怪談・
記憶
何年前になるでしょうか。夏の盛りでした。
◇ ◇ ◇
浅いまどろみの中でベルが鳴った。座席から跳ね起き、ホームに飛び出すと、すぐ
背中で電車のドアが閉まった。
朝の地下鉄で運良く席に座れると、私はすぐに居眠りをする。眠っていても会社の
ある駅に着いたことがちゃんとわかる。頭の中のどこかで駅の数を数えているのだ。
しかし、そこは見慣れた地下鉄の駅ではなかった。天井はなく、真夏の青空が広が
っている。風が運んでくる潮の香りでやっと目が覚めた。
--会社に行かなかったんだ。
名前も知らない小さな駅だった。降りたのは私一人だけで、改札の駅員は半分居眠
りをしている。切符を渡し外に出ると、正面にまっすぐ白い道が延びて、ずっと先に
海が見える。
駅前の小さな食料品屋をのぞいて声を掛けた。昼寝でもしていたのだろう、奥から
太った女が大儀そうに出てくる。
「缶ビールを二つ」
女は返事もせず、重たげに体を揺すりながら、私に顔を近寄せた。
「お客さん、逃げてきたんだね」
私が黙っていると、にやっと笑う。
「こんな田舎の駅に、その格好で降りるのは大抵そう」
私は片手にスーツの上着を抱え、片手に通勤鞄をさげている。店のガラス戸に写っ
ているのは、緩んだネクタイとくたびれた中年の顔だ。
「缶ビール、二本だ」
「男って、そういうものなのかね。年に何人も来るよ、お客さんみたいなのが」
やっと冷蔵庫の扉を開けながら言う。
今朝いつものように起きて、家を出た。通勤急行に一時間揺られ、乗り換え駅で降
りるまで、自分が普段通りに出勤することに少しも疑いを持っていなかった。しかし
私は、会社に向かう地下鉄ではなく、全く方向違いの遠距離列車に乗った。
なぜそんなことをしたのか自分でもわからない。無断で会社を休み、家族に連絡も
せずにいたら面倒なことになるぞという気持ちはあった。だがそれを超えて、私の内
側で、今でなければだめだ、今日がその日だと衝き動かすものがあった。
「前にも一度、ここに来たことがあるでしょう」
こんなことを何度もやるはずがあるまい。
初めてだ、と言うと、
「肝心なことを忘れてしまうのよ、人間は」
と首を振って、ビールを袋に詰める。
私は何も言わずに金を払った。
缶ビールの袋をさげて、海へ続く道をゆっくり歩いた。気怠い波の音が聞こえてく
る。海は午後の太陽を反射して白く光っている。それに向かって進むにつれ、私は自
分の遠い過去へ戻って行くような感覚をおぼえた。
手の甲で額の汗を拭った。
海岸近くの古びた釣り宿の看板で、鯛が跳ねていた。鯛の目は大き過ぎるし、不格
好に身をよじっている。いかにも素人が描いたらしいその絵が、妙に懐かしいのはな
ぜだろう。
「もう、そんなになるのかの」
看板を見上げる私の足元で、しわがれた声がした。
釣り宿の勝手口の敷居に、萎びて縮んだ老婆が座っていた。老婆の白く濁った瞳は、
私の背後の海を凝視している。
「もう、そんなになるのかの」
老婆は顔を海に向けたまま、また言った。
「なんのことですか?」
「もう、そんなになるのかの」
耳も聞こえていない。同じ言葉を繰り返すばかりの老婆をそのままにして、先へ行
こうとすると、
「帰るところを忘れたのかな」
と、ゆっくり私の方に向き直る。
「え?」
「海が光るときだよ」
老婆はよたよたと立ち上がり、戸惑う私を残したまま薄暗い家の奥に消えた。
海が光る? 何のことだ。
風が凪いでいる。私はまた顔の汗を拭いながら、堤防を乗り越えて砂浜に降りた。
少し離れたところに桟橋と船溜まりが見える。ありふれた小さな漁港だ。
自分の街から遠ければ、どこの海でもよかった。海で育ったわけでもないし、都会
の生活に疲れたわけでもない。家庭を負担に感じたこともなかったはずだ。それなの
に今朝、無性に海のそばに行きたくなった。抑えがたい渇きだった。
やはり、逃げたということか。
私は、砂浜に打ち捨てられた小さな釣り船の残骸を見つけ、船縁に手をかけてよじ
登った。舳先に腰を下ろし、ビールの缶を開けた。穏やかな波の音だけがあった。
海に来て私は何をしようと思ったのだろう。
なぜ、これまで何十年も積み上げてきた会社での信用も、家族の信頼も、すべて打
ち壊すようなことを選んだのだろう。
今朝乗り換え駅に降り立ったとき、手に馴染んでいたはずの日常が不意に異質なも
のに感じた。自分を取り囲んでいたさまざまなものが、冷えて、遠くなった。
帰るところを忘れた--あの老婆が言った。確かにそういうことかもしれない。
二本目のビールを開けようとしたとき、手元から缶がこぼれ、船縁を転がって下の
砂に落ちた。船を降りて缶を拾い上げると、すぐ前の波打ち際にまだ六、七歳くらい
の少年が立っていた。貝殻でも拾っていたのだろうか、小さな靴を海水で濡らしてい
る。
私と少年は十メートルほどを隔てて向かい合っていた。
潮の香り、波の音、見つめ合う目。
強烈な既視感が私を捕らえた。
私は懐かしさに胸を熱くして少年に近づき、その頬にそっと手を伸ばした。少年は
水鳥が飛び立つように駆け出して、堤防から道路の方に走って消えた。
ふいに、意識の底に沈んでいた記憶の破片が浮かび上がった。
あの夏の日、私は父に連れられてこの海に来た--
駅前の食料品屋も、海へ続くまっすぐな道も、海岸近くの釣り宿も、私はすべてを
知っていた。今朝、思い付きで列車を選び、たまたま降りた駅なのに。
不思議な巡り合わせに茫然としながら再び廃船に上がり、倒れるように船底に仰向
けになった。
こんなことを、なぜ、今まで忘れていたのだろう。
見上げる空で、太陽が少しずつ傾いていく。
子供の頃の私は小さくて痩せていて、いつも微熱を抱えていた。小学校へ上がって
からも、家に戻ると一人で部屋に閉じこもり、友だちと外で遊ぶこともなかった。
二年生の夏休みに、父は私をこの海に連れてきた。父の知人がここで釣り宿をやっ
ていたからだ。宿に着いたとき、宿の主人が看板に梯子をかけて、赤いペンキで鯛の
絵を描き加えていた。
初めて釣り船に乗り、糸を繰り、釣り上げた生きた魚を素手でつかんだ。私ははし
ゃいでいた。父は私のそんな表情が見たくてここに連れてきたのだろう。
この海だったんだ--
遠い。三十年、いやもう四十年も時を隔てた記憶だ。
朽ちかけた船の中で、次第に夕刻の気配を深める空を見上げていると、自分がこの
まま過去の海へ漂い出していくような気持ちになる。
宿で夕食をとった後、また大人たちに混じって夜釣りの船に乗った。
スクリューが残す波紋が青白く光っていた。
海蛍だと父が言った。海面に集まったプランクトンが波に揺られて燐光を放つのだ
という。沖合いに出るにつれて光が強くなってくる。こんなに海が光ることは滅多に
ない、と舵を握った船頭が呟いた。
私は船縁の下に腕を伸ばして水に触れた。指先が乱した海面が青く光を放つ。手を
引き上げると、濡れた指の間が同じ色に光った。
私は一つひとつかすれた過去の断片を拾い集め、綴り合わせようとした。しかし記
憶はそこで途絶えている。もどかしく意識をさまよわせるうちに、私はいつのまにか
眠っていた。
目を覚ましたときには、すっかり暗くなっていた。
船底から見上げる夜空に、都会では想像もできない濃密な銀河が広がっている。
まるで海蛍の海のようだ。
海蛍の海の底だ--そう思ったとき、ゆらりと船が揺れた。
跳ね起きて船縁から下をのぞくと、潮が満ちて船が浮き上がっている。眠っている
間に流されたらしい。
海岸沿いの道路の明かりは、すぐそこに見える。今ならまだ背が立つかもしれない
と思った。ためらっている時間はない。通勤鞄と上着を頭上に差し上げて足から飛び
込んだ。
頭まで海中に沈んでも足は底に届かない。闇の中で必死に水を掻いて、やっと息を
吸った。
私は泳ぎが苦手だ。しかも、服を着て、靴をはいている。潮の流れが強いのか、歩
けばいくらでもない距離なのに、泳いでも泳いでも岸は少しも近づいてこない。
腕が疲れきって顔が上がらなくなった。何度も沈みかけて水を飲んだ。
絶望が頭をかすめる。
ふっと、意識が途切れかかった。
そのとき、深い時間を隔てた不安定な映像が、急速に焦点を結び始めた。
あの夜も、私は海に落ちた--
もっとたくさんの光をすくい取ろうと船縁から身を乗り出したとき、横波が船を揺
らした。私は走る釣り船から海に落ちた。
父の叫び声が聞こえた。
暗闇の海の中で、泳げない私はめちゃくちゃに手足を動かした。沈みながら、海面
に向かって懸命に顔を上げた。海蛍の青い銀河が揺れながら遠ざかっていった。
そのあと、どうなったんだろう。
いつのまにか、浅瀬にいた。
どのようにしてここまで泳ぎ着いたのか、何も思い出せない。体にまとわりつくシ
ャツやズボンに難儀しながら、やっと浜に上がった。
両手にびしょ濡れの上着と通勤鞄をさげている。水の中で荷物は捨てたはずなのに、
なぜだろう。首をひねる一方で、中の書類は大丈夫だろうか、と心配している自分に
苦笑して下を見ると、私の体が青く光を放っている。
振り返ると、沖の波が幾重もの燐光の帯になって浜に寄せていた。
海が光る。
海蛍だ。
あの夏と同じ、海蛍の海だ。
そうだ。
確かあのときも、私はこうして、青く光る水に濡れて波打際に立っていた。
小さな私の体は無数の海蛍に覆われて、全身が光り輝いていた。
私の前に、男がいる。
男は、私を懐かしそうな目で見つめ、ゆっくりと私の顔に手を伸ばす。
男の顔は、今の、私の顔だ。
その指が頬に触れたとき、七歳の私は無数の光の粒になって弾け散った。
私は、あの夏の夜、光る海に消えた--
それなら、今の私はどこにいるのだろう。
海蛍の海。
私の帰るところ。
◇ ◇ ◇
気が付いたとき、私は病院のベッドにいました。
朝、海岸を散歩していた人が、浜に打ち上げられた私を見つけたのだそうです。地
元の新聞には、廃船で沖に流された会社員が岸まで泳ごうとして溺れた、という記事
が載っていました。
あの海で見たことを、私は誰にも話しませんでした。
蒸発しようとして行き場がなくなった中年男が、酔って夜の海に入り溺れたのだと
か、自殺を図って死に損なったのだとか、周囲ではいろいろささやかれたようです。
しかし、そんな噂もいつのまにか消え、もう誰も思い出しはしません。
それが人の記憶なのでしょう。
七歳の私に何があったのか、ふと考えることがあります。でも、それを確かめる両
親はすでになく、たとえ知ったとしても意味のないことです。
私は今日も、同じ通勤急行に揺られています。
(完)