怪談・
尻尾
今、そこで黒い猫を見かけました。
黒猫というと、昔出会ったあるできごとを思い出します。
私は長野の高校を卒業し、東京の大学に入ったばかりでした。
◇ ◇ ◇
親からの仕送りを受けていなかった。
家の経済状態が仕送りを許さなかったわけではないが、なんとなく、大学は親の援
助なしに出たいと思っていた。
平日の夜は家庭教師をやり、週末は建設工事の力仕事をした。幸い学費の安い公立
大学だったが、それでもアパートの家賃と生活費のすべてをアルバイトでまかなうの
はきつい。時おり家から送られてくる、即席ラーメンや下着が詰まった小包はありが
たかった。
夏休みの少し前に、私は同じゼミの友人とアパートの交換をした。そちらの家賃が
安かったからだ。友人の方は、少々家賃が高くてももう少しまともな所に住みたいと
思ったらしい。
今にも崩れそうな木造二階建てのアパートで、六畳一間の貸し部屋が上下に四室づ
つある。便所は各階に共同のものがあるだけで、風呂などはもちろんない。
私の部屋は二階の一番奥だった。ビルの陰で風通しが悪く、どこもじとじとしてい
るし、夕方近くになると灼けるような西日が差し込んでくる。夜は熱がこもり、蒸し
暑さのために眠れない。バイト疲れもたまって、私は引っ越しの一週間後についにダ
ウンした。
たちの悪い夏風邪だった。二日目に熱は四十度を越えた。午後になると、悪寒で震
えているのに、暑さで目眩がする。窓を開けても風が通らず、扉を半開きにしたまま、
汗で湿った布団の上で伸びていた。
戸口でことり、と音がした。体を起こして振り返ると、扉の隙間に黒い尻尾がちら
っと見えてすぐに消えた。
黒猫だろうと思った。
私はまだ、ここの住人たちのことをほとんど知らない。夜遅くバイトから帰っても、
蛍光灯一つが灯った廊下で誰とも会うことがない。みんな生活時間が違うのだ。そん
なとき、どこからか猫の鳴き声が聞こえることがあった。きっとその猫だ。
私は布団に突っ伏して、またうとうとした。夢の中で黒い尻尾が何本もゆらゆらと
揺れていた。
ぎぎ、と扉がきしむ音に目を開けた。西向きの窓から射し込む夕日の最後のかけら
が、開きかけた扉を真っ赤に燃やしている。
黒い小さな全身が目に映るのと同時に、それは扉の陰に跳ぶように消えた。
何だ、あれは?
冷汗が噴き出してきた。
耳も脚も尻尾も見えた。黒い毛に覆われて、それが黒い猫であっても不都合はない
のかもしれない。
だが、確かにそれは二本足で立っていた。
猫でないとすれば、あれは何だ?
私は高鳴る動悸を抑えながら廊下に出た。--何もいない。
他の部屋と便所の扉は閉まっている。私は音を立てないように階段を下りていった。
一歩踏み出すたびに階段は柔らかく沈み込んで、うねった。熱のせいだ。
一階の廊下を見渡した。奥の部屋の扉が薄く開いた中に、黒い姿がすうっと吸い込
まれていった。
私は足音を忍ばせた。
日が沈みかけている。覗き込んだ部屋の中はすでに薄暗い。気配があった。私は腰
を落として静かに扉を開けていった。
部屋の隅の座布団の上に黒猫がいた。猫はこちらを向いて、みゃあ、と鳴いた。口
の中が薄闇の中でも真っ赤に見えた。
「どなた?」
背中の声に、私は息が止まりそうになった。暗い廊下に女が立っていた。
「あ、あの、変な猫が見えたので気になって……すみません」
人の部屋を覗いていた後ろめたさで、しどろもどろになる。
女はそれを気にも留めないふうで、
「黒い猫ね。ときどき入ってくるの」
と言いながら部屋に上がって電灯をつけた。
「いないわ。窓が開いているから外に逃げたのでしょう」
私の方に向き直って、覗き込むように顔を近づけてくる。
「あなた、熱があるんじゃない。大丈夫?」
昨日から顔も洗っていなかった。髪の毛もひどいことになっているだろう。その上
パジャマ姿だ。
「先週二階に引っ越してきた者なんです。ちょっと風邪をひいたみたいで」
あわてて引き返そうとすると、手招きで引き留められた。
「薬があるからいらっしゃい」
私は、どこか気怠そうな女の声に誘い込まれるように部屋に入り、気が付くと、さ
っき猫が乗っていた座布団に座っていた。
女は、化粧台の中から風邪薬を出して私に手渡したあと、ちょっと待ってて、と言
って戸口の脇の小さなガスコンロで卵酒を作り始めた。
「年、いくつなの」
「十八です」
「未成年だけど、お酒いいわよね」
と、こちらを向いて笑う。
私は、ええ、どうもすみません、と言ってから、自分の出身地や、まだ慣れない大
学生活やアルバイトのことなどをぽつぽつとしゃべった。
しゃべりながら、衣装ダンスや食器棚を見回し、女の緩くカールした長い髪をなが
めて、なぜか『わけありの女』という古くさい言い回しを思い出していた。三十二、
三というところか、いや、女の年なんて当たりっこない。
湯気の立った大きな湯飲みが目の前のテーブルに置かれた。
「あたしのはただの冷や酒」
ふふと笑いながら、女も湯飲みを持って向かいに座った。
いただきます、と熱い卵酒を一息に半分くらい飲んだとき、二つの湯飲みが夫婦の
揃いであることに気付いた。もしも今、夫が帰って来たら、という考えがにわかに浮
かび、同時に、パジャマ姿の自分の立場を思い出した。さらにヤクザ、落とし前、強
請り、指詰めなどというテレビドラマじみた単語が頭の中にずらずら並んで、熱が一
気に跳ね上がった。
「ごちそうさまでした」
かすれ声で言って、飲み残しの卵酒を置いたまま腰を浮かせかけると、女はふと顔
を上げた。
「あたし、亭主を殺したのよ」
え?
熱と卵酒でぼんやりした頭は、すぐに反応しなかった。
「ひどい男だった。あいつから逃げるためには、そうするしかなかった」
冷や酒の湯飲みを口に当てながらのつぶやきは小さかったが、それでもはっきりと
聞こえた。
首筋から足先に向かって、冷気が流れ落ちる感覚があった。
「新橋のお店によく飲みに来ていたお客だったわ」
口説かれて、一緒に暮らし始めて、そのうち籍を入れた。もう十年も前のことよ。
最初はおとなしそうな男に見えたけど、ギャンブル狂いだった。生活費は競馬やパチ
ンコに消えた。半年ほどしたとき、会社のお金を使い込んで馘になった。
「そのうち本当の賭博に手を出したのよ。ヤクザに借りたお金はすぐに五百万、六百
万。それで、借金を返すために、あいつ、あたしをヤクザに売った。無理やり客を取
らされて……」
女はそこで言葉を切った。
「こんな話をしてもしょうがないわね。それより、どうやって殺したか聞きたいでし
ょう?」
と、私の目をじっと見る。
なんと答えていいのかわからない。口ごもっていると女は勝手に話を進める。
「客の顔をして、またお金をせびりに来たの。お酒を飲ませて、寝込んだところを、
果物ナイフで--」
人差し指で自分の首の脇を突く。座布団の上の黒猫の、真っ赤な口の色が頭に浮か
んだ。
「簡単なのよ」
喉が干上がっていた。卵酒を飲もうとしたが湯飲みは空だった。
「それが六年前。去年、出てきたばかり」
女は遠い目で、手の中の湯呑みを揺らす。
席を立つこともできず、何を話したらいいのかもわからない。刑務所のことを尋ね
るわけにもいくまい。
「あなた、さっき変な猫を見たって言っていたわよね」
話題が変わってほっと息をついた。
「ええ」
「その猫二本足で立っていなかった?」
「そうです」
先程はあれほど奇怪な現象に見えたのに、今はどうでもいいことに思える。猫だっ
て、たまには二本足で歩きたくなることもあるだろう。
「あれを見たとき、出るのよ」
「出るって?」
「殺した亭主の幽霊」
「ゆう……?」
私は混乱していた。自分がどんなところで何をしているのか、分からなくなってき
た。
「こんな、蒸し暑い、夕暮れどきに」
女は焦点の定まらない瞳を、夜の闇が迫る窓の外に向ける。
「来るわ。きっと。廊下を渡って、その扉を--」
と振り返ったそのとき、不意に扉が開いた。
そこに大柄な男が立っていた。蓬髪と薄汚れたシャツ。
音もなく部屋の中に進んでくる。
「あんた!」
女は目を見開いて夫の幽霊を見上げる。
「ここで何をしている」
しわがれた耳障りな声を響かせながら、幽霊はゆっくりと私の方に近づいてくる。
私は本当に腰が抜けたらしい。
「ぼ、僕は……」
仰向けにひっくり返ったまま、肘と踵で畳を掻き、テーブルのまわりを後ろ向きに
這った。
「待て」
目の前に幽霊が迫ったとき、私は体を回し四つ這いになって開いたままの戸口から
廊下に転げ出た。走っているのか転がっているのか分からない。手足を使ってもがく
ように階段を登り、自分の部屋に飛び込んだ。
鍵を掛けようとするが、手が震えていうことを聞かない。ノブにしがみついている
と、すごい力で扉が引き開けられた。
入ってきた。
倒れた私の上におおいかぶさってくる。
もうだめだ、と思った。
何がだめなのか。幽霊に取り憑かれたからか、浮気の相手と間違えられて指を詰め
させられるからか、理由がすっかり混乱しているが、とにかくだめだと思った。
「何を見た」
薄闇の中で幽霊に肩をつかまれて、気が遠くなりかける。
「ゆうれい……」
「俺は幽霊じゃない。あの部屋で何をしていた」
幽霊じゃない、という幽霊の言葉の意味がだんだん頭の中で形を整えてくると、今
度はヤクザの落とし前がはっきりと鎌首をもたげ始めた。
「あ、あの、奥さんは、僕は、卵酒が」
「しっかりしろっ。あの部屋は空き家だ。今、誰も住んでいないんだ」
自分の頭はもう何も理解できそうもない、と思った。
落ち着くんだ、と言われて、敷きっぱなしの布団の上に座り込んで、ぼんやり自分
の呼吸を数えた。
男は立ち上がって部屋の電灯をつけた。立ったまま開いた窓の外を眺め、私がなん
とか話を聞けるようになるのを待ってから、私の前に座りなおした。
「妹の部屋だった。十五年前に家を出た」
若者は誰でも東京に憧れた時代だった。高校生だった妹は、山形の家を家出同然に
飛び出して上京した。東京ではいくつかの職業を転々として、結局水商売に落ち着い
たらしかった。田舎にはときおり思い出したように手紙が届いていたが、六年後に結
婚したという知らせがあった。その後はまったく音信が途絶え、たまに、夫の行状で
苦労をしているらしいという噂だけが聞こえてきた。
「去年の暮れ、妹が自殺をしたと警察から連絡があった。あの部屋で、果物ナイフで
喉を突いて」
指で自分の首を突いた女の仕草が、脳裏に浮かぶ。
「妹が死んだあと、家族ははじめて妹がどんな生き方をしていたのかを知った」
男の話は女が私に語ったものと同じだった。ただ、女が亭主を刺し殺すところが違
っていた。女は亭主を殺すことを望んだが、実行することはできなかった。願望の強
さは、やがて殺したという思い込みになり、確信になった。
空想と現実の齟齬のため、女は病院とあの部屋との間を往復する生活を送っていた。
それは去年の暮れに、自殺という形で終わった。
「先月、ここの大家から山形に連絡があったんだ」
と、男は少し声の調子を変えた。
「あの部屋に妹の幽霊が出て、間借り人が居つかなくて困る、何とかして欲しいと言
う。変な言いがかりをつけるものだと、そのままにしていたんだが、今日たまたま仕
事で東京に出てきたので立ち寄ってみたところだ」
私はもう現実感覚が麻痺していた。
男は、そうか、幽霊の話は本当だったのか、としばらく考え込んだあと、
「あんたには迷惑をかけたようだな」
とつぶやいた。
「いえ、そんなことはないです。妹さんの幽霊とわかって安心しました」
自分でも変なことを言っていると思った。
男は私の顔色を見て、ひどく具合が悪そうだから早く休むといい、と言って部屋を
出た。
布団に突っ伏してどれほどの時間がたったのか、ふと目を開けると、半開きの扉の
前に黒い猫が座っている。
みゃあ--真っ赤な口だ。
猫はゆっくりと顔を上に向けて、もう一度、みゃあ、と鳴いた。
猫の視線を辿って天井を見た。
何十匹とも知れぬ黒猫が、逆さまに天井を埋め尽くしていた。垂れ下がる尻尾は黒
いつららのようだ。
私の体と神経はもう限界だった。
そのとき、真実が私の中にひらめいた。
女も男も幽霊なのだ--
「まあ、災難だったよな」
「うるさいっ」
友人の無遠慮な笑い声に私はいきり立った。
「あの夫婦も悪気はないんだから」
まだ腹を抑えて笑っている。
「小説家だかなんだか知らないが、人を馬鹿にするのもほどがある。こっちは病人な
んだぞ」
次の日、見舞いに来た友人の口から、自分が売れない推理小説書きと、ホステスの
アルバイトをしているその女房のたわいもない悪ふざけに引っかかったのだと教えら
れて、私はわめき散らしていた。
「お前だって、やられたときは腹を立てたんだろう。アパートを交換するときなぜ黙
っていた」
「そんなに怒るなよ。この現代に幽霊を見るなんて、望んだってできるものじゃない。
俺はその奇跡をお前と共有したかったんだ」
嘘をつけ。自分が死ぬほど恐ろしい目にあって悔しかったから、人にもやらせたん
だ。
くそっ。
私は憮然とし、横を向いて布団をかぶった。
◇ ◇ ◇
つまらない冗談に振り回されてすっかり体調を崩した私は、その翌日長野の実家に
帰って、夏休みの終わりまで静養するはめになりました。
その間ずっと、今度あの夫婦に会ったら文句のひとつも言ってやりたいと思ってい
ました。
しかし、私がまた東京に戻ったとき、女がいた一階の奥の部屋も、夫の小説書きが
仕事場に使っていたというその隣の部屋も、すでに空き家になっていました。二人は
夏の間に引っ越していたのです。
夫婦が本当に階下に住んでいたのか、今となっては確かめようがありませんが、年
格好の似た二人連れを見かけると、まだあのいたずらをやっているのかと声を掛けた
くなることがあります。
さっきそこで見た猫のことですが--
暗がりの黒猫なので、はっきりとは見えなかったのですが、二本足で歩いていたか
もしれません。
(完)