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fukuroumura

書評
 『思想の冬の時代に』 海老坂 武

 一九八九年から九一年にかけての二年間、著者はヨーロッパ、主にパリにいた。
 そう、つまりこれは、“社会主義”体制が崩壊し、戦後の冷戦構造の枠組みが終焉を迎えた、あの歴史の激動期に、現場のひとつに滞在していたということだ。
 必要な時にふさわしい人がその場にいたものだ、と思う。
 著者は、フランス文学・現代思想の専門家で著名なサルトル学者。フランツ・ファノンの紹介者としても知られる。さらに、『シングル・ライフ ー 女と男の解放学』といった女と男の関係を問うエッセイも書く。その学識はもちろんのこと、柔軟で公平な視点、正確で明晰な分析、わかりやすい文章と、これほどあの時期の報告者として適切な人はいない。正直なところ、この本をわたしは心待ちにしていた。
 本書は、滞殴中、「フランス社会でもっとも熱烈に論じられた」という、フランス革命の評価、アラブ人移民問題、東欧の体制崩壊、湾岸戦争、についての四章と、最後の章“いま、民主主義をどう考えるか”から成る。それぞれの章で、さまざまな知識人の言説や新聞・雑誌の記事が丁寧に要領よく紹介されていて、本質をとらえたそれらの要約は、一筋縄ではいかぬ複雑な問題についての整理と理解を、大いに助けてくれる。
 個人史を語りながら、自らの“ユートピア民主主義”の像を提出した第五章は、これからの世界像を描くための議論の、すぐれたたたき台になるだろう。
 著者の知識人としての誠実な姿勢は、期待に違わず、つらぬかれている。例えば、
 “社会主義”“資本主義”“民主主義” “人民”“市民”などの、時にあいまいのまま恣意的に使われることの少なくないキーワードを、きちんと定義してから使用していること、
 「私は社会主義シンパだった」と自分の立場を表明し、論ずる対象へのスタンスをはっきりさせていること、
 そして何より、女性を、社会的弱者をいつも視野に入れていること。フランス革命の 『人権宣言』の“人間”には、税金を収める能力のない下層民衆と女性と奴隷は含まれていないことを指摘し、当時、女性の権利を主張した女性、オランプ・ド・グージュに数ページをついやしている。“娼婦(夫)”と表記する心配りには、ニコニコと脱帽。

(信濃毎日新聞)
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