戻る

fukuroumura

書評
 『銀河の雫』 高樹のぶ子

 「中年の恋は家族の絆をどう変えるか。五三歳のTV局長と四五歳のバイオリニスト、四五歳の医師と二八歳の水泳教師。 … 二組の男女をそれぞれの立場から描く」という帯の文句に、つい手が出た。
 “中年”なる言葉につられたためだが、我ながら勝手なものだ。二〇代の頃は、四〇代以上の恋愛なんて、存在するとさえ考えなかったのだから。
 「年をとるってことは、何かが閉ざされることですよ。肉体のあらゆる部分が、じわじわと退化していく。」「いずれ自分も死ぬが、限られた時間を存分に生きたい。」そんな、肉体の衰えを感じ始め人生を見ることのできる年代の“恋愛”の方が豊潤でオモシロイ、といまや思うのは、もちろん自分がその年齢になったせいである。
 著者も同性同年代ゆえか、主な登場人物は上記の四人なのだが、いつの間にか四五歳のバイオリニストの女性が、書き手の意図はともかく、主役を演じている。 唯一の二〇代の女性は、大人たちに囲まれてはなはだ不利のようだ。どこかで皆に庇われて、だからこそより傷つく。四人の中で自分の生活や日常を、外見からすれば変えたのは彼女だけである。最初に行動を起こし、互いの関係を動かしたのは彼女の若さだが、すでに過去にそういう狂おしい恋を体験している大人たちの“現在”を、彼女はどうあがいても動かせないのだ。
 「長く生きるということは否応なくかなしみを沢山」抱えこむことであり、抱えこんだかなしみのために他人や自分を責める迫力にも欠けてしまう結果になるのだ。」そんなふうに考えて起きたことを許容してしまう成熟に、若さが何をできるだろう。
 彼女はロサンゼルスに行くこと、つまり自分の不在、喪失を味あわせることで、かろうじて、自分の知らぬ時間を積み重ねてきた大人たちに対するのだ。
 失うものを持ってしまった“中年”の方も、しかし、外観は変わらずとも中身は実に複雑で切ない。四五歳の二人が夫婦であり、各々の恋の相手が父と娘とあればなおさらであろう。
 「繰り返されるばかりで何も失われてはいないような錯覚を与えるが、砂時計の砂のように確実に失われていき、二度と戻らない時間が、過去に降り積もっていく」と、残された側は “老い”を実感することになる。
 中年の恋は、“する”のは少々しんどいが、秋の夜長、“読む”のはなかなか乙なもの、というところかな。

(信濃毎日新聞)
fukuroumura

戻る