怪談・
刺身
医学部を卒業して五年目の秋、私は都立病院の整形外科に勤務していました。
もう二十年以上も昔の話です。
◇ ◇ ◇
<かみふりじま>に行ってくれませんか、と院長から言われたとき、私はそれがど
こにあるのかも知らなかった。
東京都の離島検診のことだ。都は以前から、医療施設の乏しい離島に対して定期的
に各科の診療班を派遣してきた。しかし神降島ではこれまで一度も実施されたことが
なく、うちの病院が初回の担当になったのだと言う。
地図などで調べると、神降島は伊豆諸島に含まれる東京都の小島の一つで、島の周
囲は約二十キロ、人口は四百人足らずとある。八丈島からさらに不定期の船で三時間
以上かかる、離島の離島のようなところだった。
二泊三日の中日に一般的な整形外科の診療をするだけなので、特別な準備は必要な
いだろう。念のため、経験のある同僚に尋ねると、仕事は楽だし、毎晩うまい刺身を
いやと言うほど食えるから、行けるものならまた行きたいと、うらやましそうな顔を
した。
刺身と聞いて、私はちょっと顔をしかめた。
私は生魚があまり得意ではない。両親とも都会育ちで、子供の頃から魚に馴染んで
こなかったためか、刺身をうまいと思ったことはなかった。
宴会などに引っ張り出される機会が増えるにつれて、少しずつ刺身の味を覚えてき
たが、それでもあの生き造りというものだけはどうしても好きになれない。肉を骨か
ら削ぎ取られた魚が鰓を震わせ、喘ぐように口を開くのを見ながら、その身をぱくつ
く神経が知れない。普段、生身の人間を切るのが商売の外科医でも、いやなものはい
やなのだ。
出発の日はトラブル続きだった。
十月初めのことで、前日付近を通過した台風の影響のために、羽田を午前中に立つ
はずだった飛行機が大幅に遅れた。やっと八丈島に着いてみると、今度は神降島周辺
の波が荒く、船が出せないと言う。結局、その夜は八丈島の民宿に一泊して、翌日の
早朝、特別に用意させた小型船で渡るという、ひどくあわただしいスケジュールにな
った。
二日目の午前十時過ぎ、ようやく神降島に上陸すると、島の助役が車で出迎えに来
ていた。
助役は犬のような顔をした小太りな男で、ハンドルを握りながら後ろの席の私と看
護婦にしきりに話しかけてきた。
「小さな島でしょう。何にもないんです」
朽ちかけた木造りの桟橋を指さして笑う。
「神降島をご存知でしたか」
と聞かれて、いえ、知りませんでしたと答えると、嬉しそうに、そうでしょう、そ
うでしょうと言う。
「ここは観光地図にも載らないですからね」
四十半ばだろうか。話し好きらしく、私や看護婦が相槌を打つと切りがなくしゃべ
り続ける。
「今も昔も、神降は忘れられた島なんです。八丈だって、そりゃあ本土からは遠いが、
流刑地ということでそれなりに人の行き来があった。しかし神降は、八丈から昔の舟
なら丸一日かかるんですから」
「海が荒れたら、孤立してしまいますね」
私は、ただ、ええとか、はあとか言っているのも失礼なような気がして、言葉をし
ゃべった。
「そうなんです。ご覧のように、この島は大半が荒れた岩山で、昔は主食の稗や粟で
すら、八丈で魚や鮑と交換してやっと手に入れていたんです。だから、悪天候が続い
て長く漁が止まり、八丈に渡れなくなると、島民たちはひどい飢えに苦しみました。
流人の八丈島も、神降に比べれば天国だと言われたそうです」
私は、この助役に気の毒がってもしかたがないと思いながらも、沈んだ声で、
「それは大変だったのですね」
と、言った。
「そういう生活は明治以降もしばらく続いていたんです。楽になったのは、やっと…
…」
やっと、車が止まって私はほっと息をついた。
港の東に続く狭い平地に、民家が軒を寄せ合うように集まって、それがこの島の唯
一の集落だった。検診はそこの集会所でやることになっていた。
私は、到着が遅れたので、検診が一日で終わらないのではないかと心配していたが、
案じることはなかった。
あらかじめ村役場に希望を出していた四十名ほどが、午前と午後に別れて受診に来
た。看護婦が聴き取った症状を問診表に記入し、血圧を測ったあと、私が診察をする。
患者の大半は年寄りの腰痛や膝痛で、処方箋を書き、当座の薬を手渡し、場合によっ
ては八丈島の診療所や、自分の都立病院あての紹介状を出すだけの退屈な作業だ。三
時を過ぎると患者はぽつりぽつりになり、私も看護婦も暇を持て余した。
四時に、さっきの話し好きの助役が車で迎えに来て、それで仕事は終わりだった。
島には民宿もなく、夜は島の長老の家に泊まることになっていた。
車は海岸づたいに島の反対側に向かっていた。港から離れるとすぐに人家は消え、
わずかな平地を耕した畑も見えなくなった。狭いでこぼこ道を三十分ほど走るともう
島の裏に来ている。車はそこから森の中の急な坂道を登り始め、やがて止まった。
その間、この親切な助役は島の解説を休みなく続けていた。
長老の家は、考えていたほど大きくも立派でもなかった。どこにでもある古い民家
のように見える。
荷物を確認して書類の記載を済ませ、風呂で汗を流すと、すぐに座敷に通された。
中央の大きな膳には、舟盛りにした刺身や寿司が隙間なく並べられている。私と看
護婦は上座に据えられ、そばに村長と長老が座った。続いて十人ほどの島の有力者が
順に席に着いていった。
村長は体格のいい五十がらみの男で、よく響く声で歓迎と感謝の辞を述べた。七十
才はとうに過ぎていると思われる白髪の長老が、終始にこにこして村長の言葉にうな
づいている。私は慣れない役回りに下を向いたままじっとしていた。
村長の挨拶が終わると、直ちに宴会になった。
隣の看護婦は魚が大好物らしく刺身を口に入れるたびに感激しているが、私は生き
造りの黒鯛の恨みがましい目を見ないようにして、のろのろと箸を出していた。
「どうですか、お口に合いますか」
助役が徳利をさげて私の横に来た。
「ええ、とても」
「魚の種類の豊富さと新鮮さは、日本中どこにも負けません。ここじゃ自慢できるも
のはこれだけですから。どうぞご遠慮なく」
と言って、切り刻まれてもまだ死にきれずに身悶えている平目や伊勢海老たちの大
皿を私の前に押し出した。
私は、包丁裁きの見事さや、口に入れたときの新鮮な歯ごたえや、後味の豊かな余
韻など、思いつくあらゆる賛辞を並べながら、刺身を酒と一緒に呑み込んでいた。
「この長老のお宅は随分山の中にあるんですね。島の長なら、港のそばに住んでおら
れるのかと思っていましたが」
私はすでに島の観光案内ができるほどの知識を蓄えていたが、生き造りの刺身を食
べるより助役の話しを聞いている方がまだましだった。酒を受けながら、思いついた
疑問を口にした。
「いいえ、長老は島の長ではないんです。島の長はあの村長で--」
近くの席でぱくぱくと刺身を頬張っている村長を指さした。
「長老と言うのは、何というか、島の神主みたいなもので」
「神主ですか」
そうは言っても、この家は特別神社のような造りでもないし、大きな神棚が置いて
あるわけでもない。
「いえ、本当の神主とは違うのですが、神降には古くから土着の信仰があって、祭や
神事を執り行う家筋があるんです」
言われてみると、白髪の横顔はどことなく俗世を離れたような風格がある。長老は
最初に乾杯をしたきりで、ほとんど酒を口にしていない。しきたりでもあるのだろう
か。
そのあと助役の話は、前回の村長選挙のことや、一昨日の台風の被害のことや、出
来の悪い自分の息子のことなど、際限なく拡散していった。
私は、助役のおしゃべりと、魚たちの断末魔の板挟みになって、酔いに救いを求め
るように酒を飲んだ。
看護婦はさっき、申し訳ありませんが失礼させていただきます、と言って用意され
た部屋に下がって行った。検診の仕事自体は軽かったが、船に酔っていたようだった
し、宴会が始まってからは結構酒をすすめられていた。男ばかりの宴席というのも気
詰まりだったのかも知れない。
「実は、今夜、島の神事があるんですよ」
助役が白磁の水差しのような酒入れを持ってきた。私は猪口でそれを受けた。
「これは神様が召し上がる特別な酒なんです」
「そんなものを私が飲んでいいんですか」
もう飲んでしまってから私は聞いた。
「昔からこの島では、遠来のお客人は神様と同じようにお迎えする習慣があるのです」
それまでほとんどしゃべらなかった長老が口を開いた。
「これから神事の準備をしなければならないので、失礼します。あとで先生もぜひご
覧になりに来て下さい」
長老はにこやかに言うと、ゆるゆると立ち上がって村長たち数人とともに退席した。
「裏の森で神事を行うんですよ」
助役はまた神様の酒を注いだ。
ちょっと苦みのある変わった味だ。薬草でも入っているようだが、悪い味ではない。
むしろ、刺身で生臭くなった口にはさっぱりしてうまい。
「あなたは飲まないのですか」
「いえ、私なんかが飲んだら罰が当たります」
手を振って笑い、ちょっと声を潜めて、
「神事は女人禁制でしてね、看護婦さんが先にお休みになってよかった」
と、犬の顔で言う。
「私だって大分飲んでいますよ。ご神事の途中で眠ったりしたら失礼でしょう」
「そんな大仰なものじゃありませんから、気楽に見物なさって下さい」
また神様の酒をすすめた。
十二時近くに、私は宴会の人たちと一緒に長老の家を出た。人がやっとすれ違える
ほどの狭い森の道を、懐中電灯で足元を確かめながらゆっくり上って行く。
かなり飲んでいた。しかし、気分が悪いということも、頭が痛いということもない。
私には神様の酒が体に合っているらしい。
そう言うと、助役は、
「もう、ここに神様が来ていらっしゃいましたか」
と、笑った。
「今夜の神事は、神おろしというのですよ」
「神様を呼ぶのですか」
「ええ。昔、島が飢えで苦しんでいるときこの神事を行ったのです。降りてこられた
神様は島人に食べ物をお与えになって、飢えを癒したといいます」
豊作大漁とか子孫繁栄とか、人は様々な願い事を神様に託してきたが、差し迫った
飢えから救われたいということは最も原初的で人間的な祈りなのだろう。
「今でもそういう目的でやるのですか」
「もちろん、もうそんな飢えはありませんが、三年に一度秋口のこの時期、新月の夜
に行います。島の者は神様が大好きなんですよ」
急に視界が開けた。
森の中に広場があった。中央に小さな能舞台のような白木張りの壇が設けられ、そ
の四隅に笹を立て、しめ縄が結い渡されている。
壇の正面に相対して、裃の白装束に身を包んだ長老が端座し、その背後に敷き延べ
た莚の上に百人余りの島民たちがかしこまっている。宴会に出ていた村長たちの顔も
見える。
それらすべてを、周囲に立て回した無数の松明が赤々と照らし出して、私はその荘
厳さに息を呑んだ。
「先生の席はあちらです」
助役は私を長老のそばまで押し出そうとする。
「見物人がこんなところに座っては……」
私が小声でしりごみすると、助役は、
「お客人は神様と同じ扱いなんですから」
と笑い、私を長老のすぐ横に座らせて、自分はその後ろに納まった。
私は刺身も苦手だが、こういう宗教的儀式も苦手だ。神社で柏手を打つ数だとか、
葬式の焼香のくべ方だとか、知らない作法で失敗するのが恐いのだ。
壇の手前には三宝が置かれ、その上に長い刺身包丁と箸が並べられている。
長老が闇空に向かって何か言葉を発し、深くお辞儀をした。それに合わせて、他の
参列者も同じ言葉を復唱してお辞儀をする。私も真似をして頭を下げた。
神官の祝詞のようにも聞こえる。たぶん、神様に降りてきて下さいと願う言葉だろ
うがよく分からない。
それが幾度となく繰り返される。
新月の深夜、森の中でこうして低い祈りの声に包まれていると、確かに神秘的な気
分になってくる。きっと酔いのせいもあるだろう。
松明の炎が揺れ、巨人のような樹々の影がゆらゆらと歪んだ。
目の錯覚だと思った。
壇の上空の闇が白くなった。その白が輝きを強めるにつれて、壇全体がまぶしい光
を放ち始めた。
私は、酔いをさますように首を振った。
天空の輝きと地上の輝きが一つにつながったとき、光の柱の中を、それはゆっくり
と降りてきた。
「神様ですよ」
後ろの助役が小声で言った。
白い薄布を全身にまとわせ、若く端正な顔は男とも女とも見えた。目を薄く開き、
静かに微笑んでいる。
降り立った神様は、確かにそこにいた。
居並んだ島人たちは口々に、おお、という声を上げている。それは異常な事態が起
きたという驚きではなく、約束が果たされた安堵の声だった。
私は夢を見ているのか。
「先生、よかったですね」
助役が背中を突っついてきた。
「ああ」
やっと声を絞り出した。
「もし、降りてこなかったら、面倒なことになったのですが」
「え?」
聞き返そうとしたとき、思いもよらないことが起こった。
今まで壇の裏側に隠れていたのか、突然、白装束の屈強な男たち三人が壇上に駆け
上がり、神様の頭に麻袋をかぶせると、床に引き倒し馬乗りになって押さえつけたの
だ。
私はただ茫然としていた。
横の長老がすくと立ち上がって、壇に上がった。手には包丁と箸が握られている。
長老は男たちの下で身もがく神様の横に膝をつき、深く一礼すると、麻袋の裾から
覗いた細い首に、鈍く光る包丁の刃を当てがった。
何をするんですか!
私の叫びは声にならなかった。
鮮血が噴き上がった。麻袋の中からくぐもった呻きが洩れた。
島人たちは全員が立ち上がって、足を踏みならしている。
「久しぶりに本物が喰える」
「生き造りだ」
そんな声が聞こえたような気がした。
壇上の男たちはすでに血塗れだった。
だめだ。
夢だとしたって、こんな夢はだめだ。
耐えられない--
私には、耐えられない--
「夕べは無理にお誘いして、申し訳ありませんでした」
長老の家から港に向かう車の中で、ほとんどしゃべろうとしない私を気にして助役
が言った。
「いえ、私こそ飲み過ぎて、途中で寝込んでしまって、ご迷惑をおかけしました」
声を出すと頭が割れそうになる。
「そんなことは大丈夫です。神事は三年に一度やりますから、先生、またいらしてく
ださいよ」
「ええ」
もう御免だ。刺身も神様も。
◇ ◇ ◇
あれから何年かたった頃、いわゆる離島ブームが起こりました。
何もなかった神降の村にも民宿ができ、八丈島からの定期連絡船も増えて、今、神
降島はすっかり若者向けのマリンリゾートになっています。
もうあの島に神様が降りられる時代ではなくなったのでしょう。
でも、神降島でダイバーやキャンパーが行方不明になったというニュースを聞くた
びに、私はあの神おろしの儀式を思い出します。
今も、私は刺身が苦手です。
(完)