その夜に
暖かな昼下がりだった。
通りかかった空き地の草むらに、冬眠に入り遅れたヒキガエルを見つけて、はっと
足を止めた。その背中に、大きな黒い鼠が喰らいついていたのだ。
ヒキガエルは四肢を踏ん張って逃れようとするが、すでに体のあちこちから血を流
している。
私はヒキガエルを哀れに思い、鼠を追い払おうと足音を高めて近寄った。しかし、
鼠は獲物に噛みついたまま放そうとしない。間近で足を踏み鳴らしても、少しも動じ
ない。
靴の先で鼠を突っついてみた。
突然、鼠は横に飛び退き、かっと口を開いて私を威嚇する。こちらをにらみつける
目の奥に凶暴な意志を感じて、背中に寒気が走った。
恐怖のために、鼠を蹴り飛ばしていた。鼠は草むらの中に消えた。
足の甲に、獣の重さと質感がいつまでも残って、私は逃げるように空き地を離れた。
ヒキガエルがどうなったか確かめる余裕もなかった。
その夜のことだ。
「峻さんですか」
電話があった。女の声だ。しっとりと落ち着いた中にも、若さゆえの華やぎが感じ
とれる。
誰だろう。思い当たる者がいない。
「私は、先程けだものに手篭めにされかけたところを、貴方さまに救われたヒキガエ
ルでございます」
唐突なことで、すぐに頭が回らない。思い付いたのは、あのヒキガエルは雌だった
のかということと、どうやって私の名前を知ったのだろうかということだった。
「のちほどお礼をさせていただきたく存じます。どうかお受けとめください。本当に
ありがとうございました」
そう言って、電話は切れた。こちらが答える暇もない。
恩返しと言われても、相手は鶴ではなくヒキガエルだ。鳥ならまだしも、両生類と
いうのはどんなことになるのだろうか。
少し前にテレビで見た、蛙合戦の有様を思い出した。
夏のある夜、溜め池に何百匹もの雄雌の蛙たちが集まって、くんずほずれつの集団
交尾をするのだ。雄の蛙は、少しでも動くものがいるとそれにしがみつく。跳びつい
た相手が雌とは限らないから、どうも抱き心地が変だと思うとまた別の動くものに跳
び移る。
試しにコンニャクに目玉を描いて糸を付け、雄蛙の前を引きずると、猛然と抱きつ
いてくる。
哀れにも滑稽な光景を見て、私はなぜか、ああ青春だな、と思った。
私自身、青春など遠い昔だ。かといって、未だ木石という身でもない。
いくらなんでもヒキガエルそのままの格好で現れることはあるまい。あの電話の声
に見合う女が、もしもここに白い体を横たえ、しかもその本性をヒキガエルと知って
いて、私はどのように反応するのだろうか。
畏れとも期待ともつかぬ気持ちを膨らませていると、玄関のチャイムが鳴った。
宅急便だった。
印鑑をついて受け取った小包には、「蝦蟇の油一年分」と書いてあった。