼくの中で時に世界は歪められる。想像すらできない、別の色どりを放
ってゆくものもある。
ぼくは、子供という言葉を聞いて、オムライスのことを考えてしまうような男だ。
それはとっぴょうしもない発想で、君には、ぼくがついた嘘をついたようにしか見
えないのかもしれない。
オムライスのふんわりとしたやわらかさも、ぼくをひきつける透明な光る糸も、眠
りにつく前に目をつむりながら笑う子供の顔も、すべてはぼくの世界では繋がってい
て。ぼくにしか見えない世界が、複雑に螺旋状に絡まっているんだ。
君がもう一度電話してくれても、ぼくはそれをうまく伝えられないかもしれない。
けれど、あの夜君についた嘘は。
ぼくの中ではけっして嘘なんかじゃなかった。
オムライスとオムレツとどっちが好き?
君の言葉がそんな他愛のないことを想像させてくれる瞬間を。ぼくは今も夢みてい
る。
こがゆき