怪談・
沼
私は、河童の話をすることにしましょう。
◇ ◇ ◇
中央線の国分寺駅周辺は、今でこそ都心への足に恵まれた繁華な住宅街だが、戦後
間もない時代は都会とは無縁の田舎町だった。国分寺からさらに私鉄を乗り継げば、
小さな駅の前にわずかな商店が並ぶだけで、すぐに家並みは途絶え、その先には田畑
と雑木林が広がっていた。
武蔵野の丘陵が崖になって平地へと落ち込んでいくこのあたりは、湧き水が豊かで、
いくつもの池や沼が散在している。昔から、それらの池や沼は未知の地下水路で互い
につながっているという、言い伝えがある。
私はそういう土地で少年の一時期を過ごした。
どんな所にも我が物顔で入り込み、自分たちの遊び場にしてしまう子供たちが、近
寄りたがらない沼があった。河童が住んでいるからだ。
沼の周囲の半分は雑木林が道をふさぎ、残りの半分は深い葦が茂って水面を隠して
いる。雑木林の端の、ほんの少し開けたあたりに、古い物置きのような小屋が崩れか
けた姿を晒していた。それが河童の家だった。
河童は、頭を坊主に刈り込んだ子供で、いつも黒っぽい半ズボンに汚れたシャツを
着ていた。四年生くらいだったろう。もちろん、彼にはちゃんとした名前があり、自
分たちと同じ小学校に通っている普通の子供なのだが、他の子供たちにはどうしても
河童としか思えなかった。
彼はほとんど人と話をすることがなかった。学校から帰るといつも、ひとりで小屋
の前に座って鮒を釣っていた。彼の家の周りには、生の魚の頭や骨がいくつも転がっ
ている。河童は釣った魚を生きたまま喰うのだ。
彼は父親と二人で暮らしているようだったが、父親がどんな仕事をしているのか誰
も知らなかった。日のあるうちに父親が家にいることがなく、子供たちはめったにそ
の姿を見たことがない。たまたま見かけたある子供は、そいつは二メートルもある大
男だったと言い、別の子供は、ぬるぬるとした手の指の間には確かにひれがあったと
言った。
夏休みの初めのある日、子供たちは河童がどんなふうに水に潜るのか見てみようと
企てた。十人ほどの子供たちが、ひとりで鮒釣りをしている河童の背後に忍び寄り、
不意に大声を上げながら、野球のバットや竹竿を振り上げて襲いかかった。
河童は、ひっ、という声を出して葦の茂みの間を逃げまどった。子供たちは包囲を
狭め、獲物を水際に追いつめた。河童が葦の陰にしゃがみ込んだ。河童は消えた。
子供たちは、興奮に駆り立てられながらあたりを探したが、河童の姿はなかった。
やがて日が落ちかけると、興奮は恐怖になり、先を争うように走り出して町まで逃げ
帰った。
その日の夕方、一キロほど離れた善生寺の池の方から、びしょぬれの服を着たまま、
河童がとぼとぼ歩いてくるのを見たという話が広まった。地下の水路を通ってそちら
に逃げたのに違いなかった。河童の家に近づく者はいなくなった。
そのころ、同じ小学校の六年生に、東京から女子の転校生が来た。
背がすらりと高く、真っ直ぐな長い髪を肩の後ろまで垂らしていた。いつも清潔そ
うな服装で、澄まし顔をしたその少女を、男子生徒たちは、くさい、くさい、と言っ
て、鼻をつまみながら避けた。
誰かが、水商売の二号の子だと言った。東京の蔵前というところの料理屋で働いて
いた母親が、店の主人の妾になってその少女を産んだ。子供たちは、大人たちがその
母娘について話すときの口調から、少女をけがれたものだと理解していたのだ。
さらに子供たちは、少女のことを、陰で『ひゃくいっぽん』と呼んだ。何かを百一
回やらせた、というのだ。そんな言葉がどこから出てきたのか知らない。子供たちは
意味もわからずに、ただ、いかがわしい響きだけを感じ取っていた。
夏休みも終わりに近づいていた。
河童は古いりんご箱に腰を掛けて、いつもの鮒釣りをしていた。日が傾きかけ、雑
木林のひぐらしの鳴き声が高くなってきたのに、その日はまだ一匹も釣れていない。
背中に人の気配を感じて振り返ると、麦わら帽子の少女が立っていた。すぐに東京
から来た転校生だとわかったが、また水の方を向いた。
少女は河童のそばまで来て立ち止まり、あたりに散らばった魚の骨を見つめている。
「猫、飼っているから。白いやつ」
慌てたように言ってから、河童は水を見たまま顔を赤らめた。
「猫が好きなの?」
少女はくすくすと小さな笑い声を立てて、横に並んでしゃがんだ。
河童は怒った顔で、釣り糸の先をにらんでいる。
少女が麦わら帽子を脱いだ。長い髪がふわりと風に浮いた。
河童は身の置きどころがなくなったような気持ちがして、立ち上がりかけた。
「私って、くさい?」
はっと、顔を上げた。
「みんながそう言うから」
河童は自分を見つめる目に向かって、強く首を振った。
年長の少女は嬉しそうに微笑んで、
「ありがとう」
と言った。
「きれいな水ね」
きれいな声だなと思った。
「湧き水だから冷たい」
少女は青いサンダルを脱いで、つま先でそっと水に触れた。
「ほんと、冷たい」
河童の方を振り向いて笑った。
「入ってみようかな」
少女は紺色のスカートを腿の上まで持ち上げて、ゆっくり水の中に進んでいく。
河童は、少女の足元でさざ波をきらめかせる水面を見たまま、棒のように動かなく
なった。葦の切り株に気を付けて、と言いたかったが、声をかけられない。
小さな深みに足を取られた少女の体が、横倒しに倒れた。
河童はりんご箱から跳び上がって、靴のまま水に走り込んだ。少女に手を延ばそう
として、自分も前のめりに浅い水の中に転んだ。
先に立ち上がった少女が、濡れた髪を揺らして笑った。河童もすぐに立ち上がって
笑った。
「血が出ている」
少女は河童の頬に手を当てて横を向かせた。鋭い葦の茎が、河童の右耳の縁を薄く
切っていた。
少女の唇が河童の耳の端をくわえた。河童はまた棒になって、身じろぎもせずに突
っ立っていた。
沼の水も、雑木林も、ひぐらしの声も、葦が風にそよぐ音も、すべてが遠ざかって、
世界に自分と少女しかいないような気がした。
少女は唇を離して、河童の耳を調べた。
「もう止まったわ」
河童はまだ棒になったままで、ありがとう、とも言えない。
少女はさらに池の奥に進んだ。河童はそのあとを付いていった。水はもう腰の高さ
を越えている。
「急に深くなるからあぶない」
「平気よ。私、泳ぎは得意なの」
足が底に届かなくなると、二人で並んで泳いだ。
沼の中央は澄んだ湧き水を豊かにたたえ、午後の陽射しをその深部まで導いている。
「池や沼の底ってほんとうにつながっているのかしら」
「知らない」
「調べてみようよ」
「え?」
少女は深みに向かって身を翻した。細かい泡を引きながら、沼の底をめざして魚の
ように泳いでゆく。
河童は急いで後に続いた。触れている水はどこも冷たいのに、体だけがとても熱い。
沼の底に青い光が見えた。光は誘うように揺らいでいる。
『きっとここが入り口よ』
水を通して少女の声が聞こえた。
『だめだよ、金色に光らなければ通れないんだ』
河童は少女を追いながら言った。
『だいじょうぶ。私行ってみる』
『行っちゃだめだよ』
河童は少女を止めようと懸命に手を延ばした。
『だめだよ』
白いつま先が河童の指をかすめ、少女は青い光の中に吸い込まれるように消えた。
靴さえはいていなければ……
目の前を闇がおおい、何もわからなくなった。
目覚めたとき、河童は葦の根元に頭をもたれて、岸に倒れていた。夕日が雑木林の
後ろに隠れ、すべてが暗くなりかけている。
河童は跳ね起きて、少女を捜した。名前を呼ぼうとして、名前を知らないことに気
付いた。葦の茂みの間を走り回った。
ふいに思いついて沼を飛び出し、畑の道に駆け上がった。
夕暮れの道を走った。
善生寺が近づくにつれて、人の数が増えた。みんな小走りに寺の方に向かっている。
河童は人々を追い越しながら走った。
「東京から来た女の子らしい」
人の声が聞こえた。河童はもっと速く走った。
善生寺の池の周りに、たくさんの懐中電灯の明かりが揺れていた。
河童は人をかき分けて池の縁に立ち、胸を喘がせながら目を凝らした。
暗い池の中には何も見えなかった。
「池のまんなかあたりに浮いていたんだって」
「ひとりで水遊びでもしていたのかしら」
「こっちへ来たばかりだから、深さがわからなかったんだろう」
「すぐに、病院に運んだけど、だめだろうな」
人の群の中で、河童は声のない叫びを叫び続けた。
二学期が始まっても、河童は登校してこなかった。
ひと月ほどして子供たちが沼をのぞきにきたときには、河童の小屋は崩れ落ちて、
誰も住んでいなかった。
小屋の前のりんご箱の上に、麦わら帽子と青いサンダルだけがあった。
◇ ◇ ◇
河童は私です。
あの町も、あの沼も、私はそののち二度と訪れることはありませんでした。
何十年もの月日が流れ、大人になり、いつしか年老いても、ひとりになったとき私
の心はいつもあの夏の日に帰っていきます。
(完)