感想文・
実感的美弥子考 -もうだまされないぞ
女は恋愛がうまくいかないとき、そばにいるおとなしそうな男を引きずり回し
て、寂しさを紛らわせようとする習性がある。
私だって、学習する。
だまされないぞ。もうだまされないぞ。
(以下の解釈は、個人的感情のために冷静さに欠ける部分があります。)
第二章 ナルシシズムと観客
夏の終わり。池の端の出会い。
三四郎がふと目を上げると、池と樹々と赤煉瓦の建物が織りなす光と影の中に、
団扇を額にかざしてたたずむ女がいる。
三四郎は見とれている。女はそれを知っている。
「これは何でしょう」と女。
「これは椎」看護婦が答える。
「そう、実は生っていないの」
なにか神秘的な会話、意味ありげな仕草。すべて、息を詰めて自分を見ている
観客がいることを知っての、演技だ。
作者はそのことを、下のように明かしている。
>「一寸伺いますが……」と云う声が白い歯の間から出た。きりりとしている。
>然し鷹揚である。ただ夏のさかりに椎の実が生っているかと人に聞きそうには
>思われなかった。三四郎はそんな事に気のつく余裕はない。(第三章)
(ここの記述は三四郎の視点を離れ、作者自身の言葉になっている。)
女は仰向いた顔を元に戻し、そのとき三四郎を一目見る。
>三四郎はたしかに女の黒眼の動く刹那を意識した。その時色彩の感じはことご
>とく消えて、なんとも云えぬ或物に出逢った。その或物は汽車の女に「あなた
>は度胸のない方ですね」と云われた時と何処か似通っている。三四郎は恐ろし
>なった。
美弥子の、汽車の女と共通する一面が、これから三四郎を振り回すことになる。
第十一章の広田先生との会話によれば、三四郎は子供っぽく見えるらしい。美
弥子は年下の男をちょっとからかってみようとでも思ったのだろう。
最後は、白い花を男の前に落として去る。臭い芝居とわかっていても、あるい
は臭い芝居とわかっているからこそ、それを現に自分に仕掛けられると男は熱く
なる。女はちゃんとそれを知っている。
後でわかるが、この時点ですでに、美弥子は原口の絵のモデルを始めている。
団扇をかざした姿は、その絵の構図なのだ。
自分の知性と美貌を認めた女のナルシシズム。
第三章 また、ナルシシズムと観客
初秋、病院の廊下での再会。
廊下の向こう側から歩いてくる女は、ふと後ろを振り返る。しかしそちらには
誰もいない。女にはそんなことはわかってる。自分を見ている男にもたらす視覚
的効果を知った上でのポーズだ。
さらに近づいたとき、目を上げて三四郎をまともにみる。
女はよし子の病室の場所を尋ねる。
女は歩み去り、廊下の角で不意に振り返る。女の後ろ姿を目で追い続けていた
三四郎は、赤面するばかりに狼狽する。
女はにこりと微笑み返す。
男の視線を意識しての演技、それがすべてだ。
三四郎は、その女のリボンが、野々宮が買ったものと同じだと気付き、早くも
悩み始める。
第四章 女の主導権
秋が深まる。食欲は進む。恋の季節。
広田先生の引っ越しを手伝いに行き、思いがけず池の女に出会う。
三四郎は、すっかりうわずっている。袖まくりした美弥子の二の腕と、のぞい
た襦袢の袖に見とれている自分に気付いて、あわてる。暗い二階の部屋で手が触
れ合いそうになって、バケツにけつまづく。
一方、美弥子は落ち付いて、自然で、親しげだ。それまでの二回の出会いで、
三四郎がどのような目で自分を見ていたのか知っている。主導権は最初から完全
に女の手にある。
美弥子は窓の外を見て、何を見ているのか当てて御覧なさいと言う。三四郎が
わからないと言うと、「あの白い雲を見ておりますの」。
こういうわけのわからない会話に男は弱い。
第十章にこうある。
>三四郎が美弥子を知ってから、美弥子はかつて、長い言葉を使った事がない。
>大抵の対応は一句か二句で済ましている。しかも甚だ簡単なものに過ぎない。
>それでいて、三四郎の耳には一種の深い響を与える。殆ど他の人からは、聞き
>得る事の出来ない色が出る。三四郎はそれに敬服した。それを不思議がった。
一緒に引っ越しの片付けをし、画集を見、小説の話をし、サンドウィッチを食
べるうちに、三四郎はすっかり美弥子に魅了されてしまう。
第五章 迷わされる
三四郎はよし子の話から、美弥子には両親がいないこと、美弥子の兄と野々宮
が同窓だということ、亡くなったその上の兄が広田先生の友人だったことを知る。
野々宮と美弥子はリボンを買ってやったり、手紙をもらったりする間柄だ。二
人が打ち解けた率直な言葉で語り合うのを聞き、三四郎は軽い嫉妬を覚える。
菊人形は大混雑。
「もう出ましょう」「そう。私心持が悪くって……」「どこか静かな所はないで
しょうか」--美弥子に引き出されるように人の群から抜け出す。
美弥子は、菊人形の会場で自分のことを気にかけない野々宮の態度が辛くなっ
たのだ。三四郎は、美弥子と野々宮の長い交際のことを知っているのに、そのこ
とに気が付かない。思いがけず美弥子と二人きりになれたことで、ふわふわして
いる。
小川のほとりの草の上に、二人並んですわる。
美弥子は、「責任を逃れたがる人だから、丁度好いでしょう」と言う。それが
誰なのか聞かれても答えない。三四郎は気が付かない。気が付きたくない。
そして、「ストレイシープ--解って?」と謎を掛ける。
さらに、「私そんなに生意気に見えますか」などと揺さぶりをかける。
ぬかるみを渡るときよろけて、三四郎の腕に手を落とす。息が届くほど近づき
「ストレイシープ」とつぶやく。
完全に美弥子のペースだ。
第六章 立場に気付く?
かわいそうに、三四郎はすっかり「ストレイシープ」にとりつかれている。
そんなとき美弥子から、絵葉書が届く。小川のほとりに羊が二匹。ストレイシ
ープは美弥子と自分。三四郎は喜ぶ。
美弥子は、煮えきらない野々宮からプロポーズをされない寂しさを紛らわすた
めに、自分に気のある三四郎をつっついてみただけなのに。
広田先生と与次郎が話している。
>「あの女は落ち付いていて、乱暴だ」
>「イプセンの女は露骨だが、あの女は芯が乱暴だ。尤も乱暴と云っても、普通
>の乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹の方が、一寸見ると乱暴の様で、やっぱ
>り女らしい。妙なものだね」
美弥子は、見たところ静かでおとなしそうだが、奥に激しいものを持っている。
池の端で、美弥子の眼の中に一瞬かいま見た、汽車の女と共通する部分。
しかし、三四郎はその魔性を知らない。
与次郎は三四郎に言う。
「女は恐ろしいものだよ」
「恐ろしいものだ、僕も知っている」と三四郎。
「知りもしない癖に、知りもしない癖に」与次郎は大声で笑う。
秋は深まり、運動会。
婦人席が別になっていて美弥子のそばに近寄れない。美弥子は競技を熱心に見
物し、野々宮と嬉しそうに話をしたり笑ったりして、こちらを見てくれない。三
四郎は、一人で裏の築山に登ってすねている。
>「この上には何か面白いものが有って?」
三四郎の心の中を、美弥子はすっかり見抜いている。
帰り道、美弥子は野々宮に対する尊敬の気持ちを熱く語る。
三四郎はようやく、自分が勝手に舞い上がっていたただけなのかもしれないと、
気付きかける。
でもそういうことは、なかなか認めたくないことだ。
第七章 吉か凶か
美弥子にからかわれているだけなのか。いや、本当は自分に好意を持っていて
くれているのではないか。
広田先生を訪ねる。
画家の原口が、美弥子の肖像画を描いて展覧会に出すと言う。三四郎は、その
絵の団扇をかざす構図と、池の端での出会いとを結び付け、自分と美弥子の間に
は運命的なものがあると思い込む。気の毒な勘違い。
広田先生が美弥子の兄から、美弥子の結婚相手を捜してくれと頼まれていると
いう。
吉か凶か。いまや、辻占いまで気になる三四郎だ。
下宿にもどると、母親からの手紙に、お前は度胸がない、度胸がないと損をす
るぞとある。そうだ勇気を出さなくては。
かわいそうに。
第八章 女にあそばれる
三四郎は与次郎のために、美弥子に金を借りなければならなくなる。
美弥子は、金を与次郎には渡せないが、三四郎が直接取りに来るならいい、と
言う。三四郎は、自分に対する好意なのかと喜びそうになるが、やっぱりからか
われているのかもしれないと疑う。
作者自身はどう考えていたのだろうか?
>もし、ある人があって、その女は何の為に君を愚弄するのかと聞いたら、三四
>郎は……
> |
>自分の己惚れを罰する為とは全く考え得なかったに違いない。
(ここも作者自身の言葉だ。)
美弥子は、三四郎が自分は美弥子に好意を持たれているとうぬぼれているよう
だから、からかってみた。作者はそう言っているのか?
そうだとすると、美弥子はよっぽど人が悪い。
金を受け取りに来た三四郎に、親しい調子で「とうとういらしった」などと言
って喜ばせる。「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありま
せんか。あなたは索引の附いている人の心さえあててみようとなさらない呑気な
方だのに」などと、言いかける。
金を借りることに悩んでいる三四郎の気持ちを知っていながら、「御迷惑なら、
強いて……」と、冷たく引いてしまう。どうしていいかわからなくなっている三
四郎に、「怒っていらっしゃるの」とささやく。
いいようにされている。
展覧会の切符が二枚あるからと誘われる。
三四郎は絵のことはさっぱりわからず、話し相手にならない。
>話の出来ない馬鹿か、此方を相手にしない偉い男か、どっちかに見える。馬鹿
>とすればてらわない所に愛嬌がある。偉いとすれば、相手にならない所がにく
>らしい。
(これは、美弥子の視点からの記述。)
美弥子は、三四郎をそんな風に見ている。からかう相手としては、面白いだろ
う。
そこで野々宮に出会う。
美弥子は三四郎の耳に口を寄せ、ひそひそ話をしているように見せかける。さ
らに、私と三四郎の二人連れは似合うでしょう、と野々宮に言う。
あとで、あの耳打ちは野々宮をからかったのだと知って、三四郎は怒る。美弥
子は自分をダシにして野々宮の気を引こうとしただけだとわかったからだ。
だが、美弥子にそばに寄られ、じっと見つめられて、「だって、私、なぜだか、
ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼する積もりじゃないんですけれど
も」と言われると、すべて自分のためにしてくれたことなんだ、と機嫌を直して
しまう。
腹を立てた男をふにゃふにゃにすることくらい、女には簡単なことなのだ。
第九章 不安と焦燥
与次郎は、たとえ美弥子が君を愛していたとしても、二人が結婚できるとは限
らないと言う。野々宮なら結婚できるとも。さらに、君にはよし子が合うと言う。
シャツを買いに入った店で、偶然に美弥子とよし子に出会う。
三四郎は、『普通のものから見れば殆ど借金の礼状とは思われない位に、湯気
の立った』手紙を出していた。三四郎にとっては勇気を振り絞って書いたラブレ
ターだ。特別な反応を期待していたのに、美弥子はただ「先だってはありがとう」
とそっけない。
美弥子にしてみれば、少し煽りすぎて浮かれているので、さましてやろうとし
ているだけだ。
女が特別な好意を持ってくれていると思い、こちらからもその意志を伝えたと
思ったら、急に手のひらを返したように冷淡にされる。自分のどこがいけなかっ
たんだろう。気に障るようなことをしたのではないか。
男は不安と焦りにさいなまれる。
第十章 天国から地獄へ
その不安を取り除くためには、ただ真っ直ぐに進むしかないと思い詰める。も
う自分と美弥子との関係を冷静に見ることができなくなっている。
三四郎は美弥子に返す金を持って、画家の原口の家を訪ねる
モデルの美弥子は、いつになく物憂く疲れている様子を見せる。三四郎はそれ
は自分がそばにいるためではないかと思う。これまで脇役に甘んじてきた自分が、
ついに恋愛物語の主人公になったような気分だったろう。
原口の家からの帰り、三四郎は思い切って遠回りをして行かないかと誘うが、
美弥子は乗ってこない。三四郎は自分の気持ちをはっきり伝えたくなる。
美弥子は三四郎の恋心をとうに承知している。原口の家まで金を返しに来たの
が何のためなのかもよく分かっている。それなのに、
>「じゃ、何んでいらしつたの」
> 三四郎はこの瞬間を捕らえた。
>「あなたに会いに行ったんです」
> 三四郎はこれで云えるだけの事をことごとく云った積もりである。すると、
>女はすこしも刺激に感じない。しかもいつもの如く男を酔わせる調子で、「お
>金は、あすこじゃ頂けないのよ」と云った。三四郎はがっかりした。
> |
>「お金は私も要りません。持っていらっしゃい」
> 三四郎は堪えられなくなった。急に、
>「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と云って、横に女の顔を覗き込
>んだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口から漏れた微か
>な嘆息が聞こえた。
とうとう、言わせてしまう。三四郎にしてみれば、プロポーズをしたのと同じ
だ。
美弥子にはいま、好きでもなく、ただ釣り合いがとれているというだけで結婚
しようかと考えている縁談があり、一方ではまだ野々宮を諦めきれない気持ちが
ある。美弥子にとって、三四郎は結婚相手の候補にもなっていない。それなのに
告白の言葉を吐かせる。
女はそういうことをやるものなのだ。
さらに、美弥子は三四郎に、あの絵はずっと前から描き始めていたのだと言う。
あの時なのよ。
>「そら、あなた、椎の木の下にしゃがんでいらしったじゃありませんか」
>「あなたは団扇をかざして、高いところに立っていた」
>「あの絵の通りでしょう」
>「ええ、あの通りです」
自分と美弥子との運命的な出会い。二人は結ばれるべくして結ばれるのだ。
しかし事実は残酷だ。
黒い帽子、金縁眼鏡の風采のいい男が車に乗って現れる。美弥子が遅いので迎
えに来たと言う。
>「早く行こう。兄さんも待っている」
美弥子はこの男に会うことになっていたので、落ち着かなかったのだ。
三四郎は、すべてが自分の思い違い、思い上がりだったのだと知る。
第十一章 未練
与次郎が「美弥子の事を聞いたか」と言う。何のことかと聞くと、与次郎は答
える前に用事で行ってしまう。
まだ諦めきれていない。
第十二章 そして失恋
年はようやく押し詰まってくる。
演芸会に行く。三四郎は後ろの方から、ずっと前の席の美弥子を見つける。そ
のそばにいる男が野々宮だったので安心する。よし子もいる。それなら、まだ大
丈夫なのかもしれない。
しかし次の幕間、美弥子とよし子があの金縁眼鏡の男と話をしているところを
見てしまう。
失恋は決定的だった。
翌日から、三四郎はインフルエンザにかかって寝込んでしまう。
見舞いに来た与次郎が、美弥子が結婚するらしいがどうもよく分からない、相
手はよし子の縁談の相手らしいと話す。三四郎はそれを聞いて、結婚するのは実
はよし子で、美弥子はよし子の友人としてあの男と話をしていただけなのではな
いかと、最後の望みをつなぐ。
だが、それもよし子自身の言葉であっさり打ち砕かれてしまう。
三四郎は教会から出てきた美弥子に金を返す。
美弥子は、あなたの選んだ香水なのよ、とハンカチの香りを示す。
こういう行為の一つ一つが、男を惑わせ苦しめてきたのだ。
「結婚なさるそうですね」
「ご存じなの」
美弥子は三四郎を見つめ、かすかな溜息をもらす。
「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」
私は本当に好きな野々宮さんという人がありながら、好きでもない男と結婚す
る罪な女なの。
あなたにも辛い思いをさせてしまったかもしれないわね。ごめんなさいね。
(作者はきっと三四郎と同じ経験をしているはずだ。)