怪談・
鏡
以前、短い間でしたが、富山県の山地の小学校に勤めたことがあります。交通事故
で入院した教員の穴埋めに、一年間だけという代用教員でした。
◇ ◇ ◇
新しい任地は、雪が残る山々に囲まれた小さな盆地の町だった。
学校も小さく、全校生徒を合わせて百名にも満たない。それまでいた東京の小学校
の五分の一の規模だったが、職員室内のごたごたに嫌気がさして、八年間勤めた学校
をやめた私には、その小ささが嬉しかった。
教員用の住宅の近くに『五地蔵沼』と呼ばれる沼があり、学校からの帰り道、私は
よくその沼に立ち寄った。
周囲が切り立った崖にかこまれ、きれいな円形をしている。水は澄みきって、夕日
を映した水面は燃えるように赤く輝く。美しく神秘的な風景そのものが信仰の対象に
なることがある。沼の東側には祠があり、その前に五体の地蔵が並んでいて、静寂の
中で、老婆が額づいているのを見かけることもあった。
こういう安らぎこそ、私が望んでいたものだった。
一学期の終わり頃、私は三日かけて受け持ちの生徒達の家庭訪問をした。
家々を訪ねてまわるうちに、奇妙なことに気付いた。どこの家でも鏡に黒い布が掛
けてあるのだ。鏡台や姿見だけでなく、洗面所の小さな鏡までも垂れ幕のような黒布
で覆われている。わけを尋ねても、昔からそういう習わしになっている、という以上
の答えは返ってこない。
学校に戻って職員室の同僚達に聞いても、
「怪我をした前の先生もそうだったけど、よそから来た人はどうでもいいことを気に
するんですね」
と笑われるだけだった。
ふと、昔のことを思い出した。
子供の頃、私が通う小学校の近くに鏡坂という長い坂があった。子供たちの間では、
その坂の途中で鏡に自分の顔を写すと死ぬ、という話が広まっていた。たまたま、近
所の少女が何かの病気で死んだときも、少女が鏡坂で手鏡に見入っていた、という噂
がまことしやかに伝えられた。単純な作り話ほど信じられやすいものだ。
私は朝が苦手だ。
寝ぼけまなこで歯ブラシをくわえていると、鏡に写った口の周りが赤く見えた。目
を擦って見直せば、なにも異常はない。
ほっとする間もなく、生暖かいものが口の中に湧き上がってくる。吐き出すと、洗
面台が真っ赤に染まった。
鏡に片手をついて体を支えようとした。その手がぬるりと滑り、手が触れた鏡の表
面から、たらたらと血が滴り落ちた。
叫び声を上げて、目が覚める。
家庭訪問を終えた頃から、続けてこんな夢を見るようになっていた。
夏休みになると、私は車で二時間かけて市立図書館へ行った。気になっていること
は確かめなければならない、と思ったのだ。
何かにせかされるように、書名に鏡の文字が入った本を片っ端から開いていった。
この地方の郷土誌や民話の本も読み漁った。
図書館通いを始めて三日目だった。
「鏡に興味がおありですか」
書架の前で声を掛けられた。痩せた黒縁眼鏡に見覚えがあると思っていると、
「ここの職員です」
と言う。いつもカウンターの向こう側で貸し出しの手続きをしている二十代の男だ
った。
「ええ、ちょっと確かめたいことがあって」
私が毎日、鏡に関係した本ばかりを借りるので、覚えていたのだろう。
「じつは私も、半年ほど前から鏡のことを調べているのです」
今日は非番だという図書館員は、私の腕を引っ張るようにテーブルの席に着かせ、
自分も向かい側に腰をおろすと、身を乗り出しながら私の顔をじっと見つめた。
「鏡に黒布を掛けておく風習のことじゃないですか?」
驚いて、
「そうです」
と声を上げると、嬉しそうに笑う。
「あの盆地の町ですよね。去年、あそこに住んでいる知人の家を訪ねて、初めてその
風習のことを知ったのです」
その知人も、ただの古い習わしだ、というだけで、いわれなどは知らなかった。そ
のことでかえって鏡の謎に引き込まれていったということも、私と同じだった。
私より早くから調べ始めていただけあって、図書館員の話は私に大きな刺激を与え
た。
「『鏡洗い』という言葉を聞いたことがありますか」
鏡を洗う? 何のことだろう。
「銅や青銅の鏡を磨く旅職人のことは、ここの本にありましたが」
「それは『鏡磨ぎ』ですね。富山の薬売りのように定期的に決まった家々を訪れて、
錆びて曇った鏡を研いでまわったのです。明治になって板ガラスの鏡が普及すると、
消滅しました」
「そのことではないのですか」
今度は私の方が身を乗り出していた。
「ええ、鏡洗いというのは、鏡に取り憑いた悪霊を祓う一種の祈祷師なのですが、記
録がほとんどなくて実像はよくわかっていません」
私が調べた書物の中には、そのような記述はまったくなかった。だが、鏡にはもと
もとそういう要素があったことは確かだ。
太古、人は自分の顔を見るには、水面に写すほかに方法がなかった。初めて、磨か
れた銅鏡に写ったもうひとつの明瞭な自己を見たときの、人間の驚きは大変なものだ
ったろう。科学的な光の知識などない時代、それは魔術そのものだったはずだ。
「鏡は元来神秘的なものです。鏡の中にその持ち主の魂が宿ると考えるのはごく自然
なことでしょう。悲しみや憎しみ、病や狂気も鏡に吸い取られます」
「それを洗い流すのですね、鏡洗いは」
「そうなんです」
と、図書館員はうなづいた。
「そんな商売なら、現代でも十分成り立ちそうな気がしますね。星占いや手相見だっ
て生き残っているんだから」
「でも、完全に消えてしまった」
「どうしてなんですか」
私はすっかり図書館員の話しに引き込まれていた。
「平安時代の末期や、鎌倉末期、戦国時代と、不安定な時代になると鏡洗いが現れる。
古くからの伊勢神道と密教仏教が融合してできた、一種の異端の宗派だったのではな
いかと、私は考えています。
彼らは『鏡洗いの里』に一族をなして住まい、そこから全国に散って儀式を行った。
最初は悪霊祓いをするだけだったのが、やがて他人に呪いをかける仕事も引き受ける
ようになる。目的の人物の鏡を盗み出して呪いをかけたり、呪いをかけた鏡を相手の
持ち物の中に忍び込ませたり。
鏡洗いは不気味で反社会的な存在になっていったのでしょう。江戸時代にはすでに
鏡洗いは見られなくなります。非合理的なものを憎んだ信長が、かれらの根拠地を壊
滅させたのかもしれませんが、はっきりした記録はない。鏡洗いの里がどこにあった
のかもわからないのです」
図書館員はそこまで語り終えると、一息ついてから、
「私の家に来ていただけませんか。面白い資料があるんですよ」
と言った。
私はすぐさま、ええ、とうなづいたが、そんなところに行くべきではなかったのだ。
図書館員のアパートは、図書館から二十分程歩いた商店街の裏手にあった。
どうぞ、と言って通された部屋の中を見て、私は拍子抜けした。
「本は職場にいくらでもありますからね」
と当人は笑っているが、一人暮らしらしい薄汚れた部屋にはまともな本棚すらない。
歴史や民俗学の書物を集めているのだろうと思っていたのに、見えるのは、壁に寄り
かかるように積み上げた漫画本と、『超能力』とか『UFO』とか、小中学生が読む
ような通俗的な表題の本ばかりだ。
私の熱は急速に冷めていった。
図書館員は、私と自分のために座布団を並べ、冷蔵庫から麦茶を持ってくると、一
人で持論を展開し始めた。しかし、さっきはあれほど私の心を捕らえた説も、冷静に
なってみると裏付けとなる文献はまったくないのだ。鏡洗いなど、本当に存在したの
かどうかも疑わしい。
私はもうなんの興味もなくなって、早くこの部屋から出たかったが、図書館員はま
すます熱がこもって、机の引き出しから何枚かの写真を持ち出してくる。
「これをお見せしたかったんです」
私が毎日見ている沼の写真だった。
「何に見えます?」
「五地蔵沼でしょう」
「鏡ですよ、鏡。これは古代の銅鏡を表しているんです」
続いてもう一枚、夕日を赤く反射した沼の写真を示した。
「血鏡です。鏡洗いが人を呪うとき、指で鏡の表をなぞるんです。すると、鏡から犠
牲者の血が滴り落ちる」
完全な妄想だ。この男は私に話しているのではない。自分の中の妄想を反芻してい
るだけなのだ。
私は何も言わなかった。
さらに、五地蔵の祠の写真を並べた。五体の地蔵を一つひとつ後ろ向きにして撮っ
てある。
「地蔵の背中に刻み目が並んでいるでしょう。数えてみると、どれもちょうど百本あ
るんです」
図書館員はさらに妄想を膨らませていく。
「かつて、あの土地には鏡洗いの一族が住んでいたが、彼らを憎む者達に襲われ滅ぼ
されてしまった。一族の死体はあの沼に捨てられ、怨念を鎮めるために祠が建てられ
た。五地蔵の五百の刻みは殺された一族の人数だと思うのです」
なんの根拠もない。第一、地蔵の大きさや古さもまちまちじゃないか。だがこうい
う男に反論することは、火に油を注ぐだけの結果になる。
「鏡に黒布を掛けるのは、滅ぼされた鏡洗いの怨念が、鏡を通じて身に及ぶのを恐れ
たからです。その風習が現代まで残っているということなのでしょう」
もうこれだけ聞いてやれば十分だろう。
「仕事が残っているので」
と立ち上がった。
図書館員は自説の完璧さに酔ったままの様子で、私を戸口まで見送った。
「そのうちに、あの沼に潜ってみます。きっと証拠が見つかりますよ」
「がんばってください」
その日から二度と市立図書館に近づかなかった。半月もたつと図書館員のことも鏡
のことも忘れていた。
八月の半ば、夜にかかってきた電話からその男の声が聞こえたとき、私は寒気がし
た。
「貸し出しカードで電話番号を調べたんですよ」
それからは毎晩のように、電話で鏡洗いの怨念だとか、血鏡の儀式だとか、わけの
わからないことを聞かされ続けた。
こういう男はこちらが態度を曖昧にしているといつまでもつきまとってくる。かと
いって、急に冷たくすると何をされるかわからない。私はとんでもない男と知り合い
になってしまったらしい。
夏休みの終わり頃になると、神経がもたなくなっていた。今夜こそ、いいかげんに
しろ、と怒鳴りつけてやろうと決心を固めていると、九時過ぎに電話がかかってきた。
「私は大変な勘違いをしていました」
いつもの自分に酔ったような調子が影を潜めている。
「そうですか」
私は素っ気なく応えた。
「鏡の黒布は、鏡洗いの怨念を恐れたからではありませんでした」
あたりまえじゃないか、と言いかけた。
「鏡洗いは今も生き残っています。黒布は鏡洗いの一族の印なのです」
と、脅え声を出す。
もうたくさんだ。受話器を叩きつけようとすると、
「お話できるのはこれが最後になりそうです」
と言う。
「私とこうして話をしていたことは、その町では決して口にしてはいけませんよ」
黙っていると、男はひとりで話し続けた。
「私は知り過ぎてしまいました。もう、どこへ逃げても助からないでしょう。明日、
沼に潜ってみます。最後に自分の目で確かめたいのです。さようなら」
私が、ああ、と言っている間に電話が切れた。
男の妄想はさらに膨れ上がっただけだ。きっとまた電話をしてくるに違いない。
翌朝、私は急な旅行に出た。あの男が本当に沼に潜るつもりなら、私のところに立
ち寄ることは十分に考えられる。絶対に顔を合わせたくなかった。
四日後、新学期が始まる前日に、旅行から帰るときも不安だった。家の前で待ち構
えているのでは、と胃まで痛くなってきたが、何事もなかった。
市立図書館の職員が、数日前、五地蔵沼で水死したと知ったのは、翌朝の職員室で
のことだった。
その夕方、沼はいつもよりさらに赤く、血の色に燃え上がっていた。
ふと、男が言った血鏡の儀式という言葉が心に浮かんだ。
五地蔵の祠を覗くと、いつの間にか真新しい地蔵が一つ増えていた。
◇ ◇ ◇
同僚の話では、あのような祠は近隣にいくつもあり、信心深い人がときおり新しい
地蔵を寄進するのだそうです。
図書館員の妄想に付き合わされる重荷からは完全に解放された私でしたが、その月
のうちに代用教員の職を辞して、東京に戻りました。ああいう田舎は肌に合わなかっ
たということです。
六つ目の地蔵の背に、刻み目がいくつ付けられていたのかは、確かめていません。
(完)