ロードランナー日記・
雨を待つ
ある日を境にして、会いたくて、会いたくて、たまらなくなってしまった。
ただ、会うとほっとするだけの男だったのに。
ケイスケの携帯が通じなくなった。
ケイスケはしょっちゅう携帯の充電を忘れる。だから、電話が通じないことなんて
めずらしくもないけど。「電波の届かない状態か......」というメッセージを聞くた
びに身体が固くなってゆくようになってしまった。
しばらくすれば絶対に連絡がとれるって、わかっている。なのにどうして待ってい
られないんだろう。最初は、欲しい服がたまたま売りきれだったくらいの物足りなさ
だったのに。だんだん膨らんでいくと、ケイスケのいる違う世界が動いていることさ
えも恨めしく思えてきた。
身体の力を抜いて、忘れていられるくらいに、ゆったりと電話を待っていられたの
に。
今のわたしの身体は、凍りついた石みたいに固くなっている。
ケイスケはなかなか仕事の見つからない失業者だ。もう何年も失業している、年期
の入った失業者だ。忙しい日だけは、引っ越しのバイトのおよびがかかるのだが。そ
れは、土曜と日曜くらいなものだ。
ふつうの日はアパートに閉じこもって一日中ゲームをしたりビデオを見たりしてい
る。夜になるとやっと外に出てきて、文化街のあたりをぶらぶらしたりゲーセンに長
いこといたりする。陽に当たらないものだから、顔色が白い。頬の向こうが透き通っ
て見えるみたいだ。
以前はバイトだけは毎日やってた。
けど、働くよりか好きなことだけやって過ごしたいと言っていた。その好きなこと
が、音楽とか演劇とかならわかるけど。結局、人と話したり、きちんと仕事をするこ
とが苦痛だっただけだ。
仕事もろくにせずに、最低限の生活をして、一度クリアしたロールプレイングをま
た最初から繰り返しやっているだけなのに。そんなケイスケを見てると不思議に安心
した。仕事なんかしてなくったって将来の目標とかなくったって、六畳一間のアパー
トの畳がケバだってたって、インスタントラーメンの汁の残った丼がそのままだった
って。不安なんて感じないで過ごせるなんて、それはそれですごいことなのかもしれ
ないと思った。
何度かケイスケのアパートでセックスをしたことがあった。やさしくて病的なほど
ていねいではあったけど、一緒に寝ると、何もかもどうでもいいような気持ちになっ
た。そのどうでもいい感じは、わたしのいる世界の規律を破壊するみたいに気持ちよ
かった。
だけど四六時中、そんなこと感じていては、まともな生活なんかできっこない。
だからわたしは、会社の上司が紹介した取引先の相手と、すんなりと結婚したのだ。
結婚した相手は、まったく逆の、きちんとした会社勤めの人間だった。
縁なしの眼鏡をかけて、いつもダークスーツにレジメンタルタイをつけている。帰
ってきてパジャマに着替えても、パジャマがスーツに見えるくらいにきちんと着こな
している。でも、けっしてそれが嫌なんじゃなくって。どんなにラフにしててもどこ
となく一本通ったところに、わたしは好感を持つようになっていた。
遅くにしか帰れない自分が申し訳ないので、待たずに寝ててもいいよ、と夫は言う。
その気遣いは一年がたった今でもほぼ変わりがない。朝はふたりでゆっくりとコーヒ
ーを飲みながら会話した。その時間にわたしたちは少しずつお互いを知ってゆくのだ
った。幸せな時間ではあったが、幸せの中にはもちろん、退屈も潜んでいた。
ふと、ケイスケを思いだして、夜に女友達と出かけてもいいか、と尋ねたら、退屈
するよりか楽しむ方がいいよ、と笑って答えた。
この人は、よほどの危害を加えないかぎり他人を拒否しなくてもいいような育ち方
をしたんだろうと思う。それは、わたしにしてみれば、奇跡に近いことだった。
何日も携帯か繋がらなかったケイスケと、やっと連絡が取れて、会う約束をした。
ケイスケは今でもあいかわらず暇にしている。携帯さえ繋がれば、それだけでオー
ケーだ。
行きつけのバーで待ちあわせる。気分が向けば、アパートにも行く。行きたくなけ
ればゲーセンでくだらないゲームに小銭を遣ったりする。
そのたびに、わたしの財布からいくらかのお金がなくなっていった。わたしが払う
ってのもあるけど、それとは別にいつのまに紙幣が消えているのも知った。それを責
めると、ああ、ごめん、なんて言う。あやまるけれど、悪びれたりはしない。
だらしないと思う反面、ケイスケのそういう部分はいつもわたしの(どこか)を刺
激した。わたしは夫の思うほどの人間ではなかったし、壊れているものはいつも、わ
たしを惹きつけていくのだった。
夕刻に外に出て、待ち合わせの場所まで歩いてゆく。ショーウィンドウにわたしの
姿が映る。なのにわたしは、今日の自分の服が気に入らない。せっかくおしゃれした
のになんかちぐはぐで、外に出たとたんに後悔の嵐だ。シマロンの細身のパンツにお
気に入りのTシャツをあわせたんだけど、シャツの丈が長すぎてバランスが悪かった。
今まで服のことなんて気にしたことはなかった。ケイスケだっていつもジーパンだ
し。そもそもおしゃれして会うような相手ではなかった。なのに、ショーウィンドウ
に自分が映るたびに、すごーく嫌な気分になってしまう。わたしって、ほんとにこん
な格好でケイスケと会うんだろうか。そう思うと待ちあわせの場所が、この世の果て
みたいに遠い場所のような気がした。
おかしくなったのはわたしの方だ。いらだつほど会いたくなったり、不似合いな服
に憂鬱になったりしてしまう。どうしてそんなことになってしまったんだろう。
そんなことを考えながら、とぼとぼ歩いていた。すると目の前に小さな死体が転が
っているのを見つけた。
どうやらそれはスズメのようだ。誰かが踏みひしゃいでしまったらしく、片足が不
自然に折れまがっている。小さな内臓はぐしゃりとつぶれて、地面に小さな赤茶色の
染みを作っていた。
おまけに道の真ん中だった。縁起でもない。縁起、なんて言葉を思いついたのはお
かしかったけれど、とりあえず、その手前の路地を右に曲がった。歩いてた道と平行
の道を歩けば、そう時間もかからずに、バーに到着できると思ったからだ。
ところがその道をしばらく歩いて行くと、今度は黒猫の死体が転がっていた。
黒猫の目は金色に光っている。その目はぽっかりと開いたままで、わたしを見つめ
ていた。外傷はないから、死んでるって証拠はないんだけど、たしかに猫は死んでい
た。硬直しているのがわかるっていうか、いや、実際は触ってないからわかりはしな
いんだけど、生きているものとは違うオーラが、たしかにその身体から煙草の煙みた
いに出ていた。
とっさにもう一度道を曲がった。昔の人の「かたたがえ」みたいだ。
方向が悪かったんだろうか。いや、服が悪かっただけだ。それとも、会う相手が悪
いんだろうか。なんて思いながら、いくつか路地を曲がったら、今度はぜんぜんどこ
にいるかわからなくなってしまった。
あれ。わたしはいったいどこにいるんだろう。
同じような歓楽街の中に同じようなネオンが並んでいるのに、方角がてんでわから
ない。これが夜のいけないところだ。太陽の光でもあれば見当がつくんだろうけど、
まったくどこだかわからない。
にぎやかな路地の角でぼんやり立ってみた。すると向こうに人垣ができていた。
惹かれるようにそっちの方に行くと、人が倒れていた。倒れているのは女性らしい。
抱きかかえている人がいた。夫に似ているような気がした。
じっとそちらに近寄ってみる。びっくりした。倒れているのはわたしだ。わたしの
唇は黒みがかったむらさき色になっていて、顔はつるんと白かった。あの黒猫と同じ
ように、煙りのようなオーラが倒れているわたしから出ている。わたしは。死んでい
るのだろうか。
もう少し近づいてみる。すると、ぐぐぐっと、引っ張られた。まるで磁石が引き合
うみたいに。すごい引力だ。わたしは、倒れているわたしに引き込まれそうになった。
慌てて足をふんばって、後ずさりをする。夫がわたしを抱えて途方に暮れている。
泣きそうな顔をしている。わたしは。死んだんだろうか。
わたしはここにいるのに。それを教えてあげたいのに、近づくと死体に引き込まれ
そうになる。
わたしはここにいるよ。死んでなんかいないよ。
なのにそこにはけっして近づくことができない。死んでいるわたしが、生きている
わたしを引き込もうとしているのだ。夜の街を走って逃げた。何がなんだかわからな
かった。こわかった。心臓がドクドクドクと波打った。
人を求めるとき、わたしは、少しずつ狂ってゆくんだ。
もっと会いたいと思ったり、もっとわたしをよく見て欲しいと思ったり、夫と別れ
る気なんかさらさらないのに。一緒に居られない時間を狂おしく思ったり。人のお金
を盗るなんてくだらないことまで、ケイスケの危うさとして許してしまったり。
どうしてもっと、ゆったりと愛せないんだろう。
昨日よりも、過去よりも、もっともっと、それ以上に愛さないと気がすまない。
負けず嫌いの人間が賭事をやってるみたいに。わたしはおかしくなってしまう。
そうだ。だから、前だって、手に入れられないケイスケに絶望して、別の男と結婚
したんだった。
なのに、ここ何日か、ケイスケのことばかり思いつめていて、夫のなんて眼中にな
かった。
夫の前でわたしは、もう何日も死んでいたのだろうか。夫はもうずっと、あんなふ
うにして、わたしの亡骸を抱えていたのだろうか。
わたしは走った。息を切らしながら、どんどん走った。小高い丘をのぼったところ
が新興住宅になっている。その丘の斜面をずんずんのぼって、いちばんとっぺんまで
来た。
街の夜景が広がった。そこに座り込んで、息を落ち着けた。
遠くで雷の音が聞こえた。まだまだ遠い。だけど、西の空に稲光が走る。
夕立になるんだろう。雨が降ればいい。雨に濡れてみたかった。
携帯の着信音が鳴った。ケイスケだ。
「どうしたんだよ。なかなか来ないじゃん」
ケイスケはもうバーに到着してるらしい。のんびりとビールを飲んでいる声だった。
かすかなざわめきが聞こえた。待っているのか、ただくつろいでいるのかわからない。
そんなケイスケらしい声だった。
「外に出たら夕立にあったの。近くのお店で雨宿りしてるとこ」
「へんだな、こっちにはぜんぜん雨なんて降ってないよ」
「だから、夕立だと思う。止んだらすぐに行くわ」
「タクシーで来いよ。待ってるからさ」
待ってるなんて言ってほしくないよ。わたしはあんたの(待ってる)を、百倍の意
味に解釈してしまうんだから。
「もう少し小降りになったら行くから」
そう言って、わたしは電話を切った。
雨はまだ降りそうもない。だけども遠雷は少しずつわたしに近づいてきた。
わたしの死体とわたしと、ほんとうのわたしはどっちなんだろう。
雷が近づいてくる。そうしてわたしは、あの死体と融合するんだろう。
どうして融合しないといけないんだろう。
わたしは、わたしでないものになってしまうほどに、あの男を望んでしまったから
か。
わたしでないものになったわたしは、死んでしまうのだろうか。
わたしは死にたくなんてなかった。もう一度夫と、あの整然としたテーブルで他愛
もない話をしたかった。
どっちもわたしのはずなのに、どっちも本当のわたしではなかった。
では、本当のわたしは何を望んで、どんなふうに生きていくんだろうか。
もう一度携帯のメロディ音が鳴った。わたしの家の電話番号が表示された。少し考
えてからボタンを押した。
「かなみ」聞きなれた夫の声だった。
「どこか出かけてるの? ひさしぶりに早く帰ってきたんだけどさ」
「買い物に行ってたの。でも、夕立にあってね、とちゅうの喫茶店に入って、雨が
止むのを待ってるとこ」
「そうか、こっちも雷が聞こえるよ。気をつけて帰っておいで。早かったから、ワ
インを買ってきたんだ。かなみの好きなやつだよ、猫の絵がついているやつ。帰って
きたら一緒に飲もう」
以前、可愛らしい猫のラベルに曳かれて買ったドイツのワインだった。けっこうお
いしい、って言ったのを覚えていたんだ。
だけど、優しさに弱いわたしはいつも、それを百倍の意味にとってしまう。
わたしはいつか、夫にたいしても、欲しいものをすべて手に入れられないもどかし
さを感じて、苦しんでしまうのだろうか。
雷はすぐ近くに落ちた。落ちるとき、地面がびりびりと揺れた。
わたしの死体はやって来なかった。わたしはまだ、そこに生きていた。
雨が降ればいい。
雨が降って、からからに乾いてしまった地割れの溝に、もう一度、新しい水が溢れ
だせばいい。
新しい水が、過剰すぎるわたしの欲望を、濡らして溶かしてしまえばいい。
わたしは、もうじきわたしに降り注ぐ雨を待った。
固まってしまった欲望がほぐれて、ゆったりとした呼吸で生きられるようにと、祈
った。
過剰なばかりの欲望が、水に吸い込まれて静まるように。
わたしは、雨が降りだすのを待っていた。
こがゆき