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fukuroumura

 ミステリィは「女の時代」

 ご存知ですか。
 今、“女のミステリィ”がとびきり生きが良く、すこぶる面白い、のを。
 もちろん以前から、アガサ・クリスティ描くところのミス・マープルとか、作者が女性で主人公の探偵役も女性という作品はあるのだけれど、それらとはちょっと違う。どこがかというと、女性の作者が、主人公の探偵役の女性を、現代社会に生きる女としてはっきり意識して造形していることで、だから、ミステリィ本来の事件を解決する面白さに加えて、女性主人公の“女の生き方”が自ずともうひとつの主題になる。殊に主人公や脇役が同じシリーズ物なんかになると、こっちの方がより楽しめたりするんですよね。
 主人公の年齢や生い立ち、人種はいろいろ、職業、地位はさまざま、独身、結婚、離婚、再婚、同棲、同性愛と、恋愛・人間関係やライフ・スタイルは千差万別、価値観、主義、考え方もそれぞれ。ただ、自立していて、この男社会の中でさまざまな問題にぶつかりながら生き、暮らしているのは同じ。当然、読者も女性の方が多い(だろうと思う。)
 こういう女の作者による、主人公が女性の、女性読者のための(誰が読んでも)面白いミステリィを“女のミステリィ”と呼ぶ(ことにしたのは、わたしですが)。
 だいたい、犯罪や事件というのは社会と人間の奥にひそんでいるものが凝縮して噴出してきたようなものだから、すぐれたミステリィはその時代を映し出す鏡みたいなものだ。“女のミステリィ”が生まれたのは、おおよそ一九八〇年代初め、である。六〇年代後半から七〇年代にかけて広まった“ウーマンリブ”の影響と言っていいだろう。それまでご多分にもれず、強く賢い男が悪を暴き、女を守り、事件を解決するものが大半だったミステリィの世界に、自立した強く賢い女性主人公がこのころ誕生したのも、ゆえないことではないのだ。
 夢中になって読んでいるうちに現代社会の抱える問題が浮き彫りになり、その上、多くの魅力的な自立した女性モデルに出会える、いまや、ミステリィはそんな“女の時代”になっている。現代ミステリィ作家の四割は女性とか。知らずにいるのはもったいない。  と、前置きはそのぐらいにして、具体的に例えばこんな一冊はどうだろう。
 『藪のなかの白骨』(B.J.オリファント著 河内和子訳 社会思想社 現代教養文庫)。
 主人公はシャーリー・マクリントック、年齢はなんと五十五歳。容貌は「大女。古びたカウボーイハットからはみでた半白の髪。風邪ぎみのせいばかりとは言いがたい、ハスキーな地声。爪の短いマメだらけの大きい手」。身長は一八〇センチを越える。「かつて小柄で曲線美の持ち主にあこがれたことがあった」けれど「骨格がかたまり、人並みはずれて長身になると、自分に折り合いをつけてしまった」。ウーン、このヒロイン像は、多くの女性主人公の中でもかなりユニークな部類に属する。(もっとも、さすが女の作者の多くは“美女”が主役というような単純な設定はあまりしない。)
 現在の仕事は牧場主だ。かつてはばりばりのキャリア・ウーマンで、「ワシントンの役所」勤めだったが、二人の夫と死別し、二人の子どもも亡くして、故郷のコロラド州に戻り、実家の牧場を継いだ。
 だから彼女は、「ミセス・マクリントック」と呼ばれると必ず、「ミズって言ってちょうだい。最初の夫はフレシュマン、つぎの夫はジョンソン。マクリントックはわたしの父の名なの。だからミセスじゃなくてミズなんだってば」と言い返す。まず、これでわたしは彼女を気に入った。
 目下のパートナーは幼なじみの男性J・Qで、同居しているが、結婚はしていない。この塾年カップルがいい。家事は分担しているし、互いに束縛もしない。五〇代同士でこれはなかなかでしょう。
 本書でシャーリーとJ・Qは、事件に巻き込まれた十一歳の女の子アリソンを世話することになるのだが、その子と交わした次のような会話に、女と男の役割(ジェンダー)をふたりが(つまりは作者が、だけど)どうとらえているか、よく出ている。
 アリソンが「ママは算数って男の子がやるものだって言ったわ」と言うと、「ばかな」とJ・Qはすぐに否定するし、シャーリーは「数学は男のもの、道具を使うのも男、女はこれとあれだけだなんて決めてしまったら、あなたの羽は伸びるまえに切られてしまったも同然なのよ」と言い聞かす。ふたりの説得にアリソンは、「あたしだってなにかになれるっていうこと?パイロットにだってなれるの?そういうこと?」と驚く。それにシャーリーは「やれやれ、なにも変わっていないのだろうか。フェミニズムも出尽くしたほどの年月を経たというのに、少女たちはあいも変わらずおなじ問いをくりかえす」とひとりごつのである。同感しません?
 なぜか、シャーリーが「日本」に言及している箇所も何度か出てくる。
 「日本が教育水準を著しく高めたのは、従順な子供たちの犠牲と、専業主婦を強いられていた時代の教育ママたちの育てかたによる……」おっしゃる通り、かもしれない。「日本は単一民族で単一文化の国だから」という意見には賛成できかねるが、困ったことにそう言ったのは当の国の愚かな政治家なので、文句を言うわけにもいくまい。「ソフトボールをして遊びたい女の子をゲイシャ・ドールみたいに飾りたてるなんて」なる比喩にはガックリ。にしても、これらの日本のイメージには考えさせられるところがある。
 ところで、どんな事件なのか、ですって?それは読んでからのお楽しみだが、事件もまた、何人もの女性の生き方を反映して起きたものだ。
 シャーリーとJ・Q、それに本書で孤児になったアリソンの三人は、次の作品『予期せぬ埋葬』で血縁関係のない家族として登場し、シリーズの性格を特徴づけることになる。興味を引かれる関係、組み合わせである。
 他にも紹介したい“女のミステリィ”はたくさんある。まさにその幕を切って落とした、サラ・パレツキー描くところの私立探偵V・I・ウォショースキーのシリーズや、タクシーの運転手兼探偵のカーロッタ・カーライルのシリーズ(リンダ・バーンズ著)、ジェリ・ハワードのシリーズ(ジャネット・ドーソン著)にP・D・ジェイムズのコーデリア・グレイのシリーズ、それに……と名を挙げているだけで枚数が尽きるなあ。
 あっ、でも、これだけは……目下、わたしの一押しのシリーズは、黒人の家政婦ブランチ・ホワイトが主役のもの(バーバラ・ニーリィ著)。特に二作目の『ゆがんだ浜辺』 (ハヤカワ文庫)など、肌の色の違いによる差別を描いて秀逸。その上、人種差別に苦しむ女たちが四世代にわたって、しっかりとフェミニズムを受け継いで行くありさまが描かれていて感動する。ぜひ読んでみて欲しい。 今のところ、わたしが定義した意味での “女のミステリィ”は皆、翻訳物、欧米の作品である。日本でも実力のある女性ミステリィ作家は少なくないのだがどうしてかしらん。その理由を考えてみるのも一興かもしれない。

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