戻る

fukuroumura

 ミステリィの女たち

「タフでなくては生きられない。優しくなければ生きている資格がない。」
 ご存知(ですか?)、チャンドラー描くところの探偵、フィリップ・マーロウの名ぜりふ、です。
 今、読んでも、ウン、なかなかのものだ。ミステリィ(細かく分ければハードボイルド)史上に残るのも無理はない。でも、初めてこのせりふを読んだ時、たぶん、二十数年前だと思うが、その時ほど素直に感心しているわけではないのです、実は。この間、時代も変わった、わたしも変わった。少しは鍛えられた、のである。今や、ちゃんとわたしの鋭い?アンテナにひっかかってくる。
 何がか、と言うとですねぇ、主語です、主語。日本語の特徴で、主語が抜けているわけですが、この主語が“男(は)”なのは自明、でしょ。昔なら、ちょっとした違和感を感じるぐらいだったかもしれないけれど、現在のわたしはすぐにピンとくる。我ながら、フェミニズム感度が成熟したもんです。かつては、あまりの格好よさと面白さに満足して、そんなふうには感じなかった。
 チャンドラーのフィリップ・マーロウ物は確かに面白い。ハードボイルドのベスト・テンの常連なのも当然、これなくして私立探偵物は語れない。わたしだって今も嫌いじゃない、ホント。ただ、全く疑うことなく、ア・プリオリに“男”が、ストーリーの中でも、作者の意識の中でも、そしておそらく、当時の読者の思いの中でも“主人公”であることに、時代(の限界)を感じるし、今ではわたしは、そういうマッチョを素通り出来ない女になってしまった。気が付いてしまうし、なにより気持ち良くないのである。
 トレンチ・コートに帽子、くわえ煙草で街角に佇み、バーのカウンターで頬杖をつく男、なんて絵に描いたようなハードボイルドでなくても、改めて女の目で眺めてみれば大好物のミステリィもまた、社会の現状を映してか、しっかりと男性優位の世界だった。 だから、一九八二年、サラ・パレツキーの『サマータイム・ブルース』と、スー・グラフトンの 『アリバイのA』が出た時には嬉しかった。新しい風が吹いて来た、ミステリィも変わった、って。
 優れたミステリィほど、時代や人間を映し出し、社会の現実を抉り出す。そもそも犯罪を生み出すのが、その時代の社会を生きる人間なのだから当然だけれども、ゆえに、世の中が変わればミステリィも変わる。変わらねばならない。
 どう、変わったのか。
 『サマータイム・ブルース』で、女性探偵V・I・ウォショースキーが、依頼人から 「共同経営者はいないのかね。きみは若い女だ、仕事が手に負えなくなるかもしれん」と言われて、
 「わたしは一人前の女性です、自分の身は自分で守れます。それができなければ、こんな職業を選んだりはしません。事態が手に負えなくなれば、なんとか切り抜ける方法を考え出すか、最後まで徹底的にやり抜くかのどちらかです。それはわたしの問題で、あなたには関係ないことです」ときっぱりと言い切った時、フィリップ・マーロウの時代は遠くなったのである(と、思いたい)。
 自立した女が、性や人種などの差別や偏見をきっちり認識して、社会の悪や不正義、犯罪に自分の能力で直接挑む時代が、ミステリィ界にやって来たのだ。今まではまず男の役どころだった警察官や探偵、判事や検事、弁護士、ジャーナリストなどを仕事にした女が事件を解決する、そんなミステリィが、以後、飛躍的に増えてくる。
 そこで今、ミステリィ、それも翻訳物のそれは、以前に増して実に多彩で面白くなった。謎解きや犯人捜しに加えて情報の宝庫、ライフ・スタイルや人間関係のあらゆるモデルがあり、生きた教材のごときものになっていると言ってもよいだろう。(『わたしのフェミニズム論』なる与えられたテーマから、わたしが一見、無関係のようなミステリィについて述べているのはそういう次第であり、また、フェミニズムについてはもちろん、あらゆる差別について明確に、しかも面白く読んでいるうちに分かるので、機会があれば、その種の自分の意見、考えを表明する手段として、お気に入りのミステリィを紹介することにしている、せいでもある。幼き時から本大好き、今に至るも活字中毒の身としては、“読書”の影響の大きさは身に沁みているので。)
 論より証拠、そういうフェミニズム感度の良い、面白く為になるミステリィを紹介してみましょう。     
 最新の一冊、『土曜日の殺人者』(アンネ・ホルト著 柳沢由美子訳 集英社文庫)から。
 これはノルウェーの小説で、英米が断トツに多く、次いで仏独伊あたりの欧州勢でほとんどを占めてしまう翻訳ミステリィの中では、かなり珍しい部類に入る。(北欧のミステリィと言うと、スウェーデンのマルティン・ベック・シリーズ 角川文庫、がすぐ思い浮かぶけれど)
 シリーズ二作目の本書は“レイプ”を真っ向から取り上げている。シリーズの主役のひとり、オスロ市警の警部補ハンネ・ウィリヘルムセン(女性です)は、「強かんは最悪の犯罪だ」と考えており、「殺人は時として理解することができる」し、「激怒の瞬間、激しい愛情や憎悪の結果、あるいは長年の我慢の結末、中には同情を感じる殺人さえあるかも知れない」が、「強かんは別だ」と思っている。「強かんはひどいどころではない。それ以上のことよ。それ以上に、もっともっと残酷なことよ」というのが彼女の意見だ。
 強かんの被害者に対する理解も深い。
 「女のほうに責任のある強かん」もあるという上司の警部(男性)の言葉に強く反発し、 「興奮したパーティーの帰り道、誘われてよく知らない男の家に寄った場合や、恋人やよく知っている男に強かんされた場合、それは女のほうに隙があったからとか、自分から男の性的な接触を招いたのだと言われる。これらはたいていの場合、事件として成立しない。どちらが悪いという水掛け論で終わるからだ。しかし、とハンネは考える。どんな場合でも、女のほうに隙があったら男は強かんしていいという理屈は成り立たないはずだ」という具合だ。
 どこかの国のマスコミの連中や裁判官に読ませたくなるが、男女平等が進んでいると言われるノルウェーでも、強かんの罪は信じ難いほど軽い。「一年、いや一年半か。刑務所内で真面目に仕事をし、模範囚となれば、刑期は三分の一減刑される。ということは、男はせいぜい一年足らず出てくるのだ。」
 この強かんの、「人生を粉々にし、生きながらにして殺した代償」としてはあまりに軽い扱い、それは社会の女性に対する見方の反映に他ならないが、被害者側はもう、そんな社会に我慢ができなくなっていることを、本書は端的に示す。強かんがどんなにひどい犯罪か、その事実を社会がちゃんと認識するために、男たちにもぜひ読んでもらいたいものだ。
 登場人物たちのキャラクターや生活、人間関係など、つまりは彼女や彼らの人生が、起こる事件や謎解き、犯人捜し以外に大きな楽しみとなる、というのがシリーズ物の特徴であり、美点なのだが(もっともこれは両刃の剣で、それが気に食わないと次から続けて読む気がしなくなるし、ミステリィとしての面白さまで半減してしまう恐れがある)、本書も一作目の『女神の沈黙』から、かなり興味深いシリーズ・キャラクターを揃えている。 ことに二作目の本書で主役を張るオスロ市警の警部補ハンネ(一作目では準主役といったところだった)の私生活は、要注目。彼女は恋人と同居しているのだが、その同居人とは、「生まれも三週間しかちがわない同い年の女性」で医者のセシリーである。しかし、ハンネはそのことをひた隠しにしている。
 「オスロ市警の誰にも、彼女が女性といっしょに暮らしていることを知られてはならないとハンネは決めていた。」
 それは警察というところが世間一般と比べても保守的でマッチョな世界とハンネが判断してのことだが(正しい判断だと思う)、十五年間も、別々の電話を使い分け、たまにはカモフラージュにひとりで警察仲間のパーティにも出席する彼女の態度に、恋人セシリーは傷ついている。
 「電話が二台。おかげでわたしはあなたの仕事関係の人には一人も会っていないわ。姉妹がいるといっても、わたしは会ったことも、見たこともない。クリスマスだってあなたは自分の家族といっしょに祝うから、私たちいっしょに過ごしたことがないじゃない」「なぜ私たちの友だちはみんな医者とか看護婦だけだと思うの? なぜ、みんな医者のわたしサイドの友だちばかりなの?」というセシリーの抗議に、ハンネは深く悩みながらも踏ん切れない。こんな彼女が、やはりシリーズ・キャラクターのひとりである仲間のビリー・Tの、「噂はあるよ」、でも、「人はきみが思うほどひどくはない」「いいかげんに隠し事はやめろよ」という遠回しの励ましを受ける場面は、感動的だ。本書は、彼女が同性愛であることを“カム・アウト”(公表)することを暗示して終わる。次作でどうなるのか、楽しみだなあ。
 探偵役の主人公がホモ・セクシュアルのものとしては、ジョセフ・ハンセンのデイブ・ブランドステッター・シリーズ(『闇に消える』から『終焉の地』まで十二冊 早川書房)という、男性同士の同性愛を描いたすこぶる良いのがあるが、ようやくそれに匹敵するほどの内容を持った女性版が出てきたかな、という予感を抱かせる。
 これだけ書いても、本書の事件は他の流れもあり、詳しい内容や結末を明かさないミステリィ紹介の鉄則は破っていないので、ご安心を。
 本書の作者はテレビのニュース・キャスター兼ジャーナリスト、警察官、弁護士という職歴を持つ女性。概して、女性の書くものの方がフェミニズムの観点から見ると、やはり安心で、つい、手が出てしまう。それに女性が主人公、もしくはシリーズ・キャラクターに入っている方が、そのライフ・スタイルや恋愛、人間関係など、追って行く楽しみも大きい。でも、当然、女性の書くものでもダメなのはダメだし、男性の書き手でもわかっている人はわかっているのは現実と同様だ。ただ、どうしても後者、男性の方が少ないのも現実通り。ちなみに、先述の中で、サラ・パレツキーとスー・グラフトンは女性で、主人公も女性の私立探偵、他は男性作家の男性主役のものである。
 例えば、エド・マクベインは日本でも人気の“87分署シリーズ”の男性作家だが、男性を主役にしてもなお、感度の良い作家のひとりだ。彼のもうひとつのシリーズ、“ホープ弁護士”ものはお勧め。その中で、日本社会ではいまだ定義もあやふやなセクシャル・ハラスメントについて触れた箇所を、あげてみよう。
 「スカイは、パトリシアが少なくとも十回以上もそう呼ばないでくれと頼んだにもかかわらず、パットと呼びつづける男だ。セクハラで訴えられたクラレンス・トーマス判事の聴聞会のあと、警告の旗があげられたにもかかわらず、親しげに女性たちの肩を抱くのをやめようとせず、検察局という幸せな大家族の気のいいおじさんであるかのように振る舞い、おじさんが親愛の情を示しているんだよとばかりにお尻を触るのだった。」(『メアリー、メアリー』 早川書房)
 スカイはパトリシアのボスの州検事で男性、パトリシアは優秀な州検事補の女性だ。何がセクシャル・ハラスメントかを作者が明解に承知しているのは一目瞭然だし、アメリカの法曹界の旧態依然たるところも指摘、告発している。しかも、本筋とは何の関係もない箇所でさらりとこれだけのことを書く。
 ひるがえって、わが国、日本を見ると…、 残念ながらまだ、これといってお勧めはない。わたしは日本のミステリィだって好きだし、よく読むのだけれど。
 日本でも海外の女性作家の女性主人公シリーズは人気だが、3F時代などと半ば揶揄的に呼ばれている。作家、主人公、そして“読者”が女性という意味で、これに翻訳者を加えて4F時代とも言う。どうも男性のミステリィ好きはこの女性作家、女性探偵たちが目ざわりのようだし、ミステリィ評論家(ほとんど男性)は輪をかけて嫌そうだ。仕事であるから?触れざるを得ない場合でも、P・D・ジェイムズ(英国の女性作家、重厚な作風で、原発問題を扱ったり、硬派の作品も多い。警官で詩人の男性主人公、ダルグリッシュ・シリーズなどがある。好きな作家だ)を解説した男性評論家某氏は、彼女のコーデリア・シリーズ(『女には向かない職業』という、象徴的なタイトルでデビューした女性の私立探偵物)にかこつけて、わざわざ、
 「高貴にして優雅、美しのコーデリア姫探偵譚を、しもじもの、とくにアメリカあたりの野蛮な女私立探偵物と比較しないでもらいたい」と書くありさまである。ヤレヤレ、P・D・ジェイムズが自分の作品が他の女性作家を差別するのに使われていると知ったら、さぞ悲しむことだろう。彼女の差別や現代の問題に対する鋭い意識をもとにした作品群が本当に理解されているとは、到底、思えない。 日本のミステリィ界は未だ、現実を反映してか、それとも真には反映していないからか、男性優位のままであるようだ。力のある女性の書き手は増えているのに、わたしの知る範囲では、本当にフェミニズムの視点に立った作品は見当たらないし、魅力的な女性探偵も生まれていない。日本のミステリィはいつ、変わるのだろう。
 さて、当の名指されたアメリカのミステリィでは、「まっ黒い肌」をしたアフリカ系アメリカ人(バーバラ・ニーリイのブランチ・シリーズ早川書房)や、少数民族であるアラスカ先住民アリュート人(デイナ・スタベノウのケイト・シュガック・シリーズ 早川書房)や、チャイナタウンの中国系(S・J・ローザンのリディア・チン・シリーズ 東京創元社)など、ユニークな女性探偵が輩出している。 考えてみれば、これはかなりすごいことで、つまり、日本で、在日韓国・朝鮮人や、アイヌ、沖縄の、それも女性が主人公の面白いミステリィ・シリーズが生れて、その歴史や文化、暮らしを背景に事件が起こり、それが日本社会の抱える差別や問題、現実を自ずと照射する、ようなものだ。加えて、作者も女性で、ね。そんなミステリィを読んでみたい、というのは夢のまた、夢か。

(『女子教育もんだい』冬号)
fukuroumura

戻る