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fukuroumura

書評
 『長い旅の記録』 寺島儀蔵

 二、三か月前の夜、いつものようにニュース番組を見ていた。その日の特集が始まり、ひとりの年配の男性が映し出された。街を歩いたり、電車に乗ったり、話したりする、その男性を追うだけの動きの少ない画面にナレーションがかぶさる。だが内容は驚くべきもので、わたしは思わず姿勢を正してテレビに見入った。
 その男性は約六十年ぶりかで祖国日本の土を踏んだ、というのだ。日本共産党員だった彼は、ために六年余り独房で過ごした後、ソ連への亡命を決意する。その時二六才。北海道生まれの彼は、歩いて樺太の国境を越えた。スターリン支配下のソ連。モスクワまで無事連れて行かれて、そこで工作員としての教育を受ける。ところが二年ほどたって突然スパイ罪などで逮捕され、死刑、それも二十四時間以内に執行の判決を受ける。執行を待っている最中に二五年の刑に減刑。もとより無実だが、厳寒の地のラーゲリを転々とすることになる。釈放されたのは二十年後、四十代後半になっていた。
 その後、ソ連(当時)の女性と結婚。日本に帰る機会は待てどもなく、監視されながらの生活を送る。ソ連が崩壊し、日本の新聞社の力添えもあってようやくこのたびの日本訪問がかなった、というのがナレーションの伝えたことだった。
 とうに八十を越えたその男性のすさまじいとしか言いようのない人生に、わたしは半ば呆然として画面を見つめていたが、同時に、感情を表に出さないその穏やかな表情と、乱れのない端正な日本語に衝撃を受けた。「死刑判決を受けた時に感じたのは個人的なことより、こんな思想を日本に持ち込んではならないということでした」「誰にも忘れられない風景、故郷というものがあって、私はもうここには戻れないでしょうが、死んだらここに埋めて欲しいですね」というようなことを、数十年ぶりの故郷を目の前にして、また縁者と会っても、表情を変えることなく、静かに静かに言うのだ。この人は心の底に常人の想像もつかぬ深い湖をかかえているのではないだろうか、と感じた。
 本書の著者がその人である。四百ページに及ぶ個人史だが、細部まで鮮明な描写がテレビで知ったわずかな情報を十分に補ってくれる。
 序文代わりに、死刑判決を受ける場面からこの本は始まり、そして国境越え(第一章)や、モスクワでの工作員教育(第二章)の詳細にさかのぼる。亡命の様子や、当時のソ連の状況の裏面がうかがえて、それはそれですこぶる興味深いが、収容所での一八年間に及ぶ強制労働の日々が、質量ともに本書の中心を占めている。そこでの生活、出会った人びと、別れ、さらに恋まで、生死のはざまでの凝縮された人生が描写され、ふさわしくない言い方かもしれないが、実に面白く引き込まれた。スターリンの死後、突如、ラーゲリで起きた整然としたゼネストの話しなど圧巻である。 
 スターリンの独裁や日本の参戦、敗戦などについて示される著者の見解は、囚われて隔離されているにもかかわらず、的を付いている。逆境で鍛えられた知力や時代の変遷を見通す眼力には感心するほかない。
 内容の重さに比して淡々とした文章で、迫力はそのままに、読みやすい。「何としても自分の生まれた国の言葉を記憶にとどめようとして、読むロシア語の本を頭の中で日本語に訳して行く」という努力を幽閉生活の初期に試みたり、釈放時にはほとんど忘れていた日本語を、通訳の仕事などを通じて取り戻していき、「日本語を忘れないようにぽつぽつと書き始めた」「自分自身のための」手記が本書となり、「夢にまで見た祖国の地を生きて再び踏むきっかけに」なったという。おかげでわたしたちも得難い本を手にできた。
 過酷な人生を文学に昇華した見事な書である。
 極限の状況の中で生き抜いてきたひとの文章だが、なぜか人間に対する不信や運命の理不尽さや絶望を越えて、読む者に励ましや元気を与えてくれる。

(信濃毎日新聞)
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