戻る

fukuroumura

 アジアの交差点 ・ ハノイの憂鬱

「奇妙な見世物だ、と思わずにはいられなかった。止まらずに前に進むように言われても、自然に足が止まってしまう。ひんやりとした空気のなかで囁き声がくぐもる。 階下の部屋の中央に寝かされているのは“死体”なのだ。死体の見物。手すりにもたれて、その顔を見つめる。どうやっているんだろう、ずうっとあのままなんだろうか、まあ、昔からミイラというのはあるけれど、にしてもなぜ…頭の中を言葉がぐるぐる回る。
 ひそめていた息をそっと吐き出しながら目を離す。それの足元には銃を持った兵士が立っている。二四時間、死体を警護するのが仕事とは、とまた考え始めてしまう。この死体は神なのかもしれないな。 ホーチミンの遺体だった。英雄ホーチミンの遺体を置いたホーチミン廟は観光コースの目玉のひとつであるらしい。おかげで、写真でしか見たことのない伝説上の人物を本当に見るという貴重な初体験をした。ベトナム戦争そのものを、その歴史をながめているような気がした。社会主義国家なんだと、わたしは唐突に納得した。
 「苦しい時のホーおじさん」と、桜井由躬雄著の『ハノイの憂欝』には書かれている。突然の腹痛に苦しむ著者に、女中さんはホーチミンの肖像画を買ってきて拝めと言ったそうな。「ベトナム人の家には祖先の位牌や仏像とともに、ホーチミンの像が祭られていることが多い。…中略… ホーチミンは、かつての民族英雄たちがみな神になったように、いやその神々や大乗の仏たちの頂点にある存在として、今なお天上から、その一生を通じて愛したベトナム人を見守っていることを知った。」という。なるほど、やはり。
 続けて著者はこう書く。「多くのベトナム人の心理の中では、ベトナム人は党や国家を媒介することなく、いつも、直接、ホーチミンと向かいあい対話し続けているのではないかとさえ思う。ほんの少しベトナムがわかった。」 わたしは大いに、駆け足で回ってきたベトナムについて、この本に教えてもらった。。
 ベトナムとカンプチアに行ったのは昨春、戦後一四年目のことだ。旅行前、書棚をあさってみれば、戦争中のことを書いたものはかなりあれど、統一後のベトナムについては、『「ベトナム以後」を歩く』(小田実著 岩波新書)ぐらいしかない。行って自分の目で見て刺激されると、なおのこと、もう少し深いところ、習慣とか人びとの考え、感情のひだなどが知りたくなる。その年の暮、『ハノイの憂欝』が出た。
 この本は、ベトナム研究者である著者が、一九八五年から二年間、焦がれたベトナムにようやく滞在できて生まれたもので、対象への愛情も知識も充分、心身ともに軽やかで、実におもしろくためになる。「各章のタイトルにベトナムの国民的長編詩キムヴァンキエウの詩句」を使っているのも楽しい。硬い?社会主義国家を扱ってこの柔らかさ、自在さは素敵だ。ちなみに前出の“ホーおじさん”の章のタイトルは「体魄死すも霊魂あり」。あれで安らかに成仏できるのだろうか、体制が変わったらどうかされてしまうんじゃないか、と資本主義国からの観光客は心配になってしまった。

( 本コミニケーション)
fukuroumura

戻る