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− アラスカ・アリューシャン列島の戦いのはざまで −
[ アリュートと日系人の悲劇 ]
*もう一つの拉致問題*


 《第一章》 「パールハーバー」の衝撃
  
  その日は日曜日だった。
  だから勤務はオフで、アラスカの沿岸警備隊の隊員たちには、いつもどおり、それぞれの属する教会に行っていた者が多かった。17海軍区士官もそのひとりで、いつものように聖ジョン聖公会に出かけ、静かな時を過ごした。そして、いつものごとく正午に教会を出て来たのだが、意外なことに、そこには参謀長と情報士官が待ち構えていた。彼らは思いがけないニュースをもたらす。
  「日本軍がパール・ハーバーを爆撃した」 周りを見回した彼の目に、衝撃で立ち尽くす、日本人たちの姿が飛び来んできた。アラスカ在住の日本人のほとんどは聖公会に属していたので、その日も多くの日本人が来ていたのである。
  「日本人教会員の多くは涙を浮かべていた。この攻撃が自分たちに何をもたらすかを考えてか、ショックと恐怖ですくみあがっているように見える者もいた。」
  その日の『沿岸警備隊の歴史』(17海軍区、W部、1941年活動記録)には、上記のような、生々しい目撃証言が記されている。 いつもと変わらないはずだった日曜日はこの瞬間、アメリカ全土に住む日本人・日系人にとってと同様、アラスカ在住の日系人にも特別な日となった。それは、、恐れていた日米開戦という悪夢が現実となった一瞬であった。
  1941年12月7日(日本では12月8日)のことである。
  この日を境に、アメリカ在住の日系人は、ふたつの国家に挟まれて苛酷な運命にさらされることになる。常夏の島ハワイから遠く海を隔てた極寒の地アラスカといえど、例外ではありえなかった。
  ましてや、そのわずか半年後、まさに当のアラスカの、アリューシャン列島が日本軍に攻撃、占領されることになろうとは、神ならぬ身の誰が予想しえただろう。 
  それゆえに、アラスカでは、もうひとつの悲劇が生まれた。日米の戦争に翻弄されたのは日系人だけではなかった。アラスカには先住民族がおり、アリューシャン列島にはアリュートたちが住んでいたのである。彼らは、日本と米国、双方に、先祖の地を追われ、生活を奪われることになる。
  “12月7日”は半世紀以上の時を過ぎて今なお、『リメンバー・パール・ハーバー (真珠湾を忘れるな)』という言葉どおり、日米両国の人々の記憶に深く刻まれている。 比して、アラスカのアリューシャン列島での日米の戦いは、占領まで許した本土での戦争であったにもかかわらず、米国では『忘れられた戦争』と呼ばれ、言及されることは少ない。それはアラスカの歴史や、“国内植民地”的状況だった特殊性に拠るのであろう。 このシリーズでは、『忘れられた戦争』のはざまで、アラスカ在住日系人と先住民族アリュートに何が起こったか、主に地方紙など、資料を通して、その知られざる史実を浮かび上がらせたい。


 《第二章》 アラスカ在住日系人の訴え
 
  日本軍によるパール・ハーバー奇襲から一夜明けた、翌1941年12月8日、アラスカの地方紙、アンカレッジ・デイリィ・タイムズに、早くも次のような個人広告が掲載された。
  『キムラ家からのメッセージ』
  「わが国と日本とのこの危機に際し、わたしたちは忠実なアメリカ人として、われわれを受入れてくれた国、また、子どもたちの生まれた国であるアメリカに対する忠誠を表明する。 … 中略…
  わたしたち家族は全員、100%全くのアメリカ市民である。わたしたちはこれまで、日本は言うに及ばず、アメリカ合州国の民主主義の理想に反するいかなる国とも、また組織、個人とも関わった事は全くなく、何らかの共感を抱いたりした事もない。わたしたちは、合州国への日本軍の攻撃、侵略を公に強く非難するものである。わたしたちは、われわれの支持する国家アメリカと国旗に、改めて、忠誠を誓う。
   ハリィ・キムラ夫妻、フランク・キムラ 夫妻、ジョージ・キムラ夫妻、ルイーズ・ キムラ、サム・キムラ 」
  いわゆる日系一世に当たるハリィ・キムラは、40年前、米海軍船オールバニィ号の乗組員になり、米国に渡った。妻と家族を連れ、アンカレッジに来たのは25年前。日本で生まれたのは生涯の痛恨事、と彼は述べているが、帰化法の制限のため、アメリカの市民権は取れない。ちなみに、外国生まれの非白人が帰化申請できるようになるのは戦後のことである。
  彼の子どもたちは皆、この国で生まれており、アメリカ市民であることを誇りにしている。この時、フランク・キムラが二十代、末っ子サムが13歳。フランクは弟ジョージと“白雪洗濯店”を経営していたが、先月11月、軍隊に入り、アンカレッジ市外にあるフォルト・リチャードソン基地の米軍兵士となった。
  キムラ家は当時のアラスカ在住日系人家族のひとつの典型のように見える。一世は、ゴールド・ラッシュで好況に沸き、アメリカ本土からの人口流入が急増した頃に、アメリカの他の州からアラスカにやって来て、コックや洗濯屋などをしながら次第に、この極寒のツンドラの大地に定着していく。二世になる子どもたちは生れながらアメリカの市民権を与えられ、アラスカ在住日系アメリカ人として育つ。
  日米開戦の幕が遠くハワイで切って落とされた時、アラスカで暮らしを営んでいた日系人は200人足らずであった。
  比較的気候の穏やかなアラスカ東南部に居を定めていた日系人が多い。キムラ家と同じく、アメリカ側に心を寄せていた者が大半であったようだ。例えば、東南アラスカのケチカンに住む日系人は、当地の新聞、ケチカン・アラスカ・クロニクルに、12月9日、共同体の総意として、アメリカへの忠誠を表明している。その記事には、ケチカンに居住する日本人は42人、内9名がビジネス・マン、他に大人8名、子供25名とある。
  しかし、これら日系人の必死とも言える呼びかけは、国家なるものにとって何ほどの意味も持たなかったのだろう。
  同じ日、12月9日に、アラスカで最初の日本人の逮捕者が出たことを、アンカレッジ・デイリィ・タイムズは無情にも報じていた。


 《第三章》 日系人を強制移住 − 収容所へ
 
  アラスカで最初の日系人逮捕者が出たことを、1941年12月9日付のアンカレッジ・デイリィ・タイムズは伝えている。
  「スオードの古くからの住民で資産家のハリィ・カワベ氏は、連邦捜査局(FBI)公布の命令により逮捕されていたことが、本日、アンカレッジでわかった。カワベ氏は、…中略…日本がアメリカへの戦争をしかけて以来、初めて拘引された外国人のひとりである。」 
  実際は、ハリィ・(ソウタロウ)・カワベは、日本軍のパール・ハーバー爆撃のわずか数時間後、12月7日の夕方に拘引され、アンカレッジ市外のフォルト・リチャードソン基地に秘密裏に送られている。その48時間後、カワベ氏経営の洗濯会社と関係のある四人の日本人が、スオードから連れ出された。 カワベ氏はいわば立志伝中の人物である。1890年、大阪近くの農家の四男坊として生まれ、小学校卒業後、1906年に16歳でシアトルへ。ハウスボーイとして働き始め、弱冠18歳で、小さなホテルとレストランの経営を引き継ぐが、すぐに破綻し、高給で人手を求めていたアラスカを目指す。そして東南アラスカでの皿洗いを皮切りに、ゴールド・ラッシュのおこぼれを受けながら一代で財を築いていく。1916年スオードに移り、洗濯屋を基礎に様々な事業を起こした。スオードの町を通り過ぎて魚の缶詰工場に通う日系二世たちは、港にあるカワベの名を記した会社の多さに驚くほどであったという。
  アラスカに根を下ろした成功者の象徴のようなカワベ氏の逮捕が、日系社会にどれだけの動揺を与えたか、想像するに難くない。以後、アラスカの日系人を取り巻く状況は見る間に厳しさを増していくことになる。
  日本人は“敵国のため、国内で裏切り、破壊行為をする可能性のある敵性外国人”と見なされ、年が明け、翌年になると、アラスカに自由に出入りすることや、居住している地域を離れることを禁止された。
  そしてついにアラスカ在住日系人は、1942年2月19日に時の大統領ルーズベルトの出した大統領命令9066に基づき、4月20日を期限として、軍事上の要地アラスカからの強制退去を命じられる。
  「アメリカ市民であると否とを問わず、日本人の血が二分の一以上流れている16歳以上の者」が、その対象であった。ただし、アメリカ市民である白人や先住民族と結婚した日系女性は強制退去を免れたが、それはその女性が自分の親兄弟など日系家族と離別することを意味したし、夫が日系の対象者で自分は日系ではない女性には、夫や子どもたちと行動を共にするか否か、辛い残酷な選択が待っていた。
  新聞を繰ってみると、以後の日系人たちの慌ただしさがかいまみえる。経営していた洗濯店や食料品店などの店を手放す記事や、即現金で売却するとの広告がある。前回登場したキムラ家の広告もあり、“白雪洗濯店”と中華料理店の経営委譲を告げている。
  ともあれ、多くの悲劇を飲み込んで、200人ほどの日系人は、1942年4月20日にアラスカを強制退去させられ、ワシントン州に一時的に集められた。その後、カリフォルニアやアイダホなどの強制収容所に送られることになる。アンカレッジで生まれ育ち、そこを離れたことのなかったキムラ家の末っ子、13歳のサムの姿もその中にあった。
  日本軍がアリューシャン列島のダッチハーバーを爆撃したのは、その一か月ほど後の6月初頭のことであった。


 《第四章》 先住民族アリュートの過酷な運命
  − 日本への強制連行と米軍による強制移住 −
 
  日米の戦争で、“自分のくに”とは感じ得ない“国家”に翻弄され、犠牲を強いられたのは、日系人だけではない。ここアラスカでは、まず第一に、先住民族アリュートの苛酷な運命、歴史が語られねばならないだろう。 1942年6月3日(現地時)、日本軍はアリューシャン列島ウナラスカ島のダッチ・ハーバーを爆撃し、時を置かず、4、5日後、キスカ、アッツ両島に上陸、占領した。これが先住民族アリュートに思いもよらなかった運命をもたらすことになった。
  当時、アリューシャン列島を含むアラスカはアメリカの準州であったが、アリューシャン列島付近は、いにしえより、先住民族アリュートの暮らす所である。
  日本軍がアッツ島に上陸した時、住んでいたのは40余人のアリュートと、気象要員や教師を勤める二人の白人、ジョーンズ夫妻だった。
  「日曜の朝、11時を回った頃、われわれは皆、教会から出て来て…その時、見たんだ、彼らが丘の向こうからやって来るのを。20人ほどが丘から降りて来た。われわれにはナイフも銃も、何もなかった。最初のその一団は若く、ボスはいなくて、やつらは村を銃撃した。その時、アンナ・フディコフが足を撃たれた」(『アリューシャン列島』よりアラスカ・ジオグラフィック発行)と、アリュートのイノケンティ・ゴロドフさんは日本軍との最初の遭遇の様子を語っている。
  無線技師も勤めていた白人のジョーンズさんは、日本軍上陸の翌日、亡くなった。自殺説や殺害説など、真相はわからない。
  そして、アリュートは三か月間、日本軍占領下の島で暮らした後、なんと、日本へ強制連行されることになる。極北の祖先の地から遠く見知らぬ国へと連行される彼らの思いは、どのようなものであったのだろうか。ましてこの時、二度とアッツ島に戻れなくなることなど、彼らは知る由もなかった。
  加えて、米軍もまた、日本軍の侵攻によって戦地となった地域から、アリュートを急ぎ、強制退去させる。アリューシャン列島はもとより、プリビロフ諸島、ウミアック島西部から、900人近いアリュートが時を置かず、船に乗せられた。行く先は、皮肉にも、日系人が強制移住で去った後の東南アラスカであった。
  当時12歳で家族とともにアトカ島から船に乗ったアリス・ペツリベリは、その寒くて惨めな航海をはっきりと覚えている。
  「ひどい混雑で、具合の悪い人もたくさんいた。ほとんど水もなかったし、すばやく立ち回らないと食べ物も手に入らなかったわ」(フェアバンクス・デイリィ・ニューズ・マイナー 1995年7月2日)
  生まれたばかりの赤ん坊が死に、水葬されたのを見た、とも言う。
  日本軍のアリューシャン列島への侵攻は、アリュートの侵略され続けてきた歴史にさらなる悲惨な一ページを書き加えることになったが、日本軍にとっては、この攻撃はミッドウェー海戦の陽動作戦をなすに過ぎなかったといわれる。占領から約一年後の1943年5月29日、米軍の猛攻にアッツ島の日本軍は玉砕し、7月末、キスカ島を撤収する。アッツ島の日本側の戦死者二千数百名、米国側550余名。アリューシャン列島は米軍の手に戻った。
  しかし、祖先の地を追われた民族、アリュートの悲劇はまだ、終わらない。


 《第五章》 アリュートの死と隣り合わせの収容所生活
 
  日本軍に捕らわれたアッツ島の41人のアリュートを乗せた船は、1942年の秋、北海道の小樽に着いた。途中で亡くなった一人を除いて、40人のアリュート(男女約半々、子供、若者が多く、30代以下が4分の3)は、終戦まで小樽で抑留生活を送ることになる。
  アリュートは大きな一軒の民家に収容された。ここでの監視下での生活が彼らにとってどんなに大変だったか、アリューシャン列島の自然の中での暮らしと比べて見れば、想像するのはたやすい。
  北海道といえど、夏は彼らにとって暑すぎたに違いない。言葉はわからないし、生活習慣はまるで違う。彼らの食べ物は豊かな海からの獲物やベリィなどの植物が主で、漁や狩り、採集が生活の大きな部分を占めていた。 「日本にいた時、飢えていたよ。ごみ箱をあさって命をつないだ。生きて戻れたのは、親戚の内で、兄弟ひとりと自分だけだ」と、イノケンティ・ゴロドフさんは、後に、米国の“戦時強制移住・収容調査委員会”で証言している。 当時、日本でも食糧不足は深刻で、アリュート40人分の食料を十分に確保するのは並大抵のことではなかっただろう。が、食べ物の違いも大きかったのではないだろうか。
  環境の激変や栄養不足のためか、ほとんどが結核を発症し、入院するありさまだった。帰国までに16人が死亡、小樽で生まれた子どもは5人だが、ひとりしか生き延びられなかった。日本側の思惑やそれなりの配慮がどのようなものだったとしても、アリュートの日本への強制連行は、彼らにとってこの上なく苛酷なものだったと言える。
  東南アラスカに強制移住させられ、収容所生活を送ったアリュートたちの状況も悲惨だった。
  プリビロフ諸島のアリュート477名が収容された、ジュノーの南にある、アヅミラルティ島ファンタ湾の収容所を、政府の一員として視察したフランク・ハインズは、この収容所は他のモデルと言われていたにもかかわらず、トイレはひとつ、水は汚れ、ほとんどのアリュートは病気で動くこともかなわず、粗末な狭い二段ベッドに身を横たえていた、と報告している。
  「どうして、もう少し良い所へ、ましな住家へ、わたしたちを連れて行ってくれないのですか。わたしたちは皆、男も女も働きたいと熱心に思っているのに。中略…子どもたちが苦しむのをわたしたちはながめていなければならないのですか」という、痛切な訴えの記録もある(以上、フェアバンクス・デイリィ・ニューズ・マイナー 1995年7月2日 より)。
  結局、この収容所では40人を越える死者を出している。
  ひどい住環境や、食糧、医療品の不足などは、他のアリュートの収容所でも同じだったようで、やはり多くの死者が出ている。比較の問題ではないが、他の州の日系人の収容所の方がまだましだった、という見方さえあるほどだ。当時のアメリカ政府の、アラスカ先住民族に対する差別の現れというほかあるまい。
  ラッコやキツネの毛皮のために、アリューシャン列島はロシアやアメリカに荒らされ続け、アリュート民族は苦しめられてきた。米国は、1867年、ロシアからアラスカを720万ドルで買い取ったのである。米国にとってアラスカは植民地のごときものであった。


 《第六章》 日系人の収容所生活 − ‘祖国’からの追放
 
  アラスカから強制退去させられた日系人が入った他の州の収容所は、「武装した看守に見張られていて、45平米ほどのひとつの部屋を、家族10人なら一家族で、さもなければ二家族で使う」状態だったが、幸い?にも、「アリュートの収容所とは違って、食べ物はちゃんと足りていたし、必要な冬の衣服も支給されていた」(フェアバンクス・デイリィ・ニューズ・マイナー 1995年7月2日)という。
  もちろん、不足しているものは多々あったが、自分たちで補う努力はいとわなかった。 「部屋にはベッドとマットレスとストーブ以外に何もなかったので、わたしたちは自分で、椅子やテーブル、タンスなどを、政府支給の道具や木材で作った」(ケチカン・アラスカ・クロニクル 1942年5月16日) 日系人にとって、問題は、収容所の環境や医療品不足などの生活上の困難さとは、別のところにあったようだ。
  それは、まず、日本人の血が流れているというだけで、祖国と思い、忠誠を誓った“国家”に敵方とみなされ、住み慣れ、あるいは生まれた地から追放された、そのショックや恥辱の思い、である。
  「僕たちが追放されねばならなかった時、僕は、僕自身の国、アメリカをどう思ったらいいのか、当惑し、混乱した。なぜなら、僕たちに起こったことは、この国が拠って立つところ、まさにその主義、原則に反することだったから」と、マイク・ハギワラは収容所から友人へ書き送っている。
  東南アラスカのケチカン出身のマイク・ハギワラは、アラスカ州立大学のバスケットのスター選手だった時、キャンパスから引き出され、家族のいるアイダホの収容所に送られたのである。
  彼はまた、アラスカ州知事に宛て手紙(1942年10月20日付)を出し、
  「この収容所にはアラスカから来た120人の日系人がいますが、その内、50人は18歳以下の子どもたちです。彼らにとっての問題は、手本となる父親がいないことです」と訴えている。
  成年男性は家族と別の収容所に入れられた場合が多かったためであろう。“父親不在”の子どもに与える影響が、日系の家族にとってはもうひとつの大きな気がかりであったらしい。
  政府と軍部は、1943年の初めにはすでに、強制収容所に収容された市民たちは合州国の安全にとってもはや脅威ではない、と認めていた。しかし、実際は1945年になっても帰郷は棚上げされたままの所が少なくなかった。日系人の帰郷に対する地域社会の雰囲気は、必ずしも温かいものではなかった。 1945年7月6日のケチカン・アラスカ・クロニクルは『日系市民のケチカンへの帰郷の是非』と題した社説で、ナチや日本軍の残虐行為や、日本と戦った米軍兵士の感情などに触れながら、この「微妙な問題」を論じている。
  結局、アラスカから追放された日系人は、その35%しか、アラスカには戻らなかった。マイク・ハギワラも帰らない。
  1945年8月15日、日本敗戦。
  異国での抑留生活を生き延びたアリュートは、三年ぶりの故郷を目指す。だが、彼らがようやく帰り着いたのは、夢にみた故郷のアッツ島ではなく、なぜか、アトカ島であった。


 《第七章》 「国家」に翻弄された人々
 
  1945年秋、アッツ島から小樽に強制連行されて3年後、小樽生まれの一人を含む25人のアリュートは、アラスカに向けて旅立った。その帰途に病気で亡くなった人もいて、結局、日本に抑留されたアリュートの内、アラスカに戻れたのはわずか半数ほど(41人中22人?)でしかなかった。
  しかもアメリカ政府は、島民の強い希望にもかかわらず、アッツ島への帰還を許可しなかった。島は日米の激しい戦闘で破壊し尽くされ、住める状態ではなくなっていたのだ。代わりに、同じアリューシャン列島のアトカ島が、旧アッツ島民の新しい住みかとなった。 一方、アリューシャン列島の他の島々から、米軍によって、東南アラスカに強制移住させられたアリュートたちは、1944年春に帰島が許されたのだが、実際には、翌1945年の春まで待たされている。彼らもまた、食糧や医療の不足、劣悪な環境などによる一割とも言われる移住先での死者はもちろんのこと、深い傷心のためか、やはり半数しか、故郷に戻らなかった。 
  島へ戻ったアリュートも、民族古来の住居や技術、生活手段など全てをなくして、一から生活を立て直さねばならなかった。
  アリュートの老女は歌う。
  「日本兵がやってきた。/ アメリカの軍隊もやってきた。/ 中略… / 大勢の人々が亡くなった。/ 戦争が終わり、軍隊は島の人々を帰してくれたけれど、/ 残された人々も、みんなと一緒に死んでしまえばよかったと思った。/ 島にすでに家々はなく、/ 村は消えていた。/ 日本兵がこなかった村も残ってはいなかった。/ 軍隊が言うには、日本軍に使われては困るので、村はみんな破壊したと。/ 島の人々はもはや帰るべき島を失った。」 (『秘めやかな海霧』より デイナ・スタベノウ著 翔田朱美訳)
  戦地となったアラスカに暮らしていた民の悲劇は、日米の“国家”が引き起こしたものに他ならない。“国家”の論理のもとに、先住民族アリュートと日系アメリカ人は運命を狂わされた。
  その取り返しのつかない“過去”に対し、アメリカ政府は遅まきながら、1980年、“戦時強制移住・収容調査委員会”を発足させ、謝罪と賠償を行った。強制移住させたアリュートと日系人の生存者にも1万2千ドルが支払われている。
  しかし、日本は何もしていない。旧アッツ島民のアリュートだけには、いまだ、日米両国から何の賠償も謝罪もされぬままである。 どころか、日本人は一体どの程度、このアリュートのアッツ島からの強制連行や、小樽での三年間にも渡る抑留生活の事実を知っているのだろうか。
  アメリカにおいても、アリューシャン列島での日米の戦闘は、アラスカが当地であるゆえか、言及されることも記されることもめったになく、『忘れられた戦争』と言われているほどである。まして、その戦争の影で、両国の“国家”に挟まれて呻吟した民のことなど、かえりみられることはまれであろう。
  アラスカの州花は極寒の大地に咲く“忘れな草”である。フォゲット・ミィ・ノット (FORGETーMEーNOT)“わたしを忘れないで”という美しい英名を持つ。『忘れられた戦争』を、そして国家のはざまで翻弄された者たちを“忘れないで”と呼びかけているように、日本人のわたしには思えてしまうのである。

(信濃毎日新聞)
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